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2015/02/03

「今昔物語集」巻第第二十七 本朝付靈鬼 桃薗柱穴指出兒手招人語 第三

桃薗柱穴指出兒手招人語第三(桃薗の柱の穴より兒の手を指し出だして人を招く語第三)――「今昔物語集」巻第第二十七 三 附やぶちゃん注・現代語訳――

 

[やぶちゃん注:これは私が偏愛し、古典怪談の中でも最上級に上質な一篇として真っ先に挙げるものである。

 底本はいろいろ考えた末、数種所持する内より、池上洵一編岩波文庫版の片仮名を平仮名に代えた書き下し文化された本文を用いた。但し、他の注釈諸本と校合しつつ、漢字を正字化した。読み(底本は読みが現代仮名遣)は独自に(一部の訓みは底本に従わなかった)必要と思われる箇所にのみ歴史的仮名遣で附した。後に注(底本及び馬淵・国東・今野校注訳小学館古典全集等の注などを一部参考にさせて戴いた)とオリジナルな現代語訳、及び補説を附しておいた。]

 

 桃薗(ももぞの)の柱の穴より兒(ちご)の手を指し出でて人を招く語(こと)第三(だいさむ)

 

 今昔(いまはむかし)、桃薗と云(いふ)は今の世尊寺なり。本は寺にも無くて有りける時に、西の宮の左の大臣(おとど)なむ、住給(すみたまひ)ける。

 其の時に、寢殿の辰巳(たつみ)の母屋(もや)の柱に、木の節の穴開(あき)たりけり。夜(よる)に成れば、其の木の節の穴より小さき兒の手を指出(さしいで)て、人を招く事なむ有(あり)ける。大臣此れを聞給(ききたまひ)て、糸(いと)奇異(あさまし)く恠(あやし)び驚(おどろき)て、其の穴の上に經を結付奉(ゆふつけたてまつり)たりけれども、尚(なほ)招きければ、佛を懸(かけ)奉(たてつり)たりけれども、招く事尚(なほ)不止(やま)ざりけり。此(か)く樣(やう)にすれども敢て不止(とどま)らず。二夜三夜(ふたよみよ)を隔(へだて)て、夜半(やはん)許(ばかり)に人の皆寢ぬる程に必ず招く也けり。

 而る間、或る人亦(また)試(こころみ)むと思(おもひ)て、征箭(そや)を一筋(ひとすぢ)其の穴に指入(さしいれ)たりければ、其の征箭の有(あり)ける限(かぎり)は招く事無かりければ、其の後(のち)、箭柄(やがら)をば拔(ぬき)て征箭の身の限(かぎり)を穴に深く打(うち)入れたりければ、其れより後(のち)は招く事絶(たえ)にけり。

 此れを思ふに心得(こころえ)ぬ事也、定めて者の靈(りやう)などの爲(す)る事にこそは有(あり)けめ。其れに、征箭の驗(しるし)、當(まさ)に佛經(ぶつきやう)に增(まさ)り奉(たてまつり)て恐(おぢ)むやは。然れば、其の時の人皆此れを聞(きき)て、此(かく)なむ恠(あや)しび疑ひけるとなむ語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注

・「桃薗」一条北・大宮西(現在の京都市上京区大宮通一条の世尊寺の近く。京外)にあった邸宅で、最も古くは清和天皇の第六皇子貞純親王の御所であった。これを後に源高明(たかあきら 延喜一四(九一四)年~天元五(九八三)年 後注参照)が邸宅としたが、後に関白藤原忠平四男の大納言藤原師氏(もろうじ 延喜一三(九一三)年~天禄元(九七〇)年)が住み(「尊卑分分脈」には彼が桃園大納言或いは枇杷大納言と称されたと載る)、その後には一条摂政藤原伊尹(これただ/これまさ 延長二(九二四)年~天禄三(九七二)年)が占有した(最後の私の「補説」も参照のこと)。

