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2015/03/31

耳嚢 巻之十 獸其誠意有事

 獸其誠意有事

 

 大御番(おほごばん)にて小林七郎右衞門と云(いふ)人、大坂より酉八月かへりしが、予がしれる人に語りしは、七郎右衞門家來□□儀、年十八九の者にて、驛路(うまやぢ)にくたびれて和田峠を馬にて下りしに、右馬子は歳頃五十餘の老人なりしが、頻りに馬上の男を見て落涙に及(および)し故、不審して其譯尋(たづね)しに、始めはいなみしが切(せち)に尋ければ、若き御方(おかた)のかく不審して尋ねたまふを、いはざらんもいかゞ成り、我等は信州何村のものにて、一人の悴有(あり)しが、至(いたつ)て孝心にて百姓業(のわざ)をも精出し、我(われ)年老いぬれば、馬を追ふて駄賃とる事彼(かの)者壹人(ひとり)にて精を出し我々をはごくみしが、當春傷寒(しやうかん)を煩ひ墓(はか)なくなりしに、右のうれい難忍(しのびがた)けれども、駄賃の稼(かせぎ)も不致(いたさざ)れば露命も繫(つなぎ)がたきゆゑ、今日(けふ)も往還稼(かせぎ)に出侍りぬ、旦那の面(をも)ざし年格好、甚(はなはだ)別れし悴に似させたまふ故、思はず歎きし由申(まうし)ければ、誠(まこと)哀(あはれ)なる事なるとて慰めければ、しやくりあげて涙にむせびけるが、彼(かの)馬に付(つき)奇談有(あり)といひける故、其始末聞(きき)しに、右馬は悴存生(ぞんしやう)の内も常に引(ひき)候て稼(かせぎ)しが、いたつていたはり、貧家ながらも心程(こころほど)には養ひし由。しかるに右馬、息子の相果(あひはて)し以後七日の日に當り、村内知音(ちいん)親類等集りて澁茶抔振舞(ふるまひ)しに、彼(かの)馬いづ地へ行けん、厩(うまや)に見へざれば、如何いたしけるやと尋しに、右馬は山のあたりにて見しといふ者ありし故、右悴を葬りしも村中葬地の山なれば、彼(かの)山に行(いき)て見しに、馬は見えざれども、右塚の前に馬蹄の跡夥敷(おびただしく)有(あり)ければ、爰へや來りしと立歸(たちかへ)りしに、馬はいつの間にや歸り居(をり)ぬ。夫(それ)より度々此馬厩に居(をら)ざる事多ければ、心を付(つけ)右馬の立出(たちいで)し跡を付(つけ)、彼(かの)葬地に至り見るに、右馬(うま)葬所(さうしよ)に向ひ膝をつき、又は蹄(ひづめ)にて土をかき踊狂(おどりくる)ひけるが、古主(こしゆ)の歿しけるを歎きての事にや、生類誠信(しゃうるいがせいしん)、誠に哀(あはれ)なる事にて、右件(くだん)の記念(かたみ)、我等いたはりぬと彼(かの)老人かたり、共(とも)に涙にむせびしとかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。異類情話譚。

・「大御番」既注

・「小林七郎右衞門」底本の鈴木氏注に、『正友。寛政九年(二十六歳)家督。五百石』とある。

・「酉」文化一〇(一八一三)年癸酉(みずのととり)。「卷之十」の記載の推定下限は文化十一年六月。

・「驛路(うまやぢ)」途中に宿場のある街道。「えきぢ」と読んでもよいのだが、どうもこの方が好みである。万葉時代は「はゆまぢ」とも読んだ。

・「和田峠」現在の長野県小県郡長和町と諏訪郡下諏訪町の間にある旧中山道の峠。最大標高千五百三十一メートルで中山道最大の難所とされた。しかし。大番の警護は江戸城以外では二条城と大坂城で、彼の家来が帰還に中山道を使うとは思われない。何らかの私事によって敢えて中山道を通らねばならなったということか?

・「傷寒」腸チフスなどの高熱を伴う急性疾患。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 獣にもその誠意これあるという事

 

 大御番(おおごばん)にて小林七郎右衛門と申す御仁、大坂より文化十年酉の八月に江戸へ無事帰還なされたが、その小林殿が私の知人に語ったという話で御座る。

 この七郎右衞門殿の御家来衆の中に××と申す者、未だ十八、九の若者にて、主人の後に一人、よんどころなき用事のあって、中山道を廻って江戸表へと向かったと申す。

 ところが、宿駅を経るに従って疲労困憊し、中山道一の難所とさうる和田峠の下りにては、馬を雇って下ってゆくことと相い成ったと申す。

 この折りの馬子(まご)は、歳頃これ、五十あまりの老人であったが、この男、しきりに馬上のその家来が若者の顔を見ては、これ、涙目になって鼻をすすっておったによって、さすがに不審に思い、涙の理由(わけ)を訊ねたところが、始めは、

「……いえ……その……何でもごぜえやせん。……」

と口ごもっておったものの、重ねて切(せち)に質いたところ、

「……若きお方の……そのように訝しんでお訊ねにならるるに……黙っておるというんもこれ如何なものかと存じますれば……我らはこれ、信州〇〇村のものにてごぜえやす。……つい先だってまで一人の伜のごぜえやしたが、これがまあ、至って親孝行な子(こぉ)でごぜえやして……百姓の業(わざ)にも精出し、我ら、かくも年老いておりやすによって、野良仕事の合間にもこれ、こん馬を使(つこ)うては、人や荷を運んで駄賃をとるを副業と成し……これ実に、その伜一人が精出して、我らを養のうてくれやした……が……この伜……今年の春……傷寒(しょうかん)を煩い……あっという間に……はかのぅなってしもうたんで。……

……その愁いもこれ忍びがたけれども……ささやかなる駄賃の稼ぎでも致さねば、これ、露命も繋ぎがたければ……今日(きょう)も、こうして、老体に鞭打っては、街道往還の稼ぎに出ておると申すわけにてごぜえやす。……

……ところが……その……旦那さまの……面(おも)ざし……年格好……これ、まっこと! 憚りながら……そのぅ……死に別れましたる、その伜にはなはだ似ていなさるれば……これ……思はず……我ら……思いの募りまして……かくも恥ずかしくも……歎きの込み上げましたによって。へぇ。……」

と、申したによって、若武者も、

「……そ、それは……まっこと……哀れなることじゃの。……」

と、青侍(あおざむらい)なれば、これにどう応じてよいものやら分からず、まず慰めとも言えぬ慰めを致いて御座った。

 それでも、そうしたその若者の純なる心が逆に老人の胸を打ったものか、はたまた、若者の声もまた、かの亡き伜の肉声の如(ごと)聴こえたものか、老人は、その場に立ち止ってしまうと、しきりにしゃくりあげては、涙に噎(むせ)んで御座った。

 さればその下りの峠道の途中にて、路端に一休み致すことと致いた。

 そこで煙草なんどをも与えたところ、亡き伜と一緒におるような気持ちにでもなったものか、しばらくして落ち着きを取り戻し、次のような話を、し始めた。

「……お武家さまの跨っておられた、その馬……これについて、ちょっとした奇談のこれごぜえやす。……」

と申したによって、

「――その話――これ、是非、お聞かせ願いとう存ずる。」

と慫慂致いたところ、老人が語り始めた。……

 

……かの馬は伜が元気にしておりました頃より、常に引き廻しては稼いでごぜえやした馬で、伜、これ、いとぅいたわっておりやして、貧乏百姓でごぜえやすが、出来得る限りの心遣いはなして、これ、養のうておったんでごぜえやす。……さても、その馬のことでごぜえやす。……息子が相い果てましてより初七日(しょなぬか)のこと、村内の知音(ちいん)や親類など大勢集まりやして、何もなければ、渋茶なんど振る舞(も)うて法要の代わりと致いてごぜえやしたが……ふと気がつくと、かの馬、一体、何処へ行ってしもうたもんやら、厩(うまや)を覗いてもおらねば、思わず、座の連中に、

「――馬のどこへ行ったんか、知らんかのぅ……」

と声掛けしてみたところ、中の一人が、

「あん馬なら、さっきここへ参る折り、山の辺りで見かけたで。」

と応えた者のあったによって、かの伜を葬ったところもこれ、村内(むらうち)の埋葬場(まいそうば)の山でごぜえやしたで、それから、かの山へと行って見てみました。……

……もう、これ、馬は見えませなんだが、かの倅の土饅頭の前には――これ――馬蹄の跡は夥しゅう――附いてごぜえやした。……

……されば、

「……やっぱり! ここへと参ったんであったか!」

と、急いで家へたち帰ってみましたところが――馬は――いつの間にやら――厩の中へ帰っておりやした。……

……しかし、それより、これたびたび、この馬、厩におらぬことの、これ多なってごぜえやしたによって、よぅ注意して、かの馬がこっそりたち出でた、その後をつけてみたんでごぜえやす。……

……ほしたら……かの馬……かの倅のが土饅頭の前へと一直線に走ったかと思うと、伜が塚に向かい、

――まるで礼拝でも致すように

――前足の膝を突き!

また、

――まるで何かに悲慟悲憤致いてでもおるかの如(ごと)

――後ろ足の蹄(ひづめ)にて!

「ガッツ! ガッツ!」

――と!

――土を掻く!

そうしてこれ、

――あたかも悲しみのあまり気の違(ちご)うてしまった者にも似て

――踊り狂うて!

おったので……ごぜえやす……

……昔の主人の亡くなったを歎いてのことか……ともかくも――畜生も生類(しょうるい)――生類なれば誠実の心あり――これ、まっこと、哀れなることにて……ごぜえやした……

……されば……件(くだん)の馬……これ……伜が記念(かたみ)と致いて……我ら、我らなりに……労わっておりやす…………

 

 そう老人の語り終えると、かの若武者もこれ、思わず涙に噎んだ――との話にて御座ったと申す。

耳嚢 巻之十 桂川家由緒の事

 桂川家由緒の事

 

 御醫師の桂川甫周(かつらがはほしう)は、外科(げか)なり。當時の甫周祖父の代、御當家へも召出し由。當時甫周弟子にて藩中を勤(つとめ)、當時甫周かたに修行致居(いたしをり)候嵐山甫隆(あらしやまほりゆう)といへるは、則(すなはち)甫秀先祖の師匠にて、甫周先祖森島を名乘(なのり)、右甫隆先祖の弟子にてありしが、師家は衰(おとろへ)候て、甫周家は段々高運にて御當家へも召出(めしいださ)れしが、師匠嵐山の高恩を請(うけ)し故、嵐山の下を流るゝといふ心にて桂川と名乘候由。依(より)て同人紋所は ∴▲ 如斯(かくのごとく)にて、 ▲ は森の由、 ∴ は島の由、是を定紋(ぢやうもん)に付(つけ)候由、甫周物語りなり。

[やぶちゃん字注:「∴▲」の箇所は底本では右上に「∴」が左下に「▲」が配されてある。但し、上付き・下付きのような有意に小さなものではないので、ここでは敢えてかく表示した。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:医事関連で極めて軽くは連関すると言える。「桂川」に「嵐山」で嘘っぽく感じる向きもあろう(私も初読時、そうであった)が、これ、メインの叙述は事実である。以下の私の注を参照されたい。ここに記されたような桂川家の家紋は捜し得なかった。識者の御教授を乞う。

・「外科」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『外料』で「ぐわいりやう(がいりょう)」、外科と同義であるが、今までの「耳嚢」の記載を見る限りでは、私は底本は「外料」の誤写であるように思う。

・「桂川甫周」(宝暦元(一七五一)年~文化六(一八〇九)年六月二十一日)は医師で蘭学者。桂川家第四代当主。名は国瑞(くにあきら)、甫周は通称。月池・公鑑・無碍庵などの号を用い、字は公鑑。弟に、蘭学者で戯作者、平賀源内の門人でもあった森島中良がいる。以下、参照したウィキの「桂川甫周」によれば、桂川家は、第六代将軍徳川家宣の侍医を務めた桂川甫筑(ほちく)以来(甫周は四代であるが、本文の「甫周祖父」は甫筑のことである。後注参照)、代々将軍家に仕えた幕府奥医師で、特に外科の最高の地位である法眼を務め、蘭学書を自由に読むことが許されていた。『桂川甫三は、前野良沢・杉田玄白と友人であり、解体新書は甫三の推挙により将軍に内献されている』。明和八(一七七一)年二十一歳でオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」(「解体新書」)の翻訳に参加、安永三(一七七四)年の刊行に至るまで続けた。 安永五(一七七六)年には、『オランダ商館長の江戸参府に随行したスウェーデンの医学者であるカール・ツンベルクから中川淳庵とともに外科術を学び、ツンベルクの著した『日本紀行』により甫周の名はとともに海外にも知られることとなる』。天明四(一七八四)年、三十四歳の時「万国図説」を著し、『教育者としても優れ、幕府が設立した医学舘の教官として任じられた他』、享和二(一八〇二)年には「顕微鏡用法」を著し、『顕微鏡を医学利用した初めての日本人として知られるとともに、その使用法の教授を将軍徳川家斉等に行い普及に努めた。また、オランダ商館長から贈られた蝋製の人頭模型を基に、日本初の木造人頭模型の作成を指示したなどの功績が有る』。寛政四(一七九二)年、『ロシアから伊勢国の漂流民である大黒屋光太夫、磯吉が送還され』、翌年、『将軍家斉は吹上御所において光太夫らを召し出して謁見をした。「かの国(ロシア)では日本のことを知っているか」との質問に光太夫は「いろいろな事をよく知っています。……日本人としては、桂川甫周様、中川淳庵様という方の名前を聞きました。日本の事を書いた書物の中に載っているとの』ことです」と答えたという。この時の書記役はまさに甫周自身で、その問答は「漂民御覧記」として彼によって纏められている。『のちに光太夫を訪ね詳しい話を聞き取り』、「北槎聞略」を編んで将軍に献上している。他に「新製地毬萬國圖説」「地球全図」「魯西亜志」などの外国地理に関する訳書もあり、『また、江戸時代の代表的な通人である十八大通の1人に名を連ねている。ただ一方で、甫周は才人にありがちな、やや狷介な側面もあったらしい。甫周が幼い頃教えを受けた角田青渓の子で、一時は同居し兄弟のように育った経世家・海保青陵は、甫周の才能にはとても敵わないと高く評価しつつも、才のない人とは話すことが出来ない人、とも評している』とある。因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、彼が亡くなってちょうど五年目が経っている。なお、同ウィキには、桂川家に於いて「甫周」を名乗った者は二人いて、この四代目以外に第七代目もかく名乗っており、また五代目の桂川甫筑国宝(ほちく くにとみ)と称する者も一時期、「甫周」を名乗った記録があるとあるが、時代的にも底本の鈴木氏や岩波の長谷川氏注からも、この甫周は四代目であることは言を俟たない。

・「甫周祖父」桂川甫筑(寛文元(一六六一)年~延享四(一七四七)年)。医家桂川家の祖。大和生。名は邦教(くにみち)、字(あざな)は友之、号は興藪。京都で嵐山甫安に師事し、さらに長崎でオランダ人に学んだ。京都に移る際、師甫安の命で森島姓を桂川に改姓した。元禄九(一六九六)年甲府の徳川綱豊(家光の孫で後の第六代将軍家宣)に仕え、宝永五(一七〇八)年に幕府の奥医師となった(家宣の将軍就任は宝永六(一七〇九)年のことであるが、綱豊は宝永元(一七〇四)年十二月に正式な将軍世嗣と定められて「家宣」と改名、綱吉の養子となって、既に江戸城西の丸に入っていた)、後に法眼(ほうげん)(以上は主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

・「嵐山甫隆」不詳。ここに書いてある通りなら、甫周の祖父甫筑の師であった嵐山甫安の末流ということになる(後注参照)。なお、嵐山甫安(寛永一〇(一六三三)年~元禄六(一六九三)年)は平戸生まれの蘭方医で、初め判田李庵と称し、後に京に出て改名した。平戸松浦(まつら)侯の侍医で長崎出島で蘭医に学び、修業証書を受け,寛文 一二 (一六七二) 年には法橋(ほっきょう)に叙せられている。著書に「蕃国治方類聚」(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

・「則甫秀先祖の師匠にて」記載がおかしい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここ、『則甫周先祖の師匠末流にて』とあって腑に落ちる。ここはバークレー校版で訳した。

・「嵐山の下を流るゝといふ心にて」岩波の長谷川氏注に、『京都西北郊(現西京区)の嵐山とその東を流れる桂川(大井川)に思いを寄せていう』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 桂川家由緒の事

 

 奥医師の桂川甫周(かつらがわほしゅう)は外科医である。

 当今の甫周の祖父である桂川甫筑(ほちく)の代、将軍家へ召し出されたと聞く。

 さても、その当今の甫周の弟子にて、とある藩中に勤め、当今、現に甫周の許にて修行致いておる嵐山甫隆(あらしやまほりゅう)と申す者は、これ則ち、その甫周の先祖たる甫筑の、これ、師匠筋の末流の者なのである。

 そもそも、甫周が先祖甫筑は、元来、「森島」という姓を名乗っており、その時は、この嵐山甫隆の先祖であった嵐山甫安の弟子であったのである。

 ところが、師匠の医家としての家筋はこれ、衰えてしまい、弟子であった甫筑の方は、今の甫周家に至るまで、だんだんに栄達の運気に恵まれ、かくも奥医にまで、これ、登りつめたのであった。

 されど、桂川家にては、この師匠嵐山氏の、山の如き御恩を受けたことなればこそ、

――高雅に聳える嵐山が下を、これ、ただただ平伏して流るる――

という心持ちを以って、これ「桂川」という姓を名乗ったのであると申す。

 しかもさればこそ、桂川甫筑の定めたる同家の紋所はこれ、

 ▲∴

といったような、何とも一風変わったものにて、実はこの、「▲」はこれ「森」を、「∴」はこれ、「島」を表わしておると申す。

 

「……これが、我が桂川家の定紋(じょうもん)の、由緒にて御座る。……」

と、生前の甫周殿の語っておられたを、ふと、思い出して御座ったによって以上、書き残しおくことと致そう。

耳嚢 巻之十 水病又妙法の事

 水病又妙法の事

 

 ひへをいりて粉にいたし、麥こがしの如く砂糖を調(てう)じ用(もちゐ)るに、浮腫の症に宜(よろしき)由。桑原某、年々足腫れて難儀の處、人の教(をしへ)にまかせこれを用ひしに、當年は甚だ少(すくな)き由、桑原かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:浮腫(むくみ)民間治療薬三連発。

・「ひへ」稗。単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科キビ連ヒエ Echinochloa esculenta 。表記は「ひえ」が正しい。

・「麥こがし」大麦を炒って粉に挽いたもの。砂糖を混ぜて水で練って食べたり、菓子の原料にしたりする。はったい粉。香煎(こうせん)。

・「桑原某」不詳。「耳嚢 巻之二 吉比津宮釜鳴の事」の注で示した通り、根岸鎮衛の妻は桑原盛利の娘であるから、これは姻族の一人なのかも知れない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 むくみについての別のまた妙法の事

 

 稗(ひえ)を煎って粉に致し、麦焦がしの如く、砂糖を加えてよく練り、それを患部に塗付すると、これ、浮腫(むくみ)の症状によろしいとのこと。

 桑原某(なにがし)、毎年、足が腫れて難儀を致いて御座ったところ、人が教え呉れたに任せて、これを用いてみたところが、今年ははなはだ、むくみ、これ、少ないと桑原自身の語っておった。

耳嚢 巻之十 白胡瓜の事

 白胡瓜の事

 

 しろき木瓜(きうり)、香のものに致(いたし)、或ひはもみ瓜にして喰(しよく)すれば水病に奇妙の由。然るに白ききうりはあまり作り候ものなき故、甚(はなはだ)もとめがたし。予水病のとき、漸(やうやく)求めて用ひ候事あり。然るに或人曰(いはく)、神奈川邊其外隨分拵へ候所有(ある)由。一體(いつたい)もみうり、香の物にして和らかにて、作にもある由。神奈川邊にては、專ら右を稱し申し候得共(さふらえども)、江戸問(とん)やへ出しては、赤き瓜ほどに不望(のぞまざる)ゆゑ、手前にのみに拵(こしらへ)候由、人のかたりぬ。さもあるべき事也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「水病」=むくみの治療薬として直連関。ウリ目ウリ科キュウリ Cucumis sativus の博物誌。現在の漢方医学でも真っ先にむくみへの効能が記されてある。

・「白胡瓜」岩波の長谷川氏注に、寺島良安の「和漢三才図会」の巻『百に、胡瓜のうち五月に種を蒔き霜時になる白色で丈の短いものがある。これをいうか』とある。ウィキの「キュウリ」には、「馬込半白胡瓜(まごめはんしろきゅうり)」「高井戸節成胡瓜(たかいどふしなりきゅうり)」「加賀太胡瓜(かがふときゅうり)」「聖護院胡瓜(しょうごいんきゅうり)」「毛馬胡瓜(けまきゅうり)」等の白色タイプの胡瓜が載る。以上のなかには明治以降の改良品種が多く含まれるが、それはも総てそれ以前に各地で江戸期から伝統野菜としてあった品種を交配改良したものであるから、ここでいう「白胡瓜」の候補として強ち的外れとは思われないので掲げておくこととする。個人的には幾つかの改良過程の記載を見るに、根岸の言っているのは「馬込半白胡瓜」系の改良種であるように思われる。

 以下、長谷川氏の指摘された「和漢三才図会」の「胡瓜」の項(「卷之百 七」)を全文電子化しておく(本文テクストの底本は一九九八年刊大空社版CD-ROM「和漢三才図会」を用いた。表示法は私の手掛けた「和漢三才図会」水族部の電子テクストのそれに準じた。画像は平凡社東洋文庫版「和漢三才図会 18」(一九九一年刊)のものを用い、原典の白文(原典の一行字数に合致させて改行)及びそこに打たれてある訓点を参考にして私が書き下しものを示した「瓜」は原本では五画目がないが訂した。「青」などの一部の正字でない表字は原文のママである。訓読では大幅に読みと送り仮名を増やしてあるが、読み難くなるだけなので特に指示していない。後に私のオリジナルな注を附しておいた)。

   *

Kiuri

きうり

胡瓜

フウ クワア

 

黄瓜(ハアンクハア)〔唐音〕

 和名曾波宇里

  俗云黄瓜(キウリ)

 

本綱漢張騫使西域得種故名胡瓜隋朝避諱改爲黄瓜

正二月下種三月生苗引蔓葉如冬瓜葉亦有毛四五月

開黄花結瓜圍二三寸長者至尺許青色上有痱※如疣

[やぶちゃん字注:※=(やまいだれ)+中に「畾」。]

子至老則黄赤色其子與菜瓜子同

一種五月種者霜時結瓜白色而短並生熟可食兼蔬蓏

 之用糟醬不及菜瓜

胡瓜〔甘寒有小毒〕清熱水道然不可多食小兒忌食滑中生

 疳蟲不可多用醋〔多食發瘧病及び瘡疥脚氣虛腫百病天行病後不可食之〕

△按胡瓜形似海鼠而圓青帶白色老則黄赤色生和醋

 或鱠中入用甚脆勝於越瓜不宜煮食不爲上饌但謂

 不可多用醋則可斟酌耳

祇園神禁入胡瓜於社地土生人忌食之八幡之鳥肉御

 靈之鮎春日之鹿食則爲被崇理不可推之類亦不少

 蓋祇園社棟神輿以瓜〔音瓜〕之紋爲飾瓜以爲胡瓜切片

 形而忌之乎愚之甚者也瓜紋乃木瓜〔果木之名〕之花形而

 織田信長公幟文也信長再興當社用其紋爲後記耳

 

○やぶちゃんの書き下し文

きうり

胡瓜

フウ クワア

 

黄瓜(ハアンクハア)〔唐音。〕

 和名は曾波宇里(そばうり)。

  俗に云ふ、黄瓜(きうり)

 

「本綱」に、『漢の張騫(ちやうけん)、西域に使ひして得たる種なる故に胡瓜(こくわ)と名づく。隋朝に諱(いみな)を避け、改めて黄瓜(くわうくわ)と爲す。正、二月、種を下し、三月、苗を生じ、蔓を引く。葉は冬瓜(とうくわ)の葉のごとく、亦、毛、有り。四、五月、黄花を開き、瓜(くわ)を結ぶこと、圍(ゐ)、二、三寸、長き者は尺許(ばか)りに至る。青色の上に痱※(いらぼ)有り、疣子(いぼ)のごとし。老するに至りては、則ち黄赤色。其の子(たね)、菜瓜(しろうり)の子(たね)と同じ。』と。

一種、五月に種(う)うる者は霜の時、瓜を結ぶ。白色にして短かし。並びに生・熟、食ふべし。蔬(そ)・蓏(ら)の用を兼(か)ぬ。糟(かすづけ)・醬(ひしほ)、菜瓜(しろうり)に及ばず。

[やぶちゃん字注:※=(やまいだれ)+中に「畾」。]

胡瓜〔甘、寒。小毒有り。〕熱を清し、水道を利す。然れども多く食ふべからず。小兒、食ふを忌む。中(ちう)を滑らかにし、疳の蟲を生(しやう)ず。不可多く醋を用ふべからず〔多く食へば、瘧病(おこり)を及び瘡疥(さうかい)を發す。脚氣(かつけ)・虛腫百病・天行病(はやりやまひ)の後、之を食ふべからず。〕。

△按ずるに、胡瓜、形、海鼠に似て圓く、青に白色を帶ぶ。老いなば則ち黄赤色。生にて醋に和し、或ひは鱠(なます)の中に入れ用ふ。甚だ脆くして越瓜(しろうり)に勝れり。煮食ふに宜からず。上饌と爲さず。但し、醋を多用すべからずと謂ふときんば、則ち斟酌(しんしやく)すべきのみ。

祇園の神、社地に胡瓜を入ることを禁ず。土生(うぶすな)の人、之れを食ふを忌む。八幡(やはた)の鳥肉、御靈の鮎(なまづ)、春日の鹿、食ふときは則ち爲めに崇(たゝ)り被(かふむ)る理(ことわり)の推すべらからざるの類ひも亦、少なからず。蓋し祇園の社、棟・神輿(みこし)に、瓜〔音、寡(くわ)。〕の紋を以つて飾りと爲し、瓜は胡瓜を切片(へ)ぎたる形と以爲(おもひ)て之を忌むか。愚の甚しき者なり。瓜の紋は乃ち、木瓜(もつくわ)の〔果木の名。〕花の形にて織田信長公の幟文(しるし)なり。信長、當社を再興して其の紋を用ゐて後記と爲せるのみ。

   *

●「本綱」李時珍の「本草綱目」。但し、この叙述は原文と対比すると、必ずしもその引用ではないのが、やや不審である。

●「張騫」(?~紀元前一一四年)前漢の旅行家で外交家。漢中(陝西省)生。武帝の初年に西域の月氏国(秦・漢代に中央アジアで活躍した民族でトルコ系・イラン系・チベット系などの諸説がある。初め、モンゴル高原西半を支配していたが、紀元前二世紀頃に匈奴に圧迫され、その主力(大月氏)はイリ地方からさらにアフガニスタン北部に移動、バクトリアをも支配した)への使者として紀元前一三九年頃に長安を出発、途中で匈奴に捕えられること十余年にして前一二六年に長安に帰還した。

●「隋朝に諱を避け」これは「本草綱目」の「胡荽」(胡瓜のこと)の「釈名」にある『藏器曰、「石勒諱胡。故並、汾人呼胡荽爲香荽。」。』によるものと思われるが、原典自体が意味がよく分からない。何故なら石勒(せきろく)は五胡十六国の後趙の始祖であって隋の王ではないこと、石勒の本名その他には「胡」の字は含まれないからである。しかも隋王朝の皇帝にもやはり名に「胡」の字を含む人物はいない。

●「痱※(いらぼ)」(※=「疒」+中に「畾」。)底本の字が掠れており読みの「ぼ(原典はカタカナ)」を含め自信がない。東洋文庫版現代語訳では『ぶつぶつ』と訳している。最も可能性があるのは「痱*」(*「疒」+中に「雷」)で、これは「廣漢和辭典」に、「廣韻」に「痱、痱*」(痱(ひ)は、痱*(ひらい)なりと出ており、その意味として『小さなはれもの。ぶつぶつ』とある。

●「熟」十分に熱を加えて煮ること。

●「蔬蓏」「蔬」は蔬菜、「蓏」は、地面に生(な)る果実(果物(くだもの))をいう(対して木に生る果物を「果」という)。

●「水道」排尿。

●「中」漢方でいう脾臓や胃(但し、現代医学のそれらとは異なる概念で同一ではない)。●「瘧病」一般には現在のマラリアとされる。

●「瘡疥」発疹。

●「虛腫百病」むくみを伴うあらゆる病態という謂いであろう。

●「海鼠に似て」言わずもがなであるが、棘皮動物門ナマコ綱 Holothuroidea のナマコ類は英語で sea cucumber (海の胡瓜)という。寺島先生、確信犯か?

●「謂ふときんば」原典では送り仮名は「トキハ」であるが、「ン」を補った。説くことを考えると。述べている事実からは。――基本的に酢を多く用いると弊があるという記載が既にあることを考えると、「斟酌」、酢の配合度合への種による個別の十分な比較検討による注意が、これだけは必須である。――という意である。

●「祇園」京都の八坂神社。

●「瓜は胡瓜を切片ぎたる形と以爲て之を忌むか」瓜の紋所は胡瓜を横に切り截った際の実の中の模様の形と同じと考えてこれを忌むのであろうか、の意。フレーザーの言う類感呪術的な発想であるが、寺島が指摘しているように、これはシミュラクラで実際には胡瓜とは関係がない(後注参照)。但し、現在でも祇園祭(七月一日~三十一日)の期間中は、胡瓜を食べない慣わしがあって、それはやはり、ここに示された通り、八坂神社の神紋と胡瓜を輪切りにした切り口の模様が似ているため、畏れ多く勿体ないこととされるよし京都関連のサイトに記されてある。

●「木瓜」これはバラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ Chaenomeles speciosa をも意味するが、この花が実は実在する花としての織田家の家紋のモデルの一つともされるのである。

●「瓜の紋は乃ち、木瓜の〔果木の名。〕花の形にて織田信長公の幟文なり」織田信長の家紋は「五つ木瓜(もっこう)」「織田木瓜(おだもっこう)」と呼ばれ、その濫觴は、実は鳥の巣の様子を表したものとされ、子孫繁栄などのシンボルとも言われる。

   *

・「もみ瓜」胡瓜揉み。胡瓜を小口から薄く刻んで塩で揉み、三杯酢をかけた食べ物。

・「作にもある由」底本には「作」の右に『ママ』という原典注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『甘みも有るよし』。バークレー校版で訳した。

・「右を稱し申し候得共」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『右を稱し用候得共(もちゐさふらえども)』。これで採る。

・「赤き瓜」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『靑き瓜』。これで採る。

・「手前にのみに」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『手前遣(つか)ひのみに』で、長谷川氏はここに『自家用』と注しておられる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 白胡瓜(しろきゅうり)の事

 

 白き木瓜、香の物に致し、或いは胡瓜揉みにして食すれば、これ、むくみに絶妙に効く由。

 しかるに、白き胡瓜というのは、あまり栽培していおらぬものであるから、はなはだ求め難い。

 私も持病のむくみが、これ、かなりひどかった折り、試しみんとせしが、なかなか見当たらず、やっとのことで買い求めて用いた記憶がある。

 しかるに、ある人の申すことには、神奈川辺りや、その外、江戸周縁の農村などに於いて、これ随分、植え育てておる所のある由。

 この白胡瓜、概ね、胡瓜揉みや香の物に調理なして、如何にも噛み応え優しく和らかにして、甘みさえもある由。

 神奈川辺りにては専ら、この白胡瓜を「胡瓜」と称し、日常の菜にも普通に用いておるとのことであったが、江戸の青果の問屋へ卸しても、知られた青き胡瓜ほどには江戸庶民の購買意欲をそそららしく、作っている農家及びその辺り一帯だけの、これ、いわば自家用・地物としてのみ、栽培されておる由をも人の語って御座った。

 まあ、こうした――そういった江戸と申す都会の妙な好まれ方を含むところの以上の話――ことも、これ、あることにては御座ろう。

2015/03/30

耳嚢 巻之十 浮腫奇藥の事 但右に付奇談

 浮腫奇藥の事 右に付奇談

 

 予、夏になれば例年兩足の臑(すね)に聊(いささか)浮腫あり。文化十酉年、例よりは少しく腫れ多く、壽算七十七なれば、子孫これを切(きり)に養療せんと言(いふ)。しかれども服藥の醫、何れも愁(うれひ)とする程の事なしといへども、或人はなしけるは、水氣(すいき)の藥に狐のびんざゝらといふ草を用ゆれば、甚だ妙ある由。松平和泉守抔は右藥を用ひて快驗(くわいげん)あるといふ事を聞及(ききおよび)しと、與住玄卓語りける故、予が從者より彼(かの)家の知音(ちいん)まで尋(たづね)ければ、右びんざゝら泉州の白金(しろがね)やしきに多くありて、泉州など不斷(ふだん)服用有(あり)。尤(もつとも)右草を五歩(ぶ)程づゝに割(わり)、水貮盃を一盃に煎じ詰(つめ)て用ひる由。則(すなはち)とり寄置(よせおき)しとて、右草並(ならび)に先達(せんだつ)て取置しとて實(み)をも爲持越(もたせこさ)れし。用ひて聊しるしあれば、來春は右種を蒔かん事を家童(かどう)に教諭なしぬ。右の玄卓かたりけるは、右狐びんざゝらといふもの、本草には不見(みえず)。□□と云(いふ)書に、地□といふもの、右の草にあたれりと云々。近頃右びんざゝら、水病(すいびやう)或は脚氣(かつけ)によしと、專ら信要(しんえう)する者多し。近き事の由、上州とか、相州とか、相應の百姓ありしが、だんだん身の上をとろへ、家族死(しに)たへ唯一人にて、兩足共(とも)腫れ候て、農堯もならず誠に死をまつ斗(ばかり)なりしが、つらく考へて旦那寺へ至り、かくかくの事なれば何卒身上も寺へ可納(をさむべき)間、死期(しご)まで養ひたまはるべしと歎(なげき)しかば、旦那の事安き事なりと、墓所の片わきあやしき部やへ入れて養ひしに、壹年程の内に腫(はれ)も引(ひき)、足も丈夫に成(なり)しゆゑ、和尚と對談の上、元の家へ歸り住(すみ)しに、又半年程の内に元の如く足はれければ、又々旦那寺へ至りけるに無程(ほどなく)快(こころよく)なりし故、其身も不思議に思ひ、族(うか)らも是を奇なりとして和尚へも尋問(たづねとひ)しに、佛緣によりて快(こころよき)といふは妄談なるべし、何ぞ快き譯もあらんと色々工夫なしけるが、外に心付(こころづき)なし。しかるに寺にて、味噌を舂(つ)き候て樽へ詰(つめ)候節、かびを生(しやう)ぜざるため、山に有(ある)狐のびんざゝらをあみて底へ入(いれ)、又ふたにもなしけるが、右の故やと申(まうし)ける故、かゝる事も有(あり)けんと、右びんざゝらをとりて、近村まで水病のものを尋あたへしに、いづれも快(こころよき)由。これに依(より)て、右邊は殊外(ことのほか)取用(とりもち)ひ候由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。民間療法シリーズであるが、例外的に記事が極めて詳細である。おそらくこの浮腫(むくみ。水腫。本文の「水氣」「水病」も同義)に結構、根岸は苦しめられていたところ、この「狐のびんざゝら」が「聊しるしあ」って、「來春は右種を蒔く」と決めたほどにはよく効いたのであろう。そうした嬉しさが叙述に如実に感じられる。以下に見る通り、現代の漢方医学でも浮腫への効能が認められている。

・「文化十酉年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。

・「壽算七十七」根岸鎮衛は元文二(一七三七)年生まれ。没年は文化十二年十一月四日(グレゴリオ暦一八一五年十二月四日)であるから、蒔いた自家で育った「狐のびんざゝら」、これきっと服用出来たと思いたい。

・「これを切に養療せん」岩波の長谷川氏注に、「切」について『限り。一区切。これを限りに退隠という』と記しておられる。根岸の家族が、例年になくむくみがひどいので、それを口実に、「これを限りとして南町奉行を辞めて隠居なされよ。」と勧めたのである。但し、根岸は現職のまま死去している。

・「狐のびんざゝら」底本の鈴木氏注に、『河原決明(カワラケツメイ)の異名。マメ科の一年草で、草を乾して飲料にする。浜茶、弘法茶いう。漢名山扁豆、黄瓜香。ネムチャ、アキボトクリ、ノマメ、キジマメ。三村翁曰く、クサネムのこと』とある。マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科カワラケツメイ(河原決明) Chamaecrista nomame は、草本で高さ三十~六十センチメートルほど。葉は互生で羽状複葉(和名の別名「狐の編木(拍板)」(きつねのびんざさら)とは、この葉の形状が楽器の「ビンザサラ」(中国伝来の打楽器の一つで硬い板を何枚か重ねて端を皮紐(かわひも)で纏めたものを両端を持って打ち鳴らす)に似ていることに由来するのであろう)。参照したウィキの「カワラケツメイ」によれば、『日本では本州から九州に分布』し、『名前の通り、川原などの開けた野原に群生する。一年生であり、夏ごろ黄色い花が咲き、晩夏から秋にマメに似た果実をつける。なお、河川改修などによって河原の植物群落は帰化植物が非常に多くなり、在来種が減少している地域が非常に多い。そのため、カワラケツメイも稀少になっている』。『果実は煎じてマメ茶とする』。『なお、マメ科のクサネムは外見がなかなかよく似ている。はっきりした違いは、カワラケツメイの豆が立つのに対して、クサネムのそれは垂れ下がることである』とある(「クサネム」はマメ亜科クサネム連クサネム亜連クサネム Aeschynomene indica 。葉の形状はことに酷似するが亜科レベルで異なる全くの別種である。花は全く異なる。グーグル画像検索の「カワラケツメイ」「クサネム」とを対比されたい)。非常に生薬名は「山扁豆(サンヘンズ/サンペンズ)」。宮崎県薬剤師会公式サイト内の「宮崎 薬草の部屋」の「カワラケツメイ」に、薬用部分を『地上部全体』とし、『八~九月、花が終わりかけ豆果がつき始めた頃、地上部全体を刈り取り、水洗いして』『刻み日干しでよく乾燥させる』。『むくみや膀胱炎の時の利尿に、また慢性の便秘に、乾燥したもの』を、一に対して水を六の割合で入れ、それを『半量になるまで煎じ、一日三回に分けて飲む』。『むくみがち・便秘気味の人の健康茶として、刻んだものを一度フライパン等で炒り上げ、二~三日新聞紙に広げて日干しで乾燥させ、お茶のかわりに飲用する』とあり、『日当たりのよい原野、河原、山間の路傍に自生する一年草』で『ネムノキに似た葉をつける。葉、茎、果実に細毛が生えている。七~八月頃葉の付け根に小さくて黄色い五弁花をつける。エビスグサ(決明)に似ていて河原に生えるのでこの名がある』と記す(下線やぶちゃん。「エビスグサ」はジャケツイバラ亜科センナ属エビスグサ Senna obtusifolia のこと。但し、画像で見る限り、似ているのは黄色い花だけで葉は同じ羽状複葉であるが、見た目、全く異なる。グーグル画像検索の「カワラケツメイ」「エビスグサ」を対比されたい)。

・「松平和泉守」松平乗寛(のりひろ 安永六(一七七八)年~天保一〇(一八三九)年)は老中・三河西尾藩(藩庁は西尾城で現在の愛知県西尾市。六万石)第三代藩主。寛政五(一七九三)年、家督を相続。幕府では寺社奉行を二期勤め、京都所司代を経て、老中に就任した。この文化一〇(一八一三)年当時は最初の寺社奉行を辞任した年に当っており、満三十五で、根岸より四十一も年下であるので想定イメージに注意されたい。

・「白金屋敷」岩波の長谷川氏注に、西尾藩は現在の東京都港区『白金に下屋敷があった』とある。

・「與住玄卓」既注。根岸家の親類筋にして出入りの町医師。しかも根岸の医事関連の強力なニュース・ソースにしてその他の流言飛語の情報屋でもある。

・「五歩」五分(ごぶ)で一寸の半分の長さ。約一・五センチメートル。

・「家童」小間使いの若者。家僮。下男。ボーイ。

・「□□と云書に、地□といふもの」補填不能。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も両欠字部は同様。

・「農堯」底本には「堯」の右に、『(業カ)』と推定訂正注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 浮腫の奇薬の事 附けたり それについての奇談一話

 

 私は夏になると、例年、両足の臑(すね)の部分に、これ、いささかむくみが生ずる。

 文化十年酉年は例年に比べ、かなり腫れがひどく、私も当年とって七十七ともなれば、子や孫どもはこれ、頻りに、

「――これを限りとなされて、ゆるりとご隠居なされ、養生なさるるが重畳(ちょうじょう)。」

なんどと申しておる。

 しかし、調剤の方(かた)を任せておる主治医は、

「むくみも、腫れ具合も――孰れも愁いとなさるるほどでは御座らぬ。」

と請けがって呉れた。

 従って私は隠居は、ゼッタイ、せん。……

   *

 さて、むくみのことである。

 さる御仁の話されたことには、水気(すいき)の薬として、「狐のびんざさら」という草を用うれば、はなはだ効用のある由。

「松平和泉守様などは、その薬を用いて、これ、あっという間に快験(かいげん)なされたということを聞き及んで御座います。」

と、拙者の主治医の一人、与住玄卓(よずみげんたく)が語っておったによって、和泉守乗寛(のりひろ)殿とは私も懇意にしておれば、私の従者より、かの松平家の知音(ちいん)が方に、当該の薬方につき、訪ね問わせたところ、以下の処方を得た。

――右「狐のびんざさら」は和泉守殿の白金(しろがね)の下屋敷に多く生えており、主君和泉守殿御自身も普段から服用なさっておらるる。

――もっとも、そのままにて服用するのではなく、その草を、五歩(ぶ)ほどの大きさに刻み、それを浸した水、これ、二杯分を、一杯になるまで、煎じつめて用いるとの由。

 しかも、和泉守殿、ちょうど乾して保存なされておったものが御座ったとのことにて、その草並びに、先だって採りおいた「狐のびんざさら」の実をも、これ、私の従者に持たせて贈り呉れた。

 されば早速に服用してみたところ、これ、なかなかに効果のあって、暫く服用を続けるうち、ふと気がつけば、むくみがすっかり消えておった。

 さても来春(らいはる)には、この「狐のびんざさら」の種を、我が家の庭にも蒔いてしっかり育てるように、と家僮(かどう)には命じおいた。

 さて、かの玄卓が申すには、この「狐のびんざさら」という薬草は、唐や本邦の本草書には所載せず、「□□」という書に「地□」という名で載るものが、この草に相当する、とのことで御座った。――以下、与住の話。

   *

 近頃、この「狐のびんざさら」が浮腫或いは脚気(かつけ)によく効くとして、専ら信用なし、服用致す者が多くなっておる。

 最近のことと聴き及んでいるが、上州とか相州とか、相応の家格の百姓のおったが、この者、だんだんに身上(しんしょう)も衰え、老いも進み、家族もまた、死に絶えて唯一人にて、両足とも、ひどくむくみの生じて御座ったれば、農事もままならず、まっこと、死を待つばかりのありさまとなり果てたによって、ひどく考え込んだ末、ある日、旦那寺へと参って、

「……かくかくのことなれば、何卒、今、御座る、身上も、総てこれ、寺へ納めんと思いますによって、死期(しご)に至るまで、これ、儂(わし)を養のうては……これ、下さるまいか?……」

と歎き訴えた。

 されば和尚は、

「旦那のことなれば安きことにて御座る。」

と、墓地の片際(かたぎわ)に設えた粗末な小屋へ、この者を入れて、養いおいた。

 すると、これ、一年ほど経つうちに、かのむくみも引き、足もかなり丈夫になって御座ったによって、和尚と相談の上、元の家へ戻って、また住もうて御座った。

 ところが、これまた、半年ほどのうちに、元の如く足がむくんで参ったによって、またまた、旦那寺へと移った。

 するとこれ、ほどのぅ軽快致いたによって、自身も不思議に思い、面倒は見れぬものの、気にかかっては見舞いに参ったる遠き縁者の者なんども、

「……これは……まっこと……不思議なることじゃ。……」

とて、和尚へもこのことにつき、

「……これは如何なることにて御座いましょうや?……」

と問い訊ねたところが、和尚、これ正直に、

「――仏縁によりて恢復せしなんど申すは妄談にて御座ろう。……何ぞ、軽快致すには相応の訳、これ、御座ろうほどに。」

と、住めるあばら屋やその辺りをもいろいろと調べてはみたものの、これといって気づくところも御座らなんだ。

 しかるに和尚、一つのことに目をとめた。

 寺にては、これ、味噌を搗(つ)いたものを樽へ詰めおく際、黴(かび)を生じさせぬため、その効のあると伝える山に自生致す「狐のびんざさら」の葉を縦横に編んで、これを底へ敷き入れ、さらにまた、同様のものを味噌樽の蓋にも用いて御座ったが、

「――さても! この草の効能の故にては、これ、御座るまいか?!」

と思い当った。

 されば、そのようなこともあろうかも知れぬと、和尚、かの「狐のびんざさら」を山より刈り取って参り、試しに、近村までむくみを患(わずろ)う者を訪ねては、これを茶になして飲ませてみたところ、どの患者も、これ、驚くほど軽快なした由。

 これに依って、その村の辺りにては殊の外、この「狐のびんざさら」を茶になしたものを日頃より呑んで御座る由。

耳嚢 巻之十 雷も俠勇に不勝事

 雷も俠勇に不勝事

 

 文化十酉年八月朔日(ついたち)、雨は強くもあらざりしが雷は餘程強く、三四ケ所あまり落(おち)しが、淺草西福(さいふく)寺近所に殘町といふ所有(ところあり)、〔此(この)殘町は御藏(おくら)前の掃集米(はきあつめまい)を賣買(うりか)う渡世なす處。〕此普請ありて、鳶人足共(ども)五七人あつまり居(をり)し處へ落ければ、彼(かの)ものども、雷を打殺(うちころす)べきと、其邊の材木鳶口(とびぐち)抔をもちて、雲ほど走り、火の玉獸やうのもの駈(かけ)めぐりしを、目あてに打敲(たたき)けるに、雷も不叶(かなはず)とや思ひけん、西福寺の方へ逃(にげ)しを追駈(おひかけ)しに、西福寺の構(かま)へに大木ありしを攀(よじのぼり)て、右よりあがりしとなり。命をしらざる壯年の俠氣(けふき)、かゝる事もありと、評判をなし、かしこに住(すめ)る札さしの手代成る者も、來り語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。再び、直近の都市伝説に戻っている。

・「雷も俠勇に不勝事」は「かみなりもきようゆうにかたざること」と読む。「俠勇(きょうゆう」は自分の損得を顧みず、弱い者のために力を貸す義侠心があって、勇ましく男らしいこと、また、その人。

・「文化十酉年八月朔日」「卷之十」の記載の推定下限は翌文化一一(一八一四)年六月。「文化十酉年八月朔日」はグレゴリオ暦で八月二十六日である。台風襲来の時期である。

・「掃集米」所謂、札差で扶持米を代行して受け取りそれを分配・荷造・搬送する際に、零れ出たり、粉砕されて細かくなった屑米を集めたものであろう。江戸の無駄のない効率的なリサイクル事情の中では当然、それを仕入れたり、商品として安く売り捌くことを生業(なりわい)としていた者がいたことは想像に難くない。

・「あまり落し」底本の鈴木氏注に、『アマルは落雷することであるから、アマリオチルは重言である』とある。平凡社「世界大百科事典」の「雷」に「万葉集」巻三に「伊加土(いかづち)」という用語例があり,「イカ」は「厳」を意味する形容詞の語根で、「ツチ」は「ミヅチ(蛟)」の「ツチ」と同じく、「蛇」の連想を有する「精霊の名」であったらしい。「雷」の方言に「カンダチ」といっているが、これは「神の示現」という意で、落雷を「アマル」というのも「アモル(天降る)」の意味であるからとされている。これらはいずれも雷を神とする考えを示すものであり、かつては神が紫電金線の光を以ってこの世に下るものと考えられていたのである、とある。角川書店「新版 古語辞典」には「天降(あも)る」(自動詞ラ行四段活用)は「天(あま)下(お)る」を原型とし、連用形「あもり」の用法のみが認められると附記し、①天上からおりる。「葦原の瑞穂の国の手向けすとあもりましけむ」(「万葉集」巻十三・三二二七)②行幸なさる。「行宮(かりみや)にあもりいまして、天の下治めたまひ」(「万葉集」巻二・一九九)とある。

・「西福寺」底本の鈴木氏注に、『三村翁「西福寺は浅草南元町にあり、残町といふ地不知、は誤記か。」残町の地名のいわれも割注にあるので、誤記とも考えられない。西福寺前から蔵前片町へ出る通りに添って次兵衛下ゲ地という一劃がある。享保十七年の火災に同人の住居が塗り家作であった為に焼け残ったので、大岡越前守から褒美に下された地という。それで残町という俚称が至れたのではないかとも想像される』とある。私は「殘町」はてっきり米の「残り」を扱うからと早合点していたのだが、真相は火事の焼け残りの謂いらしい。東光山松平良雲院西福寺と号して現存する。浄土宗で、当時の幕府米蔵の西、現在の地下鉄蔵前駅の西北西二百メートル弱、台東区蔵前四丁目にある。鈴木氏の言われる「次兵衛下ゲ地」も所持する切絵図に「次兵ヱ買下地」と特異な表記になってあるのを確認出来た。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 雷も侠気(おとこぎ)には勝てぬという事

 

 文化十年酉年八月朔日(ついたち)のことと聴く。

 雨は強くもなかったが、雷がこれ、殊の外激しく、三、四ヶ所あまり落ちて御座ったが、浅草西福(さいふく)寺近所に残町(のこりまち)という所があり――この「残町」と申すは御蔵(おくら)前の掃集米(はきあつめまい)を売り買いするを渡世となす商人(あきんど)が御座ったところである――、この日、ここで普請のあって、鳶(とび)・人足(にんそく)どもが五、七人が集って御座った。と! その近くへ、

――グワラグワラ! ピシャッツ! ドドン!!

