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2015/02/19

譚海 卷之一  羽州佐竹家玄關鑓幷本多上野介殿事

 羽州佐竹家玄關鑓幷本多上野介殿事
 
○出羽國佐竹殿居城玄關より座敷へ通る際の廊下のなげしは、鑓(やり)をならべおく事數千本、鑓にて天井を張(はり)たる樣に見ゆる也。石田治部少輔贈る所の物也とぞ。又武庫に太刀三千振收(をさめ)たる有(あり)。皆テンパウ正宗造り物にして、出來不出來をえらばずして山の如く積置(つみおき)たり。甲胃の類(たぐひ)もかくの如し。先年しらべたるに、妙珍が作のかぶと三十七はね出たりとぞ。又江戸の三味線堀の邸に新羅明神(しんらみやうじん)の社あり。即(すなはち)神體は新羅三郎のかぶとなりとぞ。家老須田美濃と云ものの方に傳來の諸本有(あり)、全部本阿彌光悦筆也。奥書に慶長十三年觀世左近太夫身愛(ただちか)判本多上野介殿上ると有(あり)。是は上野介殿御勘氣にて佐竹家へ御預け人になられしとき、須田氏の許に籠居ありし故所持の諸本也。其外隨身(ずいじん)の道具種々彼(かの)家に有(あり)。法眼(ほふげん)元信筆の金屛風一雙ありとぞ。昔は御勘氣の人も所持の道具は隨身する事御ゆるし有(あり)けるにや、うたひ本は親しく見る所也。

[やぶちゃん注:「出羽國佐竹殿」秋田久保田藩。

「石田治部少輔」石田光成。久保田藩藩主佐竹氏は室町以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いに於ける挙動を咎められて出羽国(後に羽後国)秋田へ移封された経緯がある。

「テンパウ」不詳。「テン」は「伝」か? 「パウ」は仮名遣からは「法」或いは「庖」が考え得る。相州伝(次注参照)のことか?

「正宗」正宗(生没年不詳)は鎌倉末期から南北朝初期に相模国鎌倉で活動した刀工。五郎入道正宗・岡崎正宗・岡崎五郎入道とも称され、日本刀剣史上もっとも著名な刀工の一人で、「相州伝」と称される作風を確立し、多くの弟子を育成した。名刀正宗の名は日本刀の代名詞ともなっており、その作風は後世の刀工に多大な影響を与えた(以上はウィキの「正宗」に拠った)。

「妙珍」底本の竹内氏注に、『甲胃師の家名。初代の宗介は名工として名高く、平安末期近衛天皇から明珍の名を賜ったといい、中世を経て近世に及ぶが、特に十代宗安(室町期)や十七代信家(戦国期)が名匠として知られている』とある。ウィキの「明珍信家」に(引用部ではアラビア数字は漢数字に代えた)、明珍信家(みょうちんのぶいえ 文明一八(一四八六)年?~永禄七(一五六四)年?)は、『室町時代末期(戦国時代)の甲冑師。初め安家と名乗り、号は覚意、本姓は藤原氏。通称(官位)は左近将監。甲冑師の一族である明珍家十七代に当たる。伝えでは、武田晴信の一字を賜り、信家と改名したとされる。前代(十六代目)は明珍義保。十八代目として明珍貞家』。『室町末期当時、「日本最高の甲冑師」と評された人物であり、これにより明珍家は有名となる。後世でも一族は、楯無や避来矢といった名立たる甲冑の修復作業に手を貸している。信家が得意としていたのは筋兜とされる。白井城曲輪の青堀近く(松原屋敷と呼ばれる)の鍛冶場跡から永正・天文の頃に信家が甲冑を作成していた事が裏付けられている。越後府中に住んでいた信家にとって白井城は出張先の一つであった。また、信家が寵愛した城主は長尾憲景とされる』。『この時期、明珍家が相模国にも居たとする物的根拠の一つとして、埼玉県秩父市下吉野所在の椋神社蔵の「三十二間筋兜」の鉢裏に刻まれた銘に、「小田原住 明珍義次( - よしつぐ)」とあり、小田原の明珍家が実在している事が確認できる(少なくとも分家筋が在住していた事が分かる)。社伝によれば、当兜は鉢形城主の北条氏邦の所用していたものであり、その子孫である玄桂が当社に奉納したとされる』。『伝承上では、明珍家の初代は増田氏とされて』おり、この明珍家に関しては江戸時代の随筆」耳嚢」にも『記述があり、外見で判断していた為、武士を怒らせてしまった話が載せられている。寛政六年の出来事とあるので、当事者は宗政・宗妙(楯無を修復した)父子と考えられる。その時に仕立てた甲冑は、一領で百両もしたとある。但し、需要が減った時代であり、甲冑を新調する者が少なかった為、支払いに対し、疑い深くなるのも当時としては当然の行為である』。『明珍家は甲冑以外にも轡(くつわ)や鍔なども製作した』とある。因みに、この「耳嚢」の話というのは「耳嚢 卷之四 人には品々の癖ある事」で、こちらに原文と私の訳注がある。