・「世尊寺」「大辞泉」には、『京都一条の北、大宮の西にあった寺』とし、前注に示した通り、貞純親王の御所であった桃園殿を、長保三(一〇〇一)年に公卿で書家として知られた藤原行成が寺としたもの、とある。やはり京外。この藤原行成(天禄三(九七二)年~万寿四(一〇二八)年)は先の注で示した桃園殿の最後の占有者藤原伊尹の孫に当たり、三蹟の一人として知られる和様書道の完成者にして書道世尊寺流の祖である。彼の詳細な日記「権記」は著名。

・「西の宮の左の大臣」源高明のこと。以下、ウィキの「源高明」によれば、醍醐天皇の第十皇子。正二位・左大臣。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、「西宮左大臣」と呼ばれた。延喜二〇(九二〇)年に七歳で臣籍降下し、天慶二(九三九)年参議に昇進、中納言・大納言を経て、康保三(九六七)年には右大臣兼左近衛大将となった。『朝廷の実力者でかつ高明と同じく故実に通じた藤原師輔の三女を妻とし、この妻が没すると五女の愛宮を娶って友好関係を結び、師輔は高明の後援者となっていた。また、妻の姉の安子は村上天皇の中宮であり、東宮(皇太子)憲平親王、為平親王、守平親王を産み、高明は安子に信任され中宮大夫を兼ねた。高明は自身の娘を為平親王の妃とした』。翌康保四年の『憲平親王(冷泉天皇)の即位に伴い左大臣に昇る。冷泉天皇は狂気の病があったため、早急に後嗣を立てる必要があり、同母弟であった為平親王は東宮の有力候補だった。だが、冷泉天皇の東宮には為平の弟・守平親王(のち円融天皇)が立てられる。高明は大いに失望した。これは高明が将来外戚となることを藤原氏が恐れた為とされ、この時には既に師輔も安子も薨去しており、高明は宮中で孤立していた』。安和二(九六九)年、『源満仲と藤原善時が橘繁延と源連の謀反を密告。右大臣藤原師尹は諸門を閉じて諸公卿と廷議を開き、密告文を関白藤原実頼に送り、検非違使を派遣して関係者を逮捕させた。その中には高明の従者の藤原千晴(藤原秀郷の子)も含まれていた。謀反の容疑は高明にも及び検非違使が邸を取り囲み、大宰権帥に左遷する詔を伝えた。これは事実上の流罪であり、高明は長男の忠賢ともども出家して京に留まることを願うが許されず、大宰府へ流された。これは、師輔の死後、高明と確執を深めていた藤原氏の策謀であったとされる(安和の変)』。翌天禄二(九七一)年に罪を赦され、翌年四月に『帰京するも、政界に復帰することは無く葛野に隠棲』し、そのまま亡くなっている。この一連の謀略によって藤原氏の独占支配が確立することとなった。なお、底本の池上氏の注には、但し書きがあって、『高明の桃園邸は行成のそれ(世尊寺)とは別の邸宅である』とあって不審。これは位置が微妙にずれるということであろうか? 全くあさっての方角にあった別邸ということになると、辞書の記載や他の諸注が成り立たなくなってしまうと思うのだが?

・「辰巳」巽。南東。戌亥(乾。北西)とともに、丑寅(艮。鬼門の北東)及び裏鬼門の未申(坤。南西)に次ぐ禁忌の方角とされる。

・「母屋の柱」寝殿造の中央に位置する南向きの寝殿の、そのほぼ中央のメイン・ルームでぐるりは廂(ひさし)の間が配されてある。この柱はその廂の間との間の庭から向って左側の手前角の柱と考えられる。

・「佛を懸」当時はまだ懸仏(かけぼとけ:銅などの円板に仏神像の半肉彫の鋳像などをつけたもの。柱や壁にかけて礼拝したもので平安後期に本地垂迹の思想から生まれて鎌倉・室町に盛行した)は一般的ではなかったから、仏画か木製の牌に仏の絵像を描いたものを貼り付けたものであろう。小型の念持仏などを紐で括ったものかとも思ったが、ここは次の注の「二夜三夜を隔て」で、またぞろ手招きを始めるためには、実は紙や絹本に描かれた仏画である方が、それがぺろりとめくれて、手が伸び出て来るシーンが如何にもヴィジュアルにしっくりくるのである。

