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2015/02/26

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 八尾の高安古墳を調査する

 大阪にいる間に、我々は大阪を去る十二マイルの服部川と郡川の村に、ある種の古代の塚があるということを聞いた。我々は人力車に乗って完全に耕された大平原を横切った。日のとどくかぎり無数に、典型的なニューイングランドのはねつるべがある。これは洗い井戸から灌漑用の水を汲み上げるのに使用する。塚はブルターニュやスカンディナヴィアにあるものと同じ典型的なドルメンで、巨大な塚がさしわたし十フィートあるいは十二フィートの部屋へ通ずる長い狭い入口を覆っている。我々はそれ等を非常な興味を以て調べ、そして一千二百年、あるいはそれ以前の人々が、如何にしてこれ等の部屋の屋根を構成する巨大な石を持上げ得たかを、不思議に感じた【*】。

 

* これ等の構造は、一八八〇年三月発行の『月刊通俗科学』の五九三頁に、「日本に於るドルメン」と題する一文に挿画つきで記述した。

 

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に以下の様にある(注記記号は省略した。当該書二五三~二五四頁)。

   《引用開始》

 また大阪でモースは、服部川・郡川の横穴式石室(現八尾市の高安千塚古墳群)を調査している。このときの調査はのち一八八〇年(明治十三年)に、「日本のドルメン(支石墓)」という題で発表されているが、その論文に、大阪専門学校の小川教諭(東京での知り合いと『その日』にあるが、どういう人物か不明[やぶちゃん注:少し後に実際に登場し、モースを接待している。])から矢田部良吉を介してモースにこの石室調査の依頼があったと、調査までの事情が述べられている。そこでモースは種田を伴い、大阪専門学校の小川および天草両教諭の協力を得て、石室を調べたのである。すでに五月七日付『コーベ・アドヴアタイザー』や、同月十七日付『ジャパン・ウイークリー・メイル』に、近くモースが大阪を訪れてこの石室を調べる予定との記事があるから、東京出発の前から調査が計画されていたらしい。なお、同論文によると、少なくとも九箇所の石室を調べたこと、彼がそれを昔の墓と断定していたことがわかる。遠景を含むスケッチ数点と、簡単ではあるが平面  図および断面図も描かれている。

   《引用終了》

 この調査の正確な日時は不明。明治一二(一八七九)年六月初・上旬(神戸発の横浜行の広島丸で帰途についたのは六月十七日)のことである。以下、主にウィキ高安古墳群から引いておく(引用部のアラビア数字を漢数字に代えた)。

 高安(たかやす)古墳群は大阪府八尾市の東部、高安山の麓に分布する古墳群で、現在、二百二十四基が確認されており、全体は大窪(おおくぼ)・山畑(やまたけ)支群、服部川支群,郡川北(こおりがわきた)支群,郡川南支群の四つの支群に分けられている。『八尾市の高安地区中部(千塚、山畑、大窪、服部川、郡川あたり)には約二百基の古墳群が現存しており、その多さからこのあたりを「千塚」と呼ぶようになった。 古墳時代後期の六世紀から七世紀にかけて造られ、大正時代の調査で、かつては六百基ほどあったとみられている。 その多くが、横穴式石室を持った直径十~二十メートルほどの小さな円墳で、高安山の中腹、標高五十~三百メートルあたりに多く分布している。 大抵の場合、南側に開口している』。この周辺では四~五世紀の『古墳時代前・中期にかけては巨大な権力を持ったごく少数の人物が巨大な前方後円墳を造った。しかし古墳時代後期には権力が分散し、財力のある小豪族がこのあたりに勢力を伸ばし、小規模な円墳を造るようになり、多くの墳墓が集中するようになったと考えられている。具体的な被葬者については詳細不明である』。『明治時代初期に モースが開山塚古墳などを調査・スケッチをして、その成果を「日本におけるドルメン」として紹介している。 また、W・ゴーランドが二室塚古墳の写真撮影を試み、一八九七年(明治三十年)に論文で「双室ドルメン」として発表していることが後の研究で判っている。 なお、坪井正五郎は一八八八年(明治二十一年)に「古墳・塚穴、ドルメン同源説」という論文を発表している』。文化庁の史跡指定の公式に関わる公式報道には、この古墳群は六世紀から七世紀前半に亙って造営されたもので、最も多く古墳が築造されたのは六世紀後半とし、『ほぼ全てが円墳で,埋葬施設は横穴式石室であるが,造墓開始期にはドーム状天井の石室が認められるとともに,韓式系土器やミニチュア炊飯具といった副葬品の出土など,渡来系集団との関わりがうかがえる』。『こうした状況から,高安千塚古墳群の麓に広がる河内平野に居住した渡来系集団と地域社会との関係をうかがうことができる古墳群であり,我が国の古代国家形成過程を考える上で,欠くことのできない重要な古墳群である』と認定している。なおこの時モースが調査した開山塚古墳は、正式名を郡川一号墳と称し、八尾市郡川(こおりがわ)にある曹洞宗法蔵寺の境内地に現存する。石室内部の広さ約十五・平方メートルで高安古墳群内では最大級とされるものである。額田大玉氏のサイト「古墳とかアレ(仮)」の高安千塚古墳法蔵寺エリア」を参照されることをお薦めする。現況画像豊富。

 なお、「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の前掲引用箇所にある「日本のドルメン(支石墓)」に掲載されたモースの高安千塚古墳群の外観スケッチを以下に転載しておく。

 

Takayasukohunn

 

「十二マイル」十九キロメートル強。

「十フィートあるいは十二フィート」三メートル或いは三・六六メートル。

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