「はね」刎。接尾語で「跳ね」を語源とする助数詞。兜などを数えるのに用いる。別な数詞には「頭(とう)」がある。「跳ね」とは兜の左右にある刀が当たらないように顔を守るために上方に反り返った形をしている「吹き返し」の部分や、兜の上のひらひらとした装飾に由来するか。

「三味線堀の邸」上記秋田久保田藩の江戸上屋敷のことであろう。「三味線堀」は現在のJR御徒町駅の東南にある台清洲橋通りに面した東区小島小島一丁目の西端に南北に広がっていた地域。寛永七(一六三〇)年に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀と呼ばれた。参照した台東区教育委員会の叙述(ブログ「東京都台東区の歴史」のこちらからの孫引き)によれば、『不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた』。天明三(一七八三)年には『堀の西側に隣接していた秋田藩佐竹家の上屋敷に』三階建ての『高殿が建設された』とあることから推定した。

「新羅明神」滋賀県園城寺(三井寺)の守護神の一つで、元来はこの地方の地主神であったと伝えられるが、智証大師円珍が唐から帰国の際、船首に出現した一老翁が自ら新羅国明神と称して仏法を日本に垂迹すべし、と命じたことによるとされる。その分祀の祠であろう。

「新羅三郎」源義光(寛徳二(一〇四五)年~大治二(一一二七)年)のこと。河内源氏二代目棟梁源頼義の三男で八幡太郎義家の弟。近江国の新羅明神(大津三井寺)で元服したことから新羅三郎と称した。以下、ウィキの「源義光」より引く(アラビア数字は漢数字に代えた)。『左兵衛尉の時、後三年の役に長兄の義家が清原武衡・家衡に苦戦していると知るや、完奏して東下を乞うたが許されず、寛治元年(一〇八七年)に官を辞して陸奥に向かった。義家と共に金沢棚で武衡・家衡を倒して京に帰り、刑部丞に任ぜられ、常陸介、甲斐守を経て、刑部少輔、従五位上に至った。戦後、常陸国の有力豪族の常陸平氏(吉田一族)から妻を得て、その勢力を自らの勢力としていく。嘉承元年(一一〇六年)、遅れて常陸に進出してきた甥の源義国(足利氏や新田氏の祖)と争って合戦に及び義国と共に勅勘を蒙る』。『同年の義家の没後に野心をおこし、河内源氏の棟梁の座を狙った。その手段として、兄弟の快誉と共謀し、義家の後継者として源氏の棟梁となっていた甥の源義忠、及び次兄の義綱の両者を滅ぼす算段を練った。まず郎党の藤原季方を義綱の子の源義明の郎党として送り込み、次いで長男義業の妻の兄の平成幹(鹿島三郎)を義忠の郎党として送り込んだ』。『そして天仁二年(一一〇九年)の春、義光は季方に義明の刀を奪うように命じ、その刀を成幹に与え、義忠暗殺の密命を下したのである。その結果、義忠は闘死(源義忠暗殺事件)。その現場に残された刀が源義明のものであることから、義忠暗殺の嫌疑は義明とその父である義綱に向けられる。そして、義綱一族は、義光の勢力圏である甲賀山で義忠の弟で養子である源為義によって討たれるのである。だが、実際に若年の為義が指揮をとっていたわけではなく、その背後には義光がいた(源義綱冤罪事件)』とされる。『また、義綱の郎党の藤原季方、鹿島三郎も義光(及びその指示を受けた園城寺の僧で快誉も含む)らの手によって殺害され、事件の真相は闇の中へ消え行くはずであったが、その真相が発覚し、義光は勢力の強い常陸国に逃亡せざるを得なくなり、源氏棟梁への野望は潰えた』。