・「二夜三夜を隔て」ここは前に対偶する表現で、経や仏を懸けたりしたその初日は稚児の手が節穴から出てこないが、二晩か三晩するとまたぞろ、の謂いである。現代語訳は、そこを整序してある。

・「征箭」征矢。雁股(かりまた)や鏑矢(かぶらや)のような鈍体の先端ではなく、鋭い鏃(やじり)を装着した四枚羽根の戦闘用の尖った尖り矢。

・「箭柄をば拔て征箭の身の限を穴に深く打入れたりければ」「箭柄」は矢の鏃を除く幹の部分から尾羽までの総て。篦(の)。「征箭の身」は鏃の部分。この部隊である寝殿造の寝殿内の母屋は主人の居間であると同時にゲスト・ルームでもある。従って、その柱に丸一本の征矢がにょっきりと立っているのは如何にも落ち着かない。少なくとも高明の家を訪問する公卿連中らにとってはそれだけでも恐懼の対象となる代物である。ここで鏃だけにしたというのは、実はまことにリアリズムを感じさせる描写なのであって、それが取りも直さず、本話が創作ではなく、実録物であることを示す大きな証拠の一つなのだと私は考えている。因みに、「今昔物語集」の諸篇には先行する説話集や中国の伝承などの典拠があるものも多いが、本話の典拠は諸本ともに未詳とする。それでよい。それでこそ、よい。・「者の靈」「者の」は「ものの怪」で超自然の。そうした邪(よこしま)なる霊的なもの。

・「其れに」これ一語で逆接の接続詞である。それなのに。しかるに。物の怪ならば何よりも仏法の霊験あらたかな経典や図像こそ効験(こうげん)が、これあるはずなのに。

・「恐むやは」反語。(征矢なんぞを)恐れるであろうか? いや。そんなものを恐れるとは、何ともはや、納得がゆかない、と強い不満を述べているのである。小学館古典全集の解説に、『征矢の呪力が仏・経の験力に優越したことを不条理とした、作者を含む当代人の常識が思想史的に注目される』とある。……いや、違うね!――訳が分からない――だからこそ――この話――「コワい」のさ!――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 桃園殿(ももぞのどの)の柱の穴より稚児(ちご)の手のさし出だされて人を招く事(こと) 第三

 

 今となっては昔のことで御座るが、桃園と申すは、これ、今の世尊寺のことである。

 本(もと)は寺ではのぅて、その折りには、かの西の宮の左大臣源高明(みなもとのたかあき)様が、お住まいになっておられた。

 その時のことじゃ。

 寝殿の母屋(おもや)の巽(たつみ)の角の柱に、木の節の穴が一つ、開(あ)いて御座った。

 ところが、夜(よる)になると、その、木の節の穴より

――小(ちぃ)さなる

――稚児の

――手(てぇ)が

……これ

――すうーっと……

――さし出ださるる……

……と

――それがまた

――上下に

――ひょうい……ひょい……

――ひょうい……ひょい……

……と……これ……

――動いて

――人を

――招く。…………

 左大臣様、このことをお聞き遊ばさるると、

「――それは、あまりにもけったいなことでおじゃる。……」

と、大いに怪しまれもし、驚かれもなさったじゃ。

 ともかくもと、すぐに、その穴の上に、紐を以って、これ、ありがたい御経を堅(かたー)く結いつけおき奉ったり、また、仏の貴(とうと)き絵図を懸け奉ったりして御座ったれど、経や絵図を据えたるその夜のほどは、取り敢えずは、手(てぇ)の伸び出ること、これ、なけれど、二晩か三晩もするうち……またぞろ