と、雷の落ちて御座ったところが、かの者ども、

「――ワレ! こらッツ! 雷なんぞ! 打ち殺してやろうじゃねえかッツ!」

と、雄叫びを挙ぐるや、その辺りに御座った材木やら、鳶口(とびぐち)やらを、手に手に持つと、雲から走り出で、火の玉となれる、これ、何やらん獣の如き物の怪の、これ、駈け巡って御座ったを目当てに、

「――すわッツ!! あれが憎っくき雷獣じゃッツ!!!」

と、てんでに、これ、したたかに打ち敲き廻った。

 されば、雷獣も、

――こりゃ、叶わぬ!

とでも思うたものか、西福寺の方(かた)へと逃げる。

 が、これまた、男どもの、こぞって追い駈くる。

 雷獣はこれ、西福寺正面に大木御座ったを、攀(よじのぼ)り、その先っぽにて、これ、線香花火の如(ごと)、

――チラッチラ……

とチンケに瞬いたかと思うと、

――煙の如、ふっと

消え失せたと申す。

 命知らずの壮年の男気、これ、かの辺りにて、

「――こんなこともあるもんじゃのぅ! でかいた! でかいたぞッツ!」

と、町衆のやんやの喝采を浴び、どえらい評判となって御座る由。

 そこに住まうところの札差の手代なる者、その――雷神の如き侠勇らの雷獣雷撃の一部始終を――これ、実見致いた旨、私のところへ参った折り、語ってて御座った。

2015/03/29

耳嚢 巻之十 男谷檢校器量の事

 男谷檢校器量の事

 

 男谷(をたに)檢校と云(いふ)坐頭は、秋元但馬守在所城下最寄(もより)の出生(しゆつしやう)にて、但馬守方へも出入せしが、或時但馬守土圭(とけい)をあれ是(これ)取(とり)、右の内代金三拾兩餘の土圭、何か通途違ひ面白き品(しな)故、檢校へ相見(あひまみえ)、買申間敷哉(かひまうすまじきや)の段檢校へ被申(まうされ)ければ、直段(ねだん)を承り、望(のぞみ)無之(これなき)由を申(まうし)ける故、何故不需(もとめざるや)哉と尋問(たづねとひ)しに、三拾兩にて數多(あまた)の人の命を助け可申(もうすべく)、望無之由、不興に申立歸(まうしたちかえ)りしを、吝嗇(りんしよく)もの、非禮なりとて但馬守憤り、出入りを留(と)め候程に申付(まうしつけ)られし。しかるに四五年過(すぎ)て、彼(かの)領分凶作にて百姓飢(うゑ)におよび候儀有之(これある)節、男谷在所の事故、早速罷越(まかりこし)、壹軒に付米五俵錢何程とかを差遣(さしつかは)し、其村の危急を救ひける故、追(おつ)て男谷方へ罷越(まかりこし)、右返金禮謝の儀申入(まうしいれ)候者有(あり)しが、左樣成(さやうなる)趣意にはあらず、決(けつし)て難受(うけがたき)由にて斷(ことわり)ければ、農民も外(ほか)いたし方なく、男谷在所事なれば、大造成(たいそうなる)石塔を建立して、檢校が追福(ついふく)等をなしけるに、或時領主入部(にふぶ)にて鷹野(たかの)とかの折柄、右石塔を見て仔細を尋問(たづねとひ)しに、右の荒增(あらまし)申答(まうしこたへ)ければ、扨は彼が心組(こころぐみ)僞(いつはり)なしとて、其後は再び懇意を加へられしと也(なり)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。年時が記されていないが少なくとも登場人物の一人秋元永朝は文化七(一八一〇)年に亡くなっており、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年であるから、ここまでの直近の出来事とは性質を異にしている。なお、現代語訳では当時の差別意識を如実に示すため、わざと差別用語としての「ど盲(めくら)」という語を用いたことをここに断っておく。

・「男谷檢校」底本の鈴木氏注に、『廉操院。越後国男谷郷出身の盲人で、江戸に出て検校になり、金貸で巨富をたくわえ、市内に十七か所の地所を有し、水戸家一家のみで七十万両の大名貸しをしていたといわれる。死に臨み諸家の貸証文をすべて火中にし、三十万両の遺産を九人の子に遺した。末子平蔵は三万両余の遺産を持って旗本の養子となったか、その長男燕斎は書家として名をなした。燕斎の長男精一郎は、剣客として名を上げた男谷下総守信友。燕斎の三男亀松は勝元良の養子となり、その子が勝海舟である。(勝部兵長氏『夢酔独言』解説による)』とある。「檢校」及び以下に出る「坐頭」は耳嚢 巻之二 思はず幸を得し人の事に既注。

・「秋元但馬守」底本の鈴木氏注に、『永朝。山形城主、六万石。なお、男谷という地名は、山形附近にもまた新潟県下にも見付けることができないが、検校の出身はいずれであるか、疑いをのこしておく』とある(下線やぶちゃん)。秋元永朝(つねとも 元文三(一七三八)年~文化七(一八一〇)年)は出羽山形藩第二代藩主。五千石を領した大身旗本上田義当(よしまさ)四男として生まれる。義当は初代藩主秋元凉朝(すけとも)の実兄であった。後、凉朝の養子となり、明和五(一七六八)年に凉朝が隠居したため、家督を継いでいる。安永九(一七八〇)年十二月に但馬守に遷任されているから、本話柄の前半も、それ以降のことであろうか。天明三(一七八三)年、村山郡が凶作となり、それが原因で天明四(一七八四)年五月に藩内で米騒動・打ちこわしが起こった、と参照したウィキの「秋元永朝」にはある(所謂、天明二(一七八二)年から八(一七八八)年にかけて発生した天明の大飢饉飢饉である。本話の後半はそれを髣髴とさせる)。なお、岩波の長谷川氏注には、男谷は『越後国男谷郷出身という』とあり、グーグル・ブックスで視認した四條たか子著「幕末志士伝4 佐幕の志士たち」(ブルボンクリエイション二〇一四年刊)には、男谷検校は越後(現在の新潟県)の出身であると明確に記されてある。しかし越後国には男谷郷という地名は確かに見当たらない(小谷郷(新潟県中越地方の小千谷市近郊)ならばある)。しかも越後国とすると本話冒頭の「秋元但馬守在所城下最寄の出生」と齟齬が生ずることとなる。

・「土圭」時計のこと。ここでの当て字ではなく、「土圭の間(ま)」と書けば、江戸城で時計を設置して坊主が勤務しては時報の任に当たった部屋、或いは大名・旗本などの屋敷で時計の置いてあった部屋を指す。

・「入部」普通は領主・国司などがその領地・任地に初めて入ることを言うが、ここは厳密な意味での最初のそれを指しているのではないと思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 男谷(おたに)検校の器量についての事

 

 男谷検校と申す座頭は、秋元但馬守永朝(つねとも)殿の御在所御城下の最寄りが出生(しゅっしょう)にて御座ったによって、但馬守殿方へも、よぅ出入致いておられたが、ある時、但馬守殿、好事(こうず)で蒐集なされておられた時計を、これ、あれこれ取り出だいては、

「……これらのうち……さうさ! これはどうじゃ?……まず、代金は三十両は下らぬ時計じゃ。……如何にも、ありきたりの時計とはこれ、形も音(ね)の響きも、まるで違(とご)うた、まっこと、面白き品(しな)で御座ろうが!……」

と仰せられるると、検校に寄って昵懇に、

「どうじゃ?――買わうぬか?」

と、慫慂なされた。

 すると検校は、再度、

「今、お幾らと申されました?」

と返したによって、

「三十両じゃ。……そちにとってはただ同然であろうが。」

と応じたところ、

「――一向、拙者、求めんとする思い、これ、御座いませぬ。」

と申したによって、但馬守殿、

「……何故(なぜ)じゃ?……何故、これほどのよき品、これ、求めぬのじゃ?!」

と問い質いたところが、

「――我ら、三十両あらば――これ、数多(あまた)の人の命を助けんがために使いとう存じますれば。――求めんとする思いは、これ、御座いませぬ、と申し上げたまでのこと。――では。今宵は、これにて失礼仕りまする。――」

と、硬き表情にて申し上げたかと思うと、すっくと立って、むっとした顔つきのまま、これ、退出致いたと申す。

 それを見た但馬守殿は、

「……な、何じゃ!? ど盲(めくら)の、ど吝嗇(ケチ)がッツ!……何という、ひ、非礼な奴じゃッツ!!」

と、殊の外、憤られると、

「――あんな輩(やから)はこれ、向後一切! 屋敷出入り差し止めにせいッツ!!!」

と、えらい剣幕で申し付けられたと申す。

 

 ところが、それから四、五年ほども過ぎてのことで御座った。

 かの但馬守殿御領分、大きな凶作が、これ、襲い、百姓らは皆、想像を絶する地獄の飢えを耐え忍んでおるという話が江戸表へも伝わって参った。

 また、その最たる惨禍の地が、これ、男谷(おだに)検校が在所のことと知れたによって、男谷殿は早速、故郷(ふるさと)へと足を運ばれ、一軒に付き、米五俵・銭何百文宛てをも均等に差し遣わされ、男谷村の危急を救うて御座った。

 さればこそ、同村の名主ら、おって男谷検校が方へと罷り越すと、かの義捐の折りに授けられたところの金子をこれ総て返金致いて、謝礼の儀を申し入れようと致いたが、検校殿は、

「――さようの謝礼を受けんとする趣意にて成したることにては御座らぬ。――かくなる返礼は、これ、とてものこと、受け難きものにて御座る。――」

と、一切を断られたによって、かの村の郷村の農民らも、これ、致し方なく、男谷検校が在所のことなればとて、たいそうなる石塔を建立(こんりゅう)なし、検校が義捐を顕彰致いたと申す。

 

 さてもその後のある折り、御領主但馬守殿、久々に入部(にゅうぶ)なられ、鷹狩りとかを催された折から、黒谷の辺りまで足を延ばされたところが、その見かけぬ新しき大きなる石塔を目に止められたによって、仔細を質し問われたところ、以上のあらましを名主以下郷村(ごうそん)の者、皆、口を揃えてお答え申し上げたによって、

「……さてもかの者の心底、これ、偽りなきものにて御座ったのじゃのぅ!……」

と、殊の外、感じ入り、その後(のち)は、これ再び、検校を懇意の者として、お加えになられたと申すことで御座った。

耳嚢 巻之十 白龜の事

 白龜の事

 

 文化十酉年七月、本石町(ほんこくちやう)一丁目御堀際(ぎは)、此の通(とほり)の龜を、同所惣右衞門店(たな)悴(せがれ)淸五郎豐松拾ひ取(とり)、甲(かうら)の片端へ穴をあけ凧(たこ)の絲(いと)やうのものを通し提(ささげ)歩行(ありき)しを、同店(たな)林左衞門見請(みうけ)、錢(ぜに)四十八錢(せん)をあたへ貰ひ、珍敷(めづらしき)物に付(つき)、身延山へ納度存居(をさめたくぞんじをり)候。珍敷ものに付、町役人共ども)、南番所(みなみばんしよ)へ訴出(うつたへいで)候。予携之(これをたづさへ)登城なし、七月十三日、御用番松平伊豆守殿へ申上(まうしあげ)、可懸御目(おめにかくべき)に哉(や)と申(まうし)ければ、上げ候樣にと御沙汰故、則(すなはち)御同朋頭(ごどうほうがしら)を以(もつて)上(あげ)候處、奧へ相廻(あひまは)り、翌々日相伺(あひうかがひ)候處、御留(おとど)めに相成(あひなり)候由故、同十七日、先年武州押上村百姓より、至(いたつ)て小さき白龜(しろがめ)を上(あげ)候節、金壹兩被下(くだされ)候例(ためし)も候間、其段申上(まうしあげ)、金壹兩自分番所にて申渡相渡(まうしわたしあひわたす)。尤(もつとも)押上村の龜は、先年予も見たりしが、香合(かうがふ)へ入(いれ)、冬の事にて綿へ乘せ、御代官大貫次右衞門より差出(さしいだし)、御勘定奉行より申上、右の通にて相濟(あひすみ)候。此度の龜は、甲の豎(たて)三寸斗(ばかり)、横二寸斗にて、隨分壯健成(なる)趣に候。
 

Sirogame
 

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

但し右龜は西丸御簾中(にしのまるごれんちう)樣へ被進(しんぜられ)、名を豐松と被下(くだされ)候由。追(おつ)て内祕(ないひ)承之(これうけたまはる)。尤(もつとも)拾ひ候童(わらべ)も、豐松と申候處、右名前は一向不申上(まうしあげず)處、□に右の通(とほり)被下(くだされ)候と申(まうす)儀、ひとつは奇事にて、何れ目出度(めでたき)吉祥(きつしやう)と歡び畢(をはんぬ)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:蟒蛇(うわばみ)から白亀の異類譚で直連関。話柄時間も同期。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版(後掲)のデータによるなら、しかも「重瞳」でも連関しる。標題からは甲羅腹及び頭尾四肢総てが白或いは白っぽいとすれば、図から見ると、爬虫綱カメ目潜頸亜目リクガメ上科イシガメ科イシガメ属 Mauremys のカメで、恐らくはニホンイシガメ Mauremys japonica のアルビノ(albino:メラニンの生合成に係わる遺伝情報の欠損によって先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患がある白化個体)ということになる(先のリンク先はウィキの「ニホンイシガメ」。クサガメ(ゼニガメ) Mauremys reevesii も考えたが、ウィキの「クサガメ」に『江戸時代や明治時代では希少で西日本や南日本にのみ分布するという記録がある』とあったので外した。因みに「カメ アルビノ」のグーグル画像検索も参照されたい)が、どうもバークレー校版のデータをみるとアルビノとは違うようだ(後掲するデータの注で考証する)。底本の鈴木氏注には、『続日本紀養老七年に白亀を朝廷に献じたとあり、以下史書に同種の記事が少なくない』と記す。なお、ここで最初に豊松から亀を買って町方に身延山寄進を申し出た左衛門や、また、それを南町奉行にわざわざ上申した町方役人も、根岸同様――無論、有り難い白い亀の奇瑞という表向きの無償の行為ではあろうが――しかし一方では先年、将軍家斉に白亀が差し上げられて金一両が賜わられた事実を耳にしていたからこそ、でもあろう。ぶら提げられて西丸奥向きまで空中を泳いでいる白い亀さんのアップが、これ、如何にも微笑ましい――カメの「豊松」君にはとんだ受難だけれども――。

・「文化十酉年七月」西暦一八一三年。「卷之十」の記載の推定下限は文化十一年六月。

・「本石町一丁目」岩波の長谷川氏注に、『中央区日本橋石町。西側が堀』とある。現在の日本銀行の東南部分に相当する。

・「悴淸五郎豐松」意味が通らない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『淸五郎悴豐松』。無論、これで訳した。

・「四十八錢」四十六文。いつも参考にさせて戴いている贋金両替商「京都・伏見 山城屋善五郎」の「江戸時代の諸物価(文化・文政期)」によれば、蕎麦(二八蕎麦)一杯が十六文で現在の四百円とすると、千二百円ほど。後に出る「一兩」は十万円相当である。

・「身延山」日蓮宗総本山久遠寺。日蓮の遺骨が祭られている日蓮宗の聖地。

・「南番所」南町奉行所。当月が当番であったのであろう。当時の奉行は無論、根岸自身である。

・「南番所へ訴出候。予携之登城なし」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこの間)「南番所へ訴出候。」と「予携之登城なし」の間)に二字下げで亀のデータが列記されている。恣意的に正字化して示す。

   《引用開始》

  頭尾足手は常の如し。

  両眼共瞳二つあり。

  甲腹は全く白し。

   《引用終了》

このデータ、やや問題があるように思われる。

 まず一つは「頭尾足手は常の如し」として「甲腹は全く白し」ある点である。これは頭尾四肢については白くない通常の亀であるという叙述としか私には読めない。爬虫類の専門家や愛好家のサイト及び獣医のサイトを縦覧すると、甲羅や腹が白化する「シェルロット」という潰瘍(といっても真っ白ではなく画像で見る限りでは背部の甲片の中央部や腹部のつなぎ目が白くなっている)の甲羅腹部への全感染のケース、さらに本体が異常急成長すると甲羅の成長も通常より著しく早くなり(これは完全に病気である)、甲羅の内側繋ぎ目の部分が有意に白っぽくなるケースがあるようだ(これは但し致命的な病気というほどのものではないらしい)。この場合もそれか。せっかくお姫様に可愛がってもらってるのだもの、「豊松」のそれがやっぱりアルビノか、最後のそれであるか、ただ甲羅がたまたま白っぽく脱色してしまった至極健康な亀(事実、本文には「隨分壯健」ともあるからね)であって欲しい気が、私はするのである。

 次に「重瞳」である。これは直前の「四瞳小兒の事」に出る、多瞳孔症(または多瞳孔)或いは虹彩離断(毛様体への虹彩の付着によるその局部的な分離や剥離症状で「虹彩断裂」とも呼ぶ。Iridodialysis 或いは coredialysisに似たように見えるカメの正常な目を指しているのだと私は思う。「四瞳小兒の事」で私は、瞳が並んでいるのではなくて同心円状に重なって見えることを「重瞳」と言ったのではないか、という私の古い仮説を示したが、爬虫類の眼というのは瞳孔が縦長であったり、多様な模様があって目の中に縦に目があるように見えたり、或いは亀などの場合、まさに同心円状に見えたりと、まさしく「重瞳」的なのである。ああ、ますます「重瞳」の形状幻想のラビリンスが広がっていくではないか!……

・「御用番」用番。老中・若年寄が毎月一人ずつ交代で政務を執ったこと。月番。

・「松平伊豆守殿」三河吉田藩第四代藩主で、幕府老中・老中首座を務めた松平信明(のぶあきら 宝暦一三(一七六三)年~文化一四(一八一七)年)。老中在任は天明八(一七八八)年~享和三(一八〇三)年と、文化三(一八〇六)年~文化一四(一八一七)年。ウィキの「松平信明」によれば、『松平定信が寛政の改革をすすめるにあたって、定信とともに幕政に加わ』って改革を推進、寛政五(一七九三)年に『定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導し、寛政の遺老と呼ばれた。幕政主導の間は定信の改革方針を基本的に受け継ぎ』、『蝦夷地開拓などの北方問題を積極的に対処した』。寛政一一(一七九九)年に『東蝦夷地を松前藩から仮上知し、蝦夷地御用掛を置いて蝦夷地の開発を進めたが、財政負担が大きく』享和二(一八〇二)年に非開発の方針に転換、『蝦夷地奉行(後の箱館奉行)を設置した』。『しかし信明は自らの老中権力を強化しようとしたため、将軍の家斉やその実父の徳川治済と軋轢が生じ』、享和三(一八〇三)年に病気を理由に老中を辞職している。ところが、文化三(一八〇六)年四月二十六日に彼の後、老中首座となっていたこの「大垣侯」戸田氏教(うじのり)が老中在任のまま『死去したため、新たな老中首座には老中次席の牧野忠精がなった』。『しかし牧野や土井利厚、青山忠裕らは対外政策の経験が乏しく、戸田が首座の時に発生したニコライ・レザノフ来航における対外問題と緊張からこの難局を乗り切れるか疑問視され』たことから、文化三(一八〇六)年五月二十五日に信明は家斉から異例の老中首座への『復帰を許された。これは対外的な危機感を強めていた松平定信が縁戚に当たる牧野を説得し、また林述斎が家斉を説得して異例の復職がなされたとされている』。『ただし家斉は信明の権力集中を恐れて、勝手掛は牧野が担っている』とある。その後は種々の対外的緊張から防衛に意を砕き、経済・財政政策では『緊縮財政により健全財政を目指す松平定信時代の方針を継承していた』が、『蝦夷地開発など対外問題から支出が増大して赤字財政に転落』、文化一二(一八一五)年頃には『幕府財政は危機的状況となった。このため、有力町人からの御用金、農民に対する国役金、諸大名に対する御手伝普請の賦課により何とか乗り切っていたが、このため諸大名の幕府や信明に対する不満が高まったという』とある。かなりの権勢家であったことがよく分かる。

・「御同朋頭」。若年寄に属し、同朋(どうぼう:室町時代に発生した職掌で、将軍・大名に近侍し、雑務や諸芸能を司った僧体の者。室町時代には一般に阿弥(あみ)号を称し、一芸に秀でた者が多かった。江戸時代には幕府の役職の一つとなり、若年寄の支配下で大名の案内・着替えなどの雑事をつとめた。同朋衆。童坊。)及び表坊主(おもてぼうず:江戸城内での大名及び諸役人の給仕をした。)・奥坊主(おくぼうず:江戸城内の茶室を管理して将軍や大名・諸役人に茶の接待をした坊主。坊主衆の中では最も権威があった。)の監督を司った。

・「武州押上」以前に出た「本所押上」と同じであろう。現在の東京都墨田区本所の北端部に当たる押上地区(押上・業平・横川)は東京スカイツリーで知られる。

・「金壹兩自分番所にて申渡相渡」南町奉行所より、お上から下賜された一両を褒美として与えられたのは、この亀の現在の所有者である本石町惣右衛門店の林左衞門である。無論、彼が江戸っ子なら、拾った淸五郎の伜豊松へも幾たりかを分け与えたはずである。

・「香合」香を入れる蓋附きの容器。木地・漆器・陶磁器などがある。香箱。

・「大貫次右衞門」先行する「巻之十 奇體の事」に既出の代官。再掲すると、底本の鈴木氏注に、『光豊。天明三年(二十八歳)家督。廩米百俵。六年御勘定吟味方改役より御代官に転ず。文化六年武鑑に、武蔵下総相模郡代付、大貫次右衛門とある』と記す。ちゃり蔵氏のブログ「ちゃりさん脳ミソ漏れ漏れなんですが」のこちらに、大貫光豊(おおぬきみつとよ)と出、『代官・大貫次右衛門』、『代々、次右衛門を名乗る』とあって、天明六(一七八六)年に『勘定吟味方改役から越後水原陣屋の代官の後、関東郡代付代官・馬喰町詰代官を歴任し』、文政六(一八二三)年五月に勇退と記されてある(こちらの方の記載は佐藤雅美作「八州廻り 桑山十兵衛」の登場人物の解説である)。当時は関東郡代付代官であったものらしい。

・「甲の豎三寸斗、横二寸斗」甲羅の縦が九センチメートル、横が六センチメートルほど。

・「西丸御簾中」岩波の長谷川氏注に、世子で徳川家斉次男(同母兄長男の竹千代は早世)の後の第十二代将軍徳川家慶(いえよし 寛政五(一七九三)年~嘉永六(一八五三)年)の夫人で有栖川宮中務卿幟仁(ありすがわのみやなかつかさおりひと)親王王女喬子(たかこ 寛政七(一七九五)年~天保一一(一八四〇)年)。文化六(一八〇九)年降嫁とあるが、ウィキの「喬子女王」によると、幕府の希望により喬子女王は数え十歳で江戸へ下向、以後婚儀までの五年間を江戸城西ノ丸で過ごし、文化六年十二月一日に正式に家慶と婚姻したある。文化一〇年一〇月に長男竹千代、文化十二年に次女、文化十三年に三女を生んだが、孰れも夭折したとある(家慶の後は側室本寿院の産んだ家定が継いで第十三代将軍となった)。文化十一年当時はその長男を失った翌年で、いまだ満十八歳であった。

・「名を豐松と被下候」命名者は将軍家斉であろう。

・「内祕」ごく内々の内緒事。

・「□に右の通被下候と申儀」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『右之趣に被下候と申儀』で「□」は不詳。バークレー校版で訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 白亀(しろがめ)の事

 

 文化十年酉年の七月のこと、本石町(ほんこくちょう)一丁目御堀際(ぎわ)にて、ここに図で示した通りの、かくなる白き亀を、同本石町一丁目の惣右衛門店(たな)の清五郎伜(せがれ)豊松と申す子どもが拾い獲り、甲羅の片端(かたはし)へ穴を開け、そこに凧糸のようなものを通して、ぶら提げて歩いて御座ったところを、同じ惣右衛門店(たな)の林左衛門なる町人が見かけ、たいそう珍しい亀であったによって、銭(ぜに)四十八文(もん)を与え、豊松より貰い受け、林左衛門、

「――珍らしき物なればこそ、我ら信心致いておりまする身延山へ納めとぅ存じまする。……」

との旨、町方の役人へ、これまた、その亀をぶら提げて申し出て参ったによって、これまた、町方の役人も、白き亀を見るなり、

「……これはまた! 珍らしきものなれば。……」

とて、南町奉行へ、これまた、その亀をぶら提げて、取り敢えずはと、訴え出でて参った。

 さてもそこで私は、その後、これまた、その亀をぶら提げて登城致し、七月十三日のこと、その折り、御用番であられた松平伊豆守信明様へ申し上げ、これまた、その亀を恭しくぶら提げ奉り、

「……さてもこの亀、上様のお目にかくるべきものにては御座いましょうや?」

と、申し上げたところ、

「――宜しく、お目見え申し上ぐるように。」

との御沙汰であったによって、直ちに御同朋頭(ごどうほうがしら)へ参らせて、以ってお目見え申し上げたところ、続いて奧方へと相い廻り申し上ぐることと相い成り、翌々日に相いお伺い申し上げたところが――城内にお留(とど)おかるることと相いなった――との由にて御座った。

 さてもそこで、同七月十七日こと、私より松平伊豆守様へ、

「――先年、武州押上(おしあげ)村百姓より――至って小さき――白亀(しろがめ)を差し上(あげ)ましたる折りには、金一両を下賜なされた例(ためし)も御座いまするが……」

といった旨、申し上げたところが、直ちに金一両、私が方へと送付されて参ったによって、南町奉行所にて、かの林左衛門へかくかくの仕儀と相い成ったる由下知致いて、その一両を相い渡し終えた――もっとも、かの押上村の亀の件と申すは、これ先年、私も実物を実見致いて御座るが、香合(こうごう)へ入れてあり、冬のことなれば綿へも載せ置かれた、如何にも小さな亀にして、御代官大貫次右衞門殿より差し出され、御勘定奉行より申し上ぐるという経緯を辿って、かくの如く、処理なされたものではあった――。

 それに対し、このたびの白亀は、甲の縦は三寸ばかりもあり、横も二寸ほどはあって、随分、壮健なる様子にては御座った。

 但し、この亀はお上ではなく、西丸御簾中(にしのまるごれんちゅう)喬子(たかこ)様へ進ぜられて、名を――豊松――と、お下しになられて御座った由。

 これはおって、ごく内密の内輪話として承ったことではある。

 が、私は、拾ったる町の童(わらべ)も――豊松――と申して御座ったことは、その名前なんど、これ、上申に不要のことなれば、一向、申し上げず御座ったにも拘わらず、何と、全く同じく――豊松――と名づけ遊ばされたと申す儀、これ、まっこと、摩訶不思議なることなれば、孰れ、目出たき吉祥(きっしょう)ならんと、お歓び申し上げ奉って御座った。

耳嚢 巻之十 大蛇巖石に打れし事

 大蛇巖石に打れし事

 

 文化十酉年、日光山御修復にて、御勘定方抔大勢參り居(をり)しが、御勘定御吟味役の支配より申越(まうしこそ)候由にて、岸氏咄しに、日光霧降(きりふり)にて、〔右霧降といふは大瀧有(あり)て中段の石に當り霧に成る〕世にうはゞみといへる餘程の蛇、其巣を出るとて上より大石落ちて頭を微塵に打(うた)れ、右蛇頭を出し候處へ巖石落懸(おちかか)り其(その)死をなす事、天誅か天災か、いづれかゝる事も、蛇にかぎらずあるべき事也と、何れも歎息の思ひを語り合(あひ)し也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。因みに、根岸は安永五(一七七六)年から天明四(一七八四)年の勘定吟味役在任時、日光東照宮の修復のために現地に在住したことがあるから、この霧降の瀧は現認しているはずである。

・「文化十酉年」西暦一八一三年。「卷之十」の記載の推定下限は文化十一年六月。

・「岸氏」諸本注なく、不詳。

・「霧降」霧降の滝。栃木県日光市の利根川水系の板穴川の支流霧降川にある滝。上下二段に分れており、上滝は二十五メートル、下滝は二十六メートルで、全長は七十五メートル、頂上部の幅は約三メートルであるが、下部では約十五メートルにも広がっている。途中が岸壁に当たって段になっており、飛び散る水飛沫(しぶ)きが霧のかかったように煙って見えることが名の由来とされる。華厳滝・裏見滝とともに日光三名瀑の一つ(以上はウィキの「霧降の滝に拠った)。

・「うわばみ」巨大な蛇の俗称。大蛇。おろち。うわばみは、十五世紀頃からその使用が見られ、古代語の「をろち(おろち)」に代わって用いられるようになったと思われる語である。うわばみの「うわ」は「上回る」「上手」などと同様の「うわ」とする説と、「大(おほ・うは)」が転じたとする説があり、「ばみ(はみ)」は、食物を食べたり噛んだりする意の「食(は)む」の連用形から転じたとする説、蛇の古形「へみ」から転じたとする説、マムシを指す古語である「はみ」から転じたとする説などあるが、ヘビの古形「へみ」やマムシの古語「はみ」の語源が「食む」なので、どれが正しいというわけではなく、同源と考えるべきであろう、とネット上の語源由来辞典」にある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大蛇が大岩石に打ち潰された事

 

 文化十年酉年のこと、日光山東照宮御修復のあって、御勘定方(おかんじょうかた)などが大勢参って御座ったが、御勘定御吟味役の支配方(がた)よりある報告の御座った由にて、それを受けた岸氏の話によれば、

「日光は霧降(きりふり)に於いて――この「霧降」と申すところには大瀧の御座って、中段の石に瀧水の当たってそれが霧となるところから、かく申すとのこと――世に「蟒蛇(うわばみ)」と称するようなよほどの大蛇が、その瀧の直近に巣を作って御座った。ところが、近頃のこと、この蟒蛇が巣を出でたちょうどその瞬間、上より大石の落ちて、その頭をこなごなにうち砕き、その蛇が頭を出だいた巣の入り口の場所へも巨石の激しく落ち懸り、蛇体、これ、完全にぺしゃんこに相い成って、かの蟒蛇、死に絶えた、とのことで御座った。……さてもこれは――天誅で御座るか――はたまた、ただ偶然のなす天災で御座ったものか――孰れこれ、こうした摩訶不思議なること、邪悪なる蛇に限らず、あるべきことなのでは、これ、御座いましょう。……」

と、孰れの方々も、これを聴き、歎息の思いをなしてしみじみ語り合(お)うて御座った。

耳嚢 巻之十 四瞳小兒の事

 四瞳小兒の事

 

 文化十酉年三歳に成る由、尾陽賤(いやし)きもの、四瞳(しどう)の小兒を産(うみ)しに付(つき)、尾州公の儒臣家田多門作文を人の見せける故、記(しるす)。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。以下、まず、返り点と句読点のみの訓点が振られた底本原文を示す。その後に私のこの漢文体を訓読したものを示す。]

古有重瞳子者、大舜及項籍、此書傳所載焉。我方豐臣秀吉亦重瞳子云。此佗則未曾聞。今玆辛未歳、予在國黌明倫堂。一士來語云、濃州加納之野民、有瞳子兒。頃日同僚士見焉。具語其狀。時加納書生、有學于予、而堂中官舍。乃召問之。對曰、信也、今年當三歳、寡君客歳召見之、兩眼皆四瞳子、眼中盻而黑白鮮也。其兒不敢憚一レ人、毎其見一レ人、其父母教之拜。然於如農賈則不肯拜焉。苟見士人則乃拜之。且不好弄物、特欲刀。居恒飮食乃行歩、不於人而、欲於人。寡君賜之俸、而令其父母敬育之。此兒成而其如何人也、我欲其成

 

□報告書箇所のやぶちゃんの書き下し文

[やぶちゃん注:底本の訓点及び岩波版の長谷川氏の訓点(送り仮名とごく一部の読みがある)を参考にしつつ、私が訓読したものを示す。読み易くするためにシチュエーションごとに改行した。孰れの訓点にも従わなかった箇所もあるので、全くのオリジナルとお考え戴きたい。誤字と思われるものは【 】で正字を示した。最後の一文は筆者の感想と判断した。]

 

 古へ、重瞳子(ちやうどうし)有る者、大舜(だいしゆん)及び項籍(こうせき)、此れ、書の傳へ載せし所なり。我が方には、豐臣秀吉、亦、重瞳子と云ふ。此の佗(ほか)、則ち未だ曾つて聞かず。

 今玆(きんじ)の辛未(かのとひつじ)の歳(とし)、予、國黌(こくくわう)明倫堂(めいりんだう)に在り。一士、來り語りて云はく、

「濃州加納の野民(やみん)に、瞳子(どうし)の兒(じ)有り。頃日(けいじつ)、同僚の士、焉(これ)を見たり。」

と。具さに其の狀を語る。時に加納書生、

「予に從學(じふがく)する者有り、堂中にて官舍す。乃ち、召して之に問ふ。對して曰はく、

『信なり。今年三歳に當り、寡君(かくん)、客歳(かくさい)召して之を見るに、兩眼、皆、四瞳子(しどうし)、眼中、盻【盼(へん)】にして黑白(こくびやく)鮮かなり。其の兒、敢へて人を憚らず、其れ、人を見る毎(ごと)に、其の父母、之を拜せしむ。然して農賈(のうこ)のごときは則ち拜を肯(うけが)はず。苟(いや)しくも士人を見れば、則乃(すなは)ち之を拜す。且つ弄物(らうぶつ)を好まず、特に刀を佩かんと欲す。居恒(つねづね)、飮食乃び行歩(ぎやうほ)、人に後(おく)るるを欲せずして、人に先んずるを欲せんとす。寡君、之れに俸(ほう)を賜ひて、其の父母をして之を敬育せしむ。』

と。

 此の兒、成(せい)して其れ、如何(いかなる)人となるや、我れ、其の成せるを觀んことを欲す。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。奇形譚。尾張藩絡みの出来事が、ここのところ多いのは、話者が同一であるからか。実録で資料も添えられてある。ただ、この報告書、よぅく読むと、その児童に直接逢った人物の直談が記されているのではないようにも読める(こういうボカシは都市伝説特有のものである)。その辺り、眉に唾しておく必要があるようにも思われる。

・「四瞳」瞳が四つあるということ。これは両眼合わせて四つで、それぞれの眼は重瞳ということを言っていると読む(報告書の叙述はほぼ「重瞳」で一貫していて「重瞳」どころかその倍の「四瞳」をそれぞれの眼球に持っていると一箇所もなっていない点、唯一の「兩眼皆四瞳子」は「両眼を合わせて確かに四つの瞳を持つ重瞳」と読んでしっくりくる点、万が一にも一つの眼に瞳が四つあるとしたら描写の叙述がその四つが例えば骰子の目のように配されているといった表現となるはずなのにそれが見られない点などより)。ウィキの「重瞳」によれば、この異様な奇形については特に『中国の貴人の身体的特徴として表現されることが多い。たとえば、伝説上の聖王である舜は重瞳だったという。また、資治通鑑などの史書によれば、項羽も重瞳だったという』。『明らかな異相であるが、王の権威付けのためか、特に古代中国の王には重瞳にかぎらず、常人とは異なった身体的特徴をしていることが多い。たとえば、文王は四乳といって乳首が四つあったといわれ、禹は三漏といって耳の穴が三つあったという伝承が残っている』。『日本においても重瞳は貴人の相と考えられ、豊臣秀吉、平清盛などが重瞳だったという伝承がある』。『もっとも、これについての信憑性はきわめて薄く、まともに論じられることはめったにない。物語においては、壇ノ浦夜合戦記で源義経、幸田露伴の』「蒲生氏郷」『で秀吉が重瞳だったという設定になっていたりもする』。『海音寺潮五郎は、水戸光圀、由井正雪などについても重瞳であったという説を紹介した上、「ひとみが重なっている目がある道理はない。おそらく黒目が黄みを帯びた薄い茶色であるために中心にある眸子がくっきりときわだち、あたかもひとみが重なっている感じに見える目を言うのであろう」と論じている』(以下に述べる私の若い頃の仮説と同じである)。『また、中国の文学者であり歴史家でもある郭沫若は、「項羽の自殺」という歴史短編で、重瞳とは「やぶにらみ」のことであろうと言っている』(郭沫若好きの私は、これも結構、説得力があるという気がしている)。

 この真正の瞳が二つある症状は医学的には多瞳孔症(または多瞳孔)と称されるものであるらしいが、実際に白目の中に瞳が別々に二つあったとすると複視が発生して歩行どころか対象を見ることも困難なのではあるまいかとも思われる(後で述べるが脳内処理で正常なものに補正される可能性もあるか)。とすると、あり得るとすれば、これは虹彩離断(毛様体への虹彩の付着によるその局部的な分離や剥離症状で「虹彩断裂」とも呼ぶ。Iridodialysis 或いは coredialysis)で、一つの瞳孔の中に虹彩とは別な虹彩のような円(瞳)状の分離・剥離が発生していて、あたかも瞳孔が二つあるように見えるということか(ウィキの「虹彩離断」及び正式な眼科医のサイトを参照されたいが、これは実際に先天的にも後天的にも発生するようである。但し、この子はまだ満二歳で両目がそうなっているというのであるから先天的なものであろう。なお、複視がどの程度に発生するのかは調べて見たがよく分からないが、手術を必要とする場合があるとあり、これは、そうでない、複視が生じないか殆どない手術を必要としないケースもあるように読み取れる)。この児童は普通に対象が見えているように思われ、普通に歩行しているようだし、観察者は両目ともに白目と黒目がはっきりと分かれている重瞳であると記しているから、一つの可能性としては複視を伴わない先天性の虹彩離断と考えるのが妥当か? ただ私は実は、項羽の「重瞳」を教師時代に解説した際には、先に述べた通り、黒板に絵を描き、瞳が二つ並んだ重瞳では複視が起ってまともに物は見えないだろう、とすると、これは瞳孔が黒々としているが、その周囲の虹彩が同心円状に有意に色の異なった明るい色(しかし白目との境界線はくっきりとしている)を持っていて、二つのディスクが重なっているように見えるだけなのではないかと説明していた。それは、一つの眼球に瞳が並列(平行)して二つある「重瞳」という眼球の奇形が本当にあるのかどうかということをやや疑っているからではある。都市伝説的な白目の中に二つの丸い瞳孔の画像は検索をかけると確かに出るには出るのだが、どれも画像処理がなされた嘘臭いものとしか見えず、眼科医のサイトなどには見当たらない。ただ、その検索を続けると実は、素人の書き込みながら、実際に知人に多瞳孔症の人がいて、これは結構多いのだと言いながら、病名の後に括弧で虹彩離断と虹彩異色症(「症」と言えるかどうか疑問)の合併のような表記をしているのを発見したから、やはり私は今はこの、先天性の虹彩離断を「重瞳」と称しているのではないかという説の可能性も視野に入れるべきであるとは思っている。ただ、ねっとの書き込みに「三つ目」という不思議な投稿記事をも見つけた。但し、これもその叙述には、これ所謂、そこはかとない都市伝説的な口調が感じられるのではあるが、その質問に答えている人々は彼の告白を信じている様子が窺われる。この真正の多瞳孔症(実際にそのような病態を見たことも聴いたこともないのであるが、多瞳孔症の先天性奇形はあり得ないとは断言出来ない気はする。その場合、一方が機能していないか或いは複視を修正して正しく見えるように脳内に於いて処理されていると考えれば問題ない。そうした処理は脳の作業にあってはお手の物である)……さて? あるのか? ないのか?……そのうち、眼科医の古い教え子に逢ったら聴いてみようとは思ってはいる。その時はまたここに注を追加する。

・「文化十酉年三歳」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。

・「尾州公」当時の藩主は文化一〇(一八一三)年八月までは第十代藩主徳川斉朝(なりとも 寛政五(一七九三)年~嘉永三(一八五〇)年:第十一代将軍徳川家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男)である(彼はこの文化十年八月十五日に家督を家斉の十九男斉温(なりはる)に譲って三十五歳の若さで隠居、以後、名古屋で二十三年間に亙る隠居生活に入った。但し、次代の藩主斉温が一度も尾張入りしなかったため(彼は病弱を理由に江戸藩邸に常住、襲封後、嘉永三(一八五〇)年に二十一の若さで死去するまでの十二年間、第十一代尾張藩主でありながら、何と一度も尾張藩領内に入らなかった)、その後も「大殿」として隠然たる力を持ったとされる。以上はウィキの「徳川斉朝」及び「徳川斉温」に拠った)。最後に俸を賜うところなど、明らかに斉朝らしい感じはするが、しかし、実はこの最後に登場するのは「尾州公」ではあり得ないのである。後注「濃州加納」を参照されたい。

