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2015/02/10

耳嚢 巻之九 不思兩夫を持し女の事

 不思兩夫を持し女の事

 

 前度も似たる噺も聞(きき)し。文化六年、或人此頃の事也とて語りしが、八町堀邊とかに、夫婦子供老人有(あり)て、旅稼(たびかせぎ)抔をして渡世送りし者、源兵衞とか言(いひ)しが、外より旅日雇(たびひやとひ)にたのまれ、路用請取(うけとり)て上方に至るに、途中侍一人と道連れになりしが、道中は容易のもの、ともないて害を得る事あれば別れんとせしが、一兩日連立(つれだち)とくと樣子を見しに、質朴の仁物(じんぶつ)にて心懸りもなければ、二三日同道なし、彼(かの)者は在所信州へ參る由にて、別れに望みて彼侍申(まうし)けるは、明日はお別れ可申(まうすべし)、我等は少し用事有之(これあり)、跡に殘る間、先へ立(たち)給へと申けるゆゑ、夫(それ)はいかなる事哉(や)と尋(たづね)ければ、我等路用を遣ひ切(きり)て、此大小を賣りて路用となすべし、依之(これによつて)跡に殘る由申けるゆゑ、彼町人我等少々は路金も貯(たくはへ)たり、いか程入用にやと尋ければ、此大小凡(およそ)貮兩餘には可成(なるべき)なりといひし故、然る上は、我等右二兩は合力(かふりよく)すべしといひしゆゑ、侍大きに悦び、則(すなはち)帶せし大小を渡(わたし)、兩腰無之(これなく)ては脇も淋しき間、御身の脇差を給(たまは)らんやと望しかば、我等も三本差(さし)て益なしとて、さし來りし脇差を彼侍へあたへ、不思議の緣にて斯(かく)懇(ねんごろ)になりし事、他生(たしやう)の知遇なるべし、我等は八町堀誰店(たれだな)と、則(すなはち)鼻紙に書(かき)て彼侍にあたへ、侍も己が生所(せいしよ)江戸の寄宿等認(したため)て渡し、途中にて名殘(なごり)を惜しみ、再會を約し立別(たちわか)れしが、右侍追分沓懸(おひわけくつかけ)邊の驛場(えきば)にて大病となり相果(はて)しかば、所より支配へ訴へ、檢使を請(こひ)て葬りて、懷中もの改めしに、江戸八町堀誰店源兵衞と書(かき)し書付ありければ、彼脇差を添(そへ)て、右源兵衞留守まで、飛脚を以申越(まうしこし)しゆゑ、源兵衞妻は大きに驚き歎きしが、右手跡(しゆせき)幷(ならび)に脇差共(とも)源兵衞所持に相違なければ、町役人共(ども)立合(たちあひ)て、信州へも相應に禮を述(のべ)、取置(とりおき)等の儀厚賴遣(たのみやり)しければ、小兒は有(あり)、女壹人にては身上(しんしやう)も難立(たちがたし)とて、知音(ちいん)同店(どうだな)の者世話をなして、入夫(にゆうぶ)をいれ相續なしけるに、五七ケ月過(すぎ)て、彼源兵衞用向(やうむき)を仕舞ひ立歸(たちかへ)り、我(わが)かどを覗(のぞき)しに、見しらざる男、女房と夫婦(めをと)のやう成(なる)始末、然る上は全(まつたく)留守中密夫なしけると大(おほき)に憤り、我内(わがうち)へ立入(たちいり)ければ、女房は先夫(せんぷ)の亡靈なりとて驚きて氣絶なし、當夫(たうふ)其外居合(ゐあひ)候ものも驚き恐れしが、相互(あひたがひ)にしかじかの一件語り合て肝を潰しける由。當夫は如何なしけるや、夫(それ)まで聞(きか)ざりしがと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。底本で鈴木氏は「御身の脇差を」の部分に注され、『三村翁「講談の大岡政談に、これと同じ筋あり。かゝる巷説より脚色せしなるべし」』とあり、岩波の長谷川氏は同様の内容を受けて、『講談の「万両婿」同じ筋(鈴木氏)。「万両婿」は落語「小間物屋政談」に』なった注しておられる。ウィキの「小間物屋政談」に粗筋が載る。そこには『万両婿の別名がある』ともある。しかしこの話、一読、講談や落語ではなく、それこそ「前度も似たる噺も聞」いた、読んだことがあるな、と思って調べてみたところ、寛政期の作者不詳の作「梅翁随筆」の中に酷似した話があったことを思いだした。以下に引いておく(底本は吉川弘文館日本随筆大成第二期第十一巻を底本としたが、恣意的に漢字を正字化した。また底本には読みがないが、読み難いと私が判断した箇所には歴史的仮名遣で推定の読みを附した)

