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2015/02/13

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 長崎から神戸へ

M595
図―595

M596

図―596

 

 長崎は鼈甲細工で有名である。鼈甲の細工場を訪れたら面白かった。いかなる職であっても工人は床に坐るのであるが、ここでは前に述べた方法で坐らずに、トルコ人のように脚を交叉させて坐る(図595)。彼等が鼈甲の薄い板をこねたり溶解したりしてくっつけ合わせるらしいのには驚いた。彼等は巨大な鉄製のヤットコ鋏を火炉(図596)で熱して使用し、鼈甲板を押し合わせたり、屈曲したり、あるいは他の形をつくったりする。

[やぶちゃん注:私は日本伝統の鼈甲細工に危機を齎したワシントン条約に恨みがある。キューバは原料である海亀のタイマイの養殖に成功している。しかも鼈甲細工の技術は日本長崎の特異的な文化技術である。しかし日本はそれを買うことが出来ない。アメリカにとって不愉快なキューバと経済的に牽制をかけたい日本を同時に苦しめることが出来るのである。象牙のケースも基本的にこれと全く同じ構造である。南アフリカもロシアも象牙加工の超絶的技術を保持する日本に買ってもらいたいし、日本も咽喉から手が出るほど欲しい。しかし買えない。総てはワシントン条約である。アメリカが陰に陽に日本文化を締め付けている事実に我々は気づかねばならない。さらに言っておくなら、鼈甲細工の職人というのは、ここに出るようにずっと座業である。従って伝統的に下肢の不自由な方にとっては数少ない技術職であるという側面があった。ワシントン条約はそうした障碍者の生業さえも奪ったのである。皆、目覚めねばならない! 誰が誰を苛めているかにだ! 非科学的な捕鯨反対をぶち上げ、クソみたいな食文化侵害をし続け、太地町で老漁民を恫喝するようなオバカな見当違いはやめて、普天間のジュゴンを守りに行け! それが出来ないなら、お前らはエセ正義のアメリカのケチな手先に過ぎないと正体を明かすがいい!]

 

 長崎から神戸へ帰る途中、我々は再び下関海峡を通過し、低い家屋が長く立ち並ぶ下関村の沖に投錨した。ここの人々は外国人に対して非常に反感を持っていると聞いたが、数年前四つのキリスト教国の軍艦が残酷にも砲撃したことを思えば、それも当然である。我我は上陸し度いと思ったが、日本人の事務長に、外国人はめったに上陸しないといわれた。日本人がどこへ行っても丁寧であることに信頼している私は、私の旅券がこの場所は勿論地方さえも含んでおらぬにかかわらず、どうしても上陸しようと決心した。私は事務長に向って、干潮時に於るここの海岸を管見することは大学にとって極めて重大であると話した。そこで彼は私に、彼の小舟で岸まで行くことを許した。海岸を瞥見した私は、町の主要街路を歩き廻り、一軒ごとに店舗をのぞき込んだ。私には外国人が「有難からぬ人」であることが、すぐ判った。私は乱暴に取扱われはしなかったが、まったく相手にされなかったのである。子供達は、まるで私が悪魔ででもあるかの如く私から逃げ去り、一人の可愛い男の子は、私がたまりかねて頭を撫でると、嫌でたまらぬ外国人の愛撫を受けるのには、最大の勇気を必要とするとでもいった具合に、息を殺していた。

 

 神戸で我々は曳き網をする可く数日滞在し、私は数度田舎へ遠足をした。ホテルで私は、長崎で私に郵便物の大きな包みを持って来て呉れた英国砲艦の軍医に会った。我々は食事を共にし、彼は私の郵便物に関する詳細を聞かせてくれた。この砲艦が鹿児島に向けて長崎を出帆する時、司令官は郵便物が来たら鹿児島へ廻送するようにといい残した。鹿児島へ着くと、郵便物の大きな包が届いたが、陸路長崎へ送り返されたということであった。附近二百マイル以内に外国人がいるということを知らぬ彼等は、自然この郵便物が彼等にあてたものであると思った。彼等は長い間故郷から手紙を受取っていないので、皆、郵便にかつえていた。鹿児島からの帰途、彼等は郵便を途中で受取るべくある場所に立ち寄ったが、それはすでにその地を通過した後であった。翌朝、沿岸のもっと北の方で、司令官以下の士官達が船室にいた時、郵便物の包が艦上に持ち来たされ、彼等はみな大よろこびで,卓(テーブル)をかこみ、包を引き破った。司令官が宛名を読み上げた時、私の名前に投げられた言葉を聞いたならば、それは私の教育にはならなかっただろうと軍医がいった。それ等の言葉たるや、私を呪罵することから、一体こいつは誰なんだという質問にまで及んだ。一から十まで、私にあてた郵便だったのである!

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」は、モースの神戸到着は当地の英字新聞『コーベ・アドヴァタイザー』の六月九日号によれば、明治一二(一八七九)年六月七日とあるとする。

・「二百マイル」約三二二キロメートル。鹿児島―長崎間は一四三キロメートルで、この数値だと岩国辺りまで行ってしまう。モースには珍しい誇張表現であるが、この笑い話には距離はドンとあった方が面白い。]

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