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2015/01/08

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 了

M573

図―573

M574

図―574

 

 日本の他の地方に言及する前に、記録しておかねばならぬことが二、三ある。あらゆる場所には、それぞれ特有の人力車の型があるらしく、鹿児島もその例に洩れない。ここの人力車の梶棒は、横木が車夫の頭の上へ来るような具合に鸞曲しているので、乗る人はこれでよく自分が投げ出されぬなと、不思議に思う。この人力車の大体のことは写生(図573)で判るであろう。背面と側面とには、ペンキ漆がゴテゴテと塗ってあり、竜その他の神話的の事物や、英雄、豪傑の絵等が背面の装飾になっていたりする。薩摩と肥後の穀物畑では、変った型の犁(すき)が使用される(図574)。鉄の沓(くつ)と剪断部とは、軽くて弱々しいらしいが、犁は土中で転石にぶつかったりしない。これは一頭の馬に引かれ、構造は原始的だが、充分役に立つらしく思われる。

[やぶちゃん注:「くるま屋 人力車工房」日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 19 倉・竹箒・ミシン・人力車・箸で人力車については注したが、公式サイトの「政策の歴史」(斎藤俊彦著「人力車」より抜粋とある)の「梶棒」の稿には以下のようにある。

   《引用開始》

錦絵に描かれた人力車をみると、梶棒に二つの型がありました。一つはまっすぐな梶棒で、他は握る部分が急に上の方に曲がった梶棒です。この後者の方は。地方で生産される人力車の中に、明治二十年ころまで残っていました。この梶棒の先端に、象の鼻のように曲がった金具をつけて、梶棒を地面につけるときの支えとしました。形状から「象鼻」と呼ばれていますが、これは秋葉大助が明治十三年ころに考案したものだと伝えられています。

   《引用終了》

ここに『明治十三年ころ』とあるのは不審である。ここに見るようにこの「象鼻」は明治一二(一九七九)年の鹿児島には既にあった。これって、もしかして新しい発見!?

「犁」ウィキの「ブラウ」の「日本における普及と発展」の「犂」には以下のようにある(下線部やぶちゃん)。『日本においてプラウは、その伝来の経緯から犂(すき)と呼ばれ、カラスキ(唐犂)とも呼ばれていた。正倉院に収蔵されている子日手辛鋤(ねのひのてからすき)は』、天平宝字二(七五八)年の『正月の行事に使われたと伝えられており、また、滋賀県草津市の中畑遺跡からは平安時代のカラスキが出土している。なお、牛馬に牽引させる犂(すき)と手に持って使う農具の鋤(すき)は異なる農具である。また、「犂」という漢字は俗字扱いであり、正字体は「犁」である』。『犂の種類には、中国から伝来し、大化の改新の時代、時の政府が推奨した長床犂と、朝鮮半島からの渡来人がもたらした無床犂があり、長床犂はプラウのヒールに相当する床が長く、安定して耕起することが出来て取り扱いやすい反面、大きな牽引力が必要で長い床の為に深く耕すことが出来なかった。一方、無床犂は床がないために深く耕すことが出来たが、取り扱いには熟練を要し、その取り扱う姿から抱持立犂(かかえもったてすき)とも呼ばれた』。『最初に犂が伝来した九州の北部をはじめ、西日本では犂を使っての耕起が盛んであった。後に明治から大正期にかけて長床犂、無床犂それぞれの長所を取り入れた日本独自の短床犂が作られ、畜力による犂耕が全国的に普及した。その後、牛や馬による畜力から、内燃機関を原動力にしたティラーや耕耘機へと牽引の動力は移り変わり』、第二次世界大戦後の昭和三十年代には、『耕耘機によるロータリー耕が普及したことにより、稲作での犂による耕起法は衰退した』とある。香川県農業試験場公式サイトのⅡ.農具等の解説と画像を見るに、これはまさにこの無床犂(抱持立犂)ではなかろうか。しかも犁は九州が伝来の地とあるから、この図の犁は本邦の犂の古形を伝える外国人による貴重なデッサンと言えるのではあるまいか。]

M575

図―575

 

 この国には石造の拱橋が多い。古いのも多く、ある物はかなり大きく、そしていずれも絵画的である。鉄橋がこれ程沢山あるのに、それ等の拱(アーチ)に、我我が橋に於る非常に重大な要素と思う楔石を持ったのが一つも無いのは、不思議に思われるが、而も日本人はその必要を認めていない。我々には、日本の拱が不完全で不確実であるように見える。然しながら、私は弱さを示したものは唯の一つも見たことがなく、又、しかある可き理由も無い。それは景色に美しい特徴を与える――河や、小さな流れにさえ、時代の苔が緑についた、石の拱がかけ渡してある。鹿児島市中の小さな、狭い川には、一箇所に石の拱橋が三つかかり、三つの小さな歩径をつないでいた(図575)。

