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2015/02/11

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅳ)

十月十四日、ヴエランダにて  

 ゆうべは少し寐られなかつた。さうして寐られぬまま、仕事のことを考へてゐるうちに、だんだんいくぢがなくなつてしまつた。もう天平時代の小説などを工夫するのは止めた方がいいやうな氣がしてきた。毎日、かうして大和の古い村や寺などを見てゐたからつて、おいそれとすぐそれが天平時代そのままの姿をして僕の中に蘇つてくれるわけはないのだもの。それには、もうすこし僕は自分の土臺をちやんとしておかなくては。古代の人々の生活の狀態なんぞについて、いまみたいにほんの少ししか、それも殆ど切れ切れにしか知つていないやうでは、その上で仕事をするのがあぶなつかしくつてしようがない。それは、ここ數年、何かと自分の心をそちらに向けて勉強してきたこともしてきた。だが、あんな勉強のしかたでは、まだまだ駄目なことが、いま、かうやつてその仕事に實地にぶつかつて見て、はつきり分かつたといふものだ。ほんの小手しらべのやうな氣もちでとり上げようとした小さな仕事さへ、こんなに僕を手きびしくはねつけるのだ。僕はこのままそれに抵抗していても無駄だらう。いさぎよく引つ返して、勉強し直してきた方がいい。……

 そんな自棄ぎみな結論に達しながら、僕はやつと明け方になつてから寐入つた。

 それで、けさは大いに寐坊をして、髭ひげも剃そらずに、やつと朝の食事に間に合つた位だ。

 けふはいい秋日和だ。かういふすがすがしい氣分になると、又、元氣が出てきて、もう一日だけ、なんとか頑張つてやらうといふ氣になつた。やや寐不足のやうだが、小説なんぞ考へるのには、さういふ頭の狀態の方がかへつて幻覺的でいいこともある。

 どうも心細い事を云ひ初めたものだと、お前もこんな手紙を見ては氣が氣でないだらう。だが、もう少し辛抱をして、次ぎの手紙を待つてゐてくれ。何處でそれを書く事になるか、まだ僕にも分からない。……

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年十月十四日(水曜)。]

 

午後、秋篠寺にて  

 いま、秋篠寺(あきしのでら)といふ寺の、秋草のなかに寐そべつて、これを書いてゐる。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎藝天女(ぎげいてんによ)の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののやうな氣がせられて、わけてもお慕はしい。朱(あか)い髮をし、おほどかな御顏だけすつかり香こうにお灼(や)けになつて、右手を胸のあたりにもちあげて輕く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおつしやられさうな樣子をなすつてお立ちになつてゐられた。……

 此處はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしくしてゐるところがいい。さうしてこんな何氣ない御堂のなかに、ずつと昔から、かういふ匂ひの高い天女の像が身をひそませてゐてくだすつたのかとおもふと、本當にありがたい。

[やぶちゃん注:「秋篠寺」奈良市秋篠町、奈良市街地の北西、西大寺北方に位置する単立寺院。本尊は薬師如来。開基は奈良時代の法相宗の僧善珠とされる。次に出る伎芸天立像と国宝の本堂で知られるが、保延元(一一三五)年に火災によって講堂以外の主要伽藍を焼失しており、現存する本堂も旧講堂の位置に建つものの、創建当時のものではなく鎌倉期に再建されたもので、金堂や東西両塔の跡などは雑木林となっている(以上は主にウィキの「秋篠寺」に拠る)。

「伎藝天女」グーグル画像検索「秋篠寺 伎芸天」。木造で像高二百六センチメートル、本堂仏壇の向かって左端に立っている。現在、重要文化財。ウィキの「秋篠寺」によれば、伝伎芸天立像とされて、『瞑想的な表情と優雅な身のこなしで多くの人を魅了してきた像である。頭部のみが奈良時代の脱活乾漆造、体部は鎌倉時代の木造による補作だが、像全体としては違和感なく調和している。「伎芸天」の彫像の古例は日本では本像以外にほとんどなく、本来の尊名であるかどうかは不明である』とある。

「おほどかな」おっとりしているさま。おおらかだ。鷹揚で物静かなさま。]

