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2015/02/26

柳田國男 蝸牛考 初版(3) 方言出現の遲速

       方言出現の遲速

 

 右に列擧した四つの事實が、幸ひに是からの立證によつて愈々確認せられるものとすれば、次には個々の言葉の年齡といふものを、考へてみるのが順序である。今までの學者には、兎角古い語と正しい語と雅なる語と、この三つを混同しようとする癖があつたやうだが、正しいといふ語は要するに聽く人に誤解をさせぬ語であらうから、土地と時代とによつて變つて居たのみならず、前にも述べたような邊境現象に於ては、同時同處にさへも幾つかの正しき語はあつた筈である。さういふ中から是が一番上品だと認めて、人も我も出來るだけ多く使はうとしたのが、本當は雅語といふべきもので、從うてそれにも追々の推移はあるべきであつたが、我々の間に於てはもう少し狹い意味に、即ち京都に於て歌を詠み文章を書く人の使はうとする言葉のみを、さういふ名に呼んで尊重していたのであつた。文學は由來保守的なもので、又屢々異常の感動を復活させる爲に、わざと日用の語を避けて、傳統ある古語を專用しようとした傾きはあつたが、それすらも尚我々の言語藝術として存立するには、到底三馬が浮世風呂に出て來る、鴨子・鳬子の如くなるを得なかったのである。ましてや自由の選擇が許さるゝ部面に於ては、たとへば大宮の内の言葉とても、やはり方言の普通の法則に從うて、移り改まらずには居なかつた。其選擇が大體に於て、古語をふり棄てゝ新語を迎へ入るゝに在つたことは、我々から見れば當然としか思はれないが、離れた土地に居て遠くから之を眺めた人々には、たまたま各自の選擇と同じで無かつた故に、是をさへ文學が古語を雅語とする例と等しなみに見ようとしたのである。異稱の發見にせよ、音韻の分化にせよ、新たなる生活の必要があれはこそ、新語は世の中に現れて出たのである。人心のをのづから之に向ふのは、必ずしも無用の物ずきと評することが出來ない。私たちの想像では、個々の物いひにもやはり磨滅消耗があり、又一種の使用期限の如きものがあつた。古語は古いといふことそれ自身が、次第に役に立たなくなつて行く原因であつたかと思はれる。

[やぶちゃん注:「文學は由來保守的なもので、又屢々異常の感動を復活させる爲に、わざと日用の語を避けて、傳統ある古語を專用しようとした傾きはあつたが、それすらも尚我々の言語藝術として存立するには、到底三馬が浮世風呂に出て來る、鴨子・鳬子の如くなるを得なかったのである。」の箇所は改訂版では、「文學は由來保守的なもので、またしばしば異常の感動を復活させる爲に、わざと日用の語を避けて、傳統ある古語を專用しようとした傾きはあつたが、それすらも尚我々の言語藝術として成り立ちがたかつたことは、かの三馬が「浮世風呂」に出て來る鴨子・鳬子の歌の、馬鹿げているのを見てもよくわかる。」と書き換えられてある。この「鴨子・鳬子の歌」は「浮世風呂」の中で女風呂に入っている、恐ろしく極端な本居宣長信仰・国学崇拝の復古保守派の和歌文学愛好家の二女性、鴨子(かもこ)さんと鳬子(けりこ)さんの歌物語談義を指す。この女性たちは「宇津保物語」や「源氏物語」を読むにもまずは本文校訂から始めなければ気が済まないというガチガチの狂信者で、無論、歌語の常套助辞「かも」「けり」を皮肉にパロったものである。本居宣長記念館公式サイト内の「かも子とけり子」及び「ある午後の女湯」をお読みになるのが手っ取り早い。

「其選擇が大體に於て、古語をふり棄てゝ新語を迎へ入るゝに在つたことは、我々から見れば當然としか思はれないが、離れた土地に居て遠くから之を眺めた人々には、たまたま各自の選擇と同じで無かつた故に、是をさへ文學が古語を雅語とする例と等しなみに見ようとしたのである。」の箇所は改訂版では、「其選擇が大體に於て、古語をふり棄てゝ新語を迎へ入るゝに在つたことは、我々から見れば當然としか思はれないが、離れた土地に居て遠くから之を眺めた人々には、たまたま各自の選擇と同じで無かつた故に、是をさへ文學が古語を雅語とする例と等しなみに、重んじまた手本にしようとしたのである。都府と田舍とを問はず、言葉は一樣にもう昔のままでない。」と書き換えられてある。]

 この第五の事實を確かめる爲にも、蝸牛の如き方言量の豐富なる語に就いて、特に其邊境現象に注意して見る必要があるのである。都府は見樣によつては亦一個の方言境堺であつた。幾つか異なつたる方言を知る者が、來つて相隣して不斷の交通をして居る。從うて市民の方言は、實は數語併存の例であつた。勿論其中にも選擇の順位はあつて、東京の蝸牛は現在はマイマイツブロ、京都ではデンデンムシが標準語の如く見られて居るが、雙方の兒童は大抵は此二つを共に知るのみならず、其上に更にカタツムリといふ今一つの語が有ることをさへ承知して居るのである。是は近頃の小學校の本に、デンデンムシムシカタツムリといふ文字がある爲であつたと、考へて居る人も少なくないが、假にさうであつても、結果には變りは無い。自分は播磨國の中央部、瀨戸内海の岸から五里ほど入つた在所に、十二三の頃まで育つた者であるが、やはりいつ覺えたか確かにこの三つの語を知つて居た。五十年前の教科書の中にも、やはり蝸牛の一節はあつたが、是は教員がクワギユウと讀ませて居た。カタツムリが古語であつて確かに倭名類聚鈔に出て居ようとも、そんなことは子供たちが知らう筈が無い。ましてや他の歌文にそれが用ゐられて居たかどうか。今だつてまだ搜して見なければよくは分らない。從うて是を記録の影響と見ることは困難で、つまりは他の二つは使用が頻繁で無く、選擇は主としてデンデンムシに在つたといふだけで、三つの方言は共に我々の中に傳はつて居たのである。