・「家田多門」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『塚田多門』で、この人物なら実在する(岩波の長谷川氏注は藩校『明倫堂督学』(「督学」は学事監督職で現在の校長である。明倫堂は後注参照)とする)。「長野県デジタルアーカイブ推進事業」に県立長野図書館蔵「儒者塚田多門申上書」が読めるが、その解説によれば、塚田多門(大峰)(延享二(一七四五)年~天保三(一八三二)年)は儒者で医師の塚田旭嶺四男として善光寺町桜小路(現在の長野市桜枝町(さくらえちょう))で生まれ、十六歳で江戸に出て苦学を重ね、天明元(一七八一)年尾張藩儒細井平洲に認められて尾張藩の藩侯侍読となり、やがて江戸に家塾を開いたとある。リンクで視認出来る文書は、寛政二(一七九〇)年に老中松平定信が寛政改革の一端として寛政異学の禁を発令、林家の湯島聖堂を官学(昌平坂学問所)とし、朱子学を正学とするもので、それに反対する意見書である。其の大意は、「人は其の気質の近き所によりて各好む所同じからざることに御座候えば、また、弓馬劍槍の術も人々の好みに任せて修行仕る事に御座候えば、學問も本流の流れに御座なく共、人々の好みに任せて修行致させ度ものと存知奉り候」という至極真っ当なものである。これは例外的に正しい「塚田」に直す。それによって本内容の信憑性が遙かに増すからである。但し、これが徹頭徹尾デッチアゲの都市伝説であったとすれば、無論、塚田がその発信源なのではない。恐らく寧ろ彼は信憑性を高める目的で体(てい)よく騙され利用された口である。

・「大舜」中国古代の五帝(「史記」では黄帝・顓頊(せんぎょく))・帝嚳(こく)・尭(ぎょう)・舜)の一人舜の敬称。

・「項籍」秦末の、劉邦(沛公・後の漢の高祖)と覇権を争った楚の武将の項羽の本名。私は高校二年生の蟹谷徹先生の漢文の授業で「史記」の「項羽本紀」を習い、そこで初めて「重瞳」という言葉や様態を知った。思えば、四十年も前のこの語との出逢いだった。

・「豐臣秀吉亦重瞳子」先に引いたウィキの「重瞳」を参照。

・「佗」他。它・侘(この「佗」の誤用慣用)なども「ほか」と読む。

・「辛未の歳」文化八(一八一一)年。

・「明倫堂」尾張藩藩校。ウィキの「明倫堂」によれば、寛延二(一七四九)年創立。天明二(一七八二)年に徳川宗睦(むねちか/むねよし)が再興し、天明三(一七八三)年に開校。細井平洲が初代督学(校長)となり、岡田新川・石川香山・冢田大峯(本資料の筆者と同一人物)・細野要斎ら儒学者が後を継いだ。藩士の子弟だけでなく、農民や町人にも儒学や国学を教え、初期の生徒数は約五十名であったが、後には約五百名まで増加していった。天明五(一七八五)年に聖堂が設けられ、天明七(一七八七)年から復刻を行った「群書治要」などの漢籍は「明倫堂版」と呼ばれ、木活字版が多い。明治四(一八七一)年に廃校となったが、明治三二(一八九九)年に明倫中学校として復活、愛知県立明和高等学校として現在に至っている。なお、リンク先を見ると分かるように「明倫堂」と称する藩校は実際には複数の藩(リンク先には八つ挙げられてある)に同名で存在した。

・「濃州加納」岩波の長谷川氏注に『岐阜市』とあるが、現在の岐阜県岐阜市は美濃国厚見郡加納で加納藩領である。この当時の藩主は第四代藩主永井尚佐(なおすけ 天明三(一七八三)年~天保一〇(一八三九)年)である。ネットで確認すると、加納藩領には下加納村と上加納村が含まれていることが分かる。ということは、加納藩領でない(上で下でもないところの)尾張藩の飛地としての「加納」という村が存在したのであろうか? どうもおかしい。なお、さらに調べて見ると、美濃国ではなく尾張国であるが、現在の岐阜市の南東五キロほどの位置にある丹波郡に加納馬場村(無論、旧尾張藩領)という地名を見出せた(水野日向守氏サイト「水野日向守本陣」内「愛知県地名変遷」の「丹波郡」参照。)。問題は冒頭で根岸が「尾陽」「の小兒」としている点なのであるが、これは齎された文書が尾張藩の塚田の書いたものであったことに起因するミスと考えれば納得が行く。そうすると、後に注する「寡君」の表現も納得が行く。則ち、彼は加納藩の書生であるから、尾張藩の塚田に対しては主君を「寡君」と使うのである(後の「寡君」の注を参照のこと)。ただ、加納藩の若者が尾張藩の藩校に入校して寄宿舎で修学するというのは可能なことだったのかのかどうかは分からない(何となく、出来そうな気はする)。ともかくも識者の御教授を乞うものではある。

・「盻【盼(へん)】」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『肦』で、長谷川氏の注に、『盼。ハン・ヘン。眼の黒白がはっきりしていること』とあるのに依って訂した。「盻」は音「ゲ・ゲイ」で睨むの意、「盼」は音「フン・ブン・ハン」で高い・分けるの意であるが、これらではぴんとこない。「盼」は大修館書店「廣漢和辭典」によれば、音「ハン・ヘン」で、①目の黒白がはっきりしていて美しい。②目使う。美しい目を動かす。③見る。かえりみる。/音「ハン」で美しい目とある。①を採る。……それにしても、どうもこのあたりがピンとこないのだ。◎◎――瞳が二つ、一方の瞳◎の他に、それにくっついてか離れてか左右或いは上下に並んでか、もう一つ瞳が◎がある――というのなら、もう少し表現の仕方、書きようがあろうと思うのだ。寧ろ、そう考えると、またぞろ、私の古い印象である瞳は一つで、◎のようにディスクが二枚くっきりと重なって見えているのではあるまいか? という方にまたまた、私は傾いてしまうのである。

・「農賈」「のうか」とも読める。農家(のうか)と賈家(こけ:商家。)で、百姓と商人(あきんど)のこと。

・「居恒(つねづね)」これは岩波の長谷川氏のルビをそのまま用いさせて戴いた。

・「寡君」前に出た「寡徳の君」(徳の少ないことを言い、通常は自己を卑下して言う)の意で、諸侯の臣下が他国の人に対して自分の主君を自分の側として遜っていう形式上の謙遜語である。とすれば、この重瞳の児童の居る場所が加納藩であるなら、それに「俸」(教育費)を与えた「寡君」というのはここでは加納藩藩士の直接話法であるから、尾張藩主徳川斉朝ではなく、加納藩藩主永井尚佐を指しているということになるのである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 四瞳(しどう)の小児の事

 

 文化十年酉年で三歳になる児童の由。

 尾張藩内のごく身分の低い農民で、両目合わせて、これ、四つの瞳(ひとみ)を持った小児を出生(しゅっしょう)したという珍事につき、尾州公の儒臣(じゅしん)である塚田多門(つかだたもん)殿の作成された文書を、人が見せて呉れたので、ここに記しおくこととする。

   《当該文書引用開始》

 古え、重瞳子(ちょうどうし)これ有る者は、大舜(だいしゅん)及び項籍(こうせき)と、幾多の書の伝え載せているところではある。

 本邦にては豊臣秀吉もまた、重瞳子であった、とは言う。

 しかし、この外にはこれ、いまだ曾て聞いたことはない。

 ところが、今年辛未(かのとひつじ)の年、私、國黌(こっこう)明倫堂(めいりんどう)にあったが、一人の尾張藩士の来たって語って曰く、

「濃州加納の賤しい民の子に、重瞳の子の児(こ)が御座います。つい最近、同僚の武士が、これを目の当たりに見て参りました。」

と、具さにその報告を齎(もたら)したのであるが、まさにその折り、その加納村の出である一書生が私の内弟子として現にあり、学舎の中にて先方の藩方より官費を以って寄宿成し、修学していた。そこで、その者を召し出し、これにその真偽について質してみた。

 するとその際の直談にて申したことに、

「……それは確かなことにて御座います。その児童はこれ、今年で三歳になる者にて御座います。

 昨年のことで御座いますが、我が加納藩主君、この者を召し出だし、特に親しく対面(たいめ)なされましたところ、両目ともに合わせて四つの瞳を有しており、眼中はこれ、黒目と白目とが実にくっきりと鮮かに分かれていることは、主君自ら、お認めになられて御座います。

 さてもその子は、これ、特に人を憚るということが御座いませぬ。

 この子どもは、人と対面致しますごとに、その父母が、この子に挨拶をするよう、命じまする。

 ところが――いまだ頑是ない三歳の子で御座いますが――百姓や商人(あきんど)には、これ、いっかな、挨拶をしようと致しませぬ。

 ところが、いやしくもこれ、相手が武士と見るや、直ちに深々と拝礼致すので御座います。

 かつまた、この子、一向、玩具に興味を示さず、寧ろ、いや殊更に、刀を佩(は)かんと欲するので御座います。

 三歳ながら、日々の飲食乃び行動に於いても、これ何より、人に後(おく)るることを厭(いと)い、如何なる場合もこれ、誰(たれ)よりも先んずることを第一に欲するので御座います。

 さればこそ、我らが主君も、これに俸(ほう)を賜わられ、その父母に十全なる教育を施すよう、これ、命じておられまする。」

とのことであった。

――さても、この児童であるが、恙なく成人したとして、これ、一体、如何なる人物と成るのであろうか?

――ともかくも私は、その児の成人となったる姿をこれ、是非とも見たいと思うのである。

   《当該文書引用終了》

初めてのヨットにてベイ・ブリッジの下を行く

昨日は友人のヨットで人生初ヨットを体験。
妻もビームに荷物のようにぶら下げて乗船。
根岸のヨット・ハーバーからベイ・ブリッジの下をパシフィコ横浜の裏手にあるぷかり桟橋まで往復。
舵も執らせてもらって、実に楽しかった。

2015/03/27

耳嚢 巻之十 奇石の事

 奇石の事

 

 □□と云(いへ)る人の知行より掘出(ほりいだ)せしとて、石を持來(もちきた)りしが、壹寸七八分の石にて、能(よ)く土をあらひ落(おと)し見るに、象に乘りし普賢の像と、自然に見へし故(下缺)

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。一つ前とは奇体な発掘シリーズで連関。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「故」がなく、そこで終わっている。ただ、根岸の記載としてはそこで終わらせるのは――根岸的では、これ、ない。――九百七十章も付き合ってきた私にはそれが分かると断言しよう。――これは確かに続きがあったものかとまずは思われる。しかし何かの理由で破棄したか、馬鹿馬鹿しくなってそこを後で廃棄してしまったのかも知れない。ともかくも……あとのこと知りたや……

・「□□」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『何某』。それで採る。

・「壹寸七八分の」五・一五~五・四五センチメートル。

・「象に乘りし普賢の像」独尊としての普賢菩薩像は蓮華座を乗せた六牙の白象に結跏趺坐して合掌する姿で描かれるのが一般的である。釈迦の法(実践的理性)をシンボライズする菩薩で、同じく釈迦の広大無辺な智慧を象徴する文殊菩薩と並んで釈迦三尊像の二脇侍として知られる。因みに三尊では普賢菩薩は右脇侍(向かって左)である。

・「自然に見へし」これは彫られたものではなく、石の紋脈がそのように見えた(と称した)、所謂、シミュラクラ現象(Simulacra)であったか? さればこそ、実物を見た根岸が、「いくらなんでも、これは象と普賢には見えねえぞ!……と思って書き継ぐのをやめた、という仮定も成り立つかも。いわば、ちょっと――いっちゃてる人が――所謂、関係妄想的シミュラクラに憑りつかれ人が――「根岸殿ッツ! ほれ! ここに象が! ここに普賢菩薩が! 見えましょうほどにッツ! 見えぬ? 見えぬ訳がないッツ! ほれ! ここ! ここッツ!……」とか? 「石」が「奇」だったのではなく話者が「奇」であり「鬼」であって、その後に乱心でもして命を絶ったりしたから、根岸殿、気味(きび)悪くなって続きを書くのをやめた。やめたらやめたで、ちょっとそれが意味深長で面白く見えたってえのは、どうよ? 私は小泉八雲の「茶碗の中」(原話は「新著聞集」巻五第十奇怪篇「茶店の水碗若年の面を現す」)を思い出したりした(あの主人公も現実的な解釈をするならば、一種の精神疾患による幻覚幻視の可能性が高く、結末はないが、如何にも乱心で自滅しそうではないか)。ただ訳すのではつまらない。そこでそれでやらかした。悪しからず!

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇妙な石の事

 

 何某(なにがし)殿――一度は名を記したが、そのお方自身の身にやや問題があるようにも思われたので、ここでは敢えて名は伏せおくことと致す――の知行地より掘り出されたるものとのことで、その御方御自身、その石を持って来られたのであるが、

――大きさは一寸七、八分ほどの小石

であった。

「……拙者、これ、何か、握った途端、ブルブルッツ! ビビビッッツ! ときて御座ったッツ!……何かあるッツ! と、の!……そこで、これ、江戸表まで、大事大事に握り締めたまま持ち帰りまして、の! ずっと! 握り締めて御座ったによって飯も食わず御座ったじゃッツ!……今朝、帰りつくや、これ、よぅく、土を洗い落としてみましたじゃ。……すると!!――ほれッ!!……ここのところじゃッツ!!……よぅ見て御座しゃれッツ!!……象に乗ったる!……普賢の像!――これ! 自ずと見えておりましょうガッ!!!…………!!!…………

耳嚢 巻之十 蚊の呪の事

 蚊の呪の事

 

 五月節句に棗(なつめ)を焚(たき)候得ば、蚊不出(いでざる)事奇妙の由。或人之を傳授なして焚しに、軒端にむれても其家へ不入(いらざる)由。去年焚しが、今年は蚊甚だ少き事奇々妙々なりと、人の語りける也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。生活小百科的呪(まじな)いシリーズ。注意したいのは実際に燻すのではなく、五月五日の端午の節句に焚くことで時には二年(ふたとせ)分の夏の蚊を忌避させる効果があるというのである。

・「五月節句」端午の節句は新暦の五月二十七日頃から六月二十五日頃に相当する。

・「棗」クロウメモドキ目クロウメモドキ科ナツメ Ziziphus jujuba 。乾燥させた実ならそう記載するように思われるから、これは木の柄葉を焚くか? 因みに、漢方では「大棗(たいそう)」、種子は「酸棗仁(さんそうにん)」と称する生薬で、強壮・鎮静作用があるとされるが、蚊の忌避効果についてはネット検索には掛からない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蚊の呪(まじな)いの事

 

 五月の節句に棗(なつめ)を焚くと、その年の夏はこれ、蚊が家屋の内には出でずなること、これ、奇々妙々の由。

 ある人、これを人から伝授されたによって、去年の端午の節句の当日、棗を焙烙(ほうろく)に載せて家内の各所にてぼんぼんと焚いたところが、その夏はこれ、軒端に蚊の群るることはあっても、決して家の内部にへは不思議に入ってこなんだ、とのこと。

――しかも!……

「……それは去年のことで御座っての。……今年はこれ、焚き忘れて御座った。……されど……それでも今年も、蚊、これ、明らかに少のぅ御座る。……これ、まっこと、奇々妙々で御座ろう!?」

と、その御仁の語って御座った。

耳嚢 巻之十 佛像を不思議に得たる事

 佛像を不思議に得たる事

 

 淺草邊に住(すめ)る御旗本の健士(けんし)、樂術の師抔しけるが、獵を好み網を淺草川に打(うち)しに、右網に灰切の如きもの懸りしを、何ならんと取上見しに、釋迦の像なれば持歸(もちかへ)りて淸めなどせしに、いかにも古びたる品ながら、面目(めんもく)のかたは慥(たしか)にわかり、背はしやれて有(あり)しを、木村孫八と云(いへ)る健士は石川氏の弟なるが、其實母に與(あたへ)んと、若(もし)いらずばと乞(こひ)しに、いとやすき事なりとて與へしを、石川の母に贈りしに、殊外(ことのほか)悦び尊崇して圖笥なども二重に出來て殊外尊信ありしが、右佛像功者成(なる)者に見せしに、殊外古き物にて和物(わもの)にあるまじ、誠の赤栴檀(しやくせんだん)と思ふよし、いかにも其香氣一(ひと)かたならず、此程は右を見るとて客來(きやくらい)多しと石川語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:土中から魚を掘り出したかと思ったら、魚の住む水中から舶来の釈迦の像が出現でよく繋がっている。

・「淺草川」岩波の長谷川氏注に、『隅田川の浅草辺の称』とある。

・「樂術」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『柔術』。それで採る。

・「灰切」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『炭切』(長谷川氏は「すみきれ」とルビ)。切り炭のこと。それで採る。

・「しやれて」「しやれ」は自動詞ラ行下二段活用動詞下「しやる(しゃる)」(口語ではラ行下一段活用「しゃれる」)の連用形。「しやる」は「曝(しや)る」「晒(しや)る」で、これ自体も「曝(され)る」が変化したもので、長い間、日光や風雨・水などに曝されて色や形が変わること、晒されて白っぽくなることを言う。

・「石川氏」突然出るので戸惑うが、話者。

・「圖笥」底本には右に『(厨子カ)』と推定訂正がある。

・「赤栴檀」「大辞泉」には、檀香(香木の栴檀・白檀・紫檀などの総称)の一種で木肌の色が赤みを帯びている。白檀の芯材を言うこともあり、中国では沈香(じんこう)を指すこともあった、とある。しかし、このシャクセンダンの学名が分からぬ。ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album と同一か、その亜種のようにも思われる。「沈香」が正しくは沈水香木(じんすいこうぼく)で代表的な香木の一つ。東南アジアに生息するジンチョウゲ科ジンコウ属アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha などの沈香木類などが風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際、その防御策としてダメージを受けた部分の内部に樹脂を分泌、その蓄積したものを、採取して乾燥させ、木部を削り取ったものを言う。名は、原木そのものは比重が〇・四と非常に軽いものの、樹脂が沈着することで比重が著しく増加し、水に沈むようになることから。幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道において、組香での利用に適している。沈香は香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれた(以上の「沈香」の記述はウィキの「沈香」に拠った)。但し、この釈迦像はそのままの状態で香っているから、この沈香製ではないようだ。なお、本邦の「栴檀」はムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach とは全く別種であるので注意が必要。「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」もこのムクロジ目センダン科センダン属のセンダン Melia azedarach ではなく、このビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属のビャクダン Santalum album であるので注意。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 仏像を不思議に得た事

 

 浅草辺りに住まいする御旗本の家士、これ、柔術(じゅうじゅつ)の師範などをもなしておったが、川漁をも好んで御座ったと申す。

 ある日のこと、網を浅草川で打っておったところ、その網に切り炭(ずみ)のようなものが懸ったによって、

「……はて。何じゃ?」

と、網より取り外してよぅ見たところが、これ、

――釈迦の木像

にて御座ったと申す。

 されば、屋敷へ持ち帰って、洗い清めなど致いたところ、背は水の中にあったによって、すっかり色褪せて御座ったものの、如何にも古びたる品ながら、顔形(かおかたち)目鼻の方(かた)、これ、たしかに判別出来たと申す。

 さてここに、その御仁の柔術のお弟子としておられた同じき家士の一人に、これ、木村孫八と申す――実は本話の話者であらるる石川氏の弟なるよし――者の御座って、その実母がこれ、仏道に深く帰依なし、日頃よりお釈迦さまの尊像を持仏として持ちたいと申しておったによって、その像を師の見せくれた折り、ひどく心惹かれたによって、

「……お畏れ乍ら……この尊像……もし、先生には御不要とならば……我が母に与えとう存じまする。……」

と、乞うた。すると師は、

「――それは! たいそうた易いことじゃ! 是非、御母堂へ差し上げなさるるがよいぞ。」

と、即座に渡し呉れたと申す。

 さても、かくしてその石川殿が弟、その母に、この釈迦木像を贈ったところ、殊の外、悦んで尊崇なし、それを安置するために、小さいながらも二重になったる、堅牢にして荘厳(しょうごん)も美しい厨子(ずし)などをも拵え、しきりに尊信致いて御座ったと申す。

 ある時、御母堂、知れる御仁の一人に、目利きの出来る御方のあったれば、その仏像を親しく見せて御座ったところが、

「……こ、これは!……殊の外、古き品にして……いや! 本邦にて彫られたる物にては、これ、御座るまい!……しかも、その材には、これ、正真正銘の天竺に生(お)うるところの、幻の赤栴檀(しゃくせんだん)を用いて御座るようにお見受け申す!……ほれ! よぅ、香りを聴いてみなさるがよい!」

と申したによって、御母堂、尊像を鼻先へと持って参ったところが、これ、

――いかにも!

――その香気!

――えも言われぬ美薫(びくん)!

にして、それはそれは、一方(ひとかた)ならぬもので御座ったと申す。……

「……近頃では、この尊像を見んとて、来客、引きも切らず――という次第にて御座る。……」

と、私の知れる、その兄石川殿の語って御座った。

耳嚢 巻之十 土中より鯉を掘出せし事

 土中より鯉を掘出せし事

 

 御繪師に、板屋敬意といへるあり。外より梅の鉢うへをもらひ兩三年も所持せしが、右梅を地へ移し、外の品植(うゑ)かへ候と、右をあけけるに、黑く墨のごとく成(なる)もの、右土のかたまりの中より出けるが、少し動きける故、暫(しばらく)置(おき)けるに、眼口ようのもの出來(いでき)て、魚にてもあるべしと思ふに任せ、なを一間(ひとま)なる所に入れ置しに、全(まつたく)の鯉魚(りぎよ)となり尾鰭(をひれ)も動きければ、水へ入れ置(おく)に飛踊(とびをどり)、常の鯉魚なり。潛龍(せんりゆう)の類ひにも有(ある)べし、海川へ放し遣(つかは)し可然(しかるべし)と、老分(をとなぶん)など申(まうす)故、櫻田邊の御堀内へ放しけるとなり。是も文化十酉年度(ねんど)の事なりき。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:異物の掘り出しで直連関。「これも」とあって連関性を本文でも示している。底本の鈴木氏注に、『三村翁注「十九巻本我衣巻八、文化十年の条目、宮家の画工、板屋桂意が庭に、石台の梅あり、先年或諸侯より給はりて、七八年を経て、下草なども繁れり、五月十九日のひる頃、其下草のしきりにうごきて、土を穿て飛出る物有、皆おどろきて、立より見れば、五寸許の魚なり、こは不思議とて、土を洗ひ見るに、鯉に似て髭あり、其図の写したるを所々に流布すといへども、未だ見ず云々、とあり。」』とある。岩波の長谷川氏注によれば、この鈴木氏の指摘は考証家石塚豊芥子(いしづかほうかいし 寛政一一(一七九九)年~文久元(一八六二)年)の「豊芥子日記」中巻を根拠としているとある。肺魚(脊椎動物亜門肉鰭綱肺魚亜綱 Dipnoi に属するハイギョ類は両生類的な側面を持っていて呼吸を水に依存しないため、地中で粘液と泥からなる被膜を形成して繭状となり、雨季がやってくるまでの驚くべき長時間(最長四年とも)を夏眠で過ごす。その土がたまたま日干し煉瓦に使用されてしまい、雨季になって水分を含んだ家の壁から目覚めた肺魚が生きて出て来きたという事件は、とあるTV番組で私も見たが、これ、事実である)じゃあるまいし、と私も当初は眉唾とも思ったが、例えば鉢植えとはいえ、地面に植え替えようというのだから、これ、相当に大きなものに違いなく、この置かれていた場所が低く、梅雨時などの折りに浸水するか、或いは普段からその真下に地下水脈などが流れており、頗る小さな穴状の泥質帯が、この梅の鉢の下に通じていたなどという仮定を考えるなら、鯉や鯰などの幼体が迷い込んでいたとしてもおかしくない。水分を含んでいる泥土状の中なら、この手の淡水魚は比較的有意な時間生存することが可能である。この注、私は大真面目で書いているので悪しからず。作り話確定だろうが何だろうが、全一的に否定することは寧ろ、科学的ではない。万が一つでもある現象の可能性は可能性として書かねば、考証や注とは言えないと私は思っている。これがエチオピアやアマゾン(肺魚類の棲息地)での出来事なら馬鹿にした奴が驚かされるからである。

・「板屋敬意」底本の鈴木氏注に、『板谷桂意。名は広長。桂舟広当の子。此咄は虚談の由、何書かにて見し覚えあり。(三村翁)』とある。思文閣の「美術人名辞典」には板谷桂舟(慶舟)として載り、『江戸中・後期の画家。江戸生。名は広当、初名は広度・広慶、剃髪して慶舟のち桂舟と改める。住吉広守の門に入り土佐派の画を学ぶ。幕府の奥絵師に任じられ、板谷家をたてた。板谷派として後に継がれるが、画風は土佐、住吉と変わりなく、長男広行が住吉広守のあとを継ぎ、次男広長が板谷家を継いで桂意と号した。この後、子孫は桂舟と桂意との号を隔代に継ぐことになる』とあった。この初代は寛政九(一七九七)年に六十九歳で没とあるから、「文化十酉年」(一八一三年)では十六年前に亡くなっているが、『子孫は桂舟と桂意との号を隔代に継ぐことになる』から、必ずしもおかしいとは言えない。

・「海川」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『河川』。それで採る。

・「老分(をとなぶん)」岩波の長谷川氏のルビを参考にした。また同長谷川氏注には、『家来の主だった者』ともある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 土中より生ける鯉を掘り出した事

 

 御(おん)奥絵師に板屋敬意と申す者が御座った。

 とある御方より梅の鉢植えを頂戴致し、三年ほども所持致いて御座ったが、かの梅、相応に成長なしたによって、これを地面へ移し替え、鉢には外の品をば植え替えんと思うて、これを慎重に取り外して移さんと致いた。

 ところが、その折り、黒き墨の如き形をした不思議なものが、これ、その鉢底の土塊(つちくれ)の中より出て参ったと申す。

 これがまた、何か少し動くように御座ったによって、暫らくそのままにしておいたところ、暫く致いてよぅく見てみると、これ、

――眼や口

のような部分が見てとれ、どうみても、

――魚

のようなる感じにも見えると思うたによって、なお、皿に入れて、屋敷の一間の隅に引き入れおいたところが、これ、全くの、

――鯉(こい)!

となり、これ、

――元気に――尾鰭(おひれ)さえも――動かす!

ようになって御座った。

 されば、慌てて水甕の中へと移し入れおいたところが、これ、

――飛び踊って!

これ、全く以って普通の、

――鯉!

 されば、

「……こ、これは!……地に潜むと言わるるところの潜龍(せんりゅう)の類いにも、違い御座いませぬ!……かくなる上は速やかに、河川へと放ち遣わすこと、これ、得策にて御座る!」

と、重き家来なんどが頻りに申したによって、桜田門辺りの御堀内へ、この鯉、放しやったと申す。

 これも文化十年酉年の年度のことと承って御座る。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 懐かしの東大風景と音楽教師ドクター・メーソンのこと

 翌朝我々は東京へ行き、人力車で加賀屋敷へ行った。銀座と日本橋とが、馬車鉄道建設のために掘り返されているので、我々はお城の苑内を通行し、お堀を越したり、また暫くその横を走ったりした。本郷へ来ると何等の変化がないので、悦しかった。角の時計修繕屋、罪の無い奇妙な小人、トントンと魚を刻む男、単調な打音を立てる金箔師、桶屋、麦藁帽子屋――彼等は皆、私が三年近くの前に別れた時と同じように働いていた。加賀屋敷には大変化が起っていた。前にドクタア・マレーが住んでいた家の後には、大学の建物の基礎を準備するために、大きな納屋がいくつか建ててある。ドクタア・マレーの家には大きなL字形がつけ加えられ、この建物は外国の音楽を教える学校になるのである。ボストン市公立学校の老音楽教師ドクタア・メーソンが教師とし雇われて来ているが、彼が今迄にやりとげた仕事は驚異ともいう可きである。彼は若い学生達と献身的に仕事をした結果、すでに信じ難い程度の進歩を示すに至った。外国人は日本の音楽を学ぶのに最大の困難を感じるが、日本の児童は我々の音楽を苦もなく学ぶものらしい。

[やぶちゃん注:日本到着の翌日、明治一五(一八八二)年六月五日。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には次のように書かれてある。

   《引用開始》

 モースは翌六月五日上京した。新橋の駅に降りたったモースは、二年半あまり見ないうちに東京が少しずつではあるが姿を変えはじめていることを実感しただろう。人力車しかなかった衝に鉄道馬車が通ることになり、ちょうどモースが釆た頃には新橋と日本橋のあいだの軌道の施設も終わっていたからである。開業はその月の二十五日、同じ年の十月には日本橋―浅草間も開通している。一方、電灯会社の設立も進められており、デモンストレーションに銀座で二〇〇〇燭光のアーク灯を点灯、真昼のような明るさに驚いた江戸っ子が連夜押しかける騒ぎとなったのも、モースの到着からわずか数箇月後のことだった。演説や講演といえば貸席しかなかったのに、その前年には木挽町に演説集会専用の木造西洋風の大建築、明治会堂が建てられていた。

 徐々にではあるが近代化しはじめた東京の街を、モースはどのような感慨で眺めたのだろうか。[やぶちゃん注:後略。]

   《引用終了》

私は個人的には、モースは恐ろしいスピードで変貌しつつある東京の都市風景に、いわく言い難い違和感と言うか、古き良き美しき日本風景が失われることへの、漠然とした危惧を感じたのではなかったかと考えている。そうした思いをモースはここでは、謂わば自身がここで果してきた職務――文明開化の宣教師(キリスト教嫌いのモースに私は敢えて使う)――として抑えようとしているかに見える。しかし私は「本郷へ来ると何等の変化がないので、悦しかった。角の時計修繕屋、罪の無い奇妙な小人、トントンと魚を刻む男、単調な打音を立てる金箔師、桶屋、麦藁帽子屋――彼等は皆、私が三年近くの前に別れた時と同じように働いていた」(下線やぶちゃん)という描写に、そうしたモースの心の底にある真情が汲み取れるように思うのである。

「ドクタア・マレー」元文部省学監ダヴィッド・マレー(David Murray)。既注。彼は明治一二(一八七九)年に帰米していた。

「罪の無い奇妙な小人」“the curious little dwarf with no chin”。問題は“curious”で、確かに「好奇心をそそるような・珍しい・不思議な・奇異な・変な」という意はあるしかしそれは続く“little dwarf with no chin”という如何にも「奇妙で」「変な」様態(わざわざ“dwarf”を“little”で形容しているのである)には屋上屋である気がするのである。寧ろこれらが、モースが馴染みで親しく好ましい人物の点景であるとすれば(私はそうだと思っている)、まさに「物を知りたがる・好奇心の強い・もの好きな・詮索好きな」と訳したくなる。則ち、辞書的な意味でしか訳せない私にはこれは、「下顎(したあご)のない好奇心旺盛でひどく背の低い小人(こびと)」と訳す以外にはないのである。しかし、それでも、この奇体は、どうにも気になってしまう。……これは、重い障碍を持った者の、家の前を通ったその折りの情景なのだろうか?(私が小学校の頃、通学途中の農家の縁側には、いつも白い綿入れを着た知的障碍を持った少女が日向ぼっこをしながら縫物をしていたのを思い出すのである。彼女は私たちが覗くと「何だよう!」と言って怒ったものだった)……しかし一読、前後が総て店屋の店先から見える職人たちであることから、私は実はこれは、前の「時計修繕屋」で働いている身体に障碍を持った、知的障碍は伴っていない職人の一人なのではないかと推理した。先天性下顎欠損症を合併していた成長ホルモン分泌不全の小人(こびと)症の人物であった可能性である。時計修繕は座業で、こうした障碍者の仕事としては向いている。また、時計職人と知的好奇心の旺盛さというのは、すこぶる相性がよい様に思われるからである。大方の御批判を俟つものではある。

「老音楽教師ドクタア・メーソン」音楽教育のお雇い外国人として文部省音楽取調掛で西洋音楽の指導を行ったアメリカ人ルーサー・ホワイティング・メーソン(Luther Whiting Mason 一八一八年~一八九六年)。ウィキルーサー・ホワイティング・メーソンによれば、『メイン州のターナー生まれ。アメリカ各地で長年音楽の教師を勤めた。おもに独学で音楽教育を確立し、歌の収集を行い、音楽教科書と音楽の掛図を公刊し、音楽教育の革新に成功した。合衆国では主に初等音楽教育の第一人者であった』。一八六四年から一八七九年のボストン滞在時代に、『合衆国に留学していた文部省の伊沢修二に唱歌の指導をしたのが縁となり』、一八八〇(明治十三)年に『明治政府に招聘され日本に渡った。メーソンは文部省音楽取調掛の担当官(御用係)となった伊沢とともに、音楽教員の育成方法や教育プログラムの開発を行った。『小學唱歌集』にも関わった。日本にピアノとバイエルの『ピアノ奏法入門書』を持ち込んだのもメーソンである』。『メーソンは当時音楽取調掛に勤務していた岡倉覚三(天心)とも親しかったという』。『メーソンは日本の西洋音楽教育の基礎を築いたのち』、この明治一五(一八八二)年に日本を離れているが、実は『メーソンは滞在の延長を望んだが、おもに予算の都合でその希望はかなえられなかった』とある。『合衆国に帰国したメーソンは、ヨーロッパ各国を歴訪を4度行い、何百もの楽譜の収集と指導法の視察を行った』。『帰国後も伊沢に書簡を送り、本格的なオーケストラ発展のためには、難かしいオーボエやホルンの演奏家を養成すべきと説いている』とある。盲人の音楽による教育にも熱心であった。明治学院大学機関リポジトリの手代木俊一氏の論文明治と讃美歌:明治期プロテスタント讃美歌・聖歌の諸相に彼の日本での業績が詳述されている。必見。「老音楽教師」とあるが、当時、メーソンは既に六十四歳であった(因みにモースはこの時、四十四歳)。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  文覺屋敷蹟

   ●文覺屋敷蹟

文覺屋敷蹟は大御堂の西にて座禪川に邊(へん)せり。濶一町許神護寺の文覺か居蹟なりと云傳ふ。

[やぶちゃん注:鎌倉青年団の碑は雪ノ下四丁目、金沢街道から大御堂(おおみどう)橋を渡った先にある。新編鎌倉二」には、

○文覺屋敷 文覺屋敷は大御堂(をほみだう)の西の方、賴朝屋敷の南向ふなり。文覺、鎌倉に來て、此所に居すとなり。【東鑑】に、養和二年四月廿六日、文覺上人、營中に參す、去る五日より、三七日斷食して、江島(えのしま)に參籠し、懇祈肝膽を砕き、昨日退出すと云ふ。是れ鎭守府の將軍藤原の秀衡(ひてでひら)調伏のためなりとあり。文覺の傳、【元亨釋書】にあり。

と載り(「三七日」は掛け算で二十一日)、鎌倉攬勝考卷之九では、

文覺旅亭舊跡 大御堂より西の方を、土人等舊跡なりといへり。文覺は京師の高雄に住せしが、養和二年四月廿六日、右大將家の請に依て下向し、此間江島に籠り斷食し、肝膽をくだき修法申せしゆへ、今日御所へ參りし事あり、又無程歸洛せり。扨此文覺は、心たけき人にて、鳥羽院の御行狀をうとみ、後高倉院を御位につけ奉らんと思ひけれども、賴朝卿のおはしけるゆへ、思ひも立られず、斯く正治元年正月うせ給ひしかば、頓て謀反を起さんとせしが、露顯して捕へられ、八十餘にして隠岐國へ流され、彼國にて失けりといふ。賴朝卿の薨逝は正月の事にて、文覺が流されしは同じき四月の事なりといふ。此所に住せしにあらず。

(「頓て」は「とみにて」或いは「にはかにして」と訓じているものと思われる)とあって、植田孟縉(もうしん)は史跡性を斬って捨てていて頗る痛快である。なお、伝承ではこの北の滑川河岸で文覚が座禅を組んだとされることから、この附近の滑川を座禅川と呼称している。]

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十二年 足摺岬・新居浜 他

   *

 

生きてまた絮あたたかき冬芒

 

[やぶちゃん注:「絮」「わた」と訓じていよう。]

 

木枯の絶間薪割る音起る

 

ひとたび来し翡翠(かはせみ)ゆゑに待ちつづく

 

吸入器噴く何も彼も遠きかな

 

胡桃割る音団欒のおしだまり

 

 足摺岬

 

枯れ崖(きりぎし)長し行途につきしばかり

 

また同じ枯れ切通しこの道ゆく

 

紅実垂る大樹長途も半ば過ぐ

 

[やぶちゃん注:「紅実」「くみ」と訓じているか。]

 

郵便脚夫に鴉は故旧枯山中

 

[やぶちゃん注:「郵便脚夫」「ゆうびんきやくふ(ゆうびんきゃくふ)」は郵便集配人の旧称。「故旧」は昔馴染み・旧知の意。]

 

りんりんと海坂張つて春の岬

 

[やぶちゃん注:「海坂」「うなさか」と訓じていよう。]

 

断崖にすがるよしなし海苔採舟

 

海の鴉椿林の内部知る

 

椿林天透きてそこ風疾し

 

一人の遍路容れて遍路の群増えず

 

冬の旅日当ればそこに立ちどまる

 

   新居浜

 

かりかりと春の塩田塩凝らす

 

一丈のかげろふ塩田に働きて

 

黒々とかげろふ塩田万一里

 

出来塩の熱きを老の掌(て)より賜(た)ぶ

 

[やぶちゃん注:これら(前年末と推定される冒頭五句を除く)は年譜の昭和三二(一九五七)年二月の条に、『NHK放送のため、誓子と新居浜、足摺岬へ旅行。遍路に会う』とある折りの吟詠であろう。NHK放送は以前より多佳子の出演していたラジオ番組「番茶クラブ」か。「新居浜」は「にいはま」と読み、愛媛県東予地方に位置する市。多佳子が訪れたのは多喜浜塩田(たきはまえんでん)であろう。正徳六・享保元(一七一六)年に開田され、享保年間に備後国から招かれた塩業家天野喜四郎によって幾度もの拡張工事がなされて総面積二百三十八ヘクタールに及ぶ日本有数の大塩田に発展、代々天野喜四郎の子孫によって受け継がれ、長年に亙ってこの地方の重要な産業基盤となったが、この多佳子来訪の僅か二年後の昭和三四(一九五九)年、国策によって廃田となった(現在は埋め立てられて新居浜市を代表する工業団地となっている。以上はウィキ多喜浜塩田に拠った)。この四句、結果して、まさにこの塩田の落日を描いていて、いや万感胸に迫る思いがするではないか。]

2015/03/26

耳嚢 巻之十 全身の骸骨掘出せし事

 全身の骸骨掘出せし事

 

 四ツ谷邊御旗下(はたもと)の屋敷におひて、〔三田藤之助屋しきの由〕全身の骸骨を掘出(ほりいだ)しけるに、珍しき事、いづれ捨置(すておき)候は如何(いかが)なりとて、近邊の寺へ送り葬りしに、其夜召使ふ下女口走り品々の事を言(いひ)しが、我(わが)骨を掘出し、寺へ送りしはさる事なれ、一向に法事供養もせざる事ぞ心得ねと申(まうし)ける故、翌日正氣になりし故、右下女に尋(たづね)ければ、大きなる坊主來りて、しかじかの事言ふ由答(こたへ)ける故、さる事もありなんと、金貮百疋布施として右寺へ贈り、法事などいたしけるが、其夜も又々、右下女何か不分(わからざる)戲言(たはぶれごと)なして、夜すがらさわがしかりける故、翌朝正氣附(つき)し比(ころ)、又々尋ければ、昨日法事もなし候て辱(かたじけなき)由、最早本意も叶ひし上は重(かさね)て來(きた)るまじ、主人へも能々(よくよく)禮を賴(たのむ)と申けると語り、其後は右樣(みぎやう)の事もなかりしとや。文化十年酉六月の事の由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。ここのところ、調子づいている感じの発掘系怪異譚。

・「三田藤之助」底本の鈴木氏注に、『寛政譜では藤之助守巽(モリスケ)はまだ年少で、兄の守吉が嗣子だが、守吉が若死して守巽が家督を継いだものと思われる。同家は五百石』とあるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこの割注が『三田(さんた)藤兵衞屋敷の由』とあって、長谷川氏は注で、『好文(よしぶみ)。寛政八年(一七九六)大番』とある。考証の新しい長谷川氏が正しいと思われるが、底本のままで訳した。

・「文化十年酉六月」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、ちょうど一年前のホットな都市伝説である。

・「貮百疋」百疋が一貫(千文相当)で、凡そ現在の五万円ほどか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 全身の骸骨を掘り出したる始末の怪異の事

 

 四ッ谷辺りに住まう御旗本の屋敷に於いて――伝え聴いたところでは三田藤之助殿御屋敷との由――全身一体が揃った骸骨を掘り出したと申す。

 何かの事件に関わるものとは思われない古き骨ではあれど、異様なる出来事で御座ったによって、御当主、

「……孰れ、捨て置くと申すも、これ、如何(いかが)なものか。」

と、近辺の寺へ心ばかりの金品を添えて遺骨を送り、葬って御座ったと申す。

 ところが、その夜のこと、屋敷にて召し使(つこ)うておった下女が、これ、何やらん、訳の分からぬことを口走り始め、前後脈絡もなきことを喚いて御座ったが、その中に、

「……我ガ骨ヲ掘リ出ダシ、寺ヘ送リシハ相応ナル仕儀ニテハアレ……一向ニコレ……法事供養モ致サザルハ……コレ心得ヌコトジャ……」

と申す一言、これ、聴き分けられた。

 されば翌日、正気に戻ったによって、このことに就きて、かの女に、それとなく質いてみたところが、

「……夢うつつのうちに……何やらん、大きなる坊主の女中部屋へと参り……そのようなることを、これ、言うて御座いましたを、幽かに覚えて御座いまする。……」

と答えたによって、主(あるじ)は、

「……ふむ。そのようなること、これ――ない――とは申せぬ、の。」

と、その日の内に、金二百疋をお布施として、かの寺へと贈って、法事などを致させたと申す。

 すると、その夜もこれまた、かの下女、何やらん、訳の分からぬ異言(いげん)をなして、一晩中これ、喚いて御座った。

 されば、再び、翌朝、正気付いた頃合いを見計らって、またまた質いてみたところが、

「……夢うつつのうちに、またまた、昨日の大きなる坊主の参りまして、何でも……

――昨日、法事をもなし呉れたこと、これ、忝(かたじけ)ない。――最早、本意(ほい)も叶(かの)うたる上は、これ、重ねて来たること、あるまいぞ。――そなたが主人へもよくよく御礼のほど、これ、頼みおく。――

……と、申して御座いましたようなるを、これ、幽かに覚えて御座いまする。……」

と語ったと申す。

 その後(のち)は、かような変事は、これ、一切、起らずなったとか申す。

 文化十年酉年の六月のことと聴き及んで御座る。

耳嚢 巻之十 安藤家重器茶碗の事

 安藤家重器茶碗の事

 

 安藤右次衞門方に、先祖次右衞門大坂御陣の時深手を負(おひ)候間、赤繪の茶碗に藥湯(やくたう)を入(いれ)、御手自(づから)賜(たまはり)候由。右は朝鮮王より太閤秀吉へ三つ遣りし、其一品にて、其後太閤より被進(しんぜられ)候器にや、其銘に曰(いはく)、〔赤繪染付なり〕

  十年窓下無人問   一擧成名知天下

 右次右衞門家に、重器とて持傳(もちつた)へし、蟲干の節見しと、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:物品譚で軽く連関。茶事に興味のなければ、語るも、検索するも、これ、意欲なし。悪しからず。

・「安藤右次衞門」底本の鈴木氏注に、『次右衛門の誤。正武。同家は代々次右衛門を称す。二千五百石。先祖次右衛門正次は大坂冬の陣後大坂城の外堀を埋める工事の奉行をし、夏の陣には旗奉行として出陣、前田利常、本多康紀の陣に軍令を伝えるために赴き、敵数十騎と戦い首級を得、なお深く進んで負傷し、家康自ら秀吉下賜の茶碗で茶を立ててねぎらった。茶碗の銘は太閤の武威を称した句。以上は寛政譜に記すところであるが、茶碗を賜わったとは記してない。なおこの傷によって正次は没した。五十一』とある。ウィキの「安藤正次(旗本)」によれば、安藤正次(永禄八(一五六五)年~元和元(一六一五)年)は三河安藤氏の分家の阿久和安藤氏。始祖の安藤定次の子で次右衛門尉、禄高二千石。父が慶長五(一六〇〇)年の伏見城の戦いで戦死し、家督を継ぎ、元和元年の大坂夏の陣に徳川秀忠に属し、御旗奉行(戦場にて旗指物の管理を行う役)を務めた。五月七日、大坂城落城の直前に秀忠の使者として前田利常及び本多康紀両軍に敵陣への攻撃を伝えたが、その際、数騎の敵と遭遇、単身で戦って敵方の首級を挙げたものの、自らも深傷を負って家臣に助けられて本陣に戻り、秀忠から高名したと賞賛された。宿所の平野郷願正寺にて傷の療養をしていたが、再起不能と悟って自刃した。享年五十一。墓所は大阪市平野区の樋尻口地蔵堂向かいにある、とある。名は訳では訂した。

・「朝鮮王」当時の朝鮮王は李氏朝鮮時代(但し、中国王朝の冊封(さくほう)体制下)の第十四代国王宣祖(ソンジョ/せんそ 一五五二年~一六〇八年)。この茶器は天正一八(一五九〇)年に豊臣秀吉に派遣された通信使(十二月三日に秀吉に謁見)の折りにもたらされたものか? 因みに、この時の朝鮮通信使は名目上は秀吉の日本統一を祝賀することを目的としつつも、実際には朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめるために派遣されたものであった。

・「赤繪」赤を主調として緑・紫・青などの顔料で上絵付けをした陶磁器。中国では宋代から見られ,日本では正保年間(一六四四年~一六四八年)に柿右衛門が取り入れて同時期に九谷でも行われるようになった。

・「十年窓下無人問 一擧成名知天下」は、元の劉祁(りゅうき)の元が亡ぼした金史を綴った史書「帰潜志」が出典。

 

 十年 窓下(さうか) 人の問ふなし

 一擧 名を成し 天下知る

 

と一般には読むようだ。

――苦学すること十年を経たが、誰(たれ)独りとして立ち止まって私を振り返り声をかけて呉れた人はいなかった。しかし、かく一たび功を成したれば、瞬く間に天下これ皆、我が名を知り尽くす――といった意味であろう。但し、原典通りならば、

 

十年窗下無人問。一舉成名天下知。

 (十年するに窗下(さうか)、人の問ふ無し。一舉(いつこ)して名を成し、天下、知る。)

 

が正しい(訓読は野狐禅風我流)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 安藤家御家宝の重器茶碗の事

 

 安藤次右衛門(じえもん)殿が方に、先祖次右衛門殿が大坂夏の陣の時、深手を負われたところが、畏れ多くも、大御所様御自身、これ、手ずから、赤絵(あかえ)の茶碗に薬湯(やくとう)をお入れ遊ばされて賜わられたと申す、これ、いわくつきの名茶器にて御座る由。

 これは、かの朝鮮王より太閤秀吉へ三つ贈られた内の、その一品にして、その後(のち)、太閤より大御所様へ進ぜられたる茶器なる由。

 その銘に曰く――赤絵にて、茶器そのものに染め付けられたものである――

 

  十年窓下無人問   一挙成名知天下

 

「……これ、次右衛門家に、家宝の重器として持ち伝えたるものにして、虫干しの折りに、拙者、管見致いて御座った。……」

とは、とある御仁の畏れ入って語っておられたことにて御座る。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 三度目の来日(1)

この私の全注テクストも残り8章……正直、終わるのが――いや――





 第十九章  一八八二年の日本

 

 二ケ年と八ケ月留守にした後で、一八八二年六月五日、私は三度横浜に到着し、又しても必ず旅行家に印象づける音と香と光景との新奇さを味った。日本の芸術品を熱心崇拝し、そして蒐集するドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウが、私の道づれであった。我々が上陸したのは夜の十時だったが、船中で死ぬかと思う程腹をへらしていた我々は、腹一杯食事をし、降る雨を冒して一寸した散歩に出かけた。ホテルに近い小川を渡り、我々は本村と呼ばれる狭い町をブラブラ行った。両側には小さな宿が櫛比しているのだが、その多くは閉じてあった。木造の履物をカタカタいわせて歩く人々、提灯(ちょうちん)のきらめき、家の内から聞える声の不思議なつぶやき、茶と料理した食物との香、それ等のすべてが、まるで私が最初にそれを経験するのであるかの如く、興味深く感じられた。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、明治一二(一八七九)年秋に帰米したモースは、翌一八八〇年七月三日にピーボディ科学アカデミー館長に就任(彼はこれより同館長を三十六年に亙って勤め、同アカデミー(現在のセーラム・ピーボディ博物館)を日本の民俗学資料コレクションの一大拠点に成し上げた)したものの、日本へのさらなる憧憬の止まなかった。磯野先生の叙述によれば、彼の内心の再々来日への最大の希求は、陶器や民具に対する抑え難い興味関心であったらしい。結局、アカデミーの理事会を東洋の民俗学的資料収集旅行という名目で説得、日本再訪を認めさせた。セーラムを離れたのは一八八二年四月二十五日で今回は家族は伴わず、単独(日本行きにはビゲローが同伴)であった(因みに、今回の、そして永遠の離日は翌明治一六(一八八三)年二月十四日で、その後は中国・東南アジア経由でヨーロッパへ向かい、マルセイユからパリを経てイギリスに行き、同年六月五日にいわば地球を一周してニューヨークへ戻った)。

「一八八二年六月五日」明治十五年。但し「六月五日」は六月四日の誤り。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、五月十六日にサンフランシスコをビゲローとともに「シティ・オブ・ペキン」号で出帆、十九日の航海であった。

「ドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウ」“Dr. William Sturgis Bigelow”既注であるが再掲しておく。ビゲロー(一八五〇年~一九二六年)はアメリカの日本美術研究家。ボストンの大富豪の家に生まれ、一八七四年にハーバード医学校を卒業したが、続く五年のヨーロッパ留学中に日本美術の虜となる。一八八一年に日本から帰国していたモースと知遇を得、生涯の知己となった。モースとともに明治一五(一八八二)年に来日、フェノロサとともに岡倉天心らを援助、膨大な日本美術の逸品を収集し、アメリカに持ち帰った。それらは死後にボストン美術館に寄贈されたが、このコレクションには、最早、国内では失われた北斎の版画の版木など日本美術の至宝と言うべきものである。滞在中(モースの離日後もビゲローは日本に滞在し、一時的帰国を挟んで明治二二(一八八九)年まで実に七年に及んだ。またその後も明治三十五年から翌年にかけても来日している)に仏教に帰依し、天台宗などの研究も行っている(主に磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載に拠った)。

「ホテルに近い小川」「ホテル」は、いつもの横浜グランドホテル(第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 1 モース来日早々「よいとまけ」の唄の洗礼を受くの私の注を参照)で、「小川」は元町と山下町の間を流れる中村川(この辺りの下流域では堀川とも呼称する)である。

「本村」現在の横浜市中区元町。――この深夜の下駄や人の話声の音風景、燈火の視覚、茶と懐かしい日本料理の香りに、モースが恍惚とするさまが目に浮かぶ――]

尾形龜之助 「出してみたい手紙(1)」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    出してみたい手紙(1)

 

         尾形龜之助

 

あ…な…た…の…な…ま…け…も…の

あ…な…た…と…私…の…な…ま…け…も…の

あなたは今日私へ手紙を出して呉れましたか

 

 

Dasitemitaitegami

 

 我想寄出这样的信试试看(1)

         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

妳…这…个…懒…虫

妳…和…我…这…些…懒…虫

你今已经发给我信了吗?