[やぶちゃん注:ネットで調べてみたが、この三つ並んだ架橋群は現存しないか。識者の御教授を乞うものである。

「拱橋」前出。「こうきょう」と読む。上方に弓のように反ったアーチ橋のこと。ウィキアーチ橋」に、『日本には、石のアーチ橋の技術は中国から沖縄(当時は琉球王国)にもたらされたものが最初とされる。また長崎にも伝えられ』、寛永二〇(一六四三)年『に眼鏡橋が架けられた。これを期に九州各地に石造りのアーチ橋が架けられている。熊本の通潤橋は灌漑用の水路橋として知られている』。『木造のアーチ橋と知られている錦帯橋も、寛文一三・延宝元(一六七三)年『に中国の同名の橋をモデルに独自技術で架設された。 日本ではアーチ橋は古来、反橋・太鼓橋などと呼ばれてきた。ただし、これらの中には形はアーチだが途中に橋脚を持つものもあり。この場合はアーチではなく桁橋の変形と言える』とある。モースは楔石(くさびいし)がないとするが、アーチ橋は楔型に加工した石を両側から積み、最後に中央に要(かなめ)石を置くことで石同士の圧力で強度を保っており、楔石が楔に見えないのである。架橋には石と石が接する合端(あいば)と呼ばれる部分の精密な加工や合端の角度を設計通りに仕上げる緻密な積み方が要求されるが、それが実にモースの称讃する「景色に美しい特徴を与える」という神技の印象を齎しているといえるのである(この最後の部分は北國新聞社・富山新聞社の記事「アーチ橋に石工の技 小松石材工業協同組合」の記述を参考にさせて戴いた)。]

M576

図―576

 

 薩摩では古いニューイングランド型の跳つるべが見られるばかりでなく、図576に示すが如く、井戸が家の内にあって、跳つるべが外に立つているというのもある。鹿児島では、これは湯屋を現している。

M577

図―577

 

 日本人が小さな物をつくるのに、如何に速に竹を使用することを思いつくかは、興味がある。一例として、先日曳網をしている最中、私は長い鉄の鉗子(ピンセット)を忘れて来たことに気がついた。すると私の下男は、直ちに舟の細い竹の旗竿をとり、その一節を切って、間もなく美事な、長い銀子をつくった。使って見ると便利なばかりでなく、軽くて都合がよかった(図577)。

M578

図―578

 

 錨(いかり)は数種の型がある。四個の外曲した鉤を持つ鉄製のものは、戎克(ジャンク)の写生図の一つに於てこれを示した。図578はまた別の型である。これは木製で、錘(おもり)は横材にくくりつけた二個の石から成っている。

[やぶちゃん注:「戎克の写生図の一つに於てこれを示した」先の図568の舳先の方に横に渡して置かれてある、巨大な釣り針のようなものを指していると思われる。]

M579

図―579

 

 肥後と薩摩――九州の他の地方でも多分同様であろう――では、馬具の尻帯に、長さ二インチの陶器の珠数、換言すれば円筒をつける。この装置によって網は、擦傷をつけることなしに上下する。これ等は馬の脇腹を超す綱に交互につけられ、黄色緑色との釉(うわぐすり)がかけてある(図579)。蝦夷では同様にして、丸い木の玉が使用される。

[やぶちゃん注:「二インチ」五・〇八センチメートル。]

 
 
M580

図―580

M581_582

図―581[やぶちゃん注:上の大きな層を成すもの。]

図―582[やぶちゃん注:下の四つの突起様の岩礁(?)。]

 

 岬の写生図二、三をここに示す。図580は鹿児島湾への入口、図581は肥後の海岸からつき出たもので、南に下傾する岩の層があり、図582は薩摩の西海岸にある岩で、高さが五十フィートあるというので「五十フィート岩」と呼ばれる。層畳した岩の、これ程明瞭なのは、従来見たことがない。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、明治一二(一九八九)年五月二十四日早朝に鹿児島を出航したモースは、『この船が往路と同じく肥後の高橋川河口に停泊』したので、そこで再び下船している(以下の体験は次の「第十七章 南方への旅」で続いて詳述される)。

「鹿児島湾への入口」行ったことがないので、この景観では同定出来ない。鹿児島県指宿市西方の知林ヶ島(ちりんがしま)周辺か。識者の御教授を乞う。

「肥後の海岸からつき出たもの」同じく行ったことがないので同定出来ない。「南に下傾する岩の層」というのが顕著な特徴である。「つき出た」と言っているところを見ると島ではないように思われる。識者の御教授を乞う。なお、最後の「層畳した岩の、これ程明瞭なのは、従来見たことがない」というのは、スケッチと合わせると、同もこっちの岩の層を述べているように思われる。

『薩摩の西海岸にある岩で、高さが五十フィートあるというので「五十フィート岩」と呼ばれる』「五十フィート」は十五・二四メートル。簡単に同定出来ると思ったが、それらしい名称の岩を発見出来ない。最後の最後に識者に再度、御教授を乞うものである。

 以上を以って「第十六章 長崎と鹿児島とへ」が終わる。]

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