   *

 ○材木屋思はず隱居せし事

一深川の材木問屋大和廻りせんとて、雇ひのもの壹人召(めし)つれて、午(うま)の春半(なかば)過(すぎ)るころ旅立(たびだち)けるが、金澤より鎌倉江のしまを廻り、箱根へかゝりし時、その體(てい)いやしからぬ男、眞裸(まつぱだか)にて石に腰をか居(ゐ)たり。不審におもひ其よしを問ふに、江戸芝邊のものなるが、刻限をとりちがへ、いまだ夜深きに此所へ來りしに、大の男四五人とり卷(まかれ)て、荷物衣類殘りなく奪ひとられたり。湯治に參るものにて候へども、かやうの難に逢(あひ)、いかゞ致さんと途方にくれ罷在(まかりあり)といふ。材木や是を聞(きき)、旅は相互(あひたがひ)の事、某(それがし)は大和廻と志す、旅も後世を願ふがためなれば、人の災難救ふも善根のはしともならんとて、衣類幷(ならび)に金子を遣(つかは)し、是にて湯治をもしられよといひければ、かの男まことにおもひ計らざる御恩、この上や有るべきと歡び、姓名宿所をも尋(たづね)しゆへ、金をつゝみたる帋(かみ)へ書付遣しければ、此御禮は江戸にてこそ申(まうす)べけれと別(わかれ)て、かの男は温泉場へゆきしが、その夜頓死せり。死體をあらためけるに、懷中に宿所姓名書付ある故、頓(やが)て江戸深川へ此段申(まうし)つかわしける。家内にはおもひ寄らぬ事なれば、愁傷いふばかりなし。早速手代を湯治場へ遣し樣子を尋(たづね)るに假埋(かりうめ)にしたり。死體は日數重(かなさ)り面體(めんてい)かわりたり。衣類は主人の品にまがひなし。供につれたる雇ひのものゝ事尋るに、供人はなしといふ。是は逃(にげ)もやしつらんと料簡して、我(わが)主人に違ひなしときはめて死體を葬りけり。頓(やが)て形見の衣類持(もち)て深川へ歸り。此よしを申せば、せめてもとたのみし事も甲斐なくて、家内のなげきいはん方なし。さらでだに夫婦のわかれはかなしきに、是はましてやおもひもよらぬ愁ひにかゝり、俄(にはか)に無常を身に觀じ、世をいとふ心ふかく、尼に成(なり)て後世(ごぜ)をたのまばやと申けるを、一族より合(あひ)、子供は七歳のむすめをかしらとして、男子はいまだ幼少なり。このまゝにては相續しがたし、幸(さいはひ)重(おもき)手代は實體(じつてい)なるものなれば、是を後家入(ごけいり)として後見させ、子供成長の後家督を續(ぞく)する事、家繁昌のもとひなりとて、女房にも納得させ、町内のひろめもなしける。斯(かく)て亭主は大和めぐりよりよき序(ついで)なりとて、四國中國の邊までも見物して、百日あまりを經て深川へ歸りける所に、おもひもよらぬ事出來(いでき)て、手代の妻となり、町内の弘めも濟(すみ)ければ、是も因緣なるべしとて、それより直(ぢき)に隱居して別宅にくらしけるとなり。

   *

 この「午の春」というのは寛政十(一七九八)年戊午(つちのえうま)のことかと思われる。本話が実に実録であった可能性を示唆する一つとは言える。ただ……実は何故か、この手の筋立て、私は昔からどうも好きになれないでいる。多分、その心ある登場人物の皆が、それぞれに微妙にリアルに数奇にして不憫な気がするからかも知れない。「梅翁随筆」のような実録口調ならまだしも、面白おかしくなした再話はそれこそ生理的に不快である。普通なら、かの「万両婿」のシノプシスなども紹介するところだが、敢えてやめることとした。悪しからず。