『最期については大治二年(一一二七年)十月二十日に三井寺で死去したとする説が有力。病死とする説と殺害説がある。殺害説では、自身が暗殺した義忠の遺児・河内経国に討たれている。義忠の暗殺は源氏の凋落を招き、源氏の凋落は院政の陰謀が原因であるが、源氏内部での暗闘も衰退の原因であり、その中心人物は義光であった』。『義光は弓馬の術にたけ、音律をよくしたという伝説がある。古武道の大東流合気柔術では、義光を開祖としている。また、流鏑馬に代表される弓馬軍礼故実である弓術、馬術、礼法の流派である小笠原流や武田流などは、古の武家の心と形をいまに伝えている。そして武田氏の嫡流に伝わった盾無鎧や、南部氏が今に伝えた菊一文字の鎧などにもそれは見られる』。『笙は豊原時忠から秘曲を学び、名器交丸を得た。後三年の役で兄義家の救援に赴く際、時忠が逢坂山に別れを惜しみ帰らぬので、義光は名器を失うことを恐れて返し与えた。この話が、時忠の弟時元が義光に秘曲を授け、その子時秋が秘曲の滅びることをおそれて足柄峠まで義光を送り、山中で伝授されたという、古今和歌集の時秋物語の伝説を産んだ』。『義光の子孫は、平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏、簗瀬氏と在地武士として発展した』。『本家の河内源氏に対しては、義光系の甲斐源氏(武田信義・加賀美遠光・安田義定など)が一族内で分裂をせず頼朝軍に合流したため、影響力を維持した。ただしその勢力の大きさから警戒され、武田信義が失脚、その子・一条忠頼が暗殺され、加賀美遠光は逆に厚遇されるなど抑圧・分裂策により御家人化していった。 一方、常陸源氏の佐竹氏は、平家と結んで源義朝後の東関東に影響力を伸ばしたが、鎌倉幕府成立により所領没収となり、後奥州合戦に加わって領地は戻るが振るわず、活躍は室町時代に入ってからである』とあり、佐竹氏の名が出ていることに注意されたい。

「須田美濃」戦国から江戸初期にかけての武将で佐竹氏家臣須田盛秀(享禄三(一五三〇)年~寛永二(一六二五)年)の家系のこと。二階堂氏から佐竹氏の家臣となった。ウィキの「須田盛秀」によれば(アラビア数字は漢数字に代えた)、『二階堂盛義に仕え、盛義が亡くなりその後を継いだ二階堂行親も早世すると、盛義の後室大乗院(伊達晴宗娘)を助け須賀川城の実質的な城代となる』。『盛秀は佐竹義重と手を結んで伊達政宗と対立するが、天正十七年(一五八九年)六月摺上原の戦い』(すりあげはらのたたかい。天正一七(一五八九)年に磐梯山裾野の摺上原(現在の福島県磐梯町及び猪苗代町一帯)で行われた出羽米沢の伊達政宗軍と会津の蘆名義広軍との合戦。この合戦で伊達政宗は大勝、南奥州の覇権を確立した)『で蘆名義広が大敗して蘆名氏が滅亡すると、伊達政宗に須賀川城を攻められた。盛秀は須賀川城に籠城して伊達軍に徹底抗戦したが、十月二十六日落城した。その際、盛秀以下の将兵全員が戦死したと記載をしている文献もあるが、これは誤りで、実際は須賀川落城後、自らの居城和田城を自焼して常陸に落ち、佐竹義宣に仕え文禄四年(一五九五年)茂木城主として須賀川衆と呼ばれた二階堂旧臣などおよそ百騎(茂木百騎)を預けられた』という。『盛秀は義宣の信頼が厚く、関ヶ原の戦いのあと義宣が出羽に移封されると慶長七年(一六〇二年)角館城を受け取り城代をつとめ、さらに翌八年(一六〇三年)横手城城代となった。なお、寛永元年(一六二四年)に改易されて秋田久保田藩へのお預けの身となった本多正純・正勝父子を監視役として預かったのは盛秀である』とある。