 


         
矢口七十七/

尾形龜之助 「死」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    死

 

         尾形龜之助

 

午前二時

私は眼が覺めた

 

戸を開けて病院の方を見た

 

私に飛びかゝりそうないやな暗みだ

 

雨が降つてゐる

 

今夜中そばにゐて下れと云つた

 

 

妻が死にかゝつてゐるようである

 

私の前のふすまを開けて妻が入つて來そうだ

 

そんなことがあれば妻は死んでゐるのだ

 

 

[注:初連を除く行の有意な行空けはママ(底本とした全集では、この初連の二行の間は実は改頁であるが、版組を見る限り、繋がっているとしか思われない。実際、全集の次頁にある「題のない詩」では五連の内、最初の四連が一行で最終連が詰まった二行となっている)。「飛びかゝりそうな」・「暗み」(くらやみ)・「下れ」(くれ)・「ようである」・來そうだ」も総てママ。]

 

 

Si

 

 

         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

凌晨两点

我醒来了

 

把门拉开远眺医院方向

眼看就要向我猛扑过来——令人生厌的漆黑

下着雨……

求我陪她整夜的

我的妻……

相信她陷于病危

感觉她就要拉开我前面的纸拉门进来

如果真的——!那意味她已死亡……

 


         
矢口七十七/

2015/03/25

耳嚢 巻之十 眞那板一種の事

  眞那板一種の事

 

 或人云(いはく)、此程眞那板(まないた)の由にて如圖(ずのごとき)品を見たり。甲州にては、專ら此(この)眞那板を用(もちゐ)る由。魚肉其外常の通(とほり)料理し、精進の日は打(うち)かへし用る由。其理(ことわり)有(あり)て面白きゆゑ、爰に記す。

 

Manaita

 

□やぶちゃん注

○前項連関:食材から厨房具で連関。生臭さものの血の穢れもさることながら、プラグマティクに、生臭さが菜料などに移らぬようにすること、さらに現代的に考えれば、海産の魚介類に多く付着している腸炎ビブリオ(プロテオバクテリア門 Proteobacteria γ(ガンマ)プロテオバクテリア綱ビブリオ目ビブリオ科ビブリオ属腸炎ビブリオ Vibrio parahaemolyticus 。中には耐熱性溶血毒を含む一群がおり、想像以上に厄介である)による食中毒の危険性を考えれば、至極、効用のある仕儀である。特に足を附けることで裏面への浸潤をある程度は抑止出来る構造にもなっているように思われる。なお、極めて類似した俎板の図とその解説が、山東京伝(宝暦一一(一七六一)年~文化一三(一八一六)年)の考証随筆「骨董集」(文化一二(一八一五)年板行)の「中之卷」の十章目「魚板(まないた)の古製(こせい)」に載るので、以下に示す。底本は吉川弘文館「日本随筆大成 第一期第十五巻」を用いたが、恣意的に正字化した。読みは一部のみ採用した。

   *

   魚板の古製

文明時代の酒食論(しゆしょくろん)といふ畫卷(ぐわくわん)、又寛永時代の繪(ゑ)に、此魚板(まないた)見えたり。これ式正(しきしやう)のものにはあらざるべけれども、魚板の一種の古制(こせい)を見るべし。今も京都の舊家にはまれにあるよし、好事(かうず)の人、文臺(ぶんだい)などにしてもたるもありとぞ。又甲州(かうしう)の民家には、今もこれを用るよし、表にて魚類(ぎよるい)を切(きり)、裏にて菜類(さいるい)を切る便利よきものとぞ聞(きゝ)ける。

 

Kottousyuu_manaita

 

■やぶちゃん「骨董集」キャプション注

●「洞齋所藏」狩野派の画家菅原洞斎(宝暦一二(一七六二)年~文政四(一八二一)年)であろう。江戸生まれ。仙台侯に仕え、鑑定家としても知られる。谷文晁の妹婿でもある。

●「曲尺(カネザシ)」現在の尺と同じ。一尺は三十・三センチメートル。鯨尺(布地の長さを測るのに使われていたもの)の八寸に相当。

●「七寸三分」二十二・一センチメートル。

●「足一寸二分四方」方形の足の平面一辺の長さ三・六センチメートル。

●「二尺六分」六十二・四センチメートル。

●「足高サ三寸」四隅の角材の全長約九・一センチメートル。

●「アツサ 六分」中央の俎板本体の厚さ約二センチ八ミリ。

   *

 因みにこの「酒食論」とは、恐らく「酒飯論絵巻」のことであろう。十六世紀に制作されたと言われる日本の絵巻で、酒好きの男と下戸で御飯好きの男、両方適度に嗜む男の三人がそれぞれの持論を展開するという構成で描かれた絵巻物で、全長十四・六メートル、内容は調理から配膳・飲食の様子が詳細に描かれてあって、当時の食文化を知る貴重な資料となっているという。サイズは縦が三十・七センチメートルで、狩野元信筆と土佐光元筆になるものがとみに知られ、その模写本や異本も多数、存在している。主人公の三人は酒好きの造酒正糟屋朝臣長持(みきのかみかすやあそんながもち)、飯好きの飯室律師好飯(いいむろりっしこうはん)、中庸派の中左衛門大夫中原仲成(ちゅうざえもんたいふなかはらなかなり)。四部構成で、第一段に三人の紹介、第二段で酒の徳、第三段で飯やその肴(さかな:おかず。)と茶の面白さ、第四段に至って、どちらもほどほどがよいと語られてあるという。長持は念仏宗、好飯は法華宗、仲成は天台宗の宗徒という設定であて、表向きは飲食について語りながらも、実は天台宗の中道観の優位性を説いている、とウィキの「酒飯論絵巻」にある(私は未見)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  俎板(まないた)の一種の事

 

 ある人の曰く、

「……近頃、俎板の一種の由にて、この図のようなる一品を見て御座った。……甲州にては、今も專ら、この形の俎板を用いておる由にて御座る。これ、魚肉その他の場合には常の通り、この状態で料理致し、生臭さを忌避致す精進の日は、これ、これを、ひっくり返して用いる、とのことで御座った。……」

 これを聴きながら、確かにその理(ことわり)、これ、目から鱗にて、実に面白う感じて御座ったればこそ、ここに記しおくことと致す。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十八章 講義と社交(Ⅱ) 家族学校講演と慶応義塾での進化論講話と剣道試合観戦 第十八章 講義と社交~了

 私は華族の子弟だけが通学する華族学校で、四回にわたる講義をすることを依頼された。校長の立花子爵はまことによい人で、私が発した無数の質問に、辛抱強く返事をしてくれた。私の質問の一つは、長い間別れていた後に再会した時、日本人は感情を表現するかということであった。私は、日本人の挨拶が如何にも冷く形式的で、心からなる握手もしなければ抱擁もしないことに気がついたので、この質問を発したのである。彼は日本の貴族が、長く別れていた後では、抱擁を以て互に挨拶することも珍しく無いといい、実例を示す為に私の肩に両腕を廻し、そして愛情深く私を抱きしめた。その後、私は、私を彼の「アメリカのパパ」と呼ぶ可愛らしい少年(今や有名な法律家で、かつてドイツ及び北米合衆国の日本大使館の参事官をしていた)に、彼の父親が、長く別れていた後で、両腕に彼を抱き込まぬかと聞いた。彼は「そんなことは断じて無い」と答えた。「然しお父さんは如何にして彼の愛情を示すのか?」「彼はそれを目で示すのです。」その後私は、彼の父親が遠方の町から私の家へ来て、息子に挨拶するのを見たが、なる程彼の両眼には、この上もなく優しい親の慈愛が輝いていた。

[やぶちゃん注:「華族学校」前述したように現在の学習院大学であるが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この四回に亙る講演は厳密に言うと大学の校舎ではなく神田錦町の学習院敷地内にあった華族会館で行われたもので、公演日は明治一二(一八七九)年七月二十日(日曜)・二十一日・二十四日・二十五日の四日であった。ウィキの「霞会館」(かすみかいかん:一般社団法人で同会館組織の後身の現存組織)組織としての華族会館は明治七(一八七四)年に発足(同組織は単なるクラブではなく書籍局・講義局・勉強局・翻訳局の設置がその規約に謳われている)、明治一〇(一八七七)年に華族子弟の教育機関として学習院が創立されたとある。また、華族会館が発足したのは浅草本願寺であったが、二ヶ月後に永田町の旧二本松藩邸に移り、ここで創立総会を開いて、その後、神田錦町の学習院内・宝田町・上野公園内文部省官舎へと移り、明治二三(一八九〇)年に鹿鳴館を借り受けて移転、明治二七(一八九四)年にはその八千坪の土地とともに総て買い受けたとあるから、一応、当時の神田錦町の学習院内であろうと推定する(鹿鳴館の落成は本記載内時間より四年後の明治一六(一八八三)年で、所謂、「鹿鳴館時代」というのは、そこから明治二〇(一八八七)年までの時期を指すのでモースが永遠に日本を去った後であるので注意が必要である)。なお、この時の講演について、「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には、以下のようにある(注記号は省略した)。

   《引用開始》

 同じ七月にモースは、神田錦町にあった華族会館で、四回連続の講演を行なっている。これは上流階級を対象にしたもので、そのときの招待状――

[やぶちゃん注:以下、底本では引用全体が一字下げ。底本は新字であるが、ここは恣意的に正字化した。]

「今般米國博物大博士東京大學教授モールス氏ヲ本館ニ招請シ、左ノ題案ヲ講述致候(東京大學理學部教授矢田部良吉口訳[原文、割注])。右ハ新説奇聞ニシテ學術上裨補不少候條、同族一般(不論男女)日割之通リ毎日午前八時御來館、聴聞相成度候也。

  明治十二年七月十六日   華族會館

  課題幷(ならびに)日割

一 動物成長ノ怪異    七月廿日

一 蟻ノ奇ナル習慣    同 廿一日

一 人生ノ原由      同 廿二日

一 日本ノ古人種     同 廿五日」

 このうちの「人生ノ原由」は人類の由来ということだろう。講演は、毎回朝八時半くらいから一時間半ほどだったという。皇族も聴講し、最終日には講演後パーティが開かれ、三五〇人が出席したと『その日』にある。

   《引用終了》

老婆心乍ら、この内の、

 右ハ新説奇聞ニシテ學術上裨補不少候條、同族一般(不論男女)日割之通リ毎日午前八時御來館、聴聞相成度候也。

は、

 右は新説奇聞にして、學術上、裨補(ひほ)少なからず候(さふら)ふ條(でう)、同族一般(不論男女(なんによ)を論ぜず)日割(ひわ)りの通り、毎日午前八時御來館、聴聞(ちやうもん)相ひ成られたく候ふなり。

と読んでいよう。「裨補」は「ひほ」と読み、畳語で、助けおぎなう意である。

「校長の立花子爵」学習院初代院長立花種恭(たねゆき 天保七(一八三六)年~明治三八(一九〇五)年)。旧陸奥下手渡藩第三代藩主(佐幕派)、後に旧筑後三池藩藩主として廃藩を迎え、明治二(一八六九)年に版籍奉還により知藩事となるが、明治四(一八七一)年には廃藩置県により退任、明治一〇(一八七七)年十月から明治一七(一八八四)年五月まで学習院初代院長を務めた。但し、子爵になったのは明治一七(一八八四)年七月八日のことであるから、この時(明治一二(一八七九)年七月)は子爵ではない。しかも授爵はモースが永遠に日本を発った翌年のことである。これはもしかすると、その後に彼からの手紙があったか、関係者からの報知によって子爵となったことを記憶していたモースが時差無視してこう記述したしまったものかと思われる)。その後は明治二三(一八九〇)年七月に貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任した。その他、華族会館副幹事・同学務局長・宮内省御用掛・同省爵位局主事などを務めた(以上は主にウィキの「立花種恭」に拠った。下線はやぶちゃん)。

『私を彼の「アメリカのパパ」と呼ぶ可愛らしい少年(今や有名な法律家で、かつてドイツ及び北米合衆国の日本大使館の参事官をしていた)』「第十一章 六ケ月後の東京 21 モース遺愛の少年宮岡恒次郎」に出る東大予備門の学生で、モースの動物学教室の助教で生物学者高嶺秀夫の書生でもあった、モース一家から実の子同然に可愛がられたという宮岡恒次郎のことである。リンク先の私の「小宮岡」(“little Miyaoka”)の注を参照されたい。当時は恒次郎は未だ満十三、四歳であった。なお、床間彼方氏のブログ「青二才赤面録」の「926 宮岡恒次郎・その2」には、宮坂(彼は元は竹中姓で養子である)の出自について(ということはモースの弟子格となる恒次郎の兄で医師の竹中成憲も)『幕臣、譜代・旗本を強く匂わせる』という記載がある。この推理が本当なら、この少年はこれ――美濃岩手竹中家本家――かの竹中半兵衛の子孫ということになるのである! リンク先、必読!]

 

 華族学校は、間口二百フィート以上もある、大きな木造の二階建で、日本人が外国風を真似て建てた多くの建物同様、納屋式で非芸術的である。両端には百フィートあるいはそれ以上後方に突出した翼があり、それ等にはさまれた地面を利用して大きな日本の地図が出来ている。これは地面を山脈、河川、湖沼等のある浮彫地図みたいに築き上げたもので、滞沼には水が充してあり、雨が降ると河川を水が流れる。富士山の頂上は白く塗って雪を示し、平原には短い緑草を植え込み、山は本当の岩石で出来ている。都邑はそれぞれの名を書いた札によって示される。大海には小さな鼠色の砂利が敷き詰めてあるが、太陽の光線を反射して水のように輝く。この美しくて教育的な地域を横切って、経度と緯度とを示す黒い針金が張ってある。小さな娘たちが、彼等の住む町や村を指示する可く、物腰やさしく砂利の上を歩くところは、誠に奇麗な光景であった。日本の本州はこの地域を斜に横たわり、長さ百フィートを越えていた。それは日本のすべての仕事の特徴である通り、精細に、正確に設計してあり、また何百人という生徒のいる学校の庭にあるにもかかわらず、完全に保存されてあった。私はまたしても、同様な設置が我国の学校園にあったとしたら、果してどんな状態に置かれるであろうかを考えさせられた。

[やぶちゃん注:ネット上にこの大八洲のミニチュアの写真がないか探したが、見当たらない。写真その他、情報をお持ちの方、是非、御教授あれかし。

「間口二百フィート以上」建物のフロント幅六十一メートル以上。

「百フィート」三十・四八メートル。]

 

 私はこの学校で初めて、貴族の子供達でさえも、最も簡単な、そしてあたり前の服装をするのだということを知った。ここの生徒達は、質素な服装が断じて制服ではないのにかかわらず、小学から中等学校に至る迄、普通の学校の生徒にくらべて、すこしも上等なみなりをしていない。階級の如何に関係なく、学校の生徒の服装が一様に質素であることに、徐々に注意を引かれつつあった私は、この華族女学校に来て、疑問が氷解した。簡単な服装の制度を立花子爵に質問すると、彼は、日本には以前から、富んだ家庭の人々が、通学する時の子供達に、貧しい子供達が自分の衣服を恥しく思わぬように、質素な服装をさせる習慣があると答えた。その後同じ質問を、偉大なる商業都市大阪で発したが、同じ返事を受けた。

[やぶちゃん注:「華族女学校」学習院女子中・高等科の前身。
 
「その後同じ質問を、偉大なる商業都市大阪で発した」この「その後」とは明治一五(一八八二)年六月の三度目の来日で同年七月二十六日からフェノロサやビゲローと関西を旅した折りのことと思われる。モースはこの四十日後の明治十二年九月三日に帰国しており、その間、関西方面には行っていない。]

 

 この学校に於る私の最後の講義には、皇族方や、多数の貴族やその家族達が出席された。率直さや礼儀正しさによって、まことに彼等は貴族の名に辱じぬものがある。彼等の動作の、すこしもてらう所無き魅力は、言語に現し得ぬ。これは興味の深い経験であった。そして、通訳者を通じで講義せねばならぬので、最初は窮屈だったが、遂に私は一度に一章を云うことに慣れ、それを私の通訳者たる矢田部教授が日本語でくり返した。この最後の講義の後で、西洋風の正規の正餐が出たが、それは大したものであった。正餐に臨んだ人数は三百五十人で、私はひそかに彼等の動作や行動を視察した。静粛な会話、遠慮深い謝礼、お辞儀や譲り合い、それ等はすべて極度の率直さと、見事な品のよさで色どられていた。

[やぶちゃん注:「矢田部教授」矢田部良吉。]

 

 私は福沢氏の有名な学校で講演する招待を受けた。日本で面会した多数の名士中、福沢氏は、私に活動力も知能も最もしっかりしている人の一人だという印象を与えた。私は、実物や黒板図に依て私の講演を説明し、自然陶汰の簡単な要因を学生達に判らせようと努力した。この種の経験のどれに於ても、私は、日本人が非常に早く要点を捕えることに気がついたが、その理由はすぐ判った。日本人は、米国人が米国の動物や植物を知っているよりも遙かに多く、日本の動植物に馴染を持っているので、事実田舎の子供が花、きのこ、昆虫その他類似の物をよく知っている程度は、米国でこれ等を蒐集し、研究する人のそれと同じなのである。日本の田舎の子供は、昆虫の数百の「種」に対する俗称を持っているが、米国の田舎の子供は十位しか持っていない。私は屢々、彼の昆虫の構造上の細部に関する知識に驚いた。

[やぶちゃん注:モースが最後に虫の名前の子どもらの知識について述べていることは、実はそれ以上にモースの専門やそれに近しい魚類や海産無脊椎動物の名前にこそ言うべきであるという気が私はする。これは今現在の、大人の日本人と外国人の間でも、はっきりとした有意な違いである。あなたの近くの外国人に魚や貝の名前を母国語でどれだけ挙げられるか競争してみられるがよい。まず、十中八九、あなたの勝ちである。

「福沢氏の有名な学校」無論、「福沢」は福沢諭吉、「学校」は彼の創立した慶応義塾大学であるが、これは順序からいうと、華族会館での講演よりも九日前の七月十一日に行われた進化論講話を指している。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に以下のようにある(注記号は省略した)。

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]『慶応義塾百年史』に引用されている当日の『永井好信日記』には、

[やぶちゃん注:以下、底本では引用全体が一字下げ。底本は新字であるが、ここは恣意的に正字化し、読みも歴史的仮名遣に代えた。]

「此日午前十時半頃東京大學の教師「モールス」、メンデンホール、フェネロサの三氏及び英國の女一人來たり、當塾教授を一見し、終(をはり)て柔術場に至り、柔術、劍術を見、夫(それ)より三階に至り午飯を喫し、終て書生一同で公開演説館に會し、モールス氏變進論(エボリユーシヨン)を演説し、矢田部氏之を口譯せり。右演説をはり暫時萬來舍にて福澤先生及び教師等と談話し歸れり」

とある。福沢諭吉はモースを高く評価しており、明治十一年十二月十八日付の田中不二麿宛書簡でモースを東京学士会院の会員に推薦したほどだった。もっとも、モースがアメリカ人だったからか、帰国を決意していたからか、この推薦は実現しなかった。また、のちに福沢は、留学した子息捨次郎の世話をモースに頼んでもいるのである。

   《引用終了》]

 

 一例として、私が一人の小さな田舎の子で経験したことを挙げよう。私は懐中拡大鏡の力をかりて彼に、仰向けに置かれると飛び上る叩頭虫(こめつきむし)の、奇妙な構造を見せていた。この構造を調べるには鏡玉(レンズ)が必要である。それは下方の最後の胸部環にある隆起から成っており、この隆起が最初の腹部切片にある承口にはまり込む。叩頭虫は背中で横になる時、胸部と腹部とを脊梁形に曲げ、隆起は承口を外れてその辺にのりかかる。そこで身体を腹面の方に曲げると、一瞬間承口の辺で支えられる隆起は激烈な弾き方を以てピンと承口の中へはまり込み、その結果虫が数インチ空中へ飛び上る。さてこの構造をよく知っているのは、我国では昆虫学者達にとどまると思うが、而もこの日本の田舎児はそれを総て知っていて、日本語では米搗(つ)き虫というのだといった。蹴爪即ち隆起が臼の杵と凹(くぼみ)とを現しているのである。彼は然し、この構造を精巧な鏡玉で見て大きによろこんでいた。

[やぶちゃん注:「叩頭虫(こめつきむし)」(謂わずもがな乍ら、「叩頭」は音「コウトウ」で「こめつきむし」は無論、当て字)原文は“an elater beetle”。“elater”は植物学用語で胞子を弾き出す弾糸で、ここに言う鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae のコメツキムシ類(英名は他にClick beetle とも)をも指す。ウィキの「コメツキムシ」によれば、『天敵に見つかると足をすくめて偽死行動をとる(世に言う「死んだふり」)。その状態で、平らな場所で仰向けにしておくと跳びはね、腹を下にした姿勢に戻ることができる。(胸―腹の関節を曲げ、胸を地面にたたきつけると誤解されるが、頭―胸を振り上げている。地面に置かず手に持つことで確認できる』。『この時はっきりとパチンという音を立てる。英語名のClick beetleはクリック音を出す甲虫を意味する』。『天敵などの攻撃を受けてすぐに飛び跳ねる場合もある。これは音と飛び跳ねることによって威嚇していると考えられている。この行動をとらないコメツキムシ科の種も存在する』とある。なお、その跳躍の高さを「数インチ」(一インチは二・五四センチメートルであるから六インチとしても十五センチメートル強だが、コメツキムシは大型個体ならその跳躍は三十センチメートルに及び、恐らく動物の中では恐ろしく敏捷な動作を示す。

「承口」「うけぐち」と訓じている。

「米搗(つ)き虫」原文は“a rice-pounder”。“pounder”は石板や鉢で擂り潰す人、突き砕く人の意。]

 

 講演後福沢氏は私に、学生達の素晴しい剣術を見せてくれた。彼等は皆剣術の甲胃を身につけていた。それは頸部を保護する褶(かさね)と、前方に顔を保護する太い鉄棒のついた厚い綿入れの冑と、磨いた竹の片で腕と肩とを余分に保護した、つっばった上衣とから成っている。上衣には綿入れの褶数片が裾として下つている。試合刀は竹の羽板を数本しばり合わせたもので、長い日本刀に於ると同じく、両手で握るに充分な長さの柄がついている。大なる打撃は頭上真直に来るので、両手で試合刀を縦に持ち、片方の手を前方に押すと同時に下方の手を後に引込ます結果、刀は電光石火切り降される。

[やぶちゃん注:「褶(かさね)」原文は“lappets”。この訓は一般的なものではない。防具の面の正面の咽喉の前に下がる「顎(あご)」と左右の「面布団(めんぶとん)」。“lappets”は衣服・帽子などの垂れ飾り・垂れで、石川氏の「褶」は襞状の垂れ下がるものを指して言っているらしいが、訓ならば「しびら」「ひらみ」「ひらおび」である。但し、それらは孰れも腰に垂らすものであり、失礼ながら、石川氏は鎧の「札(さね)」の意に慣用転用しておられるようにも見える。]

 

 学生達は五十人ずつの二組に分れ、各組の指導者は、自分を守る家来共を従えて後方に立った。指導者の頭巾の上には直径二インチ半で、糸を通す穴を二つあけた、やわらかい陶器の円盤があり、対手の円盤をたたき破るのが試合の目的である。丁々と相撃つ音は恐しい程であり、竹の羽板はビシャンビシャンと響き渡ったが、もっとも撲った所で怪我は無い。福沢氏は、有名な撃剣の先生の子息である一人の学生に、私の注意を向けた。彼が群衆をつきやぶり、対手の頭につけた陶盤をたたき潰した勢は、驚く可きものであった。円盤は数箇の破片となって飛び散り、即座に争闘の結果が見えた。学生達は袖の長い籠手(こて)をはめていたが、それでも戦が終った時、手首に擦過傷や血の出るような搔き傷を負った者がすくなくなかった。

[やぶちゃん注:ここで唐突に二回目の来日の記載は終わっている。モースは実はこの二回目の来日を最後として、この時には三度目の来日は考えていなかった(故郷の友人ジョン・グールド宛書簡では専門の腕足類の研究と書物の執筆の他、イーディスとジョンの教育上の問題をその理由として挙げている)。そうした当時の彼自身の内心を見透かされることをモースは――愛する日本のために――嫌ったのかも知れない。それが、こうした不思議なブレイクになって表れているように、ここまでモース先生と一緒にやってきた私には、何となく、感じられるのである。但し、モースは離日の前月の八月中旬に武蔵国冑山(かぶとやま:現在の埼玉県東松山市と熊谷市の境)の古墳を調査しているが、ここは次の三度目の来日の際に行った同所の調査と混同してずっと後の「第二十四章 甲山の洞窟」で一緒くたに書かれてしまっている(随って、この時調査はそちらで注する)。

「丁々と相撃つ音は恐しい程であり、竹の羽板はビシャンビシャンと響き渡ったが、もっとも撲った所で怪我は無い。」原文は“The noise of the clash was terrific; the slats of bamboo made a resounding whack, though the blows did no damage.”である。“whack”というのは一種のオノマトペイアらしく、棒で殴打・強打すること・ぴしゃり、と辞書にある。

「二インチ半」六・三五センチメートル。]

耳嚢 巻之十 深川の白蛇船頭の跡追ふ事

 深川の白蛇船頭の跡追ふ事

 

 文化十酉年、本所押上(おしあげ)の普賢(ふげん)殊外(ことのほか)參詣多き事ありしが、同年二月の頃、深川へ客を送りけるや、川筋の船頭翌朝戻り舟を漕歸(こぎかへ)りけるに、餘程の白蛇、右舟に付(つき)跡を追ひて來りし故、己が河岸(かし)へ船を付(つけ)しに、尚上へ上りて船頭の跡へ附(つき)、彼(かの)家の内へ入りければ、妻子恐れけるを制して、桶をかぶせ置(おき)て、翌日押上の普賢へ納(をさめ)けるに、右寺には名代(なだい)の大木の松ありしに、右松の邊にて隱顯して住(すみ)けるを、白蛇を見んと追々參詣群集(ぐんじゆ)なしけると也(なり)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。動物奇譚。

・「文化十酉年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。

・「本所押上」「本所押上」は現在の東京都墨田区本所の北端部に当たる押上地区(押上・業平・横川)は東京スカイツリーで知られる。

・「普賢」というのは、この墨田区業平にある日蓮宗長養山春慶寺(東京スカイツリー南東約二百メートルに位置する)にある普賢堂の普賢菩薩のこと(本尊は釈迦如来)。公式サイトによれば、春慶寺は元和元(一六一五)年に浅草森田町に真如院日理により創建され、寛文七(一六六七)年、浅草から本所押上村へ移転したとあり、古くから「押上の普賢さま」と称され、特に辰年・巳年の守り本尊として多くの参詣人で賑わったとある(因みに、この寺は四世鶴屋南北の菩提所でもある)。底本の鈴木氏注に、『本所押上の普賢菩薩は、春慶寺の普賢堂の事なり。推古朝百済の僧観勒の請来と云、二寸八分の尊像と云、文化九年壬中三月十四日より開帳、夫より引つゞきて参詣多かりしか。(三村翁)』とある。この像は六本の牙をもった白象に乗るもので、現在は普通に拝観出来る。公式サイトでも画像が見られる。

・「深川」非公認の深川(洲崎)遊郭へは客は舟で通った。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 深川の白蛇、船頭の後を追うこと事

 

 文化十年酉年は、本所押上の普賢の開帳に、これ、殊の外、参詣の者、数多御座った。

 それに先立つ一月ほど前のことの由。

 同年二月の頃、深川の遊里からの帰りの客ででもあったものか、川筋の船頭、朝方に船を使い、客の降りて、戻り舟を漕ぎ返しておったところ、かなり大きなる白蛇(はくじゃ)が、これ川面を、その船頭の舟について後を追うて参るのに気づいた。

 自身の舫(もや)いの河岸(かし)へ舟をつけても、この白蛇、なおも、陸(おか)の上へと登り、船頭の後をついて参って、遂には、かの者の家の内へまで入(はい)り込んだによって、船頭の妻や子は、これ、大いに恐れた。

 されど船頭、その騒ぎを制して、蜷(とぐろ)を巻いて凝っとしておる白蛇に、そっと桶を被せおいた。

 さても翌日のこと、船頭は、やはりちんまりと静かにしておった白蛇を、これ、桶内に移すと、かの押上の普賢さまへと持ち込んで、この白蛇を寺へ納めたと申す。

 かの春慶寺には知られた大木の松の御座るが、この白蛇、その松の辺りにて、これ、姿を見え隠れさせつつ、住みなしておると申すが、これまた、その白蛇を見んものと、近頃は、またまた参詣の者、これ、群聚(ぐんじゅ)なしておる、とのことで御座る。

尾形龜之助 「晝の雨」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    晝の雨

 

         尾形龜之助

 

土手も 草もびつしよりぬれて

ほそぼそと遠くまで降つてゐる雨

 

雨によどんだ灰色の空

 

松林の中では

祭りでもありそうだ

 

[注:「ありそうだ」はママ。]

 

 

Hirunoame

 

 白天的雨

         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

河堤 杂草 都被细雨淋湿……

隐没在这场雨里的静谧世界……

 

蒙蒙雨中低垂密布的灰色天

 

也有可能在松林间

开一个庙会吧……

 

Hirunoame_2
 


         
矢口七十七/

2015/03/24

耳嚢 巻之十 珍ちん麥の事

 珍ちん麥の事

 

 備後にちんちん麥といふあり、上品の由。餘國にもある事、聞(きき)及びしや、備後福山城主阿部備中守より賜りし事ありしに、其味(あじは)ひ格別にて、予麥の飯は餘り好まざれど、彼(かの)麥は甚(はなはだ)よく覺へければ厚く禮を述(のべ)しに、傍に脇坂中書公有(あり)て、チンチン麥は別段の事、中書朝鮮人來港の御用にて、則(すなはち)備中守領内を通りしに、麥と思敷(おぼしき)もの畑に見事にみのりしを見しに、通途の大麥は野毛(のげ)多き處、一向毛なく、小麥ともまた異なり。兼て聞(きき)及びし故、珍々麥やと、側なる者もて尋(たづね)しに、所のもの、さん候、能(よく)御存(ごぞんじ)と申(まうし)けるが、中書の案(あんず)るに、チンチンの號、其謂(いは)れあるか。土俗毛のなき處より、小兒の陰莖をちんこといふに批(ひ)して申(まうし)ならはしけると、格物せしと語りぬ。左(さ)もあるべき事也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。食用植物博物誌。

・「珍ちん麥」芒(のぎ)のない麦類ということで調べて見たが、捜し方が悪いのか、種として探り当てることが出来なかった。これを単子葉植物綱イネ目イネ科オオムギ属オオムギ変種ハダカムギ Hordeum vulgare var. nudum とする記載も見かけたのだが、画像を見る限りに於いてハダカムギには芒はある(但し、ウィキハダカムギを見ると、この種群は『粒の皮裸性(実と皮の剥がれやすさ)に着目した系統名のひとつで、オオムギの品種のうち実(穎果)が皮(内外穎)と癒着せず容易に離れるため、揉むだけで皮が剥けてつるつるした実が取り出せる品種群のことをいう』とあって、この性質をかく言っているのだろうか? 識者の御教授を乞うものではある。ただ、野生種であればあるほど、遠くへ飛ばすために芒は長く大きくなる傾向があるから、この地方で栽培改良されたものは、芒が著しく細く短くなったものであった、という風には推理は出来るように思われる。

・「聞及しや」底本には「や」の右に『(也カ)』と訂正注がある。

・「備後」備後国。広島県の東部分に相当する。現在の福山市(坪生(つぼう)地区東部・野々浜地区の一部を除く全域)・尾道市(生口島(いくちじま)・瀬戸田町地区を除く全域)・三原市(西部・沼田川以南を除く全域)・府中市全域・三次(みよし)市(江(ごう)の川以東の全域)・庄原(しょうばら)市全域・世羅(せら)郡全域・神石(じんせき)郡全域に該当する(以上はウィキの「備後国」に拠る)。

・「福山城主阿部備中守」主に備後国(広島県東部)南部および備中国(現在の岡山県西部一帯)南西部周辺を領有した福山藩(藩庁は福山城(現在の広島県福山市)。譜代。石高十万石。「卷之十」の記載の推定下限文化一一(一八一四)年六月当時は第五代藩主阿部正精(まさきよ 安永三(一七七五)年~文政九(一八二六)年)で、この頃は幕閣として奏者番兼寺社奉行でもあった。また、この三年後の文化十四年には老中に昇格している。

・「脇坂中書公」播磨龍野藩第八代藩主脇坂安董(わきさかやすただ 明和四(一七六七)年~天保一二(一八四一)年)。官位は従五位下淡路守から従四位下中務大輔・侍従に進んだ。この後、以前に勤めた寺社奉行に戻った後、やはり老中となっている。「中書」は中務省の唐名。龍野藩は播磨国龍野周辺を領有した藩で藩庁は龍野城(現在の兵庫県たつの市)。

・「朝鮮人來港の御用」朝鮮通信使による幕府への「聘礼(へいれい)」(品物を贈る礼式)は天明の大飢饉以降(実際には政治的駆け引きによる)、中止されていたが、翌文化八(一八一一)年に二十年ぶり「易地聘礼」(「易地」は場所を江戸から対馬に変えることをさす。幕府予算の削減が目的)が実現した。脇坂の言うのはその時の御用である(御用の内容は不明だが、対馬へ実務官僚として出向いたものか)。因みに、この時、安董は奏者番兼寺社奉行であった。

・「思敷(おぼしき)」は底本の編者ルビ。

・「大麥」イネ科オオムギ Hordeum vulgare

・「野毛」底本には「や」の右に『(芒)』と訂正注がある。「のぎ」で、稲・麦などイネ科植物の実の外殻にある針のような毛のことであるが、これは「のげ」とも読み、本文自体はこれで問題ない。

・「小麥」イネ科イチゴツナギ亜科コムギ連コムギ属パンコムギ(又はコムギ) Triticum aestivum 。コムギ類の方が芒は小さいが、この本文の記述は寧ろ、大麦の仲間のくせに芒がなく、小麦とも全然違う、というニュアンスではある。こうなってくると寧ろ、「野毛」、針状の多数の芒ではなく、大きな一本の芒を持つ(或いは持つだけに見える)、それが、あたかも陰毛のない、子どものおチンチンのような感じであるところの、ハダカムギの一品種を指しているのかも知れない。

・「格物」物の本質を究めること。「格物致知」という語があり、これは物事の道理や本質を深く追求し理解して知識や学問を深め得ることを言い、「大学」に由来する語とされる。これは一説に、宋の朱熹が出典を「知を致いたすは物に格(いた)るに在り」との意で読んで、自己の知識を最大に広めるにはそれぞれの客観的な事物に即してその道理を極めることが先決である、とする解釈、また一説には、明の王陽明が「知を致すは物を格(ただ)すに在り」の意で読んで、生まれつき備わっている良知を明らかにして天理を悟ることこそが自己の意思が発現した日常の万事の善悪を正すことである、とする解釈である(他にも諸説あり)。ここは――対象たる特異な「麦」の形状の観察から「ちんちん」命名の真相を究めた――と大仰に面白おかしく言ったものであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 珍々麦の事

 

 備後に「ちんちん麦」という麦の御座って、なかなかの上製の品であると申す。他国にもあるとのことを聞き及んだこともあったやも知れぬ。

 「と申す」と述べたものの、実は私、以前、備後福山城主阿部備中守正精(まさきよ)殿より、この「ちんちん麦」を賜わったことが御座って、食させて戴いたのであるが、その味わい、これ、格別のもので御座った。

 正直申せば、私は麦の飯、これ、あまり好まず御座ったれど、この麦は特別で、はなはだ美味く思うたによって、阿部殿には後日、厚く御礼を致いたのであった。

 ところが、その時、たまたま傍らに脇坂中務大輔(なかつかさだいすけ)安董(やすただ)殿がおられ、

「――いや! チンチン麦は、これ、格別の味わいにて御座っての! 我らも先年、朝鮮通信使御来港の御用にて、備中守殿の御領内を通行致いた折り、麦と思しきものが、これ、沿道の畑に美事に稔って御座ったを見申したが、普通の大麦は芒(のぎ)がもしゃもしゃと頗る多御座るが、これには一向、毛がない。かと申して小麦とも全く違(ちご)うたもので御座った。かねてより、その名を聞き及んで御座ったによって、

『これがかの珍々麦であるか?』

と、側なる者に命じ、訊ねさせたところ、土地の者が、

『その通りにて御座いまする! よくぞ、ご存じで?!』

と申して御座った。

 さても、拙者、按ずるに、この「チンチン」と申す名は、その謂われ、このようなものにて御座るまいか? 則ち、

――土俗にて、細かなもしゃもしゃした毛がないところより、それを小児の陰茎を、これ、「ちんこ」と言うに譬えて、かく呼び慣わしおる――

と、拙者は格物(かくぶつ)致いたので御座るが、さても、如何がで御座ろう?」

と、語られた。

 いや! 実にその通り! 素晴らしき御明察――格物致知――と存ずる。

耳嚢 巻之十 古石の手水鉢怪の事

 古石の手水鉢怪の事

 

 御醫師に人見幽元と申(まうす)あり。茶事にも心ありしが、番町にて〔名も聞(きき)しが忘れたり〕古き石の手水鉢(てうづばち)あるを見てしきりに所望なせしが、右は年久敷(ひさしく)、庭にありて、調法なすにもあらざれど、殊外(ことのほか)根入(ねいり)ふかき由言(いひ)ければ、夫(それ)は人を懸けてほらせ可申(まうすべき)間、何卒可給(たまはるべし)と約束して、其日になりて人夫を雇ひ、根入りはいとふかけれど難なく掘出(ほりいだ)し、光榮事幽元方へ持込(もちこみ)、扨々珍器を得たりと、殊外欽(よろこ)び寵愛せしに、其夜より右手水鉢、歸るべき由申(まうす)よし。家内これさたに、石の物言ふといふ事有(ある)べきやうなしと、兎角夜に入れば物言ふ事やまず、恐れて元に歸しけるとや。譯ありて事を怪(くわい)にたくしけるか、石(いし)魂(たましひ)ありてかくありしやしらず。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖狐から付喪神(つくもがみ)の怪異譚連関。

・「人見幽元」底本の鈴木氏注に、『友元。名は宜郷(ヨシタカ)。父資知(玄徳、法橋、瑞祥院)が禁裏の医師から幕府に仕え、七百石を与えられた。宜郷も法眼に叙し、延宝二年家を継いだが、また林春斎などと共に儒者として活動。元禄九年没、六十』とある。「朝日日本歴史人物事典」によれば、人見竹洞(ひとみちくどう 寛永一四(一六三八)~元禄九(一六九六)年)は江戸前期の儒学者で漢詩人とし、名は節、字を宜卿、通称又七郎、友元(ゆうげん)、号は竹洞・鶴山など。本姓は小野氏で、禁裏の医師の子として京都に生まれ、幼年から江戸に出て林羅山に学び、徳川家光の御代、世子家綱の御伽役となり、後に幕儒に任ぜられて剃髪したとある。また、林一門の歴史書「続本朝通鑑(つがん)」編纂に参画、法眼に叙せられて延宝二(一六七四)年、家督采地七百石を相続、公務では朝鮮通信使応接・武家諸法度(天和令)成稿・諸家諸寺に出す朱印状作成などに携わり、同じ儒官木下順庵らとの「武徳大成記」(松平氏の発生から徳川家康の一生の事跡武功を記した歴史書)編述は徳川綱吉の御代の業績の一つとされる。かく代々の将軍の信任を得、幕府の修史・書記役を主としたが、諸大名旗本の間或いは林家を介した学者文人連中との交流の中心にもいて、詩文も名勝に寄せたものや贈答の作が多い、とある。鈴木氏注の「林春斎」は林羅山の三男林鵞峰のこと。それにしても「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年であるから、没年から数えて百二十一年前、珍しく異様に古い都市伝説引っ張り出した感がある。最後にかく附言しているところを見ると、根岸は何か、怪異仕立て背後に別の生臭い真相を嗅ぎ取ろうとしている感じが濃厚である。これは手水鉢ではなく、人間の女(庶子の娘とか女房とか下女とか)なのではあるまいか?