・「文化六年」「卷之九」の執筆推定下限はこの文化六(一八〇九)年夏で、先の「梅翁随筆」よりも十一年の後のこととなる。本話の作話性の高さを示す気がする。

・「八町堀」八丁堀は「梅翁随筆」の材木問屋の住む深川とは隅田川を挟んで直近の西である。

・「旅日雇」現在の遠地への出稼ぎのこと。

・「容易のもの」岩波版長谷川氏注は『未詳。素性の知れぬ者をいうか』とされるが、「容易」がそれではピンとこない。私は文脈から、妙に気安く、馴れ馴れしくしてくる相手の謂いで訳した。

・「追分」追分宿。中山道六十九次の江戸から二十番目の宿場。現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分。

・「沓懸」沓掛宿。同前の十九番目の宿場。現在の長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢。しかし本文は、この追分・沓掛宿の前で、上方に行くはずの商人と、侍の行路が、これ、別れたことになっており、ルート上、私には不審に感じられるのだが。

・「當夫は如何なしけるや、夫まで聞ざりしがと人の語りぬ。」という根岸の附記も、根岸自身がこの話が以前に聴いたことのある類話からの捏造の可能性を疑っているようで、面白い。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 思わず二夫(にふ)を持ってしまった女の事

 

 前にも似たような話を聴いたことの御座るが、敢えて認(したた)めおくことと致す。文化六年、ある御仁が、つい最近の出来事、として語ったものではある。

   *

……八丁堀辺りで御座ったか、夫婦・子供と老人の一家にて、行商なんどを成し渡世致いて御座った者で、源兵衛、とか申すものが御座った。

 世話になっておる者の口聞きにて、少々長き旅日雇(たびひやと)いの仕事を頼まれ、相応の路金も受け取って、中仙道を上方へと向かった。

 その途中、一人の侍と心安く致いて道連れとなったが、当初は、

『……道中にて、かくも馴れ馴れしゅう致いて参る者を、これ、安易に伴のうては……思わぬ害をも受くること、これ、あればこそ、早々に別れんが得策かのぅ……』

などとも思うたものの、一両日も連れ立って旅致し、とくと、この侍の様子を見てみた限りにては、これ、至って質朴にして、仁を弁えたる人体(じんてい)の御仁にて御座ったれば、これと申して怪しき心配なるところも御座らなんだによって、二、三日も同道なした。

 かの侍は、在所の信州へと参る由にて、明日より脇道へ逸(そ)れんという前夜のこと、その別れに臨んで、かの侍の申すことに、

「……明日はお別れ申すことと相い成ったれど……我らは……少し……この宿(しゅく)にて……よんどころなき用の……これ、出来(しゅったい)致いたによって……後に残らねばならず……どうか、明日は、先へお立ちなされい。……」

と申したゆえ、

「……よんどころなき?……それはまた、如何なることで御座るるか?……」

と気になって訊ねたところが、

「……実は……我ら……ここまでで、その、手持ちの路金を……これ、総て遣いきってしもうて御座る。……在所ヘは、ここより今少し、これ、里程の御座れば……お恥ずかしきこと乍ら……この腰の大小をでも売り払(はろ)うて……これ、路金となすしか、御座らぬ。……さればこそ……後に残って、と申し上げて御座った。全く以って面目ない……」

との述懐致いたによって、かの町人、

「……我ら、少々ならば、路金としての貯え、これ、御座る。……して、如何ほど、御入用で?」

と訊いたところ、

「……いや……それは……何とも……しかし……そうさ、この大小ならば……凡そ二両ほどにはなろうかと、思うては御座るが……」

と申したによって、町人、これ意気に感じ、

「――こうなったら、相い身互いと申します!――我ら、その二両は、これ、合力(こうりょく)致しやしょう!」

と請けがったによって、侍もよほど困って御座ったものか、大きに悦び、ただちに、帯して御座ったその大小を町人へと渡しつつ、

「――ただにて借るるは武士の恥なればこそ、これを!……ただ、腰の物、これなくしては流石に武士として、脇も淋しゅう御座れば……その、御身の持ちたる脇差をば、これ、代わりにお貸し下さるまいか?」