――手(てぇ)の招くこと……

これ、なお止まず、弦打(つるう)ちして廻れる宿直(とのい)の者の、ふと見てみれば、夜半も過ぎたる、人皆、寝静まって御座る頃合い、その闇の中に……

――可愛(かわ)ゆらしい小さなる

――白々(しろじろ)した

――手(てぇ)が

これ必ず、

――すうーっ……

と出でて

――ひょうい……ひょい……

――ひょうい……ひょい……

……と……招いておるので御座った。

 ところが、とある家臣の一人が、今一度、試みてみんと、ただの思いつき乍ら、征矢(そや)を一筋、その穴に刺し入れてみたと申す。

 すると、その征矢を差し込んでおる限りは、招くどころか、手(てぇ)の出ることさえ、これ、御座らなんだによって、それよりしばらく致いて、矢柄(やがら)をば抜き去り、征矢の鏃(やじり)ばかりを、その穴に深(ふこ)ぅうち込んでおいたによって、それより後(のち)は、これ、招く手の出ずること、絶たえて無(の)ぅなったと申す。

 さて、これを按ずるも、何ともはや、これ、納得のゆかぬことではないか? これ、定めし、物の怪や何か霊なんどの仕業(しわざ)にては御座ろうが、それだのに、征矢如きの霊験(れいげん)が、尊(たっと)き仏様の図像や御経のそれよりも勝っており、その下らぬ妖しのものが、かの鏃如きを恐れたと申すは、これ、どうにも納得がゆかぬことではないか?! さればこそ、その当時の人も皆、この話を聴いては、誰もがこの我ら同様、怪しみもし、疑いもした――と、かくこそ語り伝えておるということじゃて。

 

□補説

 私が何故、この話を偏愛するのか?

 それは怪談の恐怖の核心とは、まさに日常性との絶対の断絶にこそあると私は考えているからである。怨念なり復讐なり、その超常現象出来(しゅったい)の具体的理由が現世的に連絡し解説されてしまった瞬間、その霊や物の怪は、登場人物にとってだけではなく、読者にとっても、実は恐怖の対象足り得なくないものに変貌してしまうからである。それは結局、鮮やかに現世の利害の経済関係に還元されてしまい、心理的にも論理的にも、征服され調伏され、或いは供養され追福されるべき処理対象へとすっかり変質してしまうからである。

 最も恐ろしいイメージとは何か?

 それは、恨み言も表情も汲み取れない、ただただ泣く赤子の霊に代表されるような生(なま)に響いてくる原初的な叫喚の音声(おんじょう)であり、ここに出るような小さな稚児の手がただただ人を招くのみという、理屈なき戦慄、純粋に視覚的なリアリズムにこそあるものなのである。

 なお、本話について考証した山分美奈氏の「桃薗における怪異譚をめぐって」と言う論文をネット上で読むことが出来る。そこでは本話の次に、桃園邸が後に世尊寺となってからの怪異として、後の「宇治拾遺物語」第八十四話として載る「世尊寺に死人(しにん)掘り出す事」(当時の邸主であった藤原伊尹が堂を建てるために邸内の塚を掘り返えさせたところ、石棺が出、開けさせて見ると、生けるが如き美しい若き尼の遺骸が現われたものの、吹き初めた風に塵となって消え失せてしまったという怪異譚である)があることが示されてあって、その後、史実を細かく分析された上、この桃園邸の旧主源高明が安和の変で左遷されていること(但し、三男であった高明が桃園邸を出たのはその十年ほど前と考証しておられる)、次代の当主藤原師氏がその左遷の翌年に病死したこと、その死後にこの屋敷地を不当に横領したらしい藤原伊尹がやはりその三年後に没しており(先の「宇治拾遺」の話は末尾に伊尹の死はこの時の祟りによるのではないかと世間では噂していると結んであるのである。本話については後に電子化しようと思う)、この桃園邸が、ある種の宅妖であった可能性が示唆されている。だいたいが「今昔物語集」のこの冒頭はしばらく宅妖が続く。というより……実はこの前の「第二」は、かの知られた「川原の院の融(とほる)の左大臣の靈(りよう)を宇陀院見給へる事」なのである。但し――私にとって嬉しいことに――この論文ではこの稚児の手招きという怪異自体の具体的な謎解きは、一切なされていない。……それをされたんでは、私にとっては――せっかくの純粋なホラーが台なしになってしまう――からである。

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