 

夕方、西の京にて  

 秋篠(あきしの)の村はづれからは、生駒山が丁度いい工合に眺められた。

 もうすこし昔だと、もつと佗びしい村だつたらう。何か平安朝の小さな物語になら、その背景には打つてつけに見えるが、それだけに、此處もこんどの仕事には使へさうもないとあきらめ、ただ伎藝天女と共にした幸福なひとときをけふの收穫にして。僕はもう何をしようといふあてもなく、秋篠川に添うて歩きながら、これを往けるところまで往つて見ようかと思つたりした。

 が、道がいつか川と分かれて、ひとりでに西大寺(さいだいじ)驛に出たので、もうこれまでと思ひ切つて、奈良行の切符を買つたが、ふいと氣がかはつて郡山行の電車に乘り、西の京で下りた。

 西の京の驛を出て、藥師寺の方へ折れようとするとつつきに、小さな切符賣場を兼ねて、古瓦のかけらなどを店さきに竝べた、侘びしい骨董店がある。いつも通りすがりに、ちよつと氣になつて、その中をのぞいて見るのだが、まだ一ぺんもはいつて見たことがなかつた。が、けふその店の中に日があかるくさしこんでゐるのを見ると、ふいとその中にはひつてみる氣になつた。何か埴輪の土偶(でく)のやうなものでもあつたら欲しいと思つたのだが、そんなものでなくとも、なんでもよかつた。ただふいと何か仕事の手がかりになりさうなものがそんな店のがらくたの中にころがつてゐはすまいかといふ空賴みもあつたのだ。だが、そこで二十分ばかりねばつてみてゐたが、唐草文樣(からくさもやう)などの工合のいい古瓦のかけらの他にはこれといつて目ぼしいものも見あたらなかつた。なんぼなんでも、そんな古瓦など買つた日には重くつて、持てあますばかりだらうから、又こんど來ることにして、何も買はずに出た。

 裏山のかげになつて、もうここいらだけ眞先きに日がかげつてゐる。藥師寺の方へ向つてゆくと、そちらの森や塔の上にはまだ日が一ぱいにあたつてゐる。

 荒れた池の傍をとほつて、講堂の裏から藥師寺にはひり、金堂や塔のまはりをぶらぶらしながら、ときどき塔の相輪(さうりん)を見上げて、その水煙のなかに透(す)かし彫(ぼり)になつて一人の天女の飛翔しつつある姿を、どうしたら一番よく捉まえへられるだらうかと角度など工夫してみてゐた。が、その水煙のなかにさういふ天女を彫り込むやうな、すばらしい工夫を凝らした古人に比べると、いまどきの人間の工夫しようとしてる事なんぞは何んと間が拔けてゐることだと氣がついて、もう止める事にした。

 それから僕はもと來た道を引つ返し、すつかり日のかげつた築土(ついぢ)を北に向つて歩いていつた。二三度、うしろをふりかへつてみると、松林の上にその塔の相輪だけがいつまでも日に赫いてゐた。

 裏門を過ぎると、すこし田圃があつて、そのまはりに黄いろい粗壁の農家が數軒かたまつてゐる。それが五條(ごでう)といふ床しい字名(あざな)の殘つてゐる小さな部落だ。天平の頃には、恐らくここいらが西の京の中心をなしてゐたものと見える。

 もうそこがすぐ唐招提寺の森だ。僕はわざとその森の前を素どほりし、南大門も往き過ぎて、なんでもない木橋の上に出ると、はじめてそこで足を止めて、その下に水草を茂らせながら氣もちよげに流れてゐる小川にぢいつと見入りだした。これが秋篠川のつづきなのだ。

 それから僕は、東の方、そこいら一帶の田圃ごしに、奈良の市のあたりにまだ日のあたつてゐるのが、手にとるやうに見えるところまで歩いて往つてみた。

 僕は再び木橋の方にもどり、しばらくまた自分の仕事のことなど考へ出しながら、すこし氣が鬱(ふさ)いで秋篠川にそうて歩いてゐたが、急に首をふつてそんな考へを拂ひ落し、せつかくこちらに來てゐて隨分ばかばかしい事だと思ひながら、裏手から唐招提寺の森のなかへはひつていつた。

