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2015/02/25

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅴ)

        二

 

十月十八日、奈良ホテルにて  

 けふは雨だ。一日中、雨の荒池(あらいけ)をながめながら、折口博士の「古代研究」などを讀んでゐた。

 そのなかに人妻となつて子を生んだ葛(くず)の葉(は)といふ狐の話をとり上げられた一篇があつて、そこにかういふ挿話が語られてゐる。或る秋の日、その葛の葉が童子をあやしながら大好きな亂菊の花の咲きみだれてゐるのに見とれてゐるうちに、ふいと本性に立ち返つて、狐の顏になる。それに童子が氣がつき急にこはがつて泣き出すと、その狐はそれつきり姿を消してしまふ、といふことになるのだが、その亂菊の花に見入つてゐるその狐のうつとりとした顏つきが、何んとも云へず美しくおもへた。それもほんの一とほりの美しさなんぞではなくて、何かその奧ぶかくに、もつともつと思ひがけないものを潜めてゐるやうにさへ思はれてならなかつた。

 僕も、その狐のやつに化かされ出してゐるのでないといいが……

[やぶちゃん注:「一」の最後が十月十四日であるが、個人サイト「タツノオトシゴ」の「年譜」によれば、十月十五日には京都に出かけ、円山公園で「いもぼう」を食べ、出町柳の古本屋で掘り出し物を探し、十六日は小説構想のために一日奈良ホテルに籠っている。翌十七日には再び京都へ出てて、高瀬川に沿って歩きながら寺町通りへ向かい、古本屋を二時間ほど渉猟の末、求めていた「今昔物語集」入手したが、その帰途、京都駅で乗り換えた電車を誤り(橿原行)、郡山まで行ってしまったとある。
 
『折口博士の「古代研究」』これは折口信夫の「古代研究 民俗学篇第一」で、昭和四(一九二九)年四月十日大岡山書店刊行。ここで辰雄の語っているのはその中の「信太妻の話」である(この論文自体の初出は大正一三(一九二四)年四・六・七月の『三田評論』)。辰雄がイメージを飛ばしたシークエンスはその第一章に出る。やや長いが冒頭第一章総てを引用しておく。底本は中公文庫版折口信夫全集第二巻(昭和五〇(一九七五)年刊)の正字正仮名版を用いた。踊り字「〱」「〲」は正字化した。段落冒頭の一字下げのないのは底本のママである。なお、この信太は和泉国和泉郡、現在の大阪府和泉市の信太山丘陵の北部一帯に広がっていたと考えられており、同市葛の葉町には本伝説所縁の信太森葛葉稲荷神社が鎮座する。

所在地 

   《引用開始》

今から二十年も前、特に靑年らしい感傷に耽りがちであつた當時、私の通つて居た學校が、靖國神社の近くにあつた。それで招魂祭にはよく、時間の間を見ては、行き行きしたものだ。今もあるやうに、其頃からあの馬場の北側には、猿芝居がかゝつてゐた。ある時這入つて見ると「葛の葉の子別れ」といふのをしてゐる。猿廻しが大した節廻しもなく、さうした場面の抒情的な地の文を謠ふに連れて、葛の葉狐に扮した猿が、右顧左眄の身ぶりをする。

「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」何でもさういつた文句だつたと思ふ。猿曳き特有のあの陰慘な聲が、若い感傷を誘うたことを、いまだに覺えてゐる。平野の中に横たはつてゐる丘陵の信太山(シノダヤマ)。其を見馴れてゐる私どもにとつては、山又山の地方に流傳すれば、かうした妥當性も生じるものだといふ事が、始めて悟れた。個人の經驗から言つても、それ以來、信太妻傳説の背景が、二樣の妥當性の重ね寫眞になつて來たことは事實である。今人の信太妻に關した知識の全内容になつてゐるのは、竹田出雲の「蘆屋道滿大内鑑」といふ淨瑠璃の中程の部分なのである。

戀人を死なして亂心した安倍安名が、正氣に還つて來たのは、信太(シノダ)の森である。狩り出された古狐が逃げて來る。安名が救うてやつた。亡き戀人の妹葛の葉姫といふのが來て、二人ながら幸福感に浸つてゐると、石川惡右衞門といふのが現れて、姫を奪ふ。安名失望の極、腹を切らうとすると、先の狐が葛の葉姫に化けて來て留める。安名は都へも歸られない身の上とて、攝津國安倍野といふ村へ行つて、夫婦暮しをした。その内子供が生れて、五つ位になるまで何事もない。子供の名は「童子丸(ドウジマル)」と云うた。葛の葉姫の親「信太莊司」は、安名の居處が知れたので實の葛の葉を連れて、おしかけ嫁に來る。來て見ると、安名は留守で、自分の娘に似た女が布を織つてゐる。安名が會うて見て、話を聞くと、訣らぬ事だらけである。今の女房になつてゐるのが、いかにも怪しい。さう言ふ話を聞いた狐葛の葉は、障子に歌を書き置いて、逃げて了ふ。名高い歌で、訣つた樣な訣らぬ樣な