[やぶちゃん注:「東京の蝸牛は現在はマイマイツブロ、京都ではデンデンムシが標準語の如く見られて居る」因みに私は昭和三二(一九五七)年に生まれて十一まで鎌倉で、その後、中学高校の六年間を富山県高岡市で過ごした後、大学四年間を東京、以後、現在まで生地の鎌倉に戻って三十六年になるが、記憶を遡っても主表現が「カタツムリ」で「デンデンムシ」「マイマイ」は知っていても自律的に使うことは滅多になく(但し、貝類を蒐集する過程で和名としての「~マイマイ」は日常的に使用した)、「マイマイツブロ」に至っては使ったことはおろか、聴いた記憶もない。個人データとして記しておく。

「ましてや他の歌文にそれが用ゐられて居たかどうか」少し調べてみた。まず「万葉集」にはそもそもカタツムリ類が詠まれた形跡がない。

 「梁塵秘抄」中の秀歌とされる同様風の四〇番歌に、

 舞へ舞へ 蝸牛(かたつぶり)

 舞はぬものならば

 馬(むま)の子や牛の子に蹴(くゑ)させてん

 踏み破(わ)らせてん

 まことに美しく舞(ま)うたらば

 華(はな)の園(その)まで遊ばせん

 があるのは良く知られ、和歌では、恐らくはこれをインスパイアした寂蓮法師の(「寂蓮法師集」)、

    左大臣家十題百首内

 牛の子に踏まるな庭のかたつぶり角のあるとて身をば賴みそ

がある。これは建久二(一一九一)年閏十一月に藤原良経邸で披講された十題百首の「虫」を題とする十首の内の一首と考えられるものである。柳田の言うように、少なくとも「かたつむり」の語は、古典の和歌にはあまり使われていないと言えるように思われる。

「自分は播磨國の中央部、瀨戸内海の岸から五里ほど入つた在所に、十二三の頃まで育つた」柳田國男(明治八(一八七五)年~昭和三七(一九六二)年)は現在の兵庫県南西部、旧中播磨の神崎郡福崎町の生まれであった。父は医師の六男であった。十二歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られて茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現在の利根町)に移り住んだ(以上はウィキの「柳田國男」に拠る)。]

 さういふ地方は尋ねたらまだ他にもあつたことゝ思ふ。そこで問題は右の三つの名詞が、如何なる順序を追うて此世には現れたかといふことである。其中でもカタツムリだけは、既に記錄の徴證もあることだから、それが一番の兄であることは、もう疑ひが無いといふ人もあらうが、是とても京都だけの話である。他の二つが更にそれよりも前から、離れた地方に於て知られて居なかつたといふことは、今日は人が只さう思つて居るといふだけである。自分も勿論この三つの語が、相生であつたらうとは考へて居ない。併しこの國を一體として、方言發生の先後を決する爲には、斯んな一部の文書史料などは、實は何の根據にもならぬのである。日本では近頃無暗に國語を外國語と比定して、是によつて上代文化の觸接を説き、あはよくば種族の親近までを、推斷しようといふ道樂が流行して居るが、それにはまづ京都以外、二三の語集以前の日本語が、やはり其通りであつたことを、立證してかゝらねばならなかつたのである。從來行はれて居た普通の方法では、古い世の事は知れない方が本當である。是を確かめるには又別の手段を講じなければならなかつた。さうして私は其手段はあると信じて居るのである。

 一應の觀測は、現在主として用ゐられて居るものが、稀にしか用ゐられず、若しくは既に全く忘れられて居るものよりは、新らしいと考へさせることは前にも述べた。しかしそれは唯一地限りの現象であつて、現にデンデンムシとマイマイ又はマイマイツブロの如きも、關西に於ては前者が主として行はれ、東國はすべて後の者を用語にして居る上に、他には又其何れでも無いものゝみを、知り且つ用ゐて居る地方がある。だから最初に先づ分布の實狀を考察して見る必要があるわけである。私たちは必ずしも人が新語に赴くといふ傾向を高調せずとも、單に客観的なる地方事實の比較のみに由つて、個々の方言の何時頃から、又は少なくとも一は他の一よりも後れて、此世に現れて出たことを見極め得るものと思つて居る。さういふ實驗を段々に積み重ねて行くことが、曾ては自然史の成立であつたと同じく、將來は又國語の歷史を明かにする道であらうと思つて居る。此判別の目安に供すべき尺度は、他にもまだ幾つかあるだらうが、さし當り自分の標準としたものは二つある。其一つは方言領域の集結と分散、他の一つは方言生成の理由が、今尚現存し又は比較的に明瞭であるか否かである。この第二の目安は、もつと科學的な言ひ方をすれば、或は方言自體の構造素質などゝ言ひ得るかも知れないが、さういふ表現の巧拙よりも、私は寧ろ事實を詳かにして置く方に力を費した。さうして之に據つて、略デンデンムシのマイマイよりも後に生れたことを確かめ、且つカタツムリが更に其二つよりも前であつて、しかもまだ他の幾つかの「上代の新語」を、兄として戴いて居たらしきことを知つたのである。

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