・「光榮」底本には右に原典のママ注記。齟齬が多いのは実名を出すに躊躇したか。現代語訳ではそれを意識して総て名はママとした。

・「家内これさたに」底本には「これ」の右に原典のママ注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『家内取沙汰(とりさた)に』である。それで訳した。

・「石の物言ふといふ事有べきやうなしと、」底本には「なしと、」の右に編者の『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も同じ。末を「と申せど」で訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 古石(ふるいし)の手水鉢(ちょうずばち)の怪の事

 

 幕医に人見幽元(ゆうげん)と申す御仁がおられた。

 茶事(ちゃじ)にも造詣の深くあられたが、番町にて、とある御仁の屋敷内に――名も聞いたが失念致いた――古き石の手水鉢のあるを見かけ、

「……これは!――よき形(なり)――よき紋様(もんよう)じゃ! 気に入った!」

と、当主へ、これ、しきりにその手水鉢を所望致いて御座ったが、主(あるじ)は、

「――これは年久しゅうこの庭に御座るものにて、まあ、これといって調法致いておるわけにても御座いませぬが……ただこれ、殊の外、根深(ぶこ)ぅ据えて御座いますれば。……」

と応じたところが、幽元殿は、

「――何の! それは相応の人を雇うて掘らせまするによって、何卒、給わりとう存ずる!」と、切(せち)に望まれたによって、譲る契約を交わした。

 さてその日となって、力自慢の人夫をも雇い――確かに異様に深く据えられては御座ったが――難なく掘り出だいて、光栄(こうえい)こと幽元殿方屋敷へと持ち込んで、庭に据えつけた。

 幽元殿、しみじみ、この手水鉢を見、

「――さてさて! 珍らしき名器を得たわい!」

と、殊の外、悦ばれ、頻りに寵愛なした。

 ところが、その移築致いた、その夜より始めて、毎夜、かの手水鉢、

「……帰りたい……帰して……」

と呟く声を、これ、家中の者の誰彼(たれかれ)が聴いたと言い始めた。

 主人は幕医にして儒者でも御座ったによって、家中の表向きの沙汰にては、

「――石が物を言うなどという事、これ、あるびょうもない!」

ときつく申しては御座ったものの……これ……確かに……夜に入るるや……かの庭の手水鉢の方より……

「……帰りたい……帰して……帰して……」

と物言うこと、これ止まず、主(あるじ)も気味悪うなって、遂には元の屋敷へと戻し返したとか申す。

 これしかし……何か表沙汰に出来ぬ訳のあって、事を怪に仕立ててたものか?……

 それともこれ……まっこと……石に魂(たましい)の御座ってかく訴えたものか?……

 今となっては、これ、藪の中にて御座る。……

耳嚢 巻之十 獸も信義を存る事

 獸も信義を存る事

 

 尾州御館(おやかた)の白書院(しろしよゐん)とかや、御庭老い繁れる松兩三株ありて、其根に穴あり。年久しく住める狐ありて、壹人扶持づゝ、あづかる者ありて食事に拵へ絶へず與へけるよし。しかるに文化十年修復の事あり、市ケ谷町家(まちや)の職人兩三人も來りて修復の拵(こしらへ)をなしけるに、壹人の若き大工、仕事休みの内、其邊の庭廻りを見けるに、右松の木陰に古き桶ありしが、これは何のためなるやと獨り言(いひ)しを、しれる大工、それは狐に餌をあたへたまふ由を申(まうし)ければ、魚の類(たぐい)も見へず、めし計(ばかり)、これには狐も食(くふ)にあき間敷、われら方へ來らばむまきもの振舞(ふるまは)んと口ずさみしが、其夜彼(かの)大工の若者へ狐つきて、わからぬ事を申ける故、父母其外大きに驚(おどろき)、いかなる事にて此者に狐付(つき)けるや、いづかたの狐なるやと尋(たづね)ければ、尾張御庭の狐なり、此者我方へ來らば振舞(ふるまひ)せんといひし故來れりと申ける故、其好みに應じ小豆飯(あづきめし)など振(ふる)まひけるに、多くも喰(くらは)ざりしが、是は過分(くわぶん)の由悦び食ひて、年久敷(ひさしく)御庭に住(すみ)たまふやと尋ければ、太閤秀吉の頃より此處に住むよし申けるとなり。約束の食事も振舞(ふるまひ)ぬれば最早おちたまへと申ければ、成程(なるほど)をち可申(まうすべし)、しかしながら明朝迄はさし置呉(おきくれ)候樣申(まうす)故、何故(なにゆゑ)にや、夜分は犬なぞを恐れ候哉(や)と申ければ、我らがやうなる數百年を經たる狐は、犬など怖るべきにあらず、何疋取卷(とりまく)とも物の數とはせず、しかれども屋敷の門限が過(すぎ)ぬれば、こよひは通りがたし、明(あけ)なばとくかへらんと申(まうす)故、神通(じんづう)を得たる狐、なんぞ門の限りを恐るゝや、いづ方よりも歸らるべきと申(まうし)ければ、我年久鋪(ひさしく)、尾張の厚恩を請(こひ)ぬれば、塀垣(へいかき)等を越(こゆ)るは安けれ共(ども)、垣を破る事はすまじき事の由、くれぐれも食事振まひ馳走なせし社(こし)忝(かたじけな)けれと禮謝なし、我等數年御屋敷の御扶持にて事足(たり)ぬれど、近頃子供多く出來て食ひ足らぬ事あるよしを、問答の内(うち)答へけるを、尾張の役人へ聞(きき)に入れしに、尤(もつとも)なる事なり、加扶持(くわぶち)たまはりしと專ら市谷邊の噂聞(きき)しが、彼家の老職鈴木嘉十郎といへる人、衞肅(もりよし)が歌の友にて、會合の折からかたりしを、予も聞し故しるしぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:動物奇譚から狐妖異譚で連関。八つ前の「豪傑怪獸を伏する事」の某下屋敷とロケーションの似ているところがあるが、こちらは尾張藩白書院とかあって、描写の細部にも齟齬があり、同一の屋敷ではない。

・「尾州御館」後に「市ケ谷」と出るから、尾張藩名古屋徳川家御上屋敷である。当時の藩主は先に示したが再掲すると、文化一〇(一八一三)年五月(後注参照)の頃は、第十代藩主徳川斉朝(なりとも 寛政五(一七九三)年~嘉永三(一八五〇)年:第十一代将軍徳川家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男)である(彼はこの文化十年八月十五日に家督を家斉の十九男斉温(なりはる)に譲って三十五歳の若さで隠居、以後、名古屋で二十三年間に亙る隠居生活に入った。但し、次代の藩主斉温が一度も尾張入りしなかったため(彼は病弱を理由に江戸藩邸に常住、襲封後、嘉永三(一八五〇)年に二十一の若さで死去するまでの十二年間、第十一代尾張藩主でありながら、何と一度も尾張藩領内に入らなかった)、その後も「大殿」として隠然たる力を持ったとされる。以上はウィキの「徳川斉朝」及び「徳川斉温」に拠った)。最後に狐に加扶持をするところ辺り、この斉朝にこそ相応しい。

白書院」「しろじよゐん(しろじょいん)」とも読む。檜の白木造りを基本とした漆塗りを施していない書院造りのこと。武家(主に江戸城及び諸侯の第や屋敷などの大規模な殿舎に設けられた)では奥向き、寺家では表向きの座敷。天井の格子・障子の縁・床框(とこがまち)に至るまで黒漆塗りとした、主に居間風の座敷として使われた黒書院の対語。

・「御庭老い繁れる」底本には「老」の右に『(生)』と訂正注する。それぞれのリンクはそれぞれの語のグーグル画像検索。

・「文化十年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。ホットな都市伝説である。岩波の長谷川氏注には、医師で文人であった加藤曳尾庵(えいびあん)の「我衣」八にもこの記事が載ると記し、そこでは文化十年五月初めの出来事として出るとある。

・「食にあき間敷」「まじく」では文意が通じない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『食事にあき申(まうす)べし』である。それで訳した。

・「小豆飯」小豆を前もって煮ておき、その煮汁とともに白米に交ぜて炊いた赤飯のこと。

・「過分」分に過ぎた扱いを受けること、身に余るさまで、主に謙遜の意で用いる。

・「太閤秀吉の頃より」後に「我らがやうなる數百年を經たる」と出る。これを厳密な意味で「太閤秀吉」、秀吉が甥秀次に関白を譲った天正一九(一五九一)年をこの狐の誕生年とすれば、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年であるから、この妖狐の年齢は数えで二百二十四歳となる。

・「門限」江戸の藩屋敷には門限があった。しかし、Rekisinojyubako 氏のブログ「重箱の隅っこ」の「津山藩江戸屋敷の門限」を見ると非常に面白い事実が分かる(津山藩は美作国の大半を領有し、藩庁は津山城(岡山県津山市)にあった)。それによれば(津山郷土博物館発行の図録「津山藩の江戸屋敷」(二〇〇一年刊)の尾島治氏の記載に拠るとある)、鍛冶橋(現在の東京駅付近)にあった『津山藩上屋敷の門限は暮れ六ツ時』(午後六時頃)で(以下、改行を詰めた)、

   《引用開始》

これは『鳴雪自叙伝』に記された松山藩の門限とも共通していますので、おそらくどの藩も暮れ六ツが門限だったものと考えられます。ここまではよいのですが、尾島氏はこれに続けて、実際には午後9時頃に六ツ時の拍子木を打って廻ったと記しています。午後9時に午後6時に拍子木を打つなんて、これまた掟破りな江戸時間の在り方。津山藩士は外出の用向きを済ませた後、両国あたりで夕食と軽い晩酌をして、明かりが灯る頃になっても、少し足早に帰れば拍子木の時刻までに間に合ったというのです。他の藩では拍子木打ちの仲間に賄賂を渡したり、妨害したりして門限を延ばしていたことは以前にも記しましたが、そもそも午後9時に六ツ時の拍子木を打つのは、何かそうした実情にあわせて生み出されたルールといった感もします。それにしても、フレッキシブルな江戸時間には脱帽です。

   《引用終了》

とあって、なかなかにぶっ飛びの真相である。

・「久鋪(ひさしく)」のルビは底本編者によるルビ。

・「社(こそ)」のルビも底本編者によるルビ。国訓で係助詞の「こそ」である。「日本書紀」「万葉集」に用例がある古い読みであるが、その由来は不明である。福山藩の漢学者太田全斎が江戸後期に作った辞書「俚言集覧」には『〔萬葉集〕乞、欲、社、欲得、皆「コソ」と訓(よめ)り』とし、『神社ハ祈請の所なれば乞の字義通(かよ)へり。姓の古曾部も日本記社戸と書(かけ)り』とあるが、分かったような分からないような説明である(引用は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの明治三二(一八九九)年刊村田了阿編・井上頼圀/近藤瓶城増補版のここを視認した)。

・「松平家」松平氏とは元来、三河地方(現在の愛知県)の松平郷を支配する一豪族であったが、九代目当主であった家康二十三歳の永禄九(一五六六)年に、徳川に改め、以降、征夷大将軍と御三家(尾張・紀伊・水戸)の当主及び御三卿(田安・一橋・清水)の当主のみが「徳川」を名乗ることが出来、それ以外の家系が「松平」を名乗った。徳川も元は松平家なわけである。

・「老職鈴木嘉十郎」尾張藩重臣鈴木主殿家の鈴木丹後守重逵(しげき? しげき?)か?(系図から推測)

・「衞肅」耳嚢 巻之四 小兒餅を咽へ詰めし妙法の事で既注。再掲すると、底本補注で『モリヨシ。九郎左衛門。根岸鎮衛の長男』で寛政三(一七九一)年に『御小性組に入』り、その当時三十一歳とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 獣も信義を存ずるという事

 

 尾張徳川家上屋敷の白書院(しろしょいん)での出来事とか申す。

 御庭に生い繁れる松が、これ、合わせて三株(みかぶ)御座って、その根がたに穴のあって、そこに年久しゅう住める狐の御座ったと申す。

 この屋敷には一人扶持を給わって御座った屋敷守の者がおり、この狐がために、朝夕の食事を拵えては絶へず供して御座ったと申す。

 さて、文化十年の年のこと、この白書院、修復の儀これあり、市ヶ谷の町屋の職人が三人ほど来たって、修復を始めたが、一人の若い大工が休憩の折り、その辺りの庭廻りをぶらついて御座ったところが、かの松の木蔭に、古き桶の置かれてあるのを見かけ、

「……これは何のためにあるんかのぅ。」

と独り言を言うたところ、御屋敷出入りの馴染みの大工が、

「それは狐に餌を与えていなさるんじゃ。」

と答えたによって、

「……魚(さかな)の類いも見えず、白飯(しろめし)ばかりじゃ。これでは狐も食うに飽きるじゃろうに。……我らが方へ来たらば、美味いもん、これ、たんと振る舞もうてやるのにのぅ。……」

と、軽口をたたいて御座った。

 ところが、その夜のことである。

 かの大工の若者へ狐の憑きて、訳の分からぬことを口走り始めたによって、父母兄弟、長屋の連中、これ、大きに驚き、

「……お、お狐さま!……いかなる訳のあって、よりによって、こんな者(もん)にお憑きになられましたか?……何処(いずこ)のお狐さまで御座るるか?」

と、狐の憑いた若者に聴き質いたところが、

「……我ラハ……尾張御庭ノ狐ジャ……コノ者……我方ヘ来ラバ振ル舞イセント言イシ故……カク来ッタ……」

と申したによって、恐る恐る、これ、

「……な、何をお好みか?」

と訊ねたところが、

「……小豆飯……」

と答えたれば、慌てて赤飯を調え、若者に供したところ、

「……コレハ……マッコト……有リ難キコト……」

と悦んで食うた――但し、あまり多くは喰わなんだとも申す――。食い終ったところで、

「……永の年月、かの御庭にはお住まいになっておられまするか?」

と訊ねたところ、

「……ソウサ……太閤秀吉ノ頃ヨリ……ココニ……住ンデオル……」

と答えた。

 暫く致いて、

「……お約束のお食事も、これ、振る舞いまして御座いますれば……どうか……早(はよ)うに……この若造より、お離れ下さいませぬか?」

と水を向けたところが、

「……成程……落チ申ソウズ……シカシナガラ……明朝マデハ……コレ悪イガ……コノママニ……サシ置キ呉ルルヨウニ……」

と申したによって、慌てて、

「……そ、それはまた、何故(なにゆえ)にて御座いまするか?……夜分のことなれば、犬なんぞを、これ、お恐れなさってでも?……」

と問うと、

「……我ラノヨウナル数百年ヲ経タル狐ハ……コレ……犬ナゾ……怖ルルナンドトイウコトハ……コレ……アルビョウモナイ……野良犬如キ……コレ……何疋何十疋何百疋ト……取リ巻イタトテモ……物ノ数デハナイ……シカレドモ……モウ……屋敷ノ門限ガ過ギテシモウテ御座ッタレバノ……今宵ハ屋敷ヘ入リ難イ……夜ガ明クレバ我ラトク帰ランホドニ……」

と申したによって、

「……はて……神通力(じんつうりき)を得ておらるるお狐さまの……どうして門限なんどをこれ、お恐れなさいまする?……何処からでも、御屋敷へは、これ、お入りになられましょうほどに?……」

と訝って問うたところが、

「……我レ……年久シュウ尾張公ノ御厚恩ヲ請イ受ケテ参ッタ……無論……塀ヤ垣ナンドヲ越ユルハ……コレ安キコトナレドモ……塀ヤ垣ヲ越ユルニ際シ……万ガ一コレヲ損ズル事アラバ……コレ……憚ラルル事ナレバノゥ……」

と答えた上、

「……クレグレモ……カク食事……振ル舞イテ馳走ナシ呉レシコトコソ……忝ノゥ存ズルゾ……」

と、深く頭を下げて礼謝なし、

「……我ラ……数年ノ間……カノ御屋敷ノ御扶持ヲ給ワリ……ソレニテ事足リテ御座ッタガ……近頃……子供ノ多ク出来テノゥ……コレ少々……食イ足ラヌ事モ御座ルデノゥ……」

といったことを、この狐、問答の内に告白して御座った。

 かくして、夜明けとともに若者から狐は落ちた。

 さればその日のうちに、かの狐の話を、同席致いて直かに聴いた長屋の家主より町方へ、そこより尾張藩御屋敷の御役人方へと、その顛末を言上致いたところ、御藩主徳川斉朝(なりとも)様の御耳にも達し、御藩主様より直々に、

「……ふむ。それもまたこれ、もっともなる謂いじゃ。――永年、白書院が庭を守って参った狐なれば、これに供物の――加扶持(かぶち)を――これ、賜わるがよいぞ。」

と申されたと、これ、市ヶ谷辺にては専らの噂となっておると聴く。

 しかしこれ、ただの流言飛語と軽んずるなかれ。

 かの松平徳川家御家中、老職をお勤めになられておらるる鈴木嘉十郎殿と申す御仁、これ、私の長男衛肅(もりよし)の和歌の友人であられ、その和歌の会合の折り、直々にこのお話をなされたを、私も聞いて御座ったによって、確かな出来事として、ここに記しおくことと致す。

尾形龜之助 「一本の桔梗を見る」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    一本の桔梗を見る

 

         尾形龜之助

 

かはいそうな囚人が逃げた

一直線に逃げた

    ×

雨の中の細道のかたはら

草むらに一本だけ桔梗が咲いてゐる

 

[注:「かはいそうな」はママ。]

 

Ipponnokikyouwomiru

 

 看见一支桔梗

         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

可怜的囚犯逃跑了

一直地逃跑去

 ×

雨里的小径路旁

啊!草丛里那儿,只有一支桔梗花……



         
矢口七十七/

尾形龜之助 「月が落ちてゆく」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    月が落ちてゆく

 

         尾形龜之助

 

赤や靑やの燈のともつた

低い街の暗らがりのなかに

倒しまになつたまま落ちてしまひそうになつてゐる三日月は

いそいでゆけば拾ひそうだ

 

三日月の落ちる近くを私の愛人が歩いてゐる

でも きつと三日月の落ちかかつてゐるのに氣がついてゐないから

 

私が月を見てゐるのを知らずにゐます

 

[注:「暗らがり」「しまひそう」「拾ひそう」はママ。]

 

Tukigaotiteyuku

 

 月牙正在落下去
 
         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

低洼街巷黑暗处里

点了好几个灯——红的,还有蓝的……

向那黑暗处里,颠倒的月牙快要落下去了

我赶到那边的话,可能来得及捡到……

 

你看! 在月牙要落下来的地方那边,我情人走着路呢——

不过……她一定不知道月牙快要落下来了

 

因此,也不知道我正在看着 月牙呢——

 


         
矢口七十七/

2015/03/23

耳嚢 巻之十 犬に性心有事

 犬に性心有事

 

 牛込榎町(えのきちやう)栃木五郎左衞門組御先手與力矢野市左衞門祖父、隱居にて三無と稱し、文化十酉年、行年(かうねん)八拾九才にて健成(すこやかなる)老人の由。常に食事なす時に、飼犬(かひいぬ)と申(まうす)にも無之(これなく)候得共、暫(しばらく)右三無が屋敷へ來ける故、朝夕右犬にも食事を與へけるが、卯月の比(ころ)、三無いたわる事ありて二三日打(うち)ふしけれど、食事の節犬來ればわけあたへけるが、或日三無彼(かの)犬に向ひ、なんぢたへず食事の節は來る故、則(すなはち)食を與へぬれど、我等無程(ほどなく)煩(わずらは)しきが極老(きよくらう)なれば死(しな)ん事も計(はかり)がたし、我(われ)死なば汝に食事を是迄の通り與ふる事も覺束なし、此上は外に憐む心ある家へ便り候へかしと申諭(まうしさと)しけるが、不思議なるかな、其明けの日よりいづちへ行(ゆき)けん、右犬たへて來らざりしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。動物綺譚。

・「性心」人の心に比すべき、高度な心情といったニュアンスの謂いであろう。いや!これ、趙州狗子か!?(リンク先は私の「無門關 全 淵藪野狐禪師訳注版」の当該章ブログ版。猛毒注意!)

・「牛込榎町」現在、東京都新宿区榎町(えのきちょう)として名が残る。地下鉄牛込天神町の西直近。

・「栃木五郎左衞門」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『朽木(くつき)五郎左衞門』とあり、長谷川氏は『徳綱(のりつな)。寛政七年(一七九五)御小性組頭、文化三年(一八〇六)御先手鉄炮頭』と注されておられる。これは底本の書写の誤りであろう。訳は「朽木」で採った。

・「文化十酉年、行年八拾九才」西暦一八一三年であるから、生年は享保一〇(一七二五)年である。因みに「卷之十」の記載の推定下限は翌文化十一年六月で、根岸は元文二(一七三七)年生まれである。「行年」の「行」は「経(ふ)る」「経歴」で、これまで生きてきた年数を言う。現行では亡くなった年齢を指すが、原義からはこうした用い方も誤りではない。

・「卯月」文化十年四月。同年同月はグレゴリオ暦で五月一日から五月二十九日まで。

・「便り」底本には「便」の右に『(賴)』と訂正注する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 犬にも相応の仏性のあるという事

 

 牛込榎町(えのきちょう)朽木(くつき)五郎左衛門殿の組の御先手与力を勤めた矢野市左衛門殿の祖父は、隠居されて「三無」と称し、文化十年酉年、八十九歳にていまだ矍鑠(かくしゃく)となさっておらるる老人の由。

 いつも食事をせんとする折りから、これ、飼い犬と申すわけでもない、まあ、所謂、野良犬が、その三無殿の御屋敷へと、ふらりと参るを、これ、常と致いて御座ったによって、朝夕、この犬にも三無殿、手ずから、食事を分け与えておられた申す。

 ところが、今年の卯月の頃おい、三無殿、これ少しばかり、病いを患(わずろ)うことのあって、二、三日の間、うち臥しておられたと申す。

 その間もこれ、食事の折りになると、やはり、かの犬が参るによって、いつものように餌を与えて御座ったが、三日目の暮れ方のこと、三無殿、この犬に餌を与えながら、

「……汝は、これ、食事の折り折りにきっと来たるによって、拙者も則ち、糧食を与えて参ったが……我ら、見ての通り……ほどのぅこれ……お迎えも参りそうな……病い勝ちなるところの……年も取るに取ったる老いぼれなればの……いつ何時、これ、死なんとも限らぬ。……我らの死なば、汝に食事をこれまでのように与うると申すことは、これ、出来ぬ相談じゃての。……この上は……そうさ、どこぞ外に……汝を憐んで呉るる心ある家を捜し……これに頼って参るといったような方途をも……これ、捜さねばなるまいて。……」

と、とくと冗談交じりに語り諭したと申す。

……すると……不思議なるかな……その明けの日より……この犬、何処(いずこ)へ参ったものか……絶えて来ずなった……と申す。……

耳嚢 巻之十 頓智の事

 頓智の事

 

 金春(こんぱる)座の地謠(ぢうたひ)に瀧榮助といへるもの、今は果(はて)たる由。右の者、高貴の御方非常の節立退(たちのき)ありしを、外(ほか)へしらせ候文通に、無恙(つつがなし)とも無難(なんなし)とも書(かき)なん事如何(いかが)と、差當(さしあたり)筆取るもの困りしに、事故(ことゆゑ)なくと書(かき)て可然(しかるべし)と云(いひ)しを、人々感じけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:地口(諺や成句などを捩って作った語呂合わせの文句)で連関。この話、今一つ、よく意味が分からない。以下、注も訳もやっつけ仕事とごろうじろ。大方の御叱正、御教授を乞うものである。……九百五十五話まできて、私は正直初めて、本章の訳に自信が持てない。されば、公開に際して、私の教え子にこれをプレで検証して貰った。以下は、そのメールの答えである。

   《引用開始》

先生

私も先生のお考えに添う解釈です。

但し、正当な理由なきことに対する鬱憤を通わせているというよりは、もっと広いぼんやりした意味のように思います。

何故なら「非常の節」としか書かれていないということから、納得いかない不条理による立ち退きであるとまでは読みにくかったからです。

恙なくという状況でもない、難なくという状況でもない、とにかくあまりよろしくない状況。しかし挨拶文にそう書くのは憚られる。ただこれという差し障りもなく、立ち退いたのだよ……理由は……聞かずとも良い、聞かんでおくれ……取り立ててこれという理由などないのだが……とそのようなニュアンスをうまく出せたところに、この瀧なる男の頓智が働いているのだ……

このように受け取りました。お役に立てず、すみません。

   《引用終了》

この教え子の見解は、私にはすこぶる正しいと感じられる。何故なら、私の注解釈の強引さは私自身が最も痛感しているからである。しかしさればこそ、これを添付した上で、敢えてその当初の私の訳と注をそのままに掲載し、諸家の御判断にお任せすることとしたいと思う。忙しい仕事の間に、私の酔狂に答えて呉れた教え子に、深い感謝を表しつつ。

・「瀧榮助」底本の鈴木氏注に、『館永助が正しい。文化六年武鑑に、金春の地謡の筆頭に見えている。文政六年武鑑にもあり、襲名とも思われぬが如何』とある。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。文政六年は一八二三年で九年後。詳細不詳。

・「高貴の御方非常の節立退ありし」「立退」は住まいを明け渡して他所へ移ることであるから、この「非常」は大名や公家などが、何らかの転封や制裁処分によってよんどころなく移転転地することを指しているのではあるまいか? それとも単なる火災などによる「非常」なのか? 訳はそのままにて誤魔化した。

・「事故なく」音読みするなら、無事の意であるが、訓読みするなら(この読みは岩波版に拠った)、これは例えば、本人とってはすこぶる不本意な転封や制裁措置であったとして、正当な理由もなくかく立ち退いたという、その本人の鬱憤にも通わせるものとなる、ということか?

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 頓智の事

 

 金春(こんぱる)座の地謡(じうたい)に瀧栄助と申す者が御座った。今は既に身罷った由。

 この者、贔屓にして戴いて御座った、さる高貴なる御方が、これ、非常の折りから、今の所より、立ち退かるることと相い成ってしまわれた。

 が、

「……さてもこのこと、外の皆々様方へ、これ、お伝え申し上ぐるに際し、その文(ふみ)の文頭に――無恙(つつがなし)――とも――難無(なんなし)――とも書くは、不祝儀のことなれば――さて。これ、如何(いかが)なもので御座ろうかのぅ?」

と述懐致いたによって、傍らにて、さしあたり栄助がために筆をとらんと致いて御座った栄助が右筆なる者、これ、ひどく困ってしもうた。

 と、栄助、

「――事故(ことゆえ)なく――と書くが、これ、よろしいか、の。」

と申したによって、これを聴いた周囲の人々は、これ皆、その頓智に感じ入った、とのことで御座る。

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅶ)

十月二十日夜  

 けふははじめて生駒山(いこまやま)を越えて、河内の國高安(たかやす)の里のあたりを歩いてみた。

 山の斜面に立つた、なんとなく寒ざむとした村で、西の方にはずつと河内の野が果てしなく擴がつてゐる。

 ここから二つ三つ向うの村には名だかい古墳群などもあるさうだが、そこまでは往つて見なかつた。さうして僕はなんの取りとめもないその村のほとりを、いまは山の向う側になつて全く見えなくなつた大和の小さな村々をなつかしさうに思ひ浮かべながら、ほんの一時間ばかりさまよつただけで、歸つてきた。

 こなひだ秋篠(あきしの)の里からゆふがた眺めたその山の姿になにか物語めゐたものを感じてゐたので、ふと氣まぐれに、そこまで往つてその昔の物語の匂ひをかいできただけのこと。(さうだ、まだお前には書かなかつたけれど、僕はこのごろはね、伊勢物語なんぞの中にもこつそりと探りを入れてゐるのだよ。……)

 夕方、すこし草臥れてホテルに歸つてきたら、廊下でばつたり小説家のA君に出逢つた。ゆうべ遲く大阪からこちらに著き、けふは法隆寺へいつて壁畫の模寫などを見てきたが、あすはまた京都へ往くのだといつてゐる。連れがふたりゐた。ひとりはその壁畫の模寫にたづさはつてゐる奈良在住の畫家で、もうひとりは京都から同道の若き哲學者である。みんなと一しよに僕も、自分の仕事はあきらめて、夜おそくまで酒場で駄辨つてゐた。

[やぶちゃん注:「高安」大阪府八尾市高安。言わずもがなであるが、「伊勢物語」第二十三段の「筒井筒」として人口に膾炙する章段に登場する地名である。煩を厭わず引いておく。底本は角川文庫版石田穣二訳注「新版 伊勢物語」を用いたが、恣意的に正字化した。

   *

 昔、ゐなかわたらひしける人の子ども、井(ゐ)のもとにいでて遊びけるを、大人(おとな)になりにければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得(え)めと思ふ、女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども、聞かでなむありける。さて、このとなりの男のもとより、かくなむ、

  筒井(つつゐ)つの井筒(ゐづつ)にかけしまろがたけ

    過ぎにけらしな妹(いも)見ざるまに

女、返し、

  くらべこしふりわけ髮も肩過ぎぬ

    君ならずして誰(たれ)かあぐべき

など言ひ言ひて、つひに本意のごとくあひにけり。

 さて、年ごろ經(ふ)るほどに、女、親なく、賴りなくなるままに、もろともにいふかひなくてあらむやはとて、河内(かふち)の國、高安(たかやす)の郡(こほり)に、行(い)き通ふ所いできにけり。さりけれど、このもとの女、あしと思へるけしきもなくて、いだしやりければ、男、こと心ありてかかるにやあらむと思ひうたがひて、前栽(せんざい)の中に隱れゐて、河内へいぬるかほにて見れば、この女、いとよう化粧(けさう)して、うちながめて、

  風吹けば沖つ白浪(しらなみ)龍田(たつた)山

    夜半(よは)にや君がひとり越ゆらむ

とよみけるを聞きて、かぎりなくかなしと思ひて、河内(かふち)へも行かずなりにけり。 まれまれかの高安(たかやす)に來て見れば、はじめこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙(いひがひ)取りて、笥子(けこ)のうつはものに盛(も)りけるを見て、心憂(う)がりて行(い)かずなりにけり。

 さりければ、かの女、大和(やまと)の方を見やりて、

  君があたり見つつをらむ生駒山(いこまやま)

    雲な隱しそ雨は降るとも

と言ひて見いだすに、からうじて、大和人(やまとびと)、「來む」と言へり。よろこびて待つに、たびたび過ぎぬれば、

  君來むと言ひし夜(よ)ごとに過ぎぬれば

    賴まぬものの戀ひつつぞ經(ふ)る

と言ひけれど、男住まずなりにけり。

   *

「名だかい古墳群」大きなものでは大阪府八尾市大竹にある心合寺山(しおんじやま)古墳があるが、高安山の麓(高安地区の中部である千塚・山畑・大窪・服部川・郡川附近)には中小約二百基の古墳群があり、現在は高安古墳群と呼ばれている。

「こなひだ秋篠の里からゆふがた眺めたその山の姿に……」十月十四日の「夕方、西の京にて」の断章の冒頭に、「秋篠の村はづれからは、生駒山が丁度いい工合に眺められた」とある。

「小説家のA君」個人サイト「タツノオトシゴ」の「年譜」の翌二十一日の記載から、これは阿部知二のことであることが分かる。当時満三十七歳で、辰雄と同年である。当時は明治大学教授として英文学を講じており、この年(昭和一六(一九四一)年)に訳したメルヴィルの「白鯨」は彼の翻訳の代表作となった(河出書房「新世界文学全集第一巻」所収。但し、これは「第一部」で続編完訳は戦後の昭和二四(一九四九)年を待たねばならなかった)。「奈良在住の畫家」「若き哲學者」は不詳。なお、同年譜によれば、この日の夕方には大阪に出て、天麩羅を食べたとあるから、どうも事実に手が加えられているようである。]

耳嚢 巻之十 びろう毛の車の事

 びろう毛の車の事

 

 御車にびろうげと云ひ、古物語にも餘多(あまた)見へしが、其製作をしる者なし。檳榔毛車(びろうげぐるま)にて、檳榔樹の葉にて屋根を葺(ふき)たる御車の由。其時限(かぎり)のものやと尋(たづね)しに、隨分保ち候ものゝ由、御所を勤(つとめ)し保田某かたりぬ。檳榔樹は薩州に有之(これあり)、保田先年、右御車取立(とりたて)候節、薩州より取寄(とりよせ)、不足は大坂にて求めし由語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。有職故実物。以下に注するようにビロウとビンロウは植物学上、全く異なる種である。それをはっきりするために、現代語訳では「びろう」とし、「びんろう」を意識的に排してある

・「びろう毛の車」檳榔毛車(びろうげのくるま)。白く晒した檳榔の葉を細かく裂いて屋根及び側面を覆った牛車で、よく知れる牛車の側面にある物見(窓)はないのが普通らしい。前後は赤い蘇芳簾(すおうすだれ)で、その内側の下簾(したすだれ:前後の簾の下から外部に長く垂らした絹布。多くは生絹(すずし)を用い、端が前後の簾の下から車外に出るように垂らし、女性や貴人が乗る場合に内部が見えないように用いた。)は赤裾濃(あかすそご:裾に向かって徐々に糸の色が赤く濃くなる染め技法をいう。)。上皇以下・四位以上の上級貴族が乗用したが、入内する女房や高僧なども用いた。底本の鈴木氏注には、『檳榔なき時は菅を用ふることもありとや』という三村翁の注を引く。この「檳榔」は単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビロウ Livistona chinensis のことで、ヤシ目ヤシ科ビンロウ Areca catechu とは全くの別種なので注意が必要である(諸注はこれらを混同しているか或いは逆にした誤った記載が思いの外、多いように私には感じられる)。ウィキロウによれば、ビロウ Livistona chinensis は『東アジアの亜熱帯(中国南部、台湾、南西諸島、九州と四国南部)の海岸付近に自生し、北限は福岡県宗像市の沖ノ島』とある(ビンロウ Areca catechu の方は本来は本邦には自生していないと思われる。リンク先はウィキの「ビンロウ」)。三村氏の「菅」は単子葉植物綱カヤツリグサ目カヤツリグサ科スゲ属 Carex 

・「保田某」底本の鈴木氏注に、『至元(ヨシモト)か。御普請役から買物使に転じ、天明七年禁裏の御賄頭となり、寛政四年御勘定に移る。時に五十歳』とある。「買物使」「御賄頭」というのは禁裏御所の警衛・公家衆の監察などを司った幕府の禁裏付(きんりづき)の職名と思われる。

・「薩州」薩摩国。現在の鹿児島県西部。薩摩藩領内。同藩は薩摩と大隅の二ヶ国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国をも実質支配下に置いて、現在の鹿児島県全域と宮崎県南西部と、沖縄県相当の大部分を不当に服属させていたことになる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 檳榔毛(びろうげ)の牛車(ぎっしゃ)の事

 

 御車(みくるま)に「びろうげ」と称し、古えの物語にも数多見えるものであるが、その製法を知る者が私の周囲にはいなかった。今回、識者の御教授を得たので、ここの記しおく。

 これは「檳榔毛車(びろうげのくるま)」というのが正式で、檳榔樹(びろうじゅ)の葉を以って屋根を葺いた牛車である由。

 木の葉で葺いたものと聞き及んだので、

「……これ、その時限りのもので御座るか?」

と訊ねたところ、

「いや。これ随分、耐久性のある実用的な牛車にて御座る。」

と、御所の禁裏付(きんりづき)を勤めた経験のあられる保田某殿の話しにて御座った。

 檳榔樹(びろうじゅ)は薩摩国にて産し、保田殿、先年、この檳榔毛(びろうげ)の牛車を新しく造ることと相い成った折り、薩摩国より、この檳榔(びろう)の葉を直接取り寄せたものの、不足した分のあって、その分はこれ、大坂にてその筋の商人(あきんど)より買い求めた、と語っておられた。

耳嚢 巻之十 麁言の愁ひの事

 麁言の愁ひの事

 

 大久保邊組屋敷の同心、當夏鰹を呼込(よびこみ)、直段(ねだん)等及對談(たいだんにおよぶ)處、一本に付(つき)三百錢と申(まうす)故、貮百銅に負(まけ)候樣申(まうし)ければ、直段心に不應哉(おうぜざるや)、無興氣(ぶきようげ)にて、自分は商ひ度候得共(たくさふらえども)鰹がいやと申(まうし)、不承知の由にて立歸り候間、然(しかる)上は申(まうす)直段に可調(ととのふべき)旨申(まうし)、且(かつ)外にも、貮三本有之(これある)を不殘(のこらず)調へ可申(まうすべき)段申候處、實事に候やと尋(たづね)候故、いかに小身の者に候迚、馬鹿にいたし候哉(や)、不殘差(さし)み又は煮候樣(やう)拵呉可申(こしらへくれまうすべき)旨申付(まうしつけ)、則(すなはち)料理いたし仕上(しあげ)候處、さらば代錢可拂(はらふべき)旨にて錢を取出(とりいだし)し置(おき)、扨自分は買ひ候積りに候得共、錢がいやと申(まうす)、承知不致(いたさず)候間、折角料理まで致(いたし)候得共、斷り候旨申(まうし)、相返し候由。右商人憤り候て、色々申(まうし)候得共、最初の麁言(そげん)故、仕方無(なく)、立歸(たちかへ)り候由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:うっかりと言い掛けた言葉の失敗談で直連関。底本の鈴木氏注に『三村翁白く、この詰も、何かにて見たる様に覚ゆ』とあるが、私も極めて酷似したものを落語で聴いたことがあるように思う(外題は失念。識者の御教授を乞う)。

・「麁言」「そごん」とも読む。粗言・粗語と同じで、お粗末な言葉、無礼な詞の意。

・「組屋敷」与力や同心などの組の者に纏めて与えられていた屋敷。

・「當夏」因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月で、これを当年としても時期的におかしくはない。

・「三百錢」(以下の「銅」も「錢」に同じ)文化文政期一文二十五円で換算すると、七千五百円で、初物好き、初鰹好きだった江戸っ子にとっても、お大尽ならまだしも(鎌倉で揚がった鰹をわざわざ出向いて船上で一両投げて初鰹を買ったと言われる)、市井の下級武士にとっては丸一尾とはいえ、やはり高過ぎる。当時の物価はサイト贋金両替商「京都・伏見 山城屋善五郎」の「江戸時代の諸物価(文化・文政期)」がよい。

・「差み」底本には右に『(刺身)』と訂正注がある。

・「煮物」棒手振りは一方に簡易の七輪のようなものを下げていたものか? 一応、そう解釈するが実際の鮮魚の棒手振りがそうした道具を持っていたかどうかは確証がないが、そうでないとこのシチュエーションは不自然である。ともかくも識者の御教授を乞うものではある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 売り言葉に買い言葉の末の悲喜劇の事

 

 大久保辺りの組屋敷の同心が、当夏(なつ)、鰹の棒手振(ぼてぶ)りを呼び込み、値段なんどを交渉致いたところ、棒手振りが、

「――一本に付き――三百文でお願い致しやす。」

と申したによって、

「……ちと高い!……せめて二百文に負けぬか?」

と応じたところが、負け値が全く意に添わぬものであったものか、急に不機嫌な顔つきと相い成り、

「――儂(あっし)は、これ、お売り致しとう、存じやすんですがねぇ。――この――鰹が、いや!と申しておりやすで。――へえ! 鰹の奴、何ともこれ――不承知だそうで!――」

と言い放つと、踵を返さんと致いた。

 すると、かの同心、

「――そうか? 鰹が、のぅ。――しかる上は――相い分かった! そちの申す値で買い調えることと致そう!」

と背後から声をかけ、さらに、

「――加えて他にも、まだ二、三本は鰹があるな?――それも残らず買おうではないか!」

と言い添えた。

 すると、棒手振り、再び走り戻ると、打って変わって相好を崩し、

「――そりゃ! 願ってもねえ! 確かなことでごぜえやすかい?」

と今度は慇懃に訊ねたによって、同心はこれ、

「――如何に?――我ら、小身の者にて御座れば、それ、馬鹿に致いたておるのではあるまいの?!――そうさ! そちの持てるその鰹、これ、残らず、直ちにこの場にて、刺身或いは煮物に調理なしくるるよう、頼もうぞ!」

と申しつけた。

 棒手振りは、すっかり悦び、その場にて直ちに、四、五本あった鰹の半分を、これ、刺身となし、もう半分を煮物に料理致いて仕上げたと申す。

 さて、かの同心、

「――出来上がりやした、お武家さま!」

と棒手振りの申したによって、

「――さらば、代金、これ、払おうか、の。……」

と言いつつ、徐ろに懐より銭を取り出だいたが……そこで同心、両手に持った銭を見つめながら……何やらん、妙に顔を曇らせ始めた。

「……さて!?……拙者は買わんと思うてそちにかく頼んだのじゃが……これ――銭が――いや! と申しておる。……何?……だめ?……どうしてもか?……困ったのぅ……これ――銭が――承知致さぬわ!……さても折角、料理まで致いてもろうて、何で御座るがのぅ、かくなる仕儀なれば……これ、皆、お断り申す。……済まんのぅ。……」

と慇懃無礼に詫びを述ぶるや、料理一式、これ、棒手振りに返した。

 されば、かの棒手振り、烈火の如く憤ったは、これ、言うまでもない。

「……カ、カ、カタリじゃぁ! カタリッツ!」

なんどと、いろいろ誹謗致いたれど、同心は、

「――そちは――そちの鰹が――いや!――と言うた。――拙者は――拙者の銭が――これ――いや!――と言うた。……これ何か、不都合なことの――ある――と申すかッツ?!」

と、いっとう最初の棒手振りの詞(ことば)を引き合いに出し、今度は打って変わって強面(こわもて)となって迫ったによって、棒手振りも仕方のぅ、これ、周囲に罵詈雑言と痰唾をやたら吐きつつ、立ち去って御座ったと申す。

耳嚢 巻之十 感賞の餘り言語を失ひし事

 感賞の餘り言語を失ひし事

 

 折井何某、類燒の後、家作は挾く鋪り、廣き屋敷へ蕣(あさがほ)を一面に植置(うゑおき)しに、花の盛りはいと見事なる事の由。予がしれる與力を勤(つとめ)し隱居も知人にて、蕣を見に兩三人うちつれてまかりしに、彼(かの)隱居花の夥敷(おびただしき)を感賞の餘り手を打(うち)て、さて馬鹿々々敷(ばかばかしき)と言出(いひいだ)し、跡を言(いふ)べき事なく、誠(まこと)に赤面無言なりしと、自身の咄し也。我等よくつゝしむべき事と、爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「折井何某」底本の鈴木氏注に、『寛政譜には折井は三家ある。本家は千二百石、分家は二百石。別の一家は武田の旧臣の家で百五十石』とある。

・「挾く鋪り」底本では「挾」の右に『(狹)』と訂正注、「鋪」の右に『(ママ)』注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『狹く修理(しつらひ)』となっている。バークレー校版で訳した。

・「蕣」底本の鈴木氏注に、『文化の頃橘流行し、桜草石菖に及び、やがて朝顔流行、文政になりて松葉蘭の流行となりしとぞ。(三村翁)』とある。当時の好事家の朝顔栽培の様子やその変形朝顔の品種改良はアットホーム株式会社公式サイト内の米田芳秋氏のインタビュー記事江戸のバイオテクノロジー「変化アサガオ」の不思議な世界に詳しい。必見である。以前にとある本で読んだが、この手の動植物飼育栽培の江戸期の異常な流行は想像を絶するものであったらしい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 感動のあまり言語を失ったる事

 

 折井何某(なにがし)殿、大火の類焼の後(のち)、新築なされた家屋を、これ、ことさらに狭く設(しつら)え、広い屋敷地にはこれ、朝顔を一面に植えおいたところ、盛りには、たいそう美事な花を咲かせておる由。

 私の知れる、かつて与力を勤めて御座った隠居も、この折井殿の知人にて、その満開の朝顔を見に、三人の朋輩をうち連れて訪ねたところが、この隠居、朝顔の花の夥しき美観にいたく感じ入って、その感動を言葉にせんとした。

 ところが、まさに得も言われぬ恍惚のあまり、申すべき詞(ことば)のうまく浮かばず、思わず、手を打って、

「……さ、さても!……馬鹿馬鹿しき!……」

と、とんでもない台詞を言い出だいてしまい……これ……遂に……後を継げずなって御座ったと申す。

「……いや! まっこと、これ……赤面致いてしもうて……ただただ、黙りこくっておるしか御座らなんだわ……」

とは、その隠居自身の語って御座った話である。

 こうした、如何にも文字通り――馬鹿馬鹿しい――失態……これ我らも、思い当たることの御座れば……よくよく、恍惚たる感動の折りにはこれ、厳に詞を慎まねばならぬことなりと、ここに記しおくことと致す。