と望まれたによって、

「――いや、そりゃあ、もう! 我らも刀をこれ、三本も差して御座っても、何(なーん)の役にも立ちゃあしゃせん! どうぞ、こんなもんで、よろしければ!」

と、護身用に腰に差して御座った脇差を、かの侍へ与えた上、

「……不思議の御縁にて、かくも親しくなりましたること、これを、他生(たしょう)の縁、とでも申すので御座ぜえやしょう! 我らは八丁堀の××店(だな)の渡り商いを致いておりやす――源兵衛――と申しやす。……」

と、その名を鼻紙にも書いて、かの侍へ渡せば、侍もまた、己が名と在所の村及び江戸にての寄宿先なんどをも認(したた)めて渡した。

 さても翌朝、二人して宿を発ち、途中にて名残りを惜しんで、

「――この度の御恩、まっこと、有り難く御座った。何時か必ず、返礼がため、貴殿と再びお逢いしとう存ずる!」

と侍の申せば、商人(あきんど)も、

「――その時まで、こちらの大小はしっかと守ってごぜえやすで! どうぞ、御達者で!」

と再会を約して、たち別れた申す。

 

 ところが何と――この侍――それからほどのぅ――追分・沓掛辺りの宿駅に於いて、急の病いを発し、そのまま、相い果ててしもうたと申す。

 されば、所の下役の者より信州の支配方へと訴えの御座って、行路死病人として検視の役人を迎え、検分の上、病者なれば取り敢えず早々に仮埋葬致いて、その死者の懐中の物なんどをも改め見たところ、

――江戸八町堀××店(だな)源兵衞――

と書いた、書付(かきつけ)一枚きり、これ、御座らなんだによって、かの脇差をそれに添え、右源兵衛の留守宅まで飛脚を以って知らせを送った。

 さればこそ、源兵衛が妻は、これ、大きに驚き歎いて御座った。

 しかし――その書付の手跡(しゅせき)――これ、申すに及ばず、并びに――その脇差――これ、確かに源兵衛所持のそれに相違なければ、町役人どももその場に立ち合い、その二点につき確かに認めた上、報知の通り、病死なれば現地にて埋葬とのこと、また何か、いざこざに巻き込まれての変死と申す訳にても御座らなんだによって、信州が役方へもこれ、相応の礼を添え述べ、本葬等の儀なんどに就きても、相応の金子を送って、厚く頼みおいたと申す。

 

 さてもこの寡婦(やもめ)、

「……頑是なき小児はあり、女一人にては、これ、身上(しんしょう)も成り行くまい。……」

と、知音(ちいん)の者や同じ店子(たなこ)の者なんどがしきりに哀れがって世話をなしたによって、ほどのぅ、新しき婿(むこ)を入れて、亡くなった源兵衛が跡を、これ、滞りのぅ、相続致いて御座った。

 さて、それより五、六、七ヶ月も過ぎて、かの源兵衛、上方での出稼ぎも終えたによって、やっと江戸へとたち戻って、さても我が家(や)が門(かど)を覗き見た……ところが……

――見しらぬ男が

これ、

――女房と

……夫婦(めおと)の如(ごと)、睦まじゅう致いておる!……

 さればこそ、

「……さ、さてはッ!……全くッ!……留守中、間男をッ! これ! 家に入れおるかあッツ!」

と、大きに憤って、己(おのれ)が家へと、だだっと! 走り込んだれば、

――女房は

これ、

「……ま、前の夫(おっと)の、ぼ、亡霊の、で、出たあァアッツ!……」

と、一声叫ぶや、驚いてそのまま気絶致し、今の夫は、また、その折り、たままた居合わせた者とともに、驚き恐れて、立ち竦んで御座ったと申す。

 直ちに知らせを聴いた名主やら、かの源兵衛死すの飛脚を受けた折りの役人らも参って、双方、かくかくしかじかと委細を述べ、それをいちいち合わてみたところが、かく成ったる一件、これ、明らかとなったれば、皆々、肝を潰して御座ったと申す。

   *

 私はこれを聴いて、

「……さても。……その今の夫の方はこれ、その後(のち)、如何が致いたものか、の?」

と訊ねてみたので御座ったが、

「……い、いや。……そこまでは……実は……聴いておりませんのですが……」

と、その御仁の答えて御座ったよ。

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