 金堂(こんだう)も、講堂も、その他の建物も、まはりの松林とともに、すつかりもう陰つてしまつてゐた。さうして急にひえびえとしだした夕暗のなかに、白壁だけをあかるく殘して、軒も、柱も、扉も、一樣に灰ばんだ色をして沈んでゆかうとしてゐた。

 僕はそれでもよかつた。いま、自分たち人間のはかなさをこんなに心にしみて感じてゐられるだけでよかつた。僕はひとりで金堂の石段にあがつて、しばらくその吹(ふ)き放はなしの圓柱のかげを歩きまはつてゐた。それからちよつとその扉の前に立つて、このまへ來たときはじめて氣がつゐたいくつかの美しい花文(くわもん)を夕暗のなかに搜して見た。最初はただそこいらが數箇所、何かが剝げてでもしまつた跡のやうな工合にしか見えないでゐたが、ぢいつと見てゐるうちに、自分がこのまへに見たものをそこにいま思ひ出してゐるのに過ぎないのか、それともそれが本當に見え出してきたのか、どちらかよく分からない位の仄かさで、いくつかの花文がそこにぼおつと浮かび出してゐた。……

 それだけでも僕はよかつた。何もしないで、いま、ここにかうしてゐるだけでも、僕は大へん好い事をしてゐるやうな氣がした。だが、かうしてゐる事が、すべてのものがはかなく過ぎてしまふ僕たち人間にとつて、いつまでも好いことではあり得ないことも分かつてゐた。

 僕はけふはもうこの位にして、此處を立ち去らうと思ひながら、最後にちよつとだけ人間の氣まぐれを許して貰ふやうに、圓柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の眞んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味ははうとした。僕はそのときふとその手を休めて、ぢつと一つところにそれを押しつけた。僕は異樣に心が躍つた。さうやつてみてゐると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲しみ込こんだ日の光の温かみがまだ消えやらずに殘つてゐるらしい。

 僕はそれから顏をその柱にすれすれにして、それを嗅かいでみた。日なたの匂ひまでもそこには幽かに殘つてゐた。……

 僕はさうやつて何んだか氣の遠くなるやうな數分を過ごしてゐたが、もうすつかり日が暮れてしまつたのに氣がつくと、やうやつと金堂から下りた。さうして僕はその儘、自分の何處かにまだ感ぜられてゐる異樣な温かみと匂ひを何か貴重なもののやうにかかへながら、既に眞つ暗になりだしてゐる唐招提寺の門を、いかにもさりげない樣子をして立ち出でた。

[やぶちゃん注:以上で「十月」の「一」が終わる。

「秋篠川に添うて歩きながら、これを往けるところまで往つて見ようかと思つたりした」「が、道がいつか川と分かれて、ひとりでに西大寺驛に出た」推定ルートを実測してみると、辰雄は凡そ二キロメートルほど歩いている。

「侘びしい骨董店」「東京紅團」の「堀辰雄の奈良を歩く」の「大和路編2」の探勝によれば、既に現存しない。

「裏山のかげになつて」現在の画像を見る限りでは、近畿橿原線の「西の京」駅付近には、夕陽を遮るような山が現認出来ない。現在の西方にある六条一帯が当時は丘状をなしていたものか?

「講堂の裏から藥師寺にはひり」西の京駅から東に向かうと、現在の薬師寺の観光用入場門である興楽門に行き着き、ここを入ると、まさに正しく「講堂の裏手」である。なお、」「東京紅團」の「堀辰雄の奈良を歩く」の「大和路編2」によれば、この時、辰雄が実見した金堂や講堂は江戸後期に仮再建したもので、創建当時の伽藍は焼け残った東塔だけあったとある。第二次世界大戦後に同寺は順次再建がなされており、この時に辰雄が見た薬師寺の建物で現在残っているのは東塔のみである旨、記されてある。