「本阿彌光悦」(永禄元(一五五八)年~寛永一四(一六三七)年)は書家・陶芸家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。以下、ウィキの「本阿弥光悦」より引く。『刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする京都の本阿弥光二の二男二女のうち長男として生まれる。父光二は、元々多賀高忠の次男片岡次大夫の次男で、初め子がなかった本阿弥光心の婿養子となったが、後に光心に実子が生まれたため、自ら本家を退き別家を立てた。光悦もこうした刀剣関係の家業に従ったことと思われるが、手紙の中に刀剣に触れたものは殆どみられない。今日ではむしろ「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも携わったマルチアーティストとしてその名を残す』。『光悦は、洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる』元和元(一六一五)年、『光悦は、徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。王朝文化を尊重し、後水尾天皇の庇護の下、朝廷ともつながりの深かった光悦を都から遠ざけようというのが、家康の真の意図だったとも言われるが定かではない。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。光悦の墓地も光悦寺にある』。『俵屋宗達、尾形光琳とともに、琳派の創始者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きい。陶芸では常慶に習ったと思われる楽焼の茶碗、漆芸では装飾的な図柄の硯箱などが知られるが、とくに漆工品などは、光悦本人がどこまで制作に関与したかは定かではない』とある。

「慶長十三年」西暦一六〇八年。本阿弥光悦満五十歳。

「觀世左近太夫身愛」観世身愛(永禄九(一五六六)年~寛永三(一六二七)年)は織豊時代から江戸前期の能役者シテ方。観世元尚の長男。父の死後に宗家九代を継ぎ、祖父元忠にまなぶ。徳川家康の後援を受けて駿府から京都に進出、四座一流の筆頭の地位を築いた。謡本の「元和卯月本(げんなうづきぼん)」の校閲・監修に当たり、観世流謡本の基礎を確立した(以上は講談社「日本人名大辞典」の記載に拠った)。