耳嚢 巻之十 豪傑の貞婦の事

 豪傑の貞婦の事

 

 尾陽(びよう)公藩中に父子勤(づとめ)にて、其姓名も知れぬれども、猥りに書載(かきのせ)んも如何(いかが)と除(のけ)き。悴の方(かた)近頃同藩中より妻を迎へけるが、甚(はなはだ)美色にて其中も和合なしける由。しかるに、右の家來の内、幼年より召仕(めしつか)ひ、兩親の存寄(ぞんじより)にも叶ひ寵愛受けるに、彼(かの)家來儀、不屆(ふとどき)にも主人の娵(よめ)へ懸想(けさう)して時々密通を申懸(まうしかけ)しに、彼(かの)娵一向請付(うけつけ)ず恥(はづか)しめ置(おき)しが、餘り度々の事故(ゆゑ)夫(をつと)へも右の儀を申(まうし)けれども、父母の愛臣なればよくよく心得違(こころえちがひ)を諭し候申(まうす)ゆゑ、其後姑(しうとめ)に内々語りければ、彼れは幼年より召仕候ものにて、かゝる事はあるべからずと不取合(とりあはざる)故、其儘にて過行(すぎゆく)内、彼(かの)者は兎角に不相正(あひたださず)、其後も不義申掛(まうしか)け、或日夫は當番の留守、舅姑(しうとしうとめ)も外に罷越(まかりこし)、さるにても彼(かの)者定めて又々不埒可申懸(まうしかくべし)と、いさゐの譯を書殘(かきのこ)し、其身の着類(きるい)爐(ろ)にかけて臥し居(をり)しに、果して彼(かの)もの來りて猶(なほ)密通を申懸(まうしかけ)し故、度々懸想の儀、憎(にく)からず思ひぬれば今宵は心に任すべしと、甘言(かんげん)を以(もつて)、床の内に臥(ふせ)らせ、心懸し短刀を以(もつて)、束(つか)も研よと突(つき)ければ、あへなく相果(あひはて)し故、右書置(かきおき)を行燈(あんどん)に張置(はりおき)て、其身の衣類を爐より取りて着替(きがへ)いたし、密(ひそか)に宿を立出(たちいで)、里へ歸りて、まづ覺悟の事なれば自害可致(いたすべし)と申せしを、人々差留(さしとめ)て、其事頭向(かしらむき)へ申立(まうしたて)、今(いま)取調(とりしらべ)中の由。藩中主役の人、文化十酉年の春、語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:老いた未亡人と美童の丁稚の道ならぬ恋から、主人の新妻に不倫を仕掛けるストーカー家来という点で淫らに連関しているように読める。

・「尾陽公」尾張藩名古屋徳川家。文化十年春の頃は第十代藩主徳川斉朝(なりとも 寛政五(一七九三)年~嘉永三(一八五〇)年:第十一代将軍徳川家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男)である。但し、彼はこの文化十年八月十五日に家督を斉温(なりはる:家斉の十九男で従弟に当たる。)に譲って三十五歳の若さで隠居、以後、名古屋で二十三年間に亙る隠居生活に入った。但し、次代の藩主斉温が一度も尾張入りしなかったため(彼は病弱を理由に江戸藩邸に常住、襲封後嘉永三(一八五〇)年に二十一の若さで死去するまでの十二年間、第十一代尾張藩主でありながら、何と一度も尾張藩領内に入らなかった)、その後も「大殿」として隠然たる力を持ったとされる(以上はウィキの「徳川斉朝」及び「徳川斉温」に拠った)。

・「兩親の存寄にも叶ひ」「存寄」は自分や身近な者の意見や気持ち。ここは両親がとても気に入っていたことをいう。

・「束も研よ」底本には「研」の右に原典のものと思われる、丸括弧がついていない『ママ』注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『束も碎けよ』となっている。バークレー校版で「柄も砕けよ」と訳した。

・「文化十酉年の春」文化一〇(一八一三)年癸酉(みずのととり)。「卷之十」の記載の推定下限は翌文化十一年六月であるから、ホット――だから――取り調べ中――な実録である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 豪傑の貞婦の事

 

 尾陽(びよう)公徳川斉朝(なりとも)様御藩中に、父子勤めにて、その姓名も知って御座れども、猥(みだ)りに書き載せんもこれ、如何(いかが)なものかと存ずれば、ここでは敢えて伏せおくことと致す。

 その伜の方が、これ近頃、同藩中家士の家より妻を迎えて御座ったが、はなはだ美麗なる奥方にて、その夫婦仲も至ってよろしゅう御座ったと申す。

 しかるに、その家来が内に、幼年より召し使い、両親もすこぶる気に入っており、殊の外、寵愛なしておった者のあったが、この家来、不届きにも、何と、この若主人の新妻へ懸想(けそう)致いて、しばしば秘かに密通を申し懸けて御座ったと申す。

 が、かの嫁、これ一向、相手にせず、逆に無礼なり! と厳しく叱咤なし、けんもほろろに恥ずかしめおいて御座ったのであったが、それがまた、あまりにたび重なって言い懸けて参ったによって、遂に夫へ、このけしからぬ仕儀を、有体(ありてい)に訴え出た。

 ところが、夫は、

「……かの者はこれ……父母の愛臣なればのぅ……まあ、たまたま……魔が差した、と言うことであろう。……よくよく心得違いを諭しておくによって。……まあ、ここは一つ、穏やかに、の。……」

などと申すばかりにて埒(らち)の明かねば、思い切って姑(しゅうとめ)へも内々に訴えて御座った。

 ところが、姑はこれ、

「――かの者は幼年より召し使(つこ)うて参った忠義の者じゃ!――そのような聴くもおぞましき不埒なこと、これ、致そうはず、これ、ありませぬ!!」

と、逆に叱られ、これまた、一向に取り合わなんだと申す。

 されば結局、そのままに成す手ものぅ過ぎ行くうち、かの者は、これ、夫の諫めなど、どこ吹く風、夫両親の盲目の溺愛をいいことに、全く以って行状を正そうともせず、その後もまた、例の通り、不義密通をことあるごとに申し掛けて御座った。

 さても、そんなある日のことであった。

 夫は城中当番の留守にて、しかも舅姑(しゅうとしゅうとめ)もこれ、親族が方へ用向きのあって帰り深更に及ぶこととなり、結局、屋敷内にはこれ、下人以外には嫁とかの家来ばかりという事態となって御座った。

 さればかの嫁、

『……さるにてもこれ、かの者、またしてもきっと、不埒なる仕儀、これ、申し懸かけて参るに相違ない。……』

と思いたち、まずは、これより己れの成さんとする委細の事情を縷々書き残した上、その身の衣類は香爐に掛けおき、横になって、かの家来の参るを、待って御座ったと申す。

 すると、はたして、かの者の来って、またしても不義密通を申し懸けて参った。

 ところが嫁は、

「……たびたびの懸想の儀……妾(わらわ)……実はこれ……憎からず思うておりましたのじゃ。……されば今宵は……そなたのみ心のままに……これ……任そうと存じまする。……」

と、甘言(かんげん)を弄した振りを致いて、

「……さあ……どうぞ……おいでなさいませ……」

と、徐ろに床の内へと招き入れ、横に添い臥せさせた……と! その瞬間!――かねてより用意して御座った短刀を、

――シャッ!

と引き抜くや、

「――柄(つか)も砕けよッツ!」

と叫びつつ、一気に男の胸元を突いた!……

……されば、その下らない奴は――これ――あえなく相い果てて御座った……。

 そこで嫁は、先の書き置きを目立つように行燈(あんどん)に張りつけおき、その貞節を守った穢れなき身には香を雅びに焚き染(し)めた上着を、かの爐の上より取って着替え致いて、遺体をそのままに一人そっと屋敷をたち出でると、実家へと戻って行った。

 実家へ帰った女は、これ、自身の父母に目通りするや、

「……かくかくの訳にて御座いますれば――まず覚悟の事なればこそ――これより自害致しまする。――」

と口上を述べたが、無論、両親始め家中の人々、こぞってこれを差し止めさせた。……

 そうして、その顛末につき、藩の勘定方上席の役人へと委細申し立て――そうさ、今もまさに――その取り調べの真っ最中――とか。……

 以上は、尾張藩中の重役の御仁が、文化十年酉年の春に語っておられた、正真正銘の実話にて御座る。

尾形龜之助 「寂しすぎる」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

    寂しすぎる

 

         尾形龜之助

 

雨は私に降る ――

私の胸の白い手の上に降る

    ×

私は薔薇を見かけて微笑する暗示を持つてゐない

 

正しい迷信もない

そして 寢床の中でうまい話ばかり考へてゐる

 

 

Sabisisugiru

 

 太寂寞了
          
作 尾形龟之助
          
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

雨 向我落下来 ——

向我胸脯上的白色手落下来

    ×

我心里没有任何暗示,因此看见蔷薇时不会露出微笑的

 

也没有正当的迷信

于是 钻进被窝里只贪便宜……



          
矢口七十七/

尾形龜之助 「晝の部屋」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    晝の部屋

 

         尾形龜之助

 

女は 私に白粉の匂ひをかがさうとしてゐるらしい

 

――女・女

 

(スプーンがちよつと鉛臭いことがありますが それとはちがひますか)

 

午後の陽は ガラス戸越に部屋に溜つて

 

そとは明るい晝なのです


 

 

Hirunoheya

 

 白昼的房间里
         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

那个女人 好像让我闻闻白粉的味儿

 

——女人女人

 

(银匙有时稍有铅味儿 是不是那个?)

 

下午的阳光 从玻璃窗照进来而洒满在屋子里

 

外头正是光亮的白昼……

 


         
矢口七十七/

尾形龜之助 「お可笑しな春」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    お可笑しな春 

         尾形龜之助

 

たんぽぽが咲いた

あまり遠くないところから樂隊が聞えてくる

 

[注:「お可笑しな」はママ。]

 

Okasinaharu

 

 可笑的春天
 
         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

蒲公英开花了

从不远处传来乐队奏起的音乐

 


         
矢口七十七/

尾形龜之助 「幻影」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    幻影 

         尾形龜之助

 

秋は露路を通る自轉車が風になる

 

うす陽がさして

ガラス窓の外に晝が眠つてゐる

落葉が散らばつてゐる

 

[注:「露路」路地。思潮社現代詩文庫版ではここにママ注記があるが、こうも書き、決して誤字ではない。しかも同版では最終行が「落葉が散らばつている」となっているのにママ注記がなく(上記は同社の全集版の表記で正しく「ゐる」となっている)、杜撰な校訂と言わざるを得ない。]
 
 

 

Gennei_2

 


  
    
幻影
         
 尾形龟之助
         
 心朽窝主人,矢口七十七

 

秋天,穿过小巷的自行车会变成一阵风

 

微弱的阳光下

玻璃窗外在睡觉的就是白昼……

地上散落的就是落叶……

 

 


         
矢口七十七/

2015/03/22

柳田國男 蝸牛考 初版(7) 方言轉訛の誘因

  方言轉訛の誘因

 

 地方語調査事業の學問上の價値が、今まで輕視せられて居た大なる理由は、それが無識裁と誤解と模倣の失敗とのみによつて、亂脈に中央の正しい物言いから離れて言つたかの如く、我も人も思ひ込んで居たことであつたが、それは到底立證することの出來ない甚だ不當なる臆斷であつた。小兒の片言のやうな生理學上の理由があるものでも、「匡正」の必要があるものは打ち棄てゝおいても自分で匡正する。外國語を學ばうとする者は、今まで持ち合さぬ語音までも發しようと試みる。ましてや豫て自分たちに具はつた音韻を以て、自由に知つて居る語を選擇する場合に、眞似ようとして誤つた語に落ちて行く道理がない。要するにこれは眞似なかつたのである。さうしてわが居る各自の群のうちに、通用することを目途としたのであつた。唯前代の群は概ね小さく、又相互の交通は完全でなかつた故に、暫らくの隔離の間に、時として意外な變化を出現せしめるやうな餘地が、今よりははかに多かつたゞけである。音韻の改定は文章音樂の盛んであつた地域に、寧ろ頻々として行はれて居た筈である。故に若し古きに復することが即ち正しきに反する道であるならば、邊鄙の語音こそは却つて心を留め耳を傾くべきものであつたかも知れない。ただ今日の實狀に於ては、その地方差は既に複雜を極め、人ほは中央との往來によつて、次第に自ら法則の煩はしさに倦んで、進んで一つの簡明なるものによつて、統一せられんことを欲して居るのである。所謂標準語の運動の、單に便宜主義のものなることを思はねばならぬ。それと國語史の研究とは、全然無關係なる二つの事柄であり、而うして後者の更に重要なる根本の智慮を供給するものなることは、事新らしく論ずるまでも無いのである。

[やぶちゃん注:「豫て」「かねて」と訓じている。

「眞似ようとして誤つた語に落ちて行く道理がない」底本では「眞似ようとして」が「其似ようとして」となっているが、意味が通らない。改訂版で補正した。

「正しきに反する道」この「反」は恐らく「はん」ではなく「へん」と読んでおり、返るの意である。ただこのままだと「反(はん)する」と誤読されることを惧れたためであろう(実際、私はこれを「はんする」と読んで意味がいおかしいと感じて「へん」と読んでいるのだと確信した)、改訂版では『歸する道』と変えられている。]

 

 微々たる一個の蝸牛の名稱からでも、若し我々が觀察の勞を厭はなかつたならば、尚國語の地方的變化の、由つて起るべかりし根抵を見つけ出すことが出來る。それを一言でいふならば古きを新たにせんとする心持、即ち國語の時代的變化を誘うた力が、個々の小さな群や集落に於ても、割據して又働いて居たことである。或は若干の空想を加味すれば、言語も亦他の人間の器械什具と同じやうに、一定の使用囘數を過ぎると、次第に鈍り且つ不精確になるものであつたと言ふことが出來るかも知らぬ。さうして兒童の群は又花柳界などゝ同じく、殊に短期間の言語使用度が激しい群であった。それ故に一旦彼等の管轄に委ねられた言語は、物々しい法廷教壇等の辭令に比して、一層迅速なる代謝を見たのかとも思はれる。實例の三四を順序立てて擧げてみると、千葉縣では海上郡の一部分に、蝸牛の名をヲバヲバといふ方言があるが、それは疑ひも無く次の蝸牛童詞から出たものであった(海上郡誌一二〇八頁)。

   をばをば

   をばら家が燒けるから

   棒もつて出て來い

   槍もつて出て來い

 ところがこの伯母の家の出火なるものは、往々蝸牛を誘ひ出さうとする策略として、他の府縣の小兒にも用ゐられて居る口實であつた。獨り蝸牛ばかりで無く、夕方空を通る烏なども、しばしばこの報告をもつて欺かれんとして居たことは、以前人間が伯母の家を大切にし、何はさしおいてもその災厄を救援しに往つた名殘とも考えへられる。察するところ是も前には一句マイマイツブロを呼びかける語があつたのを、後には伯母々々をまづ唱へたために、それが蝸牛の名である如くに、解する者を生じたのが元であらう。實際又此地方で、今日ヲバというのは次女三女などの、若い娘のことであつた。それ故に蝸牛をヲバヲバといふことが、殊にをかしく感じられたのである。

[やぶちゃん注:日本文化藝術財団のブログ「四季おりおり -日本歌謡物語-」の「第二十回 だいぼろつぼろ(蝸牛)」には、茨城の古河地方の童謡として、

   だいぼろ つぼろ

   おばけの山 焼けるから

   早く起きて 水かけろ

   水かけろ

という、明らかにここに示されたものの激しく変型したものが紹介されていて興味深い。また同記事には、

   蝸牛(かたつぶり)

   蝸牛

   銭(ぜに)百呉(け)えら

   角コ出して

   見せれ見せれ

という秋田のそれ、東京・千葉・神奈川のそれとして、

   まいまいつぶろ

   湯屋で喧嘩があるから

   角出せ槍出せ

   鋏み箱出しゃれ

を載せ、また、鹿児島の、

   でくらでくら

   角出して踊らんと

   向えの岸岩坊(きしがんぼう)が

   蛇を追て来(こ)

が、更に福島・茨城のものとして、

   まいまいつぶろ

   小田山焼けるから

   角出してみせろ

挙げられてあるものは、この「蝸牛考」の次の次の段落に紹介されるものと相同で、この後に千葉のものとして掲げられている、

   おばおば

   おばら家が焼けるから

   棒もってこい

   槍持って出てこい

というのが、この段のものとほぼ同じである。愛媛のそれでは、

   カタタン

   カタタン

   角出しゃれ

   爺(じい)も婆(ばあ)も焼けるぞ

   早う出て水かけろ

という、残酷系の歌詞も紹介されてある。「蝸牛考」に出ない多くの童謡が示されてあるので網羅的引用させて貰ったが、表記の一部は本書の「童詞」に合わせて一部変更してある。

「什具」は「じふぐ(じゅうぐ)」で、日常に使う道具や家具・道具類のこと。什器。

「海上郡」千葉県(旧下総国)にあった郡。現在の銚子市の大部分(富川町・森戸町以北を除く)と旭市の大部分(秋田・萬力・米込・入野・関戸・萬歳以北を除き、更に井戸野・川口・泉川・駒込・大塚原・鎌数・新町を除く)が相当した(ウィキの「海上郡」に拠る)。

「ヲバヲバ」後の「をばをば」もそうであるが、ちくま文庫版はこれを「オバオバ」「おばおば」と、本文に合わせて現代仮名遣化してしまっている。これははっきり言って致命的な改悪である。ここは、それこそ本文で柳田が肝要と考えているところの、古き方言の形(発音)を活字として保存すべき箇所で、それを致命的に変えてしまった完全な誤りだからである。

「夕方空を通る烏なども、しばしばこの報告をもつて欺かれんとして居た」このような童唄は見出し得なかった。識者の御教授を乞う。]

 

 次には山梨縣の北巨摩郡、古來逸見筋と稱する一小區域に、蝸牛をジツトーと呼ぶ方言が行はれて居る。他には一つも類例の無い語で、一見する所は殆ど其由來を知るに苦しむが、これも土地の人ならば簡單に説明し得ることゝ思はれる。即ち是をまたヂットウバットウとも謂ふ者のあるのを見れば、ここには蝸牛の童詞に「爺と婆と」といふ始の句を有つものがあって、それを直ちに此蟲の名にして居たらしいのである。爺婆の名を以て知らるゝ物で、最も有名なのは春蘭の花がある。それから土筆や菫などにも、或は此名があつたかと思ふが、大抵は兩々相對するものに向つていふ戲れの言葉であつた。逸見筋の蝸牛の歌はまだ聞いては見ないが、多分あの二つの角を出したり引込めたりすることが、それに近い文句を唱へさせて居たものと思ふ。

[やぶちゃん注:「北巨摩郡」山梨県の旧郡。現在の韮崎市・北杜市・甲斐市の一部(下今井・龍地(りゅうじ)・大垈(おおぬた)・團子新居(だんごあらい)以西)に相当する(ウィキの「北巨摩郡」に拠る)。

「逸見筋」「へんみすぢ(へんみすじ)」と読む。これは近世の甲斐国に於ける同国内の地域区分・領域編成単位であった「九筋二領(くすじにりょう)」の一つである。ウィキの「九筋二領」によれば、『「九筋」は甲府盆地から甲斐北西部の国中地域における区分で、栗原筋・万力筋・大石和筋・小石和筋・中郡筋・北山筋・逸見筋・武川筋・西郡筋を指す(『甲斐国志』に拠る)。「二領」は甲斐南部の富士川沿岸地域の河内領と甲斐東部の郡内領を意味する』。『律令制下の国郡制において甲斐国は甲府盆地の山梨郡・八代郡・巨摩郡、郡内地方の都留郡の四郡が成立し、中世には甲府盆地において東郡・中郡・西郡の三区分による地域呼称が用いられる。東郡は笛吹川以東地域、西郡は釜無川以西地域、中郡は釜無以西・笛吹以東地域を指した』。『戦国期には西郡のうち甲斐北西部の巨摩郡北部(旧北巨摩郡域)が「逸見」と区別され四区分となり、それぞれ「筋」を付けて』、「~郡筋」と呼ばれる。天正一七(一五八九)年には『関東郡代伊奈忠次(熊蔵)による五カ国総検地が実施され、これによって九筋の区分が設定される。近世に確立した九筋においては戦国期の四区分を基盤に、東郡が栗原筋・万力筋・大石和筋・小石和筋にあたり、中郡は北山筋・中郡筋、西郡は西郡筋、逸見は逸見筋・武川筋に分割されて九筋の地域区分が確立』した。この『逸見筋は八ヶ岳からの湧水により甲斐国第一の米生産地域であった。 この地域には、以下の地域が含まれていたとされる』とあって、釜無川以東の現在の韮崎市と北杜市の明野・須玉・高根・長坂・大泉・小淵沢・白州花水(はくしゅうはなみず)の各地区が挙げられてある。

「ジツトー」改訂版では「ジットウ」と大幅に表記法が変更されている。しかも「ここには蝸牛の童詞に「爺と婆と」といふ始の句を有つものがあって、それを直ちに此蟲の名にして居たらしいのである。」の最後が、『ここには蝸牛の童詞に「爺と婆と」といふ始の句を有つものがあって、それを直ちに此蟲の名にして居たことは確かである。』と変更しているから、高い確率でこの改訂版との間に於いて、柳田は何らかの断し得る情報を得ていたものと思われる(次の注も参照のこと)。

『蝸牛の童詞に「爺と婆と」といふ始の句を有つものがあって』文脈上からはこの謂いは、その「北巨摩郡、古來逸見筋と稱する一小區域」で「蝸牛をジツトーと呼ぶ方言が行はれて居る」地域に伝わる童唄と読める(としか読めない)。前段の注で紹介した童唄の中に、愛媛のそれとして、

   カタタン

   カタタン

   角出しゃれ

   爺(じい)も婆(ばあ)も焼けるぞ

   早う出て水かけろ

というのがあった。柳田はここで唄を紹介していないのが如何にも惜しまれる。

「爺婆の名を以て知らるゝ物で、最も有名なのは春蘭の花がある」単子葉植物綱クサスギカズラ目ラン科セッコク亜科シュンラン連 Cymbidiinae 亜連 シュンラン Cymbidium goeringii の別名ジジババ(爺婆)。ウィキの「シュンラン」には『一説には、ジジババというのは蕊柱を男性器に、唇弁を女性器になぞらえ、一つの花に両方が備わっていることからついたものとも言われる』とある。

「土筆や菫などにも、或は此名があつたかと思ふ」孰れも不詳。識者の御教授を乞う。土筆では古くは手間のかかる袴取りとアク抜きが家族の中でも爺婆の仕事であったという記載は見かけ、また、双子葉植物綱キンポウゲ目キンポウゲ科オキナグサ Pulsatilla cernua を「ジジババ」と呼んでいたという記載もあった。]

 

 方言は大よそ此の如く、もとは少しも世間を構はずに、入用なる群ばかりで作り出して居たものであつた。それが面白ければ第二の土地に採擇せられ、次々に彼等の元からもつものを棄てさせたのであつたが、成功しなかつた例は勿論非常に多かつた。しかも其發生地に在つて當座の力をもつことは、堂々たる儀禮公事の語も異なる所はない。それを悉く本貫より携え來り、乃至は中央から勸請したものゝ如く、考へてかゝるのは無理であつた。是も千葉縣であるが海上郡などの一部に、蝸牛をタツボと謂つて居る土地がある。タツボは本來田螺のことであるから、是を樹上の貝類に付與することは、甚だしき無智又は錯誤とも評し得られる。併し徐ろにさうなつて來た順序を考へてみると、是は兒童がマイマイツブロの歌をいつの頃よりか「まいまいたつぼ」と歌い改めて居た結果であつて、その證據には現にさういふ文句もあの地方に行はれて居り、又山武郡では蝸牛をメエメエタツボと呼ぶ方言も採集せられて居る。さうして實際又蝸牛はマイマイのあるタツボに相違なかつたのである。それよりも尚弘い地域に亙つての變化は、利根川水域のことに左岸一帶に於いて、蝸牛をメエボロと呼び習はす方言である。是も如何にして斯んな語が起つたかは、土地に行われて居る童言葉を、聽いたばかりでも直ぐに諒解し得る。常陸新治郡の蝸牛の唄には、

   まいまいつぼろ

   小田山燒けるから

   角出して見せろ

というのがあるそうだが(郷土研究二卷三卷)、是は小田山の附近に住む子供だけらしく、それから南の他の村々では、大抵は「伯母とこ燒けるから」と言つて居る。さうして其「まいまいつぶろ」を、しやれて又「めいぼろつぼろ」と唱へる子供も多かつたのである。自分は今から四十年ほど前に、久しくあの地方に住んで居た者だが、其頃の記憶でも「めいぼろつぼろ」と言つた者と、「めいめいつぼろ」と言つた者とが兩方あつて、殆ど一人一人の考へ次第のやうなものであつた。從つてかの蟲をマイマイツブロと呼ぶ方言も無論通用したが、大勢は當時既にメェボロの方に傾いて居た。多分は此方ならば只四言で間に合つたといふことが、珍らしく又氣が利いて致いたのであらう。茨城縣方言集覽・稻敷郡方言集、其他かの方面の採集書を比較してみると、案外にこの變化の行はれた區域は弘く、しかもそれが一地毎に少しづゝ違つて居るのであつた。

   メメチヤブロ        下總東葛飾郡

   メエボロツボロ、メエボロ等 同 北相馬郡、常陸稻敷郡

   マエボチツボロ、メーポロ等 常陸稻敷郡

   マイマイツボロ、マイボロ  同 久慈郡

   ネエボロ、ナイボロ等    同 眞壁郡、下總結城郡

   ナイボロ、ダイボロ     下總猿島郡

   ネアーボロツボロ      下野芳賀郡一部

   ダイボロ、デエボロ     同郡及河内郡一部

[やぶちゃん注:「山武郡」「さんぶぐん」と読み、現在も千葉県に存在する郡であるが、この当時は、東金市・山武市・九十九里町、芝山町の全域、大網白里市の大部分(清水を除く)、千葉市の一部(緑区越智町・高津戸町・下大和田町以南及び大高町の一部)、横芝光町の一部(栗山川以西)を含む広域であったので注意が必要である。

「メエメエタツボ」改訂版では『メェメェタツボ』。

「新治郡」「にいはりぐん」と読む。近代、茨城県(常陸国)にあった郡(但し、江戸以前の群とは領域を全く異にするので注意)。当時は、石岡市の全域・かすみがうら市の全域・土浦市の大部分(概ね上高津・下高津・富士崎・小松・滝田以南と、大志戸・小高・小野・東城寺・永井・本郷を除く)・つくば市の一部(大角豆(ささぎ)・倉掛・花室(はなむろ)・妻木(さいき)・栗原・玉取(たまとり)・大曽根(おおぞね)・篠崎・長高野(おさごうや)・前野・大穂・佐(さ)・若森より南東と、苅間(かりま)・葛城根崎(かつらぎねさき)・東平塚・西平塚・下平塚・西大橋・新井・大白硲(おおじらはざま)・平(たいら)・柳橋・山中・島・西岡・小白硲(こじらはざま)・原)・小美玉(おみたま)市の一部(概ね園部川以西)が郡域であった(以上はウィキの「新治郡」などに拠った)。

「小田山」筑波山から南東に連なる筑波連山の支峰の一つで、茨城県つくば市と土浦市との境に位置する標高四六一メートルの宝篋山(宝鏡山)(ほうきょうさん)の地元での呼称。以上はウィキの「宝篋山」に拠ったが、それを見るとこの山の南西麓にある小田城(鎌倉期から戦国期まで小田氏の居城)に関連する城郭跡に由来する呼称らしい。

「從つてかの蟲をマイマイツブロと呼ぶ方言も無論通用したが、大勢は當時既にメェボロの方に傾いて居た」この箇所は改訂版では『從つてかの蟲をメェメェツブロと呼ぶ方言も無論通用したが、大勢は當時既にメェボロの方に傾いて居た』と書き換えられてある。

「四言」ちくま文庫では『よこと』とルビがある。

「茨城縣方言集覽」茨城教育協会編で明治三七(一九〇四)年刊。国立国会図書館近代デジタルラブラリーのこちらで読める。

「稻敷郡方言集」稻敷(いなしき)郡教員集会編で明治三五(一九〇二)年刊。稲敷郡は茨城県に現存する郡であるが、当時は牛久市の全域・龍ケ崎市の大部分(川原代町(かわらしろまち)・長沖新田町(ながおきしんでんまち)・須藤堀町(すとうほりまち)以南を除く)・稲敷市の大部分(清久島(せいきゅうじま)・橋向(はしむこう)・佐原組新田・手賀組新田・八千石(はっせんごく)・上之島(かみのしま)・本新(もとしん)以南を除く)・土浦市の一部(荒川沖・沖新田・荒川沖西・荒川沖東・中荒川沖町(なかあらかわおきまち)・北荒川沖町)・つくば市の一部(樋の沢(ひのさわ)・西大井・牧園(まきぞの)・高野台(こうやだい)・鷹野原・中山・若葉・若栗以南)・阿見町(あみまち)の全域・美浦村の全域・河内町(かわちまち)の一部(長竿(ながさお)・田川以西)・千葉県印旛(いんば)郡栄町(さかえまち)の一部(生板鍋子新田(まないたなべこしんでん)・龍ケ崎町歩(りゅうがさきちょうぶ))に相当する広域であったので注意が必要(以上はウィキの「稲敷郡」他に拠った)。

「メメチヤブロ」改訂版では『メメチャブロ』。

「下總東葛飾郡」千葉県にあった郡。当時の群域は市川市・松戸市・野田市・流山市・浦安市の全域・鎌ケ谷市の大部分(軽井沢を除く)・船橋市の一部・柏市の一部・埼玉県幸手(さって)市の一部・茨城県猿島郡五霞町(ごかまち)の一部であった(ウィキの「東葛飾郡」に拠る)。

「メエボロツボロ、メエボロ」改訂版では『メェボロツボロ、メェボロ』。

「同 北相馬郡」茨城県に現存する郡であるが、当時の群域は現存の北相馬郡利根町・守谷市全域・取手市のほぼ全域・常総市の一部・つくばみらい市の一部・龍ケ崎市(一部)に当たる(ウィキの「北相馬郡」に拠る)。

「メーポロ」改訂版では『メェボロ』。

「同 久慈郡」茨城県に現存する郡であるが、当時の群域は常陸太田市の全域・日立市の一部・常陸大宮市の一部に相当する(ウィキの「久慈郡」に拠る)。

「ネエボロ」改訂版では『ネェボロ』。

「同 眞壁郡」茨城県にあった旧郡。筑西(ちくせい)市の全域・下妻(しもつま)市の一部・桜川市の一部・結城郡八千代町(やちよまち)に相当する(ウィキの「真壁郡」に拠る)。

「下總結城郡」茨城県に現存する郡であるが、当時は結城市全域と古河市のごく一部及び結城郡八千代町(東部と南部のごく一部を除く全域)が含まれた(ウィキの「結城郡」に拠る)。

「下總猿島郡」「さしまぐん」と読む。茨城県に現存する郡であるが、当時は坂東市全域・古河市の一部・猿島郡境町全域が含まれた(ウィキの「猿島郡」に拠る)。

「ネアーボロツボロ」改訂版では『ネァーボロツボロ』。

「下野芳賀郡」栃木県に現存する郡であるが、当時は真岡市・宇都宮市(桑島町を除く鬼怒川以東)で、後には宇都宮市桑島町も当郡域に加わっている(ウィキの「芳賀郡」に拠る)。

「デエボロ」改訂版では『デェボロ』。

「河内郡」「かはちぐん(かわちぐん)」と読む。栃木県に現存する郡であるが、当時は宇都宮市(鬼怒川以西及び桑島町)・日光市の一部・下野市一部と鹿沼市古賀志町で、後に宇都宮市桑島町が編入されている(ウィキの「河内郡」に拠る)。]

 

 この最後の二つの郡は、北と西との兩面に於て、前に述べたるダイロの領域と接して居る故に、爰に始めてダイボロといふが如き、中間の形を發生せしめたのみならず、更に他の一方にはそれとマイボロ地方との觸接面に、ナイボロ、ネェボロといふ變化をさへ引起して居るのである。俚謠集拾遺には又栃木縣の童詞として、

   えーぼろつぼろ

   角出して見せぬと

   臍くそぐつと

といふ一章を載せて居る。何れの村かは知らぬが、又エーボロといふ例もあつたのである。私が是を方言の邊境現象と名けた、用語の當不當は別として、少なくとも個々の田舍の一つの方言を拔き出して、轉訛の問題を論ずることの出來ぬだけは、是でもはや明白になつたことゝと思ふ。

[やぶちゃん注:「俚謠集拾遺」文部省文芸委員会編大正三(一九一四)年刊。

「臍くそぐつと」不詳。「くそぐ」は取るの意か? 栃木弁に詳しい識者の御教授を乞う。

「個々の田舍の一つの方言を拔き出して、轉訛の問題を論ずることの出來ぬ」これは単独のある地方の単なる訛りとして処理出来ない、接触する方言という有機的な中間型が発生するということを述べているように私は読む。]

耳嚢 巻之十 老婦相對死望出奇談の事

 老婦相對死望出奇談の事

 

 淺草藏前札差渡世のものといへども、其證はさだかならず。文化九年度の事なりと、人のかたりしを爰に記しぬ。渡世豐(ゆたかに)にくらしぬる町人、十八九年以前、輕き町人の悴にて、母もなく兄弟多(おおき)にて、右札差の許へ丁稚(でつち)に出しけるが、漸(やうやく)八九歳なれば札差の妻是を哀れがりて、子供やなかりし、抱□などして殊にいつくしみ育てけるが、夫も身まかり其子の代になりても、相變らず右丁稚をいつくしみ育てけるに、丁稚も年頃になりしに、いつの程にや後家はいつくしみの餘り密通して、衣食とも右後家より厚く世話いたし、重手代(おもてだい)にて別家(べつけ)などなしける。實の父母兄弟ども右餘陰(よいん)を得て不貧(まづしからず)くらしける。しかるに、年頃にもなり候間、右別家の手代に妻むかえんと、父母知音(ちいん)抔世話いたしけれど、當人曾てて不聞入(ききいれず)、扨又主人の老婆何分得心せず、今に無妻(むさい)にてありしと、笑ひ語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。本文では、主たる舞台となる店が札差であったかどうか確証がないとするが、実際には札差と断定した方がいろいろな不都合や不自然さが総て解消するように私には強く思われる。以下の注もそうしたスタンス(札差として)で書いているので御寛恕願いたい。この話、細部に於いて豪商の未亡人とその使用人の姦通なればこそ成立する(そうでないとこうはならない)箇所が沢山想定されるからである。それらを一々総ては挙げていないけれども、読まれる方はこれを実際に頭の中で映像化してみれば、確かに、と思われるものと私は信じて疑わないのである。

・「老婦相對死望出奇談」「らうふあひたいじにのぞみでるきだん」と読むか。但し、「相對死」はあくまで心中のことであり、この標題、猟奇的な匂いをさせながら、やや羊頭狗肉の感を拭えない。されば、現代語訳の最後は、標題に合わせた演出を施した。

・「淺草藏前」現在の東京都台東区蔵前。ウィキの「蔵前」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更、注記号は省略した)。『台東区の南東部に位置する。町域東部は隅田川を境に墨田区本所・横網にそれぞれ接する。南部は台東区柳橋に接する。南西部は台東区浅草橋に接する。西部は新堀通りに接し、これを境に台東区三筋・台東区鳥越にそれぞれ接する。北部は春日通りに接し、これを境に台東区寿・台東区駒形にそれぞれ接する』。『付近には厩橋と蔵前橋が隅田川に架かる』。『蔵前という地名はこの地に江戸幕府の御米蔵(浅草御蔵)があったことに由来する』。『この蔵は幕府が天領他から集めた米を収蔵するためのもので、元和六年(一六二〇年)に鳥越神社にあった丘(鳥越山)を切り崩し、隅田川を埋め立てなどして造られた。その総敷地面積は三万六千六百四十六坪(ただし『御府内備考』は二万七千九百坪とする)、東を隅田川、他の南北西の三方を堀で囲み、六十七棟の蔵があった。この蔵の米が旗本・御家人たちにとっての扶持米すなわち今でいう給料となり、これを管理出納する勘定奉行配下の蔵奉行をはじめ大勢の役人が敷地内や、新たに鳥越山北側の姫ヶ池などを埋め立てて役宅を与えられ住んでいた』。『浅草御蔵は、隅田川の右岸に上流から一番、二番と数える八本の堀を作り、それに面した多くの米蔵が連なった。四番堀と五番堀の間には、「首尾の松」という枝を川面に垂れた松の木があった。この名前の由来には諸説がある。首尾の松は江戸中期の安永年間に大風に倒れ、その後何度か接ぎ木を試みたが明治までに枯れてしまった』。『御蔵の随伴施設の厩が北側にあり、この付近から隅田川の対岸に渡る「御厩河岸の渡し」があった。また南側にも渡しがあり「御蔵の渡し」の名があったが、こちらは富士山が見渡せたため「富士見の渡し」とも呼ばれた。御厩河岸の渡しは転覆事故が多く、「三途の渡し」とも言われたことがある』。『御蔵の西側にある町は江戸時代中期以降蔵前と呼ばれるようになり、多くの米問屋や札差が店を並べ、札差は武士に代わって御蔵から米の受け取りや運搬・売却を代行した。札差がこの地域に住むようになったのは寛文の頃にさかのぼるという。札差は預かった米から手数料を引いて米と現金を武士に渡し、現物で手元に残った分の米は小売の米屋たちに手数料を付けて売るほかに、大名や旗本・御家人に金も貸し付けて莫大な利益を得、吉原遊郭や江戸三座を借り切りにするなどして豪遊した』とある(下線やぶちゃん)。

・「札差」蔵米取(「倉米」は諸大名が蔵屋敷に蔵物として回送する米。商品ではあるが、商人が回送する納屋米(なやまい)とは区別されていた)の旗本や御家人の代理として幕府の米蔵から扶持米を受取り換金を請負った商人。札差料は 百俵につき金二分で、手数料はさほどの金額にはならなかったが、扶持米を担保として行う金融によって巨利を得た。前の注の引用の最後の部分などと合わせて考えると、ここに登場するのも札差となれば、想像以上の豪商であった可能性も高い。実際、私は「實の父母兄弟ども右餘陰を得て不貧くらしける」とわざわざ記した辺りにそれを感ずるのである。――セレブ・ウィドウ・マダムの老いらくの恋――である。

・「文化九年」一八一二年。「卷之十」の記載の推定下限は文化十一年六月。

・「十八九年以前」文化九年からだと、寛政五~六年(一七九三~一七九四年)。ということはこの主人公の一人である青年は文化九年当時は満で二十五~二十八である。但し、相手の未亡人の「老婆」であるが、これは現在の老婆という文字通りにとることは出来ない。婚姻年齢が早かった当時は、「老婆」「老人」と呼称されるようになる年齢も早く訪れた。例えば芭蕉は四十代で確信犯で老齢と自認し、周囲もそうした目で見ている事実から見ても、実際には当時は三十代でも「老婆」と呼称された。ここでは有意な年齢差を考えつつも、この女性の気持ちも汲んで、四十歳程度に設定して上げたい気はどこかでしている。

・「丁稚」ウィキの「丁稚」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更、注記号は省略した)。『江戸時代から第二次世界大戦終結まで行われた商店主育成制度。またはその制度によって入門したばかりの者をさす上方(関西)のことば。年季奉公の一形態である』。ここでは江戸は浅草でありながら「丁稚」と称しているが、厳密には『上方ことばの丁稚に対して江戸(関東)ことばでは「小僧」である』。『十歳前後で商店に丁稚として住み込んで使い走りや雑役をし、丁稚の中でも経験年数によって上下関係がある(丁稚の時の呼び名は「※松」で、※には丁稚の一字が入る場合が多い)。丁稚の仕事は多岐に亘り、前述の他に蔵への品物の出し入れや力仕事が多く、住み込みの為に番頭や手代から礼儀作法や商人としての「いろは」を徹底的に叩き込まれる。また入り口付近に立って呼び込みや力仕事が主な仕事で、商品を扱う事は無い。丁稚奉公の者は、店が一日の仕事を終えたからといって終わりではなく、夕刻閉店した後には番頭や手代らから商人として必須条件である読み書きや算盤を教わった。他店や客からは「丁稚どん」又は「小僧」「坊主」などと呼ばれる』。その後、主人(船場言葉で「だんさん」)の裁量で手代となる(「船場言葉」は「せんばことば」と読み、かつて大阪市船場の辺りで盛んに話されていた言葉遣いで大阪弁の一種。堺方言や京方言が混ざり合った商人言葉として形成されたが、近代化の中で話者が散逸、現在では落語の中に見出されたり、一部の言い回しが残っている程度とも言われる)。『小僧から手代までおおむね十年である。手代はその字の通り、主人や番頭の手足となって働く(手代の時の呼び名は「※吉」「※七」等で、下位の番頭と同じである)。そして、番頭を任され(大商店では「小番頭」「中番頭」「大番頭」と分けられる時があり、呼び名は「※助」である)主人の代理として店向き差配や仕入方、出納や帳簿の整理、集会等の参列など支配人としての重要な業務を任されるようになる』。『番頭となるのはおおむね三十歳前後であり、支店をまかされたり暖簾分けされ自分の商店を持つことが許される。ただしそこに到達するまでは厳しい生存競争に勝ち抜く必要があった』。例えば江戸期の呉服・両替商であった三井家の丁稚の場合は、『暖簾分けまで到達できるのは三百人に一人であった』。『基本的には主人と番頭を筆頭とした徒弟制度であるが、手代より上には給金が支払われ年季奉公の性格があった。手代までは店住まいであるが番頭より上は自宅を構え家族をもつこともあった。丁稚には給与は無く、衣食住が保障されたのみであった。お盆・暮れの年二回、小遣いや藪入りの際の実家への手土産、新しい衣服(お仕着せ)などが支給されることがあった。店主としては商売の教育を施して飯を食わせるのであるから無給は当然であり、丁稚となる者にとっても商売の経験と将来的な独立への布石、また食い詰めた貧家からの丁稚であれば少なくとも飯が食えるというメリットはあった。この報酬体系から丁稚は、しばしば丁稚奉公(江戸言葉では小僧奉公)と表される』。『奉公人の生涯は丁稚からはじまり番頭になるまで一つ商店ひとり主人の下で行われると考えがちであるが、奉公換えは頻繁に行われ、とくに優秀な手代は大店へ移ることで給金や賞金(現代でいうボーナス)が増えることからしばしば行われたようである。近江商人の場合は長年つとめた奉公人よりも中途採用の者が上の階職につくこともあり、能力主義が特徴であった』。『第二次世界大戦後、GHQの指令により労働法規が整備されたことや、義務教育の年限が九年に延長された結果、「長期間の住み込みによる衣食住以外は無給に近い労働」という丁稚奉公のスタイルを維持することが困難となった。丁稚を採用していた企業は近代的な契約による従業員に衣替えさせた。これにより、二百年以上の歴史を持っていた丁稚制度は消滅した。これは、家族経営を主体としていた商店が、近代的企業へと変わっていくのと軌を一にしていた』とある。

・「抱□」底本では右に『(寐カ)』と編者の訂正注がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『抱寢(だきね)』となっている。

・「夫も身まかり其子の代になりても、相變らず右丁稚をいつくしみ育てける」前の「子供やなかりし」と矛盾する。されば、ここには何か言い添え忘れていることがあるように、思われる(子がなかったのなら、この丁稚を養子に入れて跡を継がせればよい)。跡継ぎがいたのに話柄の中で異様にその影が薄いのは、この母が継母だから(跡を継いだのは先妻の子)と考えるのが最も妥当である。そうすると、この母の添い寝などもよく理解出来る。それを訳では追加した。

・「年頃」江戸の武家社会では形式的には数え十五歳で元服の儀式があり、これをもって成人としていたが、実際に成人と認められるのは、その後、前髪(額の上の部分の頭髪を束ねて前に垂らした向こう髪。童子の髪型)を落とす前髪執(まえがみと)りの儀礼を終え、月代(さかやき)をする十七歳前後であった。ここは町人で性的に成熟していることになろうから、その前後(満十六歳前後)かと考えられる。丁稚に入って七年後ほどか。但し、添い寝あたりから考えると、もっと早くから二人に関係(擬似的性行為)はあった可能性は高い。その場合、どちらかといえばこの未亡人の方から誘いをかけたと考える方が自然であろう。そうしてそれが、彼女にとって本気の恋の炎となったのである。そうでなくては「老婦相對死望出」という標題が生きてこない。しかもこの丁稚は美男であった、継子の方はそうでもなかったなかった、という仮設定も不可欠であろうと思う。なお、江戸時代の農村部の平均初婚年齢というのが、慶應義塾大学通信教育部公式サイト内の浜野潔氏の「古文書で読む江戸時代のライフコース――宗門改帳の世界――」で分かる。それを見ると、武蔵甲山で男子は二十五・五歳、女子が十八・三歳で、しかも西に行くほど晩婚であることが分かる。そうして『大きな地域差があった』ものの、『典型的な江戸時代の庶民は、十代前半から奉公などを経験して家を出て、女性であれば二十歳前後で、男性は二十代半ばから後半で結婚したと思われます』と結論しておられる(引用ではアラビア数字を漢数字に直した)。男性が多く女性が少なかった(江戸後期の男女比は1.8:1と言われる)こと、西高東低は基本的に裕福であると晩婚化するを指すこと、村よりも都会の方が晩婚であることなどから考えると、主人公の青年は話柄の最後では満で二十五~二十八であるから、独身でもおかしくなく、蛆が湧くという訳ではない。にも拘らず、最後に話者が、「今に無妻にてありしと、笑ひ語りぬ」と言って軽蔑して笑うのには――中年婆にすっかり調教され、根性まで骨抜きとなった文字通りの軟弱男が――といった、その二人の閨の様を妄想する猥雑なニュアンスが感じられるとも言えようか。

