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2015/02/26

柳田國男 蝸牛考 初版(4) デンデンムシの領域

  デンデンムシの領域

 

 他の何れの方言の支配する地域よりも、デンデンムシの領分は廣くして又續いて居る。其分布の實狀は附錄の索引と地圖に讓つたから玆には再説せぬが、大體に於て近畿五箇國は、大和十津川の一小區劃を除いては皆それであり、北は若狹三丹に續いて日本海岸に達し、東は伊勢の海の淸き渚に出でて、一端は尾張三河の國境を堺とし、美濃には入り交つて亦一つの邊境現象を呈しているが、近江は勿論又此領内に入つて居る。西と南とは、大よそ瀨戸内海の周圍はすべて此語に統一せられ、一方は紀州の西半分と阿波一國、九州も豐前豐後の海に臨んだ平野にまで及んで居る。この廣大なる接續地域以外に、飛び散つている例を拾つて見ても、多くは皆近代水運の跡の、辿つて行かれる土地であつた。例へば九州でいふと肥前北松浦の大島、對馬の豆酘、奧州では氣仙の一部及び釜石附近などがそれである。日本海側では能登と越中とにも若干の分布があり、稀には又關東の村落にも其痕跡を見るが、是は上總あたりの濱から、上陸したものとも想像せられる。勿論何れも複合の形を以て存在し、又多くは數語併存の例に入るべきものであつた。

[やぶちゃん注:「三丹」丹後国(丹後地方)と丹波国(丹波地方、但し、多くの場合は京都府中部の南丹は含まない)を合わせた「両丹」(りょうたん)に、隣接する兵庫県北部の但馬国(但馬地方)と併せた謂い。

「豆酘」「つつ」と読む。長崎県対馬の南西端にある町で弥生時代以前から人の住んだ集落で日本神話とも関係の深い土地とされる。日高博嚴氏のサイト「対馬全カタログ」のによれば、地名は単純に「津々」(港)が「豆酘」の字に変わったという説の他、海人のシンボルである蛇を表す「筒」に由来するという説もあるとある。]

 他の何れの蝸牛の稱呼にも、是だけ廣い領域の連續は見られぬのみならず、それが又國の中央の要地を占めて、いまだ他の新たなる異名によつて、喰ひ破られて居ないといふ事實は、自分をして此方言が後にマイマイに代つて流傳したことを推定せしめた一つの理由である。方言は決して記錄文藝の如く、都を源頭として居たとばかりも言へないが、使用によつて物を古くする力は、いつの世に於ても都市は田舍よりは強かつた筈である。さうして假に近畿の人多き地方を中心として見ると、マイマイはもとよりのこと、かつて源順君によって公認せられたカタツブリまでが、今では悉く出でゝこのデンデン領の外側に、分散しまた孤立して居るのである。其他の尚若干の方言が、更に又此二つのものよりも外に在ることは、後段に入つてから之を説く方が便利だと思ふが、たゞ一つだけ特に此際に於て記述しなけれはならぬのは、デンデンに最も近いデエロ又はダイロという方言領である。注意すべきことはこのデエロの領域が、越中南部の緩衝地帶を除くの外、殆ど何れの一地點に於ても前にいふデンデン領と接壌せず又混淆して居ないことである。しかも版圖の大きさに於ては、優にマイマイの支配地を凌ぐものがあつた。越中の下新川郡、有名なる黒部川の下流は、デエロ領域の西南端である。それから北に進んで越後は新發田近傍の小地區を除いて約全部、それから信州は五分の四以上、僅かに天龍の川下のみが、南の方から來たかと思ふマイマイに侵蝕せられて居る。甲州は單に其東北の一隅に、北武藏又は上野からの影響とおぼしきものが認められる外、大體にデエロの領分で無いが、之に反して碓氷嶺東の地は、一圓に此系統の中に入つて來る。但しこれが信州方面からの傳播であるか、或は別に又東北より進み出でたものが、偶然に再び玆に落合つたのかは問題であつて、自分はむしろ後の場合であらうと思つて居る。其理由は稍簡單に失するけれども、奧羽地方は最上川水域の略全部、阿武隈川水域の大部分、及び會津の盆地が共に純なるダイロウの形を保持し、又關東に入つても、是と地續きなる栃木縣北半だけは同樣であるのに、それが南して常陸に臨み、西して群馬縣の平野に降るに及んで、そこに最も顯著なる邊境現象、すなわち變化と複合と數語併存との、色々の事例が見出されるからである。

[やぶちゃん注:「源順君」「みなもとのしたごふ(みなもとのしたごう)」は前出の「倭名類聚鈔」の作者。「君」づけする辺り、柳田先生、結構、お茶目!
 
「デエロ」改訂版では「デェロ」と拗音表記となっている。

「接壌」「せつじやう(せつじょう)。ある地域が他の地域に接近していること。]

 併しこの問題は今はまだ容易に論斷を下し得ない。それよりも以前に知らなければなら ぬことは、方言領域の擴張退縮とが、如何なる力によつて行はれたかといふことゝ、其力は主としてどの方面から働きかけられて居たかといふこと、別の語でいふならば、言語も他の種々の文化と同じやうに、新たに流れて出る源頭の如きものがあったか否かである。日本は此問題を調べて見る爲に、實は比較的都合のよい國であつた。他の大陸の接壌諸國に比べると、外から入つて來た感化が尋ね易いのみならず、事實又其感化が甚だしく少なかつた。中世以後の新しい單語なども、其入口は何れの港であらうとも、一應は先づ京都人の選擇を經て居るのである。從うて蝸牛の次々の改稱の如きも、別に地方に獨立の中心は、無かつたものと見るべきであるが、偶然にもこのダイロウまたはデエロの一語のみは、全く中央と交渉無しに、流傳し侵略したかの如く見える。此點が自分の最初の疑惑であつた。ところが仔細に觀察をして見ると、玆にも一種の邊境現象、即ち大規模なる複合作用が、新たに採用せられる語辭の上に行はれて居たのであつた。それを此場合にあてはめて言へば、デンデンムシは東部の諸國に進出するにつれて、やがてダイロウとなるべき傾向を具へて居たのであつた。從うてこの東西二つの方言領域は、たとへば羅馬が二つの帝國となり、又は足利氏が京鎌倉に立ち分れたやうに、其全體の外に立つものから見れば、依然として合同の一新勢力であつた。是が恐らくは此二つの方言の間に、相互の交渉が殆ど無かつたこと、及びその割れ目の中間に、以前の方言の二種三種が、永く存立し得た理由では無かつたかと思ふ。

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