「本多上野介」本多正純(ほんだまさずみ 永禄八(一五六五)年~寛永一四(一六三七)年)。安土桃山から江戸初期にかけての武将で大名。江戸幕府老中。下野国小山藩主・同宇都宮藩主(第二十八代宇都宮城主)。宇都宮城主時代に城改修を咎められ、徳川秀忠により減封を命ぜられたが固辞したため、一千石の知行のみで出羽国由利郡にて佐竹氏預かりの身とされた。参照したウィキ本多正純によれば(アラビア数字は漢数字に代えた)、本多正信の嫡男として生まれた。『当時、正信は三河一向一揆で徳川家康に反逆し、それによって三河国を追放されて大和国の松永久秀を頼っていたとされるが、正純は大久保忠世の元で母親と共に保護されていたようである』。『父が徳川家康のもとに復帰すると、共に復帰して家康の家臣として仕えた。父と同じく智謀家であったことから家康の信任を得て重用されるようになり、慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦にも参加している。戦後、家康の命令で石田三成の身柄を預かっている。また、父・正信とともに徳川家の後継者候補に結城秀康の名を挙げて、これを推挙している』。『慶長八年(一六〇三年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、家康にさらに重用されるようになる。慶長十年(一六〇五年)、家康が将軍職を三男の秀忠に譲って大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣が、駿府の家康には正純が、そして正純の父・正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになった。正純は家康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。慶長十三年(一六〇八年)には下野国小山藩三万三千石の大名として取り立てられた』。『慶長十七年(一六一二年)二月、正純の家臣・岡本大八は肥前国日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、肥前杵島郡・藤津郡・彼杵郡の加増を斡旋すると約束したが、これが詐欺であった事が判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込まれた(岡本大八事件)。大八がキリシタンであったため、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する事になる』。『慶長十七年(一六一二年)十二月二十二日には築城後間もない駿府城が火災で焼失したが、再建がなるまでの間、家康は正純の屋敷で暮らしている。慶長十九年(一六一四年)には政敵であった大久保忠隣を失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでになった(大久保長安事件)』。『慶長十九年(一六一四年)からの大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われている』。『元和二年(一六一六年)、家康と正信が相次いで没した後は、江戸に転任して第二代将軍・徳川秀忠の側近となり、年寄(後の老中)にまで列せられた。しかし先代からの宿老である事を恃み権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。なお、家康と正信が死去した後、二万石を加増されて五万三千石の大名となる』。『元和五年(一六一九年)十月に福島正則の改易後、亡き家康の遺命であるとして下野国小山藩五万三千石から宇都宮藩十五万五千石に加増を受けた。これにより、周囲からさらなる怨みを買うようになる。ただし、正純自身は、さしたる武功も立てていない自分にとっては過分な知行であり、また政敵の怨嗟、憤怒も斟酌し、加増を固辞していた』。『幕僚の世代交代が進んでいたが、正純は代わらず、幕府で枢要な地位にあった。しかし、後ろ盾である家康や父・正信が没し、秀忠が主導権を握った事と、秀忠側近である土井利勝らが台頭してきたことで正純の影響力、政治力は弱まっていった』。『元和八年(一六二二年)八月、出羽山形の最上氏が改易された際、正純は上使として山形城の受取りに派遣された。九月上旬に最上領に入った正純は、周辺諸大名とともに無事に城を接収した。しかしそのとき数日遅れで遣わされた伊丹康勝と高木正次が正純糾問の使者として後を追っていた』。『伊丹らは、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などを理由に十一か条の罪状嫌疑を突きつけた。正純は最初の十一か条については明快に答えたが、そこで追加して質問された三か条については適切な弁明ができなかった。その三か条とは城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の無断購入、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をしたこととされる』。『先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽国由利(現在の由利本荘市)に五万五千石を与える、という代命を受けた。この時、使者として赴いた高木正次、伊丹康勝らの詰問に、さらに弁明の中で、謀反に身に覚えがない正純は毅然とした態度で応じ、その五万五千石を固辞した。これが秀忠の逆鱗に触れることとなった。高木と伊丹が正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると、秀忠は激怒し、本多家は改易され、身柄は佐竹義宣に預けられ、出羽国由利へ流罪となり、後に出羽国横手にて幽閉の身となった。正純の失脚により、家康時代、その側近を固めた一派は完全に排斥され、土井利勝ら秀忠側近が影響力を一層強めることになる』。『この顛末は、家康・秀忠の二元政治時代、本多親子の後塵を拝して正純の存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略であったとも、あるいは、秀忠の姉・加納御前(亀姫)が秀忠に正純の非を直訴したためだともされる。忠隣の親戚に当たる大久保忠教(彦左衛門)は、誣告を用いて忠隣を陥れた因果を受けたと快哉を叫んだという』。『また、秀忠自身も父・家康の代から自らの意に沿わない正純を疎ましく思っていた。ただし秀忠が関が原に遅参した際に 本多正純は「秀忠公が遅れられたのは参謀たるわが父正信が謀を誤った為であります。どうか父正信を処罰し、秀忠公の咎でないことを天下に明らかにして頂きとうございます」と言い、その言葉に秀忠は感謝し「よくぞ言ってくれた。そのほうの言葉、一生忘れぬぞ。」と言ったと逸話もある。秀忠は正純の処分について諸大名に個別に説明をするという異例の対応を取ったが、その説明を聞かされた当時の小倉藩藩主・細川忠利は「日比(ひごろ)ご奉公あしく」という理由であり、具体的には秀忠が福島正則を改易するのに反対したことと宇都宮を拝領してから数年たって「似合い申さず」と言って返上しようとしたことを挙げていた、と父の細川忠興に書き送っている』。『以下の歌は、失脚した正純が幽閉された横手・上野台で詠んだものと伝えられる』(一部表記を変更した)。