「その水煙のなかにさういふ天女を彫り込むやうな、すばらしい工夫を凝らした古人に比べると、いまどきの人間の工夫しようとしてる事なんぞは何んと間が拔けてゐることだ」ここには辰雄の精一杯の世相批判が滲んでいるように私には思われる。この昭和一六(一六四一)年の五月には日本軍が重慶を爆撃し、七月二十八日、フランス領インドシナ南部に日本軍が進駐、九月二十八日にはサイゴンに上陸していた。この四日後の十月十八日には十六日の近衛内閣総辞職を受け、東條英機が内閣総理大臣となって東條内閣を組閣、二ヶ月後の十二月八日、遂に日本軍のマレー半島上陸及び真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発、日本は対米英に宣戦布告するのであった。

「裏門を過ぎると、すこし田圃があつて、そのまはりに黄いろい粗壁の農家が數軒かたまつてゐる。それが五條といふ床しい字名の殘つてゐる小さな部落だ。天平の頃には、恐らくここいらが西の京の中心をなしてゐたものと見える」「裏門」とは先に示した現在の興楽門で、そこから北に真っ直ぐ唐招提寺に向かう道がある。唐招提寺の西南の角まで凡そ五百四十メートルほどで、このルートの中間地点から北部分が「五條」(現在の五条町)である。

「なんでもない木橋」前述の位置から真東に進むと、二百七十メートルほどで秋篠川にぶつかる。そこに架かるのは下極楽橋(しもごくらくばし)であるが、これか?

「それから僕は、東の方、そこいら一帶の田圃ごしに、奈良の市のあたりにまだ日のあたつてゐるのが、手にとるやうに見えるところまで歩いて往つてみた」先の下極楽橋から真東に七百メートルほどが現在の五条町の東域内である。

「裏手から唐招提寺の森のなかへはひつていつた」下極楽橋から北へ四十六メートルほど北上すると、左に折れて、唐招提寺の鎮守社水鏡天神社の南から唐招提寺に入るルートがある。

「僕はひとりで金堂の石段にあがつて、しばらくその吹き放はなしの圓柱のかげを歩きまはつてゐた。それからちよつとその扉の前に立つて、このまへ來たときはじめて氣がつゐたいくつかの美しい花文を夕暗のなかに搜して見た。最初はただそこいらが數箇所、何かが剝げてでもしまつた跡のやうな工合にしか見えないでゐたが、ぢいつと見てゐるうちに、自分がこのまへに見たものをそこにいま思ひ出してゐるのに過ぎないのか、それともそれが本當に見え出してきたのか、どちらかよく分からない位の仄かさで、いくつかの花文がそこにぼおつと浮かび出してゐた。……」「それだけでも僕はよかつた。何もしないで、いま、ここにかうしてゐるだけでも、僕は大へん好い事をしてゐるやうな氣がした。だが、かうしてゐる事が、すべてのものがはかなく過ぎてしまふ僕たち人間にとつて、いつまでも好いことではあり得ないことも分かつてゐた」以下、この日の辰雄のクライマックスと言ってよい。これは十月十一日の記載を再度、同じ場所で同じ夕景の中に立ち昇らせる美しい孤愁の幻視シークエンスである。

「僕はけふはもうこの位にして、此處を立ち去らうと思ひながら、最後にちよつとだけ人間の氣まぐれを許して貰ふやうに、圓柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の眞んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味ははうとした。僕はそのときふとその手を休めて、ぢつと一つところにそれを押しつけた。僕は異樣に心が躍つた。さうやつてみてゐると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲しみ込こんだ日の光の温かみがまだ消えやらずに殘つてゐるらしい」「僕はそれから顏をその柱にすれすれにして、それを嗅かいでみた。日なたの匂ひまでもそこには幽かに殘つてゐた。……」私は思うのだが、堀辰雄には稀に見る高雅なフェティシズムがあるように感じている。それはしかし、例えば同じ宿痾の詩人であった梶井基次郎の「檸檬」のような、病的な露悪的熱感とは無縁なもので、確かな人の肌の温もりにダイレクトに繋がる不思議な郷愁なのである。ここではそれが如何なく発揮されて、しかもその時空間を軽々と超えて行く辰雄の意識が、ここではそうした触覚のみならず、嗅覚としても意識されてくるという、全感覚的な幻視者の希有なエクスタシーとして読者に共感さるのである。]

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