・「重手代にて別家などなしける」「重手代」は商家で事務を総括する古参の手代。ウィキの「手代」より引く。本来の「手代」は『江戸時代中期以降に、郡代・代官などの下役として農政を担当した下級役人である。地方役人(じかたやくにん)のひとつ。手付(てつけ)、手附(てつけ)など、全国的にさまざまな呼称や似た役職があった。江戸幕府の勘定奉行配下の御林奉行・蔵奉行などの下役にも手代という役職があった。また転じて、商家の従業者の地位をあらわす言葉ともな』った。商家の手代は船場商家の役職の一つとして登場し、『旦那、番頭、手代、丁稚の順で位が低くなる。現代の会社組織でいうと、係長や主任に相当。丁稚が力仕事や雑用が主な業務であるのに対し、手代は接客などが主要な業務であった。つまり、直接商いに関わる仕事は手代になって始めて携われるのであった。手代になると丁稚と違い給与が支払われる場合が一般的だった』。因みに商法(現行商法の成立は明治三二(一八九九)年)には「番頭」「手代」の用語が二〇〇五年の改正時まで残っていたが、『その間に「手代」の地位のある企業はほとんど無くなっていたため、課長、係長など中間管理職を手代と解釈していた。現行法では、より幅の広い概念として使用人(商業使用人)と定義している』とある。「重手代にて別家などなしける」というのは、その重手代の地位のままで、別に店を任されたという意味で採るしかない。支店と訳したが、これ、私は未亡人との関係の継続性が最も肝要であることから考えて、ある種の特別な担当業務を独立させて、店のごく近く或いはすぐ脇に別な事務所に附属した独立の家を買ったか建てたかしたものと考えられる(札差の注で分かるように彼らは一種の豪商であったから何ら不自然ではない)。この丁稚は相応に仕事が出来たし、頭もよかったのであろう。そうでなければ札差の重手代は勤まるまい。また人格的にも未亡人の誘惑を断ることが出来ない優しくも弱い一面を持ちながらも、店主となった継子が追い出すこともなく使用人として使っていたことや、未亡人が同居しているこの使用人に自分と同等の衣食の世話を成すことを許していたこと、しかも前に述べた通り、その当主の継子の影が異様に薄いことなどから考えると、訳として自然なものにするためには、最小限、当主の継子(これも以上のような感じから考えると実は線の細い弱い性格であったのであろう)との関係も決して悪いものではなかったとしないと少し無理がある。そのように翻案を加えた。無論、この未亡人がヒステリックで暴君的女傑で好き勝手放題したという強烈な人物設定に変えて脚本全体を完全に塗り替えることも出来るが、そういうありがちな時代劇は、どうも私は好かんのである。マダム・キラーの美少年と禁断の恋に落ち、遂には彼との心中を口にする未亡人は、やはりしっとりしたものであって欲しい。最後に皆が笑っても――である。

・「實の父母兄弟」「實の」とあって、これは前に「母もなく」とあるのと矛盾する。後添えと解釈した。

・「右餘陰」本格的な援助は「衣食とも右後家より厚く世話」をなすようになってから、暖簾分けの店を持たせてもらってからではあっても、過去は丁稚になった時へまで遡るものであろう。さればこそ、口減らしに丁稚出した父も後妻(前注参照)を貰えるほどにはなったと考えられるからである。

・「知音」満七、八歳で丁稚に入った少年に知音が出来るとすれば、使用人仲間・札差仲間・贔屓の客筋ということになる。ということは、これ、彼が人格的にも優しく、人好きする容貌や態度の持ち主であった可能性が高いと考えて何ら不自然ではない。最後に駄目押し――そもそもが「年頃にもなり候間、右別家の手代に妻むかえんと、父母知音抔」がこぞって「世話」しようとする札差の支店の責任者の男は、これ、ハンサムで仕事が出来るに決まっとろうが!――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 老婦が相対死(あいたいじに)を切望したという奇談の事

 

 浅草蔵前の札差(ふださし)を生業(なりわい)としておった者の妻とも聞くが、ちょっと確証はない。その積りでお読み頂きたい。文化九年度のことであったと人が語ったものを以下に記しおくこととする。

 

 札差として豊かに暮らしておった、とある町人のあった。

 この札差が許へ――これもう十八、九年も以前のことであったが――妻を失い、兄弟も多御座った身分の低いとある町人が、その伜の一人を丁稚(でっち)として奉公させた。

 奉公したての頃は、これ、いまだ八、九歳であったによって、札差の妻は、この子――なかなかの美童ではあった――を非常に可愛がり――札差夫婦には子供がなかったわけではないが、先妻の子はいたものの、この妻には子がなかったと申す――夜毎、ともすると兄弟を思い出して淋しがって泣いたりするこの子に、添い寝なんどをしてやり、殊の外溺愛致いて、我が子のように育てたと申す。

 まものぅ、この夫は、ふとした病いで身罷ってしもうた。

 先妻の子が既に成人して御座ったによって、札差はその者が継いだ。

 また、未亡人は相変わらず、かの丁稚を慈しみ続けたと申す。

 さても丁稚も年頃のやさ男に成長致いたが――いつの頃からであったものか――実はこの後家……溺愛の余り、この丁稚と密通なし、秘かにわりない関係と相い成って御座ったと申す。

 されば遂には衣食ともに、この後家がなんやかやと、我が子の如くに、手厚う世話致すことともなって御座った。

 されどこの丁稚、継子の下にては実に堅実に仕事をこなし、人柄もよく、ご贔屓筋には勿論のこと、当主である継子の信頼もこれ厚く、じきに重手代ともなり、商売も上手く捗って参り、これ、かえって手広う扱うようになった結果、逆に扱い余す仕事も増えたによって、継母の慫慂もあって、暖簾分けというのではないが、まっこと円満に、重手代のまま、別に、これ、ごく近き所へ支店を構えて、そこを一手に任さすることと相い成って御座った。

 また、この男の父や母――前に述べた通り、実の母は亡くなっておったが、その後、後添えとして継母の出来て御座った――やかの者の兄弟たちも、このお蔭を蒙って相応に貧しゅうなく暮らすこと、これ、出来て御座ったと申す。

 されば、

「……お前さんも、こうして店も持った。また、もう年頃にもなって御座ったれば、次はそろそろ、これ、かみさんじゃのう!――」

と、父やその後添え、兄や昔馴染みの商売仲間なんどが皆して、しきりに仲人の世話を致さんとしたのであったが、ところが、この話になると、これ当人、いっかな、聴く耳を持たぬ。美しき青年にて御座ったれば、これ誰(たれ)もが不思議に思うた。

 されば、彼を一番のお気に入りとして、これ、永年面倒を見て御座った、かの女主人に仲へ入って貰えれば、これ、断ることも出来まいと、女主人とも親しい者たちが集って相談に行き、この話をきり出したと申す。

 ところが、対面の挨拶までは、いつも通りの柔和な笑顔であった、かの老婆……この話をきり出した途端……さっと顔色の変わり……

「……なりませぬ。……」

「……なりませぬ!……」

「……決して……なりませぬ!……」

と、一向、得心する様子がない。

 そうして遂には、

「ならぬと言ったらッツ!……ならぬのじゃッツ!!……」

と皆を怒鳴りつけると、

――すっくと!

――髪振り乱して立ち上り!

「――その時はッ!! 妾(わらわ)!! あのお人と!! これ!! 心中するッツ!!――」

と叫ぶや、これ、昏倒致いてしもうた、と申す。……

 

「……されば、この男(おのこ)、今以って独身と聞いておりまする。……」

と、これを語ってくれた御仁は、ここで笑って御座った。

2015/03/21

本日夜閉店 心朽窩主人敬白

耳嚢――遂に950話まできた。残り50話!
本日は夜、教え子と呑む。クラッテルロのある店なれば、期待感、いや増し!

耳嚢 巻之十 豪傑怪獸を伏する事

 豪傑怪獸を伏する事

 

 名も聞(きき)しが忘れたり。去る下屋敷の稻荷の狐なる由、下屋敷守(しもやしきもり)の家來へ、別貮人扶持給(たまは)り、毎朝右家敷守食事をこしらへ片木(へぎ)にのせて右稻荷の脇へ差置(さしおけ)ば、いづ方よりか出て喰盡(くらひつく)しける事なりしが、然るに右家敷守替りて、新敷(あたらしき)屋敷守になり、新家敷守は豪傑なるものにて、主人より扶持まで賜(たまは)る事なれば、稻荷の供御(くご)、又は社頭の修復入用(いりよう)には可致(いたすべし)、聊(いささか)私(わたくし)の用にはたてんにはあらず、何ぞや、畜類に食を與ふるに、折敷(をしき)を淸め與ふるなど沙汰の限りなりとて、飯を地上にをきて片木(へぎ)などいさゝか不用(もちゐざ)りしが、喰殘(くらひのこ)し、又はくわざる事もありし故、前々にはかくかくなりと申(まうす)人もありしが、食(しよく)す食さぬ迄の事とて地上に置(おき)あたへけるが、上屋敷に居(をり)ける彼(かの)もの兄弟の女とやらの夢に一疋の狐來りて、御身の弟なる者、前々より片木(へぎ)にてあたへし飯を、砂の上へ直(ぢか)にこぼし置(おく)故、砂交りて甚(はなはだ)難儀なり、片木(へぎ)に不及(およばず)、古膳古椀、あるいは板の上へ成共(なりとも)、置(おき)たまはる樣に傳へたまはるべしと賴(たのみ)ける故、それは何故(なにゆへ)直(す)ぐに不申(まうさざる)哉(や)、我(われ)申しても誠(まこと)になすまじきと、夢心に答へければ、かく豪氣(がうき)のおの子なれば、我れ等(ら)など夢にも難立寄(たちよりがたし)と申(まうし)ける故、翌の日申遣(まうしつかは)し、強(しい)て賴み、それよりは、いかやうの物にのせてあたへても給盡(たべつく)し、夫(それ)迄は火のあしきもの抔のあたへしとて祟り事などありしが、其後は絶へてなかりしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪異譚で連関。登場するのが怪物――モンストロム――怪しき獣(けだもの)という点でも強く連関している。

・「貮人扶持」以前に注したが、「扶持」は扶持米のことで、蔵米や現金の他に与えられた一種の家来人数も加えられた家族手当のようなものであって、一人扶持は一日当たり男は五合、女は三合換算で毎月支給された。ここは、屋敷守をしている家来の主人(「下屋敷」とあるからこの武士は藩の家士と思われる)で、その主は今一人、自身の妻か下人を持っていたということであろう(扶持米は特別手当であって家禄(先祖の功により家に対して供された俸禄)・職禄(与えられた職務を遂行するに家禄の不足を補うために供された加算給与がまずあるので注意。しばしば参考にさせて戴いている清正氏のサイト「武士(もののふ)の時代」の「武士の給料」を参照のこと)。或いは、この新旧二人の屋敷守がその「貮人扶持」の二人であったのかも知れない。

・「片木」本来はへぎ板、檜・杉などの材を薄く削いで割った板を指すが、この本文ではこれを以下に出る「折敷」(注を必ず参照されたい)と同義語として用いている。

・「折敷」実は底本は「新敷」となっている。「あたらしき」と読んで全く意味が通じないでもないが、どうも不自然である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見てみると、ここは『折敷』で、これなら如何にもしっくりと来る。書写の誤りと断じて例外的に訂した。「折敷」は析(へぎ。前注の「片木」の原義。)を折り曲げて縁とした角盆又は隅切り盆のこと。足を付けたものもあり、神饌の供えや通常の食膳としても用いた。

・「供御」「ぐご」「くぎょ」「ぐぎょ」とも読む。原義は天皇の飲食物であるが、後に上皇・皇后・皇子の飲食物をいう語となり、武家時代には将軍の飲食物から広く貴人の神饌の食事をも指すようになり、飯(めし)を指す女房詞ともなった。

・「砂の上へ直にこぼし置」実は底本は「こぼし置」が「ひぼし置」となっている。「ひぼし」は「陽干し」と読めなくはないが、如何にも不自然で、直後と意味が通じない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見てみると、ここは『こぼし置』で、これなら如何にもしっくりと来る。書写の誤りと断じてこれも例外的に訂した。

・「火のあしきもの」底本の鈴木氏注に、『死の忌、産の忌などがかかっている者。けがれにより神を祭る資格のない者である』とある。所謂、血の穢れと同義である(岩波の長谷川氏注ではこれらに加えて『また月経中の女など』と附言しておられる)。実は民俗社会では、火は神聖であると同時に穢れやすいものと考えられており、そこから穢れは火によって感染するものとされ、穢れの伝播のシンボルともなった(その点では「血」と通底する)。ここでの「火」もそうした「穢れ」の象徴表現であって実際の火を指しているのではないので注意されたい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 豪傑には怪しき獣(けもの)も伏するという事

 

 名も聞いたが、忘れてしまった。

 さる下屋敷の稲荷の狐の話であるという。

 その下屋敷の屋敷守(やしきもり)をしておる家来――その藩士たる主人は、これ、別に二人扶持(ににんぶち)を給わっていた――があった。

 この家敷守の毎朝の勤めの一つに、食事を拵え、折敷(おしき)に載せ、その屋敷内にある稲荷の脇へ差し置くことであった。

 そうしておくと、何処(いずく)よりか、狐の出でて参り、これを喰らい尽くすを常としていた。

 しかるに、この家敷守が交替となって、新しい屋敷守となり、その新しい男、これがまた、なかなかの豪傑であった。

 されば、さても前の者より引き受けた、その翌日のこと、

「……いみじくも御主人さまより我ら、扶持まで給わってなしおる仕事。……稲荷に捧げ奉るところの、これ、正しき供物の供御(くご)、或いは社頭の修復や修繕に入り用のものなればこそ、かくは念を入れて致すべけれど――いや。いささかも私(わたくし)の用として倹約なし、小金(こがね)を貯えんとする、小さき料簡からの謂いにては、これ、ない。が、それにしてもじゃ……何が、これ、畜生の類いに食い物を与えんに、折敷なんどを清めて与えねばならという法、これ、あろうかい! このような下らぬ心遣い、これ、以ての外! 言語道断じゃッツ!」

と、炊いた飯(めし)を地面に直かに置き、折敷などは、これ、一切、用いずに供するように変えた。

 すると、飯は食い残されたり、或いは、全く手がつけられぬまま、まるまる残るようにさえなった。

 たまたま、それを見た昔から下屋敷に出入りする町方の者の中には、これ、心配して、

「……以前は、折敷に載せて出されて御座ってのぅ。……このようなことは、とんと御座いませなんだが。……ここの、お狐さまは何ですが、これ、祟ると評判のあれで御座んしてのぅ……」

などと、忠告致す者もあったが、屋敷守は、

「――食(しょく)さぬとなれば、食さぬまでのこと。――我らの知ったことでは御座らぬ。」

と、ぴしゃりと申し、そのまま、飯はこれ、ずっと地面の上に置き続けた。

   *

 さてここに、この藩の上屋敷の方(かた)に、実は、この下屋敷守の姉に当たる者が勤めて御座ったが、その女のある日の夜(よ)の夢に、これ、一疋の狐が来った。

 そうして、

「……御身ノ弟ナル者……前々ヨリ折敷ニテ与エクレタル飯ヲ……コレ……砂ノ上ヘ直カニコボシテ置クユエ……飯粒ニ……コレ……砂粒ノ交ッテノゥ……ハナハダ難儀致イテオル……サレバソナタヨリ……新シキ折敷ナンドハ用イルニハ及バヌニヨッテ……ソウサ……古キ壊レタル膳ニテモ……欠ケタル古椀ニテモ……イヤイヤ……或イハ板ノ上ニテモ宜シュウ御座ルニヨッテ……ナンナリトモ……ソノ……何カノ上ヘ飯ヲ置イテ供シ下サルヨウ……コレ……ソナタヨリ……宜シュウニ……オ伝エ給ワランコトヲ……コレ……切ニ相イ願イ上ゲ奉リマスル……ドウカ……一ツ……」

と、これまた妙に、妖狐のくせに、下手(したて)に出て頻りに頼むのである。

 されば、この姉なる女も妖狐という恐ろしさよりも、その態度の不審なるの気になって、

「……その儀ならば、なにゆえに我が弟に直かに申さぬのじゃ?……我れらが弟にかく伝えたとしても、これ、本気には致さぬと思うぞぇ?」

と夢心地に反問したところが、

「……メ……メ……メ……滅相モナイ……アノヨウナル……剛毅ノオノ子ナレバ……我レラナド……コレ……夢ニモ……立チ寄リ難キコトニテ……御座ル……」

申した――と思うた――ところで、目が醒めた。

 さても翌日、夜の明くるを待ちかね、下屋敷の弟が許へ姉自ら訪ねて、かくかくの夢告のあった旨、伝えたが、

 折しも、例の狐への供物の飯を炊いておった弟は、

「……そんな馬鹿な!……」

と取り合わなかったものの、姉がしいて、さらに懇請致いたところ、彼もまた、妖狐の、己れがことを――剛毅ノオノ子――と賞したことに気をよくしたものか……その日より、それなりの物の上に載せて飯を供するように致いたところ、その日よりはずっと、供すれば必ず、きれいに残らず食べ尽くされるようになったと申す。

 それどころか、風聞によれば、この狐、かつては、その下屋敷に関わる者の夢枕なんどに、

――……火ノ悪シキ不浄ノモノナンド……コレ……与エタナァ!……――

と、恨み言を垂れては、何やらん、祟るようなることもあったと申すが、これ以来、そうしたことはこれ、一切、絶えてなくなった、ということで御座る。

耳嚢 巻之十 怪窓の事

 怪窓の事

 

 中川家領□州の城下に候哉(や)、又其家中長屋に候哉、崇り有(あり)とて、右窓の處、圍(かこ)いたし置(おき)候處、文化九年七月の頃の由、右邊(あたり)修復有し節、作事方(さくじがた)勤(つとめ)ける役人、かの窓は不用にて、塞ぎ候て可然(しかるべき)旨申(まうさ)けるに、夫(それ)より上(うへ)だちし役人、有來(ありきた)る窓にて、怪異ありとて年久しく差置(さしおき)たる儀、何れ城地(じやうち)の事に候得(さふらえ)ば、江戸表主人へも申立(まうしたて)、其時宜(じぎ)によりて公儀へも伺(うかがひ)有(ある)べき事なりと答へけるを、右六ケ敷(むつかしく)のたまふ故難成(なりがたく)、普請(ふしん)の模樣がへに候間、貴殿と我等内談心付(こころづき)にて直(なほ)し置(おき)て可然(しかるべし)と申(まうす)故、頭立(かしらだち)し人も其心にまかせ右窓を塞(ふさぎ)しに、其夜怪しき小さなるもの、頭は大きく眼(まなこ)すさまじき怪物出て、右作事奉行の頭(かしら)並(ならび)咽(のど)へ喰付(くひつき)、右疵(きず)にて無程(ほどなく)相果(あひはて)、其譯(わけ)江戸表へも聞えて、元の如く窓を取付(とりつけ)し由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:凶宅の怪窓(かいそう)譚二連発。

・「中川家領□州」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『豐州』とあるから、これは豊後国(現在の大分県の一部)にあった外様七万四百石の岡藩である(大野郡(現在の豊後大野市)・直入(なおいり)郡(現在の竹田市)・大分郡(現在の大分市)を領し、豊後国内にあった藩の中では最大の藩であった)。訳では豊後を出した。文化九年七月は第十代藩主中川久貴(ひさたか 天明七(一七八七)年~文政七(一八二四)年)の治世である(以上はウィキの「岡藩」及び同リンク先に拠った。なお、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、凡そ二年以前の出来事である)。ウィキの「中川久貴」によれば、寛政一〇(一七九八)年に第九代藩主中川久持の末期養子として家督を継ぎ、文化元(一八〇四)年に『豊後一国の地誌である『豊後国誌』を編纂して幕府に献納し、岡藩の学問水準の高さを知らしめ』、文化四(一八〇七)年からは『横山甚助による藩財政再建を中心とした「新法改革」が実施されたが、専売制や領民に対する重税のために反感を買い』、文化八(一八一一)年には『岡藩において大規模な一揆が発生する。しかもこの一揆は臼杵藩や府内藩にも飛び火した。このため、久貴は農民の要求を受け入れ、横山を罷免することで』文化九(一八一二)年に一揆を鎮めている、とある。また『久貴には実子がいたが、正室の満から娘・育に婿を娶らせて藩主とするよう強要され、譜代大名の名門である井伊氏から久教を養子として迎え』、文化一二(一八一五)年六月に家督を譲って隠居したとある。しかも HIROSAN GOODS 氏のサイト内の「三佐の歴史」の「文化の一揆」を見ると、この勝手方御用掛(藩の財務・民政を掌った役職)横山甚助の行った『新法改革』(文化の新法)が農民にとって苛烈なものであったことが窺え、この何気ない怪異発生の背後に実は、藩自体の病んだ実態も見え隠れするように思われる。もしかすると、この「夫より上だちし役人」――作事方の上司とは、そのずっと上役の勝手方御用掛らしくも見える。いわばこの、後からしゃしゃり出て権力を握っては、旧来の定式(窓)を排して新たに苛政を敷いた、この憎っくき張本人横山甚助なる男に絡めて、仮託したところの創作怪談のようにも、これ、見えてはこないだろうか?――怪異の影に真実が潜んでいる――調べるうち、そんな気もしないでもなくなってきたのであった。……

・「作事方」木工仕事を専門とし藩庁の大工・細工・畳・植木などを統括した役人。後に「作事奉行」と出るが、藩によっては実際に作事奉行を置いていた。

・「城地」岩波の長谷川氏注に、『城に手を加えるなら幕府に断る要あり』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 怪窓(かいそう)の事

 

 中川家久貴(ひさたか)殿御領分、豊後国の御城下の、その城内のことにて御座ったか、或いは中川家御家中に御座った長屋での話であったか、ともかくも――崇りのある――と称して、とある建物(たてもの)の窓のある一箇所を、奇怪なることに、厳重なる塀にて囲みおいてあったと申す。

 ところが、文化九年七月の頃のこととか、その辺り一帯に就き、大きな修復を加うることとなった。

 折りから、作事方(さくじがた)を勤めて御座った役人が、一巡実見の折り、その奇体に封ぜられたる窓を見かけて、

「――かの窓は不用のものなれば、塞いでしまうのがよかろう。」

と判断の上、取り敢えず、作事方支配の上司へ言上致いたところが、

「……あれは……見た目これ、ありきたりの窓にてはあるが……かねてより――怪異のある――と専らの噂のもの。……されば、年久しゅう塞いだままに放置して参ったものじゃ。……しかも孰れ、これ、城地内(じょうちうち)の修繕に相当致す仕儀なれば、江戸表の御藩主様へも、これ、しかと御伺い申し立て、相応の時宜(じぎ)を見計らった上にて、御公儀へも、公に修復の御伺いを致さねばならぬところの案件なればのぅ。……」

との答えで御座った。

 ところが、作事方の者は、

「……お畏れながら、そのように杓子定規に難しゅう仰せにならるればこそ、成し難くなるもの申せませぬか?……これは申さば、普請(ふしん)の――単に――模様替え――で御座いまする。謂わば、とるに足らぬ――ちょっとした修繕――とり繕いにて御座いますれば。……ここは一つ、あなたさまと我らとの、内々の相談の上での分別にて、直しおいて、これ、何らお咎めの、これ、御座ないものと存じまするが?……如何で御座いましょう?……」

と慫慂致いたによって、その上司の者も、

「……そうじゃ、の。……謂わば、それも一理。そなたに任せた。よきに計らえ。」

と、許諾致いて御座った。

 されば、その翌日、作事方、自ら出向いて人夫を指図致いて、かの窓を、これ、なんなく塞ぎ終えたと申す。

 ところが、その夜(よ)のことである。

 その作事奉行が屋敷に、これ……

――怪しき小さなる……

――頭の大(だい)にして……

――真っ赤な眼(まなこ)の爛々と耀いた……

――言うもおぞましき、凄まじき化け物!

――これ、出で!

――屋敷内(うち)を恐ろしい勢いにて駆け巡る!……

と!

……主人が寝間より、恐ろしき叫び声の致いた!

……されば家来の者、押っ取り刀で駈けつけてみたところが……

――かの化け物……

――主人の頭と咽喉(のんど)のところへ

――喰らいついては離れ――

――喰らいついては離れ――

――御家来衆の一人が一太刀、化け物へ加えんとしたところが……

「シャアアッツ!」

と雄叫びを挙げたかと思うと、

ふっ!

と、脱兎の如く、外へ走り去って、これ、姿を消してしもうた、と申す。……

 作事方は、これ、その傷(きず)がもとで、ほどのぅ身罷った、と申す。……

 以上の顛末は、これ、結局、江戸表へも伝えられ、藩主より厳命の下って、元の如く、かの窓を取り付け直した、との由にて御座る。

耳嚢 巻之十 房齋新宅怪談の事

 房齋新宅怪談の事

 

 文化の頃、下町にて房齋(ばうさい)といへる菓子屋、色々存付(ぞんじつき)の菓子を拵へ殊外(ことのほか)はやりしが、數寄屋橋(すきやばし)外へ、同九年八月の頃引越して、召仕(めしつか)ひの小もの二階の戸をあけるに、半分明(あき)て何分(なにぶん)不明(あかざる)故、手に強く敲(たた)きて明(あく)るに明(あか)ず。右音を承り、何故かく手あらくいたし候や、損ずべしとて、亭主上りてあくるに、聊かとゞこほらず。又たてる時も、外(ほか)召仕ひ上りてあくるに不明(あかず)、漸くして強くをしければあきぬ。あけの日又右戸を明(あく)るに明(あか)ざれば、嚴敷(きびしく)押(おし)て建(たて)ぬれば、戸袋の間より女壹人顯(あらは)れ出て、右の男に組付(くみつ)く故、驚周章(おどろきあは)て突退(つきのけ)しに消失(うせ)ぬ。其明けの日、亭主二階にて、右召使一同見たる、きのふ顯れし女のひとへ物、軒口(のきぐち)に引張(ひきは)りありし故、取退(とりのけ)んとするに消失ぬ。先に住ひしものも、かゝる怪異ある故、房齋にゆづりしならんかと、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。五つ前の「怪倉の事」に続く本格凶宅物。これ、三分の二が経過して初めて二種の怪異が出来(しゅったい)、しかもその一つは安倍公房的な二次元的妖女の出現(この平面状の女が膨れ上がって厚みを以って一個の女へと実体化して襲いかかってき、突きのけた瞬時に、空気に溶け込んで消失するシーンは頗る絶品である)という、なかなかにシュールな上質の一篇である。数少ない「耳嚢」中の怪異譚の中でも私が偏愛する佳品なれば、訳には細部に臨場感を出すための翻案を施してある。悪しからず。

・「文化の頃」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、文化一年(享和四(一八〇四)年二月十一日に文化に改元)から、ここは九年八月引っ越すまでのまでの八年を閉区間とする。

・「下町」ウィキの「下町」によれば、『歴史的に江戸時代の御府内(江戸の市域)で、高台の地域を「山の手」と呼び、低地にある町を「下町」と呼称されたという。東京における下町の代表的な地域は、これもばらつきがあるが日本橋、京橋、神田、下谷、浅草、本所、深川である』。『徳川家康は江戸城入城後、台地に屋敷を造ったのち、低湿地帯を埋め立てて職人町等を造ることにし、平川の河口から江戸城に通じる道三堀を造ったのを手始めに、掘割が縦横に走る市街地の下町を造成していった。芝居小屋や遊郭などの遊び場も栄え、江戸文化が花咲いた』。『東京の下町は運河や小河川が縦横にあり、橋を渡らないと隣町に行けないところという見解がある。この地域には道路や川を越した先を「むこうがし(向こう河岸)」という表現がある』とある。

・「存付」「存じ付く」という動詞は、思いつくの意であるから、考案したオリジナルの趣向のものを指す。

・「數寄屋橋外」数寄屋橋は寛永六(一六二九)年に江戸城外濠に架けられた橋。現在の晴海通りにあり、周辺の地域も数寄屋橋と呼ばれる。JR有楽町駅の南直近で、「外」とあるから現在の中央区銀座四丁目か五丁目付近に相当する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 房齋(ぼうさい)新宅の怪談の事

 

 文化の頃、下町にて房齋と申す菓子屋、これ、いろいろ自ずと考案致いた菓子を拵え、殊の外、流行って御座った。

 かの房齋、数寄屋橋(すきやばし)外へ、同九年八月の頃、引っ越して御座った。

   *

 その引っ越した翌朝のこと、召し使っておる小者(こもの)が、その二階の雨戸を開けんとしたところ、半ばまでは開いたものの、建て付けでも悪いものか、それ以上、いっかな、動かぬ。されば、拳でもって、

――ドン! ドン! ドドン!

と、戸の上下を強く叩いて開けんとしたが、やはり、これ、開かぬ。

 ところが、この音を聴きつけ、

「――こりゃ!! お前さん! どうしてかくも手荒きことを致すんじゃ! 壊れてしまうではないか!」

と叱りつつ、亭主房齋が二階へ自ずと上って参り、召し使いを払いのけると、手ずから、開けようとした。

 すると、

――すうーっ

と開いて、いささかも、これ、滞ることのぅ、戸袋へと収まって御座った。……

   *

 その日の暮れ方、雨戸をたてる折りには、亭主房齋、

「……乱暴な、あ奴には任せられん。これ、そこの、お前。行って、たてておいで。」

と、先とは別の召し使いが命ぜられて、二階へと上ぼって行き、さても戸袋から戸を引き出さんと致いたが、これ、今度は、引き出そうとしても引き出せず、暫く何度もぐいぐい引いた末、

――逆に強く押すや否や、間髪を入れずまた

――ぐっ!

と強く引いたところが、

――すうーっ

と出でて参り、これ、戸をたつることの出来て御座った。……

   *

 さても、翌朝こと、先夜に戸をたて得た殊勲によって、かの召し使いがこれまた、房齋に命ぜられ、かの戸を戸袋に仕舞わんと致いた。

 ところが、これまた、戸袋へ半ば入ったところで、いっかな、動かずなった。

 されば昨日の塩梅にて、逆に、

――ぐっ!

――と強く引いては即座に押しこんで

戸袋に突き込んだ。

――と!

――戸袋の間より!

――女が一人!

――現われ出で!

――その召し使いの男に組みついた!

――男はこれ! 驚き慌て! その女を強く突く退けた!……

……と!……

……女は……これ……消え失せて御座った…………

   *

 房齋は、その召し使いの者より、奇体な女の出現を聴いて、半信半疑ながらも、その日はこれ、不気味に覚え、二階は戸をたてさせずにそのまま放っておかせた。

 さても、そのまた翌朝のこと、房齋は召し使い一同を引き連れ、その二階へと上がって、恐る恐る、かの窓の方(かた)を覗き見た。……

……と……

――軒口に

――これ

――女の真っ赤な単衣(ひとえ)物が

――これ

――引っ掛かって

――獣の臓物の如く

――朝の風に

――靡いておった……

 と、それを恐る恐る房齋の背の後ろから覗き見た、かの召し使い、

「……ご、ご、主人さま!……あ、あれ! 昨日、戸袋より現われ出でたる、あの、あやかしの女が! き、着ておったものこそ、あ、あれで! 御座いましたぁッツ!!……」

と申したによって、房齋、ここは一つ気を強ぅ持たずんばならず、と、自ずと窓へと近づくと、軒の方へ顫える手を伸ばして、

――バタバタ――バタバタ――バタバタ――……

と、妙に癇に障る音を立てておる、その、単衣を、これ取り払わんとした。……

……と!……

……今あったはずの単衣……これも……消え失せて御座った…………

   *

「……先(せん)にこの家に住もうて御座った者も、かくなる怪異を同じく体験致いて御座ったれば、気味(きび)悪るうなって、そうした怪異のあるを一切告げることのぅ、かの房齋にかくも体(てい)よく、この家を譲ってででも御座ったものか?……」

と、以上は、さる御仁の語って御座った話である。

2015/03/20

耳嚢 巻之十 不思議に人の惠を得し人の事

 不思議に人の惠を得し人の事

 

 飯田町(いひだまち)に葛西屋(かさいや)長四郎とて、明和の頃田安淸水(たやすしみづ)御屋形(おやかた)の藏宿(くらやど)をなし、有德(うとく)にくらしけるものあり。右の者の素性(すじやう)を尋(たづぬ)るに、葛西の肥(こや)し船の舟乘(ふなのり)をなせし若ものなりしが、飯田町の番太郎(ばんたらう)をなせし者の甚(はなはだ)氣に入(いり)て、明け暮、肥舟(こへぶね)に乘り來る時は、彼(かの)番太郎事、我(わが)子の如くなしけるが、元より番太郎子供もなく、死に臨み、我等跡を汝に讓るべし、外に讓るものはなけれども、其桶(をけ)を出すべしと、人の居ざるを見合(みあひ)て床下に有之(これある)桶を爲出(ださせ)、右の内の灰をかきのけよといふ故取除(とりのけ)しに金子百兩ありしを、是を讓るとて與へて間もなく終りければ、彼(かの)舟乘の若もの、外に思ひ付(つき)もなければ、店(たな)をかりて鐵砲洲(てつぱうず)邊より妻を呼(よび)、其身は無筆なりしが右妻は書(かけ)る故、之を帳元(ちやうもと)にして屋敷々々へ敷金抔して掃除を引請(ひきうけ)、在方へ賣拂(うりはら)ひしに程なく仕出して、借金などなし大勢人を遣ひてとみ榮えける由。然るに右葛西屋、桂四郎一代は右番太郎を元祖として甚(はなはだ)尊崇なせしが、其悴桂四郎は有福(いうふく)に育ち金銀を水の如く遣ひて、後は亂心なして其家斷絶なしけるが、素より右の不賴(ぶらい)者故、番太郎を祭る事もなく、金銀を水の如く遣ひし罰なりと、親の代に勤めし女の、婆になりしが語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。所謂、汲み取り屋、屎尿買い取り運搬業者(江戸のリサイクルに於いては屎尿を肥やしとするために農家が直接或いはこうした仲買業者を挟んで汲み取る方が金を払って収集していた)から身を起こした者の出世凋落譚。

・「飯田町」現在の千代田区飯田橋一帯。家康入府以前は千代田村と呼ばれた。町の名は天正一八(一五九〇)年に江戸に入府した家康がこの千代田村とその周辺を視察を行ったが、案内役を買って出た村の住人飯田喜兵衛(きへえ)の案内に感心した家康が彼を名主に任命、さらに地名も「飯田町」とするように命じたことに由来する。以来、江戸の町の開発が進み、この界隈は本文に「屋敷々々」とあるように武家屋敷が犇めくようになったが(江戸時代の武家地は町名を持たなかった)、「飯田町」は以前、この周辺の通称として使われた、と千代田区公式サイトのこちらに記載がある。

・「葛西屋長四郎」後に「桂四郎」と出るが、この長四郎が正しいと思われ、悴が桂四郎であろう。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、後の「桂四郎」の二箇所(やはり本文と同様の誤りを犯している)が『權四郎』となっている。訳では意味が通るように変えた。

・「明和」西暦一七六四年から一七七一年まで。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、成功した一代目の葛西屋長四郎が生きていたのは五十年以上以前ということになる。

・「田安淸水御屋形」御三卿(ごさんきょう)の田安徳川家(第八代将軍吉宗次男徳川宗武を始祖とする)と清水徳川家(第九代将軍家重次男徳川重好を始祖とする)両屋敷(今一つは一橋徳川家で吉宗四男徳川宗尹(むねただ)を始祖とする)。

・「藏宿」札差(ふださし)のことであろう。蔵米取(「倉米」は諸大名が蔵屋敷に蔵物として回送する米。商品ではあるが、商人が回送する納屋米(なやまい)とは区別されていた)の旗本や御家人の代理として幕府の米蔵から扶持米を受取り換金を請負った商人。札差料は 百俵につき金二分で、手数料はさほどの金額にはならなかったが、扶持米を担保として行う金融によって巨利を得た。但し、岩波の長谷川氏注には、『あるいは蔵元の意か』とあり、これだと、大坂などにおかれた諸藩の蔵屋敷で蔵物の出納売却などを管理した人。当初は藩派遣の蔵役人がこれにあたったが、寛文年間 (一六六一~一六七三)年頃から商人が当たるようになった。これら町人蔵元は通常、藩から扶持米を給され、武士に準じる扱いを受け、蔵物の売却に当たって口銭(こうせん:商業上の利潤を言う。仲介手数料・運賃・保管料などを含む。仲介手数料。)を得、また売却に関連して莫大な投機的利潤をあげた(以上は概ね「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。しかし蔵元は多くの記載が「大坂など」とあるのが気になる。札差で訳した。

・「葛西」武蔵国葛飾郡。現在の東京都墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区の地域に相当する。参照したウィキの「葛西」によれば、『江戸時代に利根川の大規模な治水工事が行われ、利根川の水流の大部分を渡良瀬川と合して旧鬼怒川から銚子に、一部を太日川に流すようになった。これが現在の江戸川である。江戸川の誕生は葛飾地域の一体性を大きく分断し、西側の葛西は江戸の近郊地域と化した』。貞享三(一六八三)年(或いは一説に寛永年間(一六二二年~一六四三年)とも)には『上流部とともに武蔵国に移管され、武蔵国葛飾郡の一部となった。葛西地域の西隣では、貯木場となる木場が置かれ、元禄年間には深川、本所の江戸の市街地化が進んだ』。『またこの頃になると、この地域を中川をおおよその境に東西に分けて「東葛西領」と「西葛西領」と呼ばれるようにもなった。東葛西領をさらに「上之割」・「下之割」に、西葛西領を「本田筋」と「新田筋」に分け』、四つの地域に区分される場合もあったという。

・「肥し船の舟乘」岩波の長谷川氏注に、『葛西の農村地帯の日兩として江戸の町の屎尿を汲取って運ぶ船。長四郎は神田川をさかのぼって飯田町へ来ていた』とある。

・「番太郎」底本の鈴木氏注に、『もとは、江戸市中町々の境に木戸ありて、其木戸に番小屋あり、其番人を番太郎といへり、荒物、三文菓子などを鬻げり。(三村翁)』とある。老婆心乍ら「鬻げり」は「ひさげり」で商売をしたの意。単に番太とも呼んだ。これは自身番(じしんばん)と同義で、江戸・大坂などの大都会にあって市中の警備のために各町内に置かれた番所(概ね保守管理のために木戸の近くに置かれた)。初め地主自らがその番に当たったが、後に町民の持ち回りとなった。但し別に、町や村に雇われて夜警や火事・水門などの番に当たった者(非人身分の者が多かった)をもこう呼ぶが、ここは前者であろう。時代劇などを見ていると、老人がやっていることが多く、凡そ百両を溜め込んでいるような者がする仕事とは思われない。これ、それがきっちり百両あることなどから考えても、この老番太、若いころは盗賊の一味ででもあったのかも知れない。この百両も、足を洗った際、山分けされた、いわば、いわくつきの金なのではあるまいか? 「雲霧仁左衛門」の見過ぎか?

・「鐵砲洲」東京都中央区東部、現在の中央区湊(みなと)及び明石町(あかしちょう)に相当する。地名は家康入府当時のこの辺りが鉄砲の形をした島(洲)であったことに由来するとも、また、寛永の頃にこの洲で鉄砲の試射をしたことに依るとも言われる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。鉄砲洲の港には各地からの廻船が入港して賑わっていたから、この長四郎の妻というのもそうした船乗り相手の宿屋や茶屋の下女(或いは所謂、体を鬻いだ飯盛り女)などで、彼の馴染みの女であったのだろう。わざわざ「鉄砲洲邊より」とした以上、暗にそういう仄めかしが含まれているように私は読むべきと考えるのである。但し、この女読み書き算盤が出来る。されば更に妄想を広げれば、相応の格式の身分の婦女であったものが零落してそうなっていた……いやいや……お後が宜しいようで……。

・「帳元」金銭の帳簿を掌る会計係。

・「敷金」それぞれの屋敷に於いて屎尿汲取権を独占的に認可して貰うための屋敷方へ支払った保証金。次注参照。

・「掃除」屎尿汲取りと便壺の掃除。岩波の長谷川氏注に、既に述べたように、『当時は汲取る方が金を払う。肥料になるので汲取が権利化していた』とある。

・「在方」田舎。農村地帯。

・「仕出して」財産を作り上げて。稼ぎに成功して。

・「借金」貸金。金貸し。両替商。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 不思議に人の恵みを得た人の事

 

 飯田町(いいだまち)に葛西屋(かさいや)長四郎と申し、明和の頃、田安・清水様の御屋敷の札差(ふださし)を勤め、裕福に暮らして御座った者がおった。

 この者の素性(すじょう)を訊ねたところが、元は葛西の肥(こや)し船の船頭を生業(なりわい)と致いておった若者で御座った由。

 神田川を遡上致いては飯田町辺りの肥えの運搬を成して御座ったが、同町の番太郎(ばんたろう)を致いておった者が、この長四郎がことをはなはだ気に入り、明け暮れ、肥え舟に乗ってやって参る時は、かの番太郎、これ、まるで我が子に接するが如くなして御座ったと申す。

 もとより、この番太郎、子供ものぅ、死に臨んで、

「……儂(わし)は跡を――お前さんに――譲ったる。……さて、と言うて、これ、外に譲るものとてもなけれど……ここにある、桶を出しなぃ。――」

と、他に人気のないを確かめた上、病床の脇の畳を指差し、

「……この床下にある――桶――じゃ。」

と、長四郎に畳を揚げさせ、床板を外し、床下の地面に埋め込まれた桶を取り出させた。

「……その桶の上を覆っとる灰を、これ、皆、掻き除(の)けなぃ。――」

と申したによって、言われた通りに、すっかり掻き出して見たところが、桶の底には、これ、

――金子百両!

がみっちりと敷き詰められて御座ったと申す。

「……それを……譲ったる。――」

と、長四郎へ与えて間ものぅ、番太郎は、これ、亡くなった。

 されば、その肥え船の船乗りの若者、百両の使い道につき、何か、外の仕事などをも、これ一向、思いつかず御座ったによって、これを元手として、その飯田町にお店(たな)を借り、鉄砲洲辺りより馴染みの女を呼び迎えて妻となした。

 長四郎自身は字が書けなんだが、その妻なる者は読み書き算盤、これ、一方ならず得意として御座ったによって、この者を帳元(ちょうもと)役となし、飯田町一帯の多くの武家屋敷へ肥やし汲み取りの敷金などを支払い、その便壺の汲み取り掃除の権利を、これ、一手に引き請けることに成功、そこで得た多量の肥やしを、神田川を下らせては葛西の農村へと売り払うという、大きな仕事をし始めた。

 ほどのぅ小金をこれ、貯め込むことが出来、それにさらに借金をして前よりもより大きなる事業へとこれを拡げ、遂には大勢の使用人や専任の汲み取り人夫并びに専属の肥え船附き船頭をまでも使うようになり、大いに富み栄えるようになったと申す。

 然るに、この葛西屋、この長四郎一代は、かの番太郎を葛西屋元祖と称し、はなはだ尊崇なしては堅実な事業を成して大いに栄えて御座ったのであったが、その伜の桂四郎なり者は、これ、物心ついたころより裕福なる中に育ったからであろうか、後に葛西屋を継ぐや、金銀を湯水の如く使(つこ)うてしもうて、遂には乱心なし、葛西屋は結局――断絶――致いたという。……

「……もとより、桂四郎という申す、その、ドラ息子は、これ、そのような放蕩者にて御座いましたによって……その栄えの元となりましたる、かの番太郎さまを祀ることも、これ、一切のぅ……ただただ、只管(ひたすら)、金銀を湯水の如く使うばかり……乱心も、お家の断絶も、これ、その罰(ばち)が、これ、当たったに、相違御座いませぬ。……」

とは、その親長四郎の代より葛西屋に勤めて御座った下女であった者――今は無論、すっかり老婆となっておるが――が、これ、私に語ってくれた話で御座った。

耳嚢 巻之十 假初の滑稽雜話にも面白き事有し事

 假初の滑稽雜話にも面白き事有し事

 

 大久保邊に神宮の社ありて、文化九年九月祭禮に、俗に地口行燈(ぢぐちあんどん)とて燈籠をとぼす繪に、禪門と一老人と燈下に碁を圍みいる所を畫(ゑが)き、又側(そば)に若き女居眠り居(をり)、壹人の女子手を揚げて伸(のび)をなす所を認(したた)め、行燈いづれも百人首の上句をとり、

  かささぎの渡せる橋のおく霜の棕櫚箒を見れば夜ぞ更にける

と歌を書(かき)しが、此歌しろきをしゆろきにかへ、主人の碁にこりしにあき果(はて)たる所、おもしろき趣向なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。狂歌シリーズ。これを見ると、根岸自身、かなり狂歌が好きだったことが窺われる。彼自身、作ってないのかしらん? あったら、これ、とっても読みたい!

・「大久保邊」現在の新宿区大久保と旧東大久保村のあった新宿区新宿の一部。

・「神宮の社」不詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『神明の社』(天照大神を祭神とする神社)とあるが、現在の大久保や旧東大久保(さらには旧大久保百人町や西大久保村等の鎮守社には高田馬場にある神社もある)などに複数の神社があるものの、神宮或いは神明社を見たす神社は見当たらない。識者の御教授を乞う。

・「文化九年九日」西暦一八一二年。「卷之十」の記載の推定下限は文化十一年六月。

・「地口行燈」底本の鈴木氏注に、『ぢぐちあんどんといふ、地口とは、耳なれし言葉の、語音の相似たるを用ひて、一語に二様の意味を含まする戯れにて、これを行燈に顕して下に疎画を添へ、初午等に街上に立て、賑を添へるもの。(三村翁)』とある。

・「伸(のび)」は底本の編者ルビ。

・「かささぎの渡せる橋のおく霜の棕櫚箒を見れば夜ぞ更にける」は、

 かささぎのわたせるはしのおくしものしゆろはうきをみればよぞふけにける

或いは、本文通り、

 かささぎのわたせるはしのおくしものしゆろきをみればよぞふけにける

と読む。言わずもがなであるが、これは「百人一首」第六番の大伴家持の歌(「新古今和歌集」冬之部・六二〇番歌)、

 かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける

のパロディで、底本の鈴木氏注には、「棕櫚箒」について、『長尻の客を帰らせるまじないに、下駄に灸をすえるとか、箒を逆さに立てるなどがある』とする。本文にあるように、長っ尻の碁の対戦相手を早く追い返すための、妻の「逆さ箒」の呪(まじな)いである(が、それが一向に効果を示さないことをこの戯画が示しているところが、またまた面白いのである)。ネットの質問サイトの答えなどによれば、箒は古えの神道の祭祀に用いた神聖な道具で(竃神(かまどがみ)のいる竃の清掃に用いる荒神箒のように稲霊(いなだま)の宿る稲の穂の芯を材料にして作られている点や、物を掃くという挙止動作に特別な霊力をイメージしたのであろう)、「箒を跨ぐと罰が当たる」とか、妊婦の枕元に置いて安産のお守りとなるといった、さまざまなジンクスが残るが、この逆さ箒は、「無用な残溜物を掃き出す」「邪悪なものを祓う」という箒の民俗的機能からの連想であり、逆さに立てるという動作は古代の神事の際の捧げ持ち方に通ずるものであるという説が示されてあった。私の知れるそれ(漫画「サザエさん」で見た)は、この箒の掃く部分に手拭いをかけて客がいる襖の向こう側にこっそりと立てるというものであった。この狂歌は碁石の「白」石に加えてその「白」手拭いの色をも「棕櫚」の「逆さ箒」にイメージとして「白き」に掛けているように私には読めたが、如何?

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 ちょっとした滑稽の雑話にも面白きことのある事

 

 大久保辺りに神宮の社(やしろ)のあり、俗に「地口行燈(じぐちあんどん)」と申して燈籠を灯し、その紙に戯画と、ちょっとした戯れ言を記す風俗の御座るが、その文化九年九月の例祭にて、

――町屋の主人が、禅門の僧と思しい一老人と燈下に碁を囲んでおる所

を描き、また、側には、

――若き女の居眠り居り、今一人の女子(おなご)は手を挙げて伸びを致いておる

所を認(したた)めた行燈のあった。

 また、この折りは、居並ぶ行燈、これ、その地口、百人一首の上の句を取った狂歌仕立てで御座ったが、その絵には、

 

  かささぎの渡せる橋のおく霜の棕櫚箒を見れば夜ぞ更にける

 

と歌を添え書きして御座った。

 この歌、「しろき」を「しゅろき」に変え、主人が碁に凝るのに飽き果てた妻子(つまこ)を掛けた、如何にも面白い趣向である。

昨日――母と私の墓を参る

昨日は4年目の母の祥月命日であった。
旧友と一緒に初めて母の墓を参った。
多磨霊園の慶應義塾大学医学部納骨堂である。
私も入ることになっている墓である。
母さん――やっと――来たよ……

2015/03/18

耳嚢 巻之十 幼女子を産し事

 幼女子を産し事

 

 土屋保三郎領分下總國猿島(さしま)郡藤代(ふじしろ)宿、忠藏娘とや、文化九年申八月男子を出産し、母子健成(すこやかなる)由。とや事四歳より経行(けいかう)に成(なり)、當年八歳の由。右は全くの妄説ならんと疑ひしに、御代官吉岡次郎右衞門支配所は右最寄にて、珍事故、右手代廻村(くわいそん)序(ついで)、まのあたり見屆(みとどけ)し由。我等がしれる人の家來、知行へ參り候とて右忠藏隣(となり)に止宿して此事を聞(きき)しに、相違なしと語りぬ。尤(もつとも)男はなしとも云(いひ)、又有共(あれども)、深く隱すとも沙汰あり。何れ生れしといふは僞りにて、狐狸のたぐひ其子に化し居(ゐ)たるにはなきかと、猶(なほ)怪しみは解(とけ)ざりき。

  但(ただし)二百四十九年以前、永祿七甲

  子(きのえね)年、丹波國にて七歳の女、

  子を産むといふ事、或書にあれば、なき事

  とも難申(まうしがたく)と、人の言ひき。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。底本の鈴木氏注に、『武江年表、文化九年九月三日、下総国相馬郡藤代宿百姓忠蔵娘とや、八歳にて男子を生、母子恙なし、と見ゆれば、当時評判なりしなるべし。(三村翁)』とあり、岩波の長谷川氏には、「武江年表」の他にも、滝沢馬琴編「兎園小説」、医師で文人であった加藤曳尾庵(えいびあん)の「我衣」八にも載ると記し、ただ、それらではとやの出産は九月三日としてあるとあるから、それが正しいようである(但し、訳がそのまま「八月」とした)。後者は未読であるが、「兎園小説」の方は私の偏愛するもので(私のオリジナル古文教案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の三篇の内、第一夜と第二夜の二篇はそこからで、第三夜は既に公開した「耳嚢 巻之九 不思議の尼懴解物語の事」である)、地下文書形式で臨場感があるから、現代語訳の後に資料として配した。さても――これは事実か否か? 例えば最近でもメキシコの九歳の少女が出産したというニュースがあり(二〇一三年二月。但し実際には十二歳で、父親は義父が疑われている)、それに関わって書かれたペルーの「【世界最年少】5才7か月で妊娠出産した少女」についての記事もネット上には存在する(こちらは一九三三年と古いが、画像も豊富)。最初に私が想起したのは二重体(胎児内胎児。「ブラックジャック」のピノコである)であったが、ここでは性別が異なる点や、産まれた子が奇形胎児でなく、出産後も母子ともに健康であるという点などからは可能性が低いように思われる。上記の二つの記事にも特徴的に見られるが、実際の出産であった場合は(この主人公「とや」は満で七歳であり、現代でも九歳未満の早発月経(Premature mensuruation)を思春期早発症などとも呼称しているくらいだから、全くあり得ない話ではない。また、田舎のことであるから年齢も必ずしも正確とは言い難いという気もする。事実、後掲する「兎園小説」の報告書には『とや儀は年頃より大柄に相見え候』とあるのである)、幼女に対する性的虐待や幼児姦、しかもしばしば相手として家庭内の近親姻族(私の読んだ法医学書の事例では外国のケースで、実の兄が二人の姉妹を妊娠させた例を知っている。しかもそれは性行為によるものではなく、奇妙な性的悪戯による妊娠であったことが判明するという驚くべきものであった)が疑われたりもする。

・「土屋保三郎」文化九年当時ならば、現在の茨城県土浦市を藩庁とした常陸国土浦藩(譜代・九万五千石)第九代藩主土屋彦直(よしなお)である。しかし、彼の幼名は「保三郎」ではなく、「拾三郎」であり、しかも先の第八代藩主土屋寛直(寛政七(一七九五)年~文化七(一八一〇)年)の幼名が「保三郎」である。この寛直は第七代藩主土屋英直長男で、享和三(一八〇三)年八歳の時に父が死去したために家督を継いだのであるが、しかし病弱で七年後の文化七年十月十五日に満十五歳で亡くなってしまうのである。ところが参照したウィキの「土屋寛直」によれば、『継嗣が無いため、寛直はなおも病床で生きているということにして、幕府に進退伺を提出、「病弱で、嗣子もなく領地奉還をしたい」と願い、更に「養子を認められるなら」という文章を提出したところ、祖先の勲功があったので養子を認められ、水戸藩主徳川治保の三男・拾三郎(土屋彦直)に寛直の養女(実妹、英直の娘)充子を娶わせ、婿養子として迎えた。そして、養子縁組が成立した後の』文化八(一八一一)年十月二日に死去したと発表している、とある。ただ、ややこしいことに実は、この寛直の父英直も幼名を同じく「保三郎」と称していた。岩波の長谷川氏の注には、この「土屋保三郎」を『英直』とするのであるが、文化九年では実は土屋保三郎英直もその子保三郎寛直も既に死んでしまっているのである。そこで、さらに岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の方を調べて見ると、そこではここが「保三郎」ではなく「怡三郎」(「いさぶらう(いさぶろう)」と読むか)となっていることが分かった(これを長谷川氏は「保」の誤写と見たのであるが)。さらに見ると、後掲する「兎園小説」にはその出来事を報告した人物に『土屋洽三郎使者』とあるのである。さても、

――保三郎――(英直・寛直父子幼名)

――怡三郎――(岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の表記)

――洽三郎――(兎園小説の記載)

――拾三郎――(彦直幼名)

と並べてみると、私には「保三郎」と「怡三郎」(そしてさらに「洽三郎」も)は寧ろ、「拾三郎」の誤写か誤読であるように思えてくるのである。……

 ……いや……そんなことより……実は私は……この注作業の中で、この――死んでから一年もの間――生きていることにされなければならなかった十五歳の少年藩主――のことをずっと考えていたのだ……私は――この少女より、この少年の方が何だか――気になるのである。……

・「下總國猿島郡藤代宿」茨城県南部に位置する旧北相馬郡藤代町(猿島郡は誤りであろうが、訳ではママとした)。現在は取手市藤代町。農村地帯で水戸街道(陸前浜街道)の宿場町藤代宿として栄えた。ウィキの「土屋藩によれば常陸国土浦藩は下総国相馬郡(北相馬郡は旧相馬郡の一部)に六村の飛地としての領地を持っていた。但し、ウィキの「北相馬郡」によれば当時の藤代村内には寺社除地と百姓除地が存在していた(除地とは領主から年貢免除の特権を与えられた土地を指す)。

・「文化九年申」壬申(みずのえさる)。西暦一八一二年。「卷之十」の記載の推定下限は二年後の文化一一年六月。

・「當年八歳」満七歳。これが正しいとすれば、とやの生年は文化二(一八〇五)年生まれということになる。

・「吉岡次郎右衞門」講談社「日本人名大辞典」の義民「片岡万平」の項に(明和七(一七七〇)~文化一四(一八一八)年)常陸河内郡生板(まないた)村の人。文化十四年に幕府代官吉岡次郎右衛門に対し、年貢減免を要求、市毛与五右衛門・石山市左衛門とともに江戸の吉岡邸及び勘定奉行所に訴え出、捕らえられて十二月二十日に獄死した。後に吉岡は代官を罷免された、とある人物と考えてよかろう。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月である。

・「手代」郡代・代官・奉行の下で雑務を担当した役人。

・「二百四十九年以前、永祿七甲子年」永禄七年甲子は西暦一五六四年であるから、その「二百四十九年」後は数えと同じ計算で一八一四年で文化十一年、「卷之十」の記載の推定下限は二年後の文化十一年六月であるから、この記載自体はまさに、その文化十一年の記載であることが分かるのである。

・「或書」不詳。諸本も注さない。ああっ! 何とかこれを電子化したいもの! 識者の御教授を切(せち)に乞う!!

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 幼女が子を産んだ事

 

 土屋保三郎彦直(よしなお)殿領分、下総国猿島(さしま)郡藤代(ふじしろ)宿の忠蔵の娘、

――とや――

儀、文化九年申年の八月に男子を出産、母子ともに健やかである、とのことである。

 とや儀、これ、早くも四歳より初潮が始まったとのことで、当年とって未だ八歳、とのことである。

 実は私は、これは全くの妄説であろうと疑ぐっていたのであるが、御代官吉岡次郎右衛門の支配所が、この最寄りにあったによって、珍事ゆえ、吉岡殿へ御用のあった砌り、私の手代の者に廻村巡検のついでに調べさせたところが、確かに母子、これ、実見の上、その年齢や出産の事実であることをも確認出来た、と報告して参った。

 さらに、私の知音(ちいん)の御家来衆にて、かの地の最寄にあったその知音の知行地へと参った折り、実に、その忠蔵の住まいする隣りにあった旅籠(はたご)に止宿致いたによって、かの事実について、これ、宿主人に確かめてみたところが、これも事実に相違御座らぬ、との返答で御座ったと話し呉れた。

 もっとも、夫――子の父に当たる男は、これ、不明なりとも言い、また、確かに子の父なる者の分かっておるけれども、これ、訳あって深く隠しておる、とも噂しておるという。

 かく聴いても、それでも私は所詮、産んだと申すはこれ偽りであって……そうさ、狐狸の類いが、これ、その――とや――と申す子に――化けて――なりすましておるのではないか……などと、勝手な妄想も致いたり……なお今以って、私の不審は解けぬのである。

[根岸附記]

 但し、その後、

「……二百四十九年以前、永禄七年甲子(きのえね)年に、丹波国にて七歳の娘が子を産んだという記事を、我ら、とある文書の中に見出だしまして御座る。……さればこれも、強ち、絶対にないこととも、申し難きこととは存じまする。……」

とは、とある人の意見ではあった。

 

■資料 滝沢馬琴編「兎園小説」第二集より「藤代村八歳の女子の子を産みし時の進達書   海棠庵」

[やぶちゃん注:「兎園小説」は馬琴が文政八(一八二五)年に当時の親しい文人や好事家らに毎月一回集まって見聞した珍奇談を披露し合ったサロン「兎園会(とえんかい)」に出た話を纏めたものである(会員の中には根岸と親しかった国学者で幕府右筆の屋代弘賢もいた)。実際の筆者である「海棠庵」は、常陸土浦藩士で書家としても知られた関思亮(せき しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の号。「藤代村八歳の女子の子を産みし時の進達書」は目次にある標題で、「進達書」とは上申書に添える進達(下からの書類を取り次いで上級官庁に届け出ること)の書状。以下の底本は吉川弘文館昭和四八(一九七三)年刊「日本随筆大成 第二期第一巻」を用いたが、恣意的に正字に直した。後に全くの私の我流で書き下し文を附し(読み易くするためにシチュエーションごとに改行した。また直接話法で無理矢理示した箇所の末尾の変格訓読は確信犯なので悪しからず)、最後に簡単な注記を附した。]

 

   〇兎園会第二集小話   海 棠 庵 識

[やぶちゃん注:以下の前書は底本では本文全体が二字下げ。クレジット以下はママ。]

下総国藤代村にて、八歳の女子が子をうみし事は、あまねく世の人のしるところにはあれど、年經なば疑惑もおこらんかし、よりてことふりにたれど、余が藩より公に告げし口達一通を、兎園の集に加へて、實事を永く傳へんとおもふのみ。

文化九年壬申十月十日、御勘定奉行柳生主膳正樣へ口達

 

                土屋洽三郎使者 大村市之允     

拙者在所下總國相馬郡藤代村百姓三吉厄害忠藏娘とやと申、當申八歳罷成候者、去月十一日曉出産之處、男子致出生候段屆出候に付、年頃不相當之儀に御座候間、見分之者差遣樣子相糺候處、同人儀、文化二丑年五月十一日致出生、四歳之頃より經水之廻り有之候得共、全病氣と心得罷在候。然所去秋の頃より腹滿之氣味有之、醫師へ爲見候處、蟲氣にても可有之哉に申聞、腹藥灸治等無油斷相用候得共、相替候儀無御座、當春に相成彌致腹滿候に付、種々致療治候得共同篇にて、猶又醫師にも相尋候處、病氣に相違は有之間敷候得共、萬一懷胎にても可有之哉、容體難決段申聞候。其後近比に相成、乳も色付不一通樣子に付、彌懷胎に相違も有之間敷段醫師申聞候間、右之致用意罷在候處、去月二日夜中より蟲氣付、翌三日曉平産母子共丈夫にて、乳汁も澤山に有之由、且又とや儀は年頃より大柄に相見え候。出生之小兒は、並々之小兒より産髮黑長き方に有之、其外は相替候儀無御座候由申聞候。依之當人は勿論、兩親初三吉家内之者、其外村役人組合之者へも委敷相尋候處、幼少之儀、是は如何と心付候儀も無御座候、尤疑敷風聞等も一向及承不申候段一同申聞、口書印形差出申候段、在所役人共より申越候に付、此段以使者申述候。

 

□やぶちゃんの書き下し文

   〇兎園会第二集小話   海棠庵 識す

下総国藤代村にて、八歳の女子が子をうみし事は、あまねく世の人のしるところにはあれど、年經なば疑惑もおこらんかし、よりてことふりにたれど、余が藩より公に告げし口達一通を、兎園の集に加へて、實事を永く傳へんとおもふのみ。

文化九年壬申十月十日、御勘定奉行柳生主膳正(しゆぜんのかみ)樣へ口達(こうだつ)

 

                土屋洽三郎使者 大村市之允(いちのじよう)     

拙者在所、下總國相馬郡藤代村百姓三吉厄害(やくがい)忠藏娘とやと申し、當申、八歳罷り成り候ふ者、去る月十一日曉(あかつき)、出産の處、男子、出生致し候段、屆け出で候ふに付き、年頃、相當せざるの儀に御座候ふ間、見分(けんぶん)の者、差し遣はし、樣子、相ひ糺し候ふ處、

同人儀、文化二丑年五月十一日、出生(しゆつしやう)致し、四歳の頃より經水(けいすい)の廻(めぐ)り之れ有り候得(さふらえ)ども、全く病氣と心得罷り在り候ふ。

然る所、去る秋の頃より、腹滿(ふくまん)の氣味、之れ有り、醫師へ見させ候ふ處、

「蟲氣(むしけ)にても有るべきや。」

と申し聞き、腹藥・灸治等、油斷無く相ひ用ひ候得ども、相ひ替はり候ふ儀、御座無く、

當春に相ひ成り、彌々(いよいよ)腹滿致し候ふに付き、種々(いろいろ)療治致し候得ども同篇(どうへん)にて、
猶ほ又、醫師にも相ひ尋ね候ふ處、

「病氣に相違は之れ有る間じく候得ども、萬一、懷胎(くわいたい)にても之れ有るべきや。容體、決し難し。」

の段、申し聞き候ふ。

其の後、近比(ちかごろ)に相ひ成り、乳も色付き、一通りならざる樣子に付き、

「彌々懷胎に相違も之れ有るまじ。」

きの段、醫師、申し聞き候ふ間、右の用意、致し罷り在り候ふ處、

去る月二日夜中より蟲氣付き、翌三日曉、平産、母子とも丈夫にて、乳汁も澤山に之れ有る由。

且つ又、とや儀は、年頃より大柄に相ひ見え候ふ。

出生の小兒は、並々の小兒より産髮、黑長き方に之れ有り、其の外は相ひ替はり候ふ儀、御座無く候ふ由、申し聞き候ふ。

之れに依つて、當人は勿論、兩親初め三吉家内(かない)の者、其の外、村役人・組合の者へも委(くは)しく相ひ尋ね候ふ處、幼少の儀、是は如何(いかに)と心付き候ふ儀も御座無く候ふ。

尤も、疑はしき風聞等も、一向、承り及び申さず候ふの段、一同、申し聞き、口書(くちがき)・印形(いんぎやう)、差し出だし申し候ふ段、在所役人どもより申し越し候ふに付き、此の段、以つて使者、申し述べ候ふ。

 

*やぶちゃん注記

●「柳生主膳正」旗本で当時、勘定奉行であった柳生久通(やぎゅうひさみち 延享二(一七四五)年~文政一一(一八二八)年)。歴代勘定奉行の中で最も長い期間(二十八年強)を務めた。官位は玄蕃を称し、明和四(一七六七)年に従五位下主膳正に叙任されている(ウィキの「柳生久通」に拠る)。

●「口達」「こうたつ」とも読む。口頭で伝達すること。

●「土屋洽三郎」先の私の本文注「土屋保三郎」を必ず参照されたい。

●「大村市之允」実在する常陸土浦藩士で、安政四(一八五七)年に没していることがネット上で確認出来た。

●「厄害」「厄介」の意で居候或いはそれに準じた者の意かと思われる。昔馴染みの「兎園小説」を紹介する個人サイト「兎の園」の藤代村八歳の女子の子を産みし時の進達書に簡潔な好ましい本現代語訳が示されている(是非、お読みあれ。私はこれがある以上、屋上屋の拙訳の必要を今ここでは感じていないことを告白しておく)が、その注に『百姓三吉ととやの父忠蔵の関係ですが原文では「厄害」となっています。多分これは「厄介」ということでしょうか。厄介という言葉には「食客」「居候」という意味もありますが、家長の傍系筋で家に住んでいる者という間柄なのでしょうか。具体的には三吉の兄弟で家に居付いているというところでしょう。本文では簡単に「使用人」と訳しましたけど』とある。美事な注で激しく同感する。本文によれば、百姓三吉は旅籠の隣りに家があることになるから、これはかなり裕福な百姓であったか? そうすると、父疑惑候補は俄然、広がってくる感じがする。

●「蟲氣」最初のそれは「疳の虫」や寄生虫(多量に寄生した場合、実際に腹部が膨満することもあり、逆虫(さかむし)と称して、口から吐き出されることもあった。因みに私は人を含む動物類の寄生虫に対する汎フリークでもあるので、悪しからず)を指しているが、後の「蟲氣」は別で、明らかに「産気」のことである。

●「同篇」同じようであること。変化がないこと。「同辺」とも書く。

●「右の用意」お産の用意。

●「組合」ここでは複数の村々が治安その他のために結び付いた一般的な意味での村の連合体としての漠然とした自然発生的な自立的組合集団のことと思われる(より強化された幕府が組織した御改革組合村(寄場組合(よせばくみあい))の村落連合組織成立はもうちょっと後の文政一〇(一八二七)年以降であるからである)。

●「疑はしき風聞等も、一向、承り及び申さず候ふの段、一同、申し聞き、口書・印形、差し出だし申し候ふ」「口書」は被疑者などの供述を記録したもので、足軽以下の百姓・町人に限っての呼称(武士の場合は口上書(こうじょうがき)と称した)。一般にこの手の地下文書では頗る常套的な添書ではあるがしかし、どうも私は、この部分、やけに下々しく感じる。少なくとも蔭では、「父はあいつか? いや、こいつだろ!?」みたような噂が盛んに広まっていたものと思われる。

耳嚢 巻之十 大井川最寄古井怪の事

 大井川最寄古井怪の事

 

 大井川最寄、遠州嶋村潮(うしほ)村といふあり。右村境とやらん、古き井戸ありて、近き頃の事なりとや、百姓の召仕(めしつかふ)下女あやまちて古井戸へ落入(おちいり)しを可助(たすくべし)と、一人の男右井戸へ下り、女の髮見へ候間、水際まで至り候處、これ又氣をうしなひ井戸内へ落入たるゆへ、氣丈なる男ありて、いづれ兩人を助けべきと支度せしを、かゝる怪敷(あやしき)井の内へ可入(いるべき)樣や有(ある)と、人々とめしをも不用(もちゐず)、酒抔吞(のん)で支度いたし腰へ繩などつけて下りしに、右井の内には大小の蛙おびたゞしく甚(はなはだ)難儀なりしが、兎角して男女兩人の死骸へも繩を付(つけ)、其身も繩をちからに、からうじてあがりしに、女は息たへて不蘇生(そせいせず)。男もいろいろ療養を加へけれど、これ又翌日とかや相果(はて)ぬ。彼(かの)氣丈成(なる)男も暫(しばらく)煩(わづらひ)けるが、品々醫藥して不相果(あいはてざる)由。彼(かの)所へ出役せし御勘定衆まのあたり見聞(みきき)せしと語りぬ。古井地氣(ちき)籠(こもり)てかゝる事ありと聞(きき)しが、さる事にや。又は蛙夥敷(おびただしく)住(すむ)となれば、がまの人をとらんとしける故や、不知(しらず)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:凶宅(蔵と井戸)関連で、二つ前の共食いの怪しき蛙とも連関する。しかしこれは明らかに所謂、酸欠、酸素欠乏症による多重遭難である。井戸では二酸化炭素など空気より重いガスが下に貯留するため、危険性が高く井戸などでは天然マンガンなどの土壌中や地下水に含まれる鉄分などによる酸化作用によって、内部の空気の酸素が奪われている場合もある、とウィキの「酸素欠乏症」にあり、『低酸素の空気で即死に至らなかった場合でも、短時間で意識低下に至りやすいため気付いてからでは遅く、更には運動機能も低下することもあり自力での脱出は困難である。加えて酸素が欠乏しているかどうかは臭いや色などでは全く判別できず、また初期症状も眠気や軽い目眩として感じるなど特徴的でもない上に、息苦しいと感じない(息苦しさは血中の二酸化炭素濃度による)ため、酸素の濃度が低いことに全く気づけずに奥まで入ったり、人が倒れているのを見てあわてて救助しようと進入した救助者も昏倒したりする。また低所やタンクなどで出入りにハシゴを使用するような場合は転落する危険があり、それそのものでの怪我は大したものでなくても、より低濃度酸素の空気に晒されると共に自力脱出はより困難になる』ともあるから、二人目の救助者が「其身も繩をちからに、からうじてあが」って一命をとりとめたのは、寧ろ、不幸中の幸いであったとも言えよう。

・「遠州嶋村潮村」底本の鈴木氏注に、『静岡県榛原郡金谷町大字島と同町大字牛尾。牛尾の方が上流』とある。「榛原郡金谷町」は「はいばらちょうかなやちょう」と読む。二〇〇五年に金谷町が島田市と合併、現在は静岡県島田市内である。岩波の長谷川氏注では「潮村」をその牛尾に細部同定して居られる。地名の音から同感。同所は大井川の北の大津谷川とその北にさらに支流する河川の中間部にあるから、相当な地下水脈を想定し得る。

・「近き頃の事なりとや」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月である。

・「井の内には大小の蛙おびたゞしく」この井戸の地下水脈が周辺の沼沢地と地下で繋がっていた可能性が高いか。彼らは流水中の新鮮な溶存酸素によって生存が全く問題なく出来たと考えれば、頗る納得がゆく。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大井川の最寄りの古井戸の怪の事

 

 大井川の最寄り、遠州嶋村に潮(うしお)村という所が御座る。

 その村境とかに、古き井戸の御座って、最近のこととも聴くが、ある百姓の召し仕(つこ)うておった下女が、こえ、誤ってその古井戸へ落ち入ってしまい、それを、助けようとして、一人の男の、井戸へ降りて行ったところが、底の水面(みなも)の辺りに、これ、女の髪の見えたによって、水際まで、さらにまた下って行ったところが、これまた、気を失(うしの)うて、またしても井戸の底へと陥ってしもうた。

 されば、これまた、別の気丈なる男(おのこ)のあって、

「――これ! ともかくも! 二人を助けずんばなるまいぞッツ!」

と支度致いたが、

「……こ、このような怪しき井戸の内へ、は、入るは、き、狂気の沙汰じゃ!!」

と、人々の頻りに制止致いた。

 したが、この男(おのこ)、一向に意に介さず、酒なんどを煽っては、これ直ちに、腰へ繩などをしっかと結わいつけて支度なし、井戸へと下りて御座ったと申す。

 すると、かの井戸の底――これ――大小の蛙の――夥しくおって――甚だ難儀致いた申す。

 それでも、ともかくも、先の男女二人の死骸へも繩を結わい付け、自身の身も既に結わいた繩を力として、村の衆総出で引いて御座ったれば、辛うじて上まで上がることの出来て御座った。

 しかし時既に遅くして、女は息絶え、残念なことに蘇生致さず、また次いで助けに入った二番目の男もこれ、いろいろと療治を加えてはみたものの、これまた、井戸から上がった翌日とか、結局、果ててしもうたと申す。

 かの気丈なる男も、井戸から出た途端、これ、ばったり倒れ、しばらくの間、患って御座ったが、かの男(おのこ)はこれ、品々の医薬を施術致いたところが、幸いにして命を取りとめた、と申す。

 かの地へ出役(しゅつやく)致いた御勘定衆が、これ、具(つぶさ)に実見致いたこと、と語って呉れた話で御座る。

 ――さても、古井戸などはこれ、地の陰気や瘴気の悪しく籠って、このようなことの生ずることがあるとは、これ、聞いては御座ったが、そのような因縁によるところの事故でも御座ったものか?

 ――それとも――またはこれ、蛙の夥しく棲んでおったとならば……蝦蟇(ひき)なんどが、これ、人を捕らえんとして成したる……妖しのことにても御座ったのであろうか?……真相はこれ、分からず仕舞いで御座った。……

「耳嚢 巻之十 怪倉の事」追加資料 釈敬順「十方庵遊歴雑記」より「本所数原氏石庫の妖怪」

■資料 釈敬順「十方庵遊歴雑記」より「本所数原氏石庫の妖怪」

[やぶちゃん注:作者は小日向水道端(現在の文京区水道二丁目)にあった浄土真宗廓然(かくねん)寺第四代住職大浄釈敬順。俗姓は津田氏。宝暦一二(一七六二)年本所生まれ。二十歳で寺を継ぎ、文化九(一八一二)年に隠居して十方庵(じっぽうあん)と号した。茶人としては集賢(または宗知)、俳号を以風と称した。「十方庵遊歴雑記」(十五冊五編)は彼の見聞記で、その足跡は江戸周辺から関東一帯、遠くは三河まで及ぶ(以上はkurofune67 氏のブログ「黒船写真館」のこちらの転載記事を参照した)。根岸鎮衛は元文二(一七三七)年の生まれであるから二十五年下であるが、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年で、十方庵は既に隠居しており、この「遊歴雑記」のデータ収集や執筆に入っていたものと考えられるから(序に文化十二年のクレジットがある)、これは根岸の採取した時期と殆んど変わらない共時的記載であると考えてよい。以下は国立国会図書館の「江戸叢書十二巻 巻の四」の画像を視認して起こした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。後に簡単な注記を附した。]

 

  七拾參 本所數原氏石庫の妖怪

一、東武本所二ツ目相生町とみどり町との横町に寄合に入れる御醫師に、數原宗得(スハラソウトク)とて持高五百石二十人扶持を賜ふ、今は宗得隱居して當主を宗安といえり、此やしきに作れる土藏の中に妖怪あり、是は場末の屋敷なれば持高に應ぜず、方量も廣きまゝ土藏は、居宅をはなれ廣庭の遙隅にありて、火災を厭ふには一入よし、此庫の作り方は屋根と戸前口ばかり木にて作り、壁といふものは皆切石を以て積上たり、恰も彼日本橋四日市河岸通の土手藏(ドテグラ)の類(タグ)ひなるべきか、廣さ二間半に三間半かとよ、是はむかし有德尊君より拜領せしといひ傳ふ、案ずるに此御代安南(アンナン)より象を一匹獻ぜしに依て、置處なく本所豎川筋にさし置る、その砌象扶持(ゾウフチ)など積入し藏なるべし、されば此石藏の中に妖怪の住事なれば、夜は勿論晝とても兩三人づゝ連立行(ツレタチユキ)て、藏のものを出し入れす、しかるに此石庫は這入て、小用を達し度とおもう通氣の萌(キザシ)あれば、おのおの早々に藏を出しばらく外にて猶豫(タメライ)て後、土藏に入れば子細(シサイ)なし、是怪物の出べきしらせなりとなん、扨又小用の通氣あるを忍(コラ)へて、若物など扖(サガ)し居る事あれば、必ずしもその妖怪にあふ、但しその妖怪の形是とさだまるほあらず、小女、小坊主、小瞽(コメクラ)、大達摩(ダルマ)、木兎(ミ〻ヅク)、犬張子(イヌハリコ)、竹輿(カゴ)、からかさ、鬼女、よろづの面瞽(メンゴ)、女仁王(ゼニワウ)、鷄犬(ケイケン)、牛馬(ギウバ)の類と種々に變化して出るとかや、これに依て庫に入て誰にても通氣の氣味あれば、申合せ早々飛(トビ)いだす事となん、若又近邊に火災あらん前方には誰としれす、夜すがら鐡棒を引て歩行(アルク)音す、是によりて家内火災のあるべきしらせぞとこゝろえ、諸道具取片付用心するに、果して不慮に近火ありて、宗安居宅のみ遁るゝ事むかしより數度なり、既に去し寛政年間件のしらせありければ、大體(ダイタイ)品皆仕舞しかどその砌老母大病にして手放しがたく、今にも取詰やせんと見へたる折柄、出火ありて風又甚烈しく、近所一圓に燒廣がりければ、漸く手人ばかりにて竹輿(カゴ)に懷きのせ一番輩さしそひつゝ、しるべの方へ立退けるまゝ、家内いよいよ人少になり、殘れる道具を石藏の中へ詰入る暇さへもなければ、戸前口へみな積置ぬ、スワといはゞ濡薦(ゴモ)を懸んと、殘りし家内只とりどりに立騷ぐばかりなりしが、彼石庫の内より壹人の女、髮をうしろへ下て振亂したるが、甲斐甲斐しく立出戸前口に積置たる品々を、土藏の内へ抱えて運び入れる事取廻し速(スミヤカ)也、爰に居殘りし卑女(ハシタ)は不思議に思ひ駈來りて、件の女の顏を見んと彼方へ廻れば、こちらへ振向、此方へ廻ればあちらへ顏を背(ソム)けて、見せざりしかば不圖こゝろ付是かねて傳え聞、妖怪ならめと思ふや、否、ゾツと惣身さむけ立ければ、卑女は萬事を打すてゝ迯込(ニゲコミ)しが、彼(カノ)道具をみな石藏の中へ運び入、内よら戸前を〆けるとかや奇怪といふべし、終にその砌も類燒を遁れたり、かゝれば此妖怪宗安が家の爲に、幸あれど更に害なし、是によつて四月十四日を例祭とし、石庫の中には燈明をかゝげ、種々の供物を備へ毛氈を敷詰、外には大燈籠提燈等をかざり、晝は修驗來りて佛事を取行ひ、夜はもろもろの音曲鳴物神樂を奏して、夜すがら彼怪物のこゝろをなぐさむを祭祀とすとなん、これによつて當家より火防の札を出すに、是を以て家内にあがめ置ば、一切火災の煩ひなしと巷談す、しかるに彼石庫の隅の棚に一つの箱あり、大さ五六寸四方、昔よら置處を替ず、又手を付る者は曾てなし、恐らくは此箱怪物の住所ならんかといへり、此外に石庫の内更にあやしき物をしとぞ、上來の一件(イチマキ)奇談といふべし、但し此類の事世上に儘ありて人みな恐怖し祭り崇める者又少なからず、曾て古人のいえらく、怪を見てあやしまざれば怪おのづから去とおしえ、又は妖は德にかたずとの金言は宜なる哉、巫咒桃符(フジユトウフ)を貴ばんよりは、身を正ふし德行を逞ふせんにはしかじ、退治魔事の法といふも、先その身潔齊し六根精進をして正ふせんにはしかじ、何ぞその身の行狀を亂し德行をばせずして.一向(ヒタスラ)に神齋を責(セム)る事やあらん、我人仁義禮恕孝貞忠信の勤しばらくも怠るべからず、此一件(イチマキ)を荒川新助といへる人、彼數原氏へ立入て見聞せしまゝを、しるし置ものなり、

 

*やぶちゃん注記
「耳嚢」の話よりも遙かに詳細で、しかも間然する箇所が殆んどと言ってない点でも非常に優れた記載である。祭祀も式日も四月十四日と明記されてあり、驚くべきことにその「物の怪」の棲み家まで特定している!

●「一入」「ひとしほ(ひとしお)」。

●「日本橋四日市河岸通の土手藏」屋根で覆われた石積みの蔵群。日本橋川南河岸沿いに明暦三(一六五七)年の大火の後、防火のために築造されたもの。現在の中央区日本橋の野村證券本社付近にあった。

●「二間半に三間半」凡そ間口四・五メートル×奥行六・三メートル。

●「有德尊君」徳川吉宗。

●「安南より象を一匹獻ぜし」享保一三(一七二八)年に吉宗の注文で安南(ベトナム)の貿易商鄭大威(ていたいい)雌雄二頭の象を長崎に齎した。雌は同年死亡したが、翌年、雄の方が江戸へ運ばれる。この象は途中、広南従四位白象の名を授けられて宮中に参内、中御門天皇・霊元上皇に拝謁、江戸では待ちかねていた吉宗を悦ばせた(以上は講談社「日本人名大辞典」の「鄭大威」の項他に拠った)。

・「本所豎川」現在の墨田区(本所)横川。

●「猶豫(タメライ)」は二字に対するルビ。

●「通氣」使用されてある三箇所を並べてみると、怖気立つような怪しき気配、の意である。

●「よろづの面瞽(メンゴ)」いろいろな風体(ふうてい)の視覚障碍者の意か。

●「女仁王(ゼニワウ」不詳。女体の金剛力士というのもおかしい。鬼女の謂いか。

●「鷄犬、牛馬」これは鶏や犬や牛や馬の意。

●「寛政年間」西暦一七八九年~一八〇一年。

●「一番輩」一の家来の意であろう。

●「これによつて當家より火防の札を出すに、是を以て家内にあがめ置ば、一切火災の煩ひなしと巷談す」これはまた、結構な副収入となったものと私には思われる。

●「五六寸四方」十五・二~十八・二センチメートル四方。

●「但し此類の事世上に儘ありて人みな恐怖し祭り崇める者又少なからず……」こうした道話めいた附言は当時の定式の一つで、しかも彼が僧侶であることを考えれば、合点がいく。

●「巫咒桃符」「桃符」は中国で陰暦の元旦に門にかかげる魔除けの札のこと。桃の木の板に百鬼を食べるという二神の像や吉祥の文字を書いたもの。魔除けの呪(まじな)いの御札。

●「我人」わがひと」と読むか。我々人たるもの、の意であろう。

●「荒川新助」不詳。

2015/03/17

「耳嚢 巻之十 怪倉の事」の別記載を釈敬順「十方庵遊歴雑記」に発見せり

先に示した「耳嚢 巻之十 怪倉の事」は釈敬順「十方庵遊歴雑記」の中に別な詳細記事を発見した。明日はこの電子化にとりかかる所存――神経症的電子化とお笑いあれ――

耳嚢 巻之十 怪倉の事

 怪倉の事

 

 本所にて御醫師にて數原宗德(すはらしゆうとく)といへる人の屋敷に、古來より右倉内(くらうち)に怪物あり、藏内より物を取出(とりいだし)候節も其(その)度々(たびたび)、斷(ことわり)候て取出し候由。何品(なんのしな)明日入用の段申候得(まうしさふらえば)ば、戸前(とまへ)へ誰(たれ)持出(もちいだ)し候哉(や)、差出置(さしいだしおき)候由。斷(ことはら)ざる時は甚だ不宜(よろしからざる)由。尤(もつとも)右御醫師、高(たかも)も大身(たいしん)には無之(これなく)候へ共(ども)、貧家には無之(これなき)由。或年類燒の節、藏は殘りしが、家來の内、何程(なにほど)平日は斷の上、物の出入(だしいれ)いたし候共(とも)、非常の節は何かくるしかるべき、燒場(やけば)故、臥所(ふしど)も無之(これなき)迚、土藏の内へ入(いり)、物を片付(かたづけ)、其所(そこ)に臥(ふせ)りしに、暫くあり、こゑ如何にも怖しき坊主樣(やう)のもの出て、兼ての極めを破り藏内へ立入(たちいり)、殊(ことに)無禮にも臥りし事の憎さよ、命をも可取(とるべき)なれども、かゝる非常のせつ故此度(このたび)はゆるすなり、以來決して立入間敷(たちいりまじき)旨申ける故、右家來は大いに恐れて早々迯出(にげだせ)しとや。年々極(きは)めありて、祭禮などいたしける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前二篇の最初のニュース・ソースが医師、これも幽霊蔵の持ち主が医師で軽く連関した怪異譚である。それにしも、この巻、俄然、医師の情報屋が増えた感じがするが、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月で、根岸はこの翌文化十二年十一月四日に南町奉行在職のまま、満七十八歳で亡くなっている。医師がしばしば根岸の許を訪ねて参ったというのも、これ、肯けるようにも思われるのである。なお、驚くべきことにウィキには「倉坊主」というのがあってほぼ本話を簡略した現代語の梗概が載っている。そこではこの数原宗徳(ママ)の倉があったとされる東京都墨田区吾妻橋の現在の写真も載っている。ただこの怪異といい、出現した坊主といい、これ、何だかかなり怪しい。例えば、数原家に永く召し使われている最下級の下男辺りに、この蔵の蔵品を最もよく知っている男がおり、ここを管理保守することに秘かにマニアックな拘りを持っていたりすれば、こういう「擬似的怪異」は、容易に起こりそうだ。その場合、「倉坊主」は、その男に雇われた者の幽太(ゆうた。怪談咄に出る幽霊役)であったようにも思われる。……いや、これは無粋なことを申し上げた。悪しからず……

・「數原宗德」底本の鈴木氏注に、『スハラ。宗得が正しい。安永二年(九歳)家督。五百石月俸二十口』(ここは岩波の長谷川氏注では『二十人扶持』とある)、『寄合となり、寛政七年番医となる』とある。「扶持」は扶持米のことで、蔵米や現金の他に与えられた一種の家来人数も加えられた家族手当のようなものであって一人扶持は一日当たり男は五合、女は三合換算で毎月支給された。参照した清正氏のサイト「武士(もののふ)の時代」の「武士の給料」に現代の金額に換算を試みた例が載るので、興味のある方は試算されみることをお勧めする。これから類推すると彼は確かに「大身」ではないが「貧家」とは言えないようで、怪異は起こるもののそれなりの大きさの倉持ちでもあり、相応な屋敷を構えた幕医ではあったようだが、清正氏のサイトにあるように、年貢率は概ね四公六民で実質的に入る基本給は年間で二〇〇石、仮に総て男扶持で計算しても附加手当は一日五合×三六〇日×一二人=二一六〇〇合で約二十一石として二百二十一石、簡便化するために一石約一両換算一両を十万円とすると年間全収入は二千二百十万円、しかしこれで二十人からの者(全部男扶持としたのは個人営業の中小企業の社員に相当するとしてである)を養うというのは、これ、相当厳しいと言わざるを得ない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 怪蔵(かいくら)の事

 

 本所に幕医を勤めておらるる数原宗徳(すはらしゅうとく)と申さるる御仁の屋敷が御座る。

 その屋敷の蔵内(くらうち)には、これ――怪しの物――の棲みついて御座って、蔵より家人が何か物を出そうとする折りでさえ、その度ごとに、断りを入れて取り出すとのことで御座る。いや――これ――「取り出す」――のでは――ない。

 例えば、

「――これこれの物、明日入用(にゅうよう)にて御座る。――」

と前日に蔵に向って言上(ごんじょう)致いておくと、翌朝にはもう――何者かによって――その蔵の扉の前に――ちゃんと取り出されて揃え置かれてある――と申すのである。

 うっかり断りを入れずに、勝手に手ずから出したりすると――それも出来ぬことにてはないものらしいが――甚だ宜しからざる、不吉不審なることが、これ――必ず起こる――と申す。

 尤も、この幕医は、石高も――大身(たいしん)にては御座らねど――まず、貧しき医師にては、これ、御座ない。

 また、ある年のこと、近場にて火事の御座って、数原殿の御屋敷の母屋が類焼致いた。幸い、かの蔵が焼け残って御座ったが、家来か内弟子の内の一人かが、これ、

「……普段ならば如何にも断りを入れた上にて、奇怪な物の出し入れなんぞ、これ、なしては御座れど……かくも非常の折りから、何の憚るること、これ、御座ろうか?!……御屋敷もこれ、丸焼けにして、我らの臥し所とて、これ、御座ない! されば……」

とて、かの土蔵の中(なか)へ立ち入り、とり散らかされた物を勝手に片付け、臥床(ふしど)を拵えては、そこで寝泊りをせんと致いたと申す。

 すると、暫くたって、うとうとっとしかけた頃、何処(いずく)からともなく、坊主のような姿をした者が突如現われ、おどろおどろしき大声にて、

「……かねてよりの掟を破り!……蔵内へ許しもなく立ち入り!……そればかりか、かくも無礼にも!……この倉内に寝(い)ぬることの、これ、憎さよッツ!!……本来ならば、これ、命をも奪い取るところじゃ!……じゃが……かかる回禄の非常の折りから、この度だけは、これ、許して遣わそうずッツ!……貴様ッツ!……以後! 決して立ち入ってはならぬぞうッツ!!!――」

と大喝したによって、かの家来、これ、その音声(おんじょう)を耳にしただけで、これ、胆も消え入り、脱兎の如く蔵から逃げ出だいた、と申す。

 何でも、古くより数原家にては、これ、毎年決まった月日、この蔵の前にて祭礼なんどをも行(おこの)うておる由にて御座った。
 

【以下、2015年3月18日追加分】

■資料 釈敬順「十方庵遊歴雑記」より「本所数原氏石庫の妖怪」

[やぶちゃん注:作者は小日向水道端(現在の文京区水道二丁目)にあった浄土真宗廓然(かくねん)寺第四代住職大浄釈敬順。俗姓は津田氏。宝暦一二(一七六二)年本所生まれ。二十歳で寺を継ぎ、文化