 戀しくば、たづね來て見よ。和泉なる信太の森の うらみ葛の葉

なんだか弖爾波のあはぬ、よく世間にある狐の筆蹟とひとつで、如何にも狐らしい歌である。其後、あまりに童子丸が慕ふので、信太の森へ安名が連れてゆくと、葛の葉が出て來て、其子に姿を見せるといふ筋である。

狐子別れは、近松の「百合若大臣野守鏡」を模寫したとせられてゐるが、近松こそ却つて、信太妻の説經あたりの影響を受けたと思ふ。近松の影響と言へば「三十三間堂棟木由來」などが、それであらう。出雲の外にも、此すこし前に紀海音が同じ題材を扱つて「信太森女占(ヲンナウラカタ)」といふ淨瑠璃を拵へて居る。此方は、さう大した影響はなかつた樣である。

信太妻傳説は「大内鑑」が出ると共に、ぴつたり固定して、それ以後語られる話は、傳説の戲曲化せられた大内鑑を基礎にしてゐるのである。其以外に、違つた形で傳へられてゐた信太妻傳説の古い形は、皆一つの異傳に繰り込まれることになる。言ふまでもなく、傳説の流動性の豐かなことは、少しもぢつとして居らず、時を經てだんだん伸びて行く。しかも何處か似よりの話は、其似た點からとり込まれる。併合は自由自在にして行くが、自分たちの興味に關係のないものは、何時かふり落してしまふといつた風にして、多趣多樣に變化して行く。

さう言ふ風に流動して行つた傳説が、ある時にある脚色を取り入れて、戲曲なり小説なりが纏まると、其が其傳説の定本と考へられることになる。また、世間の人の其傳説に關する知識も限界をつけられたことになる。其作物が世に行はれゝば行はれるだけ、其勢力が傳説を規定することになつて來る。長い日本の小説史を顧ると、傳説を固定させた創作が、だんだんくづされて傳説化していつた事實は、ざらにあることだ。

大内鑑の今一つ前の創作物にあたつて見ると、角太夫節の正本に、其がある。表題は「信太妻(シノダヅマ)」である。併しこれにも、尚今一つ前型があるので、その正本はどこにあるか訣らないが、やはり同じ名の「信太妻」といふ説經節の正本があつたやうである。「信太妻」の名義は信太にゐる妻、或は信太から來た妻、どちらとも考へられよう。角太夫の方の筋を拔いて話すと、大内鑑の樣に、信太の莊司などは出て來ず、破局の導因が極めて自然で、傳説其儘の樣な形になつてゐる。

或日、葛の葉が緣側に立つて庭を見てゐると、ちようど秋のことで、菊の花が咲いてゐる。其は、狐の非常に好きな亂菊といふ花である。見てゐるうちに、自然と狐の本性が現れて、顏が狐になつてしまつた。そばに寢てゐた童子(ドウジ)が眼を覺まして、お母さんが狐になつたと怖がつて騷ぐので、葛の葉は障子に「戀しくば」の歌を書いて、去つてしまふ。子供が慕ふので、安名が後を慕うて行くと、葛の葉が姿を見せたといふ。此邊は大體同じことであるが、その前後は、餘程變つてゐる。海音・出雲が角太夫節を作り易へた、といつた樣に聞えたかも知れないが、實は説經節の影響が直接になければならぬはずだ。

内容は數次の變化を經てゐるけれど、説經節では其時々の主な語り物を「五説經」と唱へて、五つを勘定してゐる。いつも信太妻が這入つてゐる處から見ると、此淨瑠璃は説經としても、重要なものであつたに違ひない。それでは、説經節以前が、傳説の世界に入るものと見て宜しいだらうか。一體名高い説經節は、恐らく新古の二種の正本のあつたものと考へる。古曲がもてはやされた處から、多少複雜な脚色をそへて世に出たのが、刊本になつた説經正本であらう。

   《引用終了》

老婆心乍ら、この子供(幼名自体を「童子丸」とする)こそが後の陰陽師のチャンピオン安倍晴明で、後に父の汚名(冤罪による失脚という設定が別伝承にある)を晴らして安倍家再興を果たすというストーリーが続く。以下「信太妻の話」は伝承起源を民俗学的に遡って自在に沖繩にまで飛んでゆく、かの独特の折口節が続くのであるが、第二章の最後で折口は『子供の無邪氣な驚愕が、慈母の破滅を導くと言ふ形の方が、古くて作意を交へないものに違ひない』と述べており、まさにここでこそ辰雄は、その無邪気な童子の網膜となって正しく狐の母の顔を見ていることに気づきたい。そうして同時にそれが、まさに『慈母の破滅を導く』という致命的な安定世界の崩壊を導くことに強い文学的興味を惹起させられている点も含めて、である。]

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