  日だまりを戀しと思ふうめもどき日陰の赤を見る人もなく

『正純父子は、牢にこそ入らなかったものの、逃亡防止のために住居をすべて板戸で囲い、まともに日もささない状態で、軟禁と呼ぶには過酷な生活であったといわれる。寛永十四年(一六三七年)三月十日、正純は配所の横手で死去した。享年七十三』。『配流の際、息子の正勝も同罪として出羽国由利に流されて』おり、彼は父正純の死に先立つ『七年前の寛永七年(一六三〇年)、長い幽閉生活で健康を害し、三十五歳で死去している』。『正勝には長男・正好と次男・正之の子息がおり、嫡男・正好は右京亮と称す。元和九年(一六二三年)に江戸で生まれたが、同年の本多家改易により、外祖父である美濃国大垣藩主戸田氏鉄の許に母親と共に身を寄せる。幼少より学問に励み、祖父・正純と父・正勝の墓参りを願い出奔。しかし幕命により叶わず、遠戚であった上野国高崎藩主安藤重長に客分として留め置かれていた』。『その後は和田角兵衛と名乗り、明暦三年(一六五七年)に旗本・安藤直政に乞われて武蔵国那珂郡に居住。知行所代官となる。孫の和田正篤の次男・正綱は、在所の安藤家家臣・木村氏から妻を娶っていたことから、子の正滕の代になった寛政年間に名跡を継承して木村姓に改め、安藤家の家臣として存続している』。『正勝の次男・正之は配流の地横手にて出生。忠左衛門と称す。正純没後、成瀬正虎に迎えられ、尾張犬山に居住したという。寛文四年(一六六四年)に赦免され、三千石の旗本として家を再興している』とある。正純は『石田三成の身柄を預かったとき、三成に対して、「貴殿も忠臣なら、なぜ潔く腹を切られなんだ」と質問すると、三成は「大望ある者は、最後まであきらめず己の信念を貫くものだ。お主にはそれがわかるまい」と言い返されたとされる』。『大坂の陣の直後、千姫が本多忠刻に再嫁する事になった。ところが、これに激怒した坂崎直盛が面目を潰されたと屋敷に立て篭もって幕府に抵抗した事件がある。騒ぎが広がるのを恐れた幕閣からは、「直盛の家臣を買収し、直盛に自害を勧めさせてはどうか」という案が出た際、「主君の不忠を家臣の不忠をもって制するとあっては天下の政道が罷り通らぬ」と敢然と不可であるを主張した、という逸話がある』。『父・正信は権勢を得ると同時に大身になることは怨みや嫉みを買い、身の破滅になると自戒し、嫡男の正純にも「三万石以上の知行を受けてはならぬ」と戒めていた』。『異常なほど権勢欲が強かったことから、現在の歴史小説や大河ドラマなどでは、「家康の寵愛におもねる側近」として描かれることが多い。ただし、その場合でも徳川家の忠臣として描かれることは多く、石田三成と同じように周囲から疎まれていた人物と描かれることが多いようである』。『改易後、佐竹氏預かりとなった際、はじめは佐竹氏の好意もあり手厚くもてなされたが、後にこれが幕府に知れることとなり、晩年は厳しい監視を受けながら、釘付けにされた屋敷に幽閉状態にされたという』とある。最後の記述は本話を読むに心に迫るものがある。

「隨身の道具」この「隨身」は身に着けること。携帯すること。また,そのものの意。

「法眼元信」室町後期の絵師狩野元信(かのうもとのぶ 文明八(一四七六)年?~永禄二(一五五九)年)。狩野派の祖狩野正信の子(長男又は次男とされる)で狩野家二世。京生まれ。後世、「古法眼(こほうげん)」と通称された。号は永仙・玉川。幼時より絵を能くし、宋元名家に土佐派や周文雪舟を研究、山水・人物・花鳥孰れにも優れ、土佐光信や雪舟とともに「本朝三傑」と称される。また将軍義政・義澄に仕えて大炊助・越前守から法眼(元来は「法眼和尚位(ほうげんかしようい)」の略で僧位の第二位で法印と法橋(ほつきよう)の間、僧綱(そうごう:律令制下に於ける僧位階。)の僧都(そうず)に相当する位であるが、中世から近世にかけて僧侶に準じ、仏師・絵師・連歌師・医師などに称号として与えられた)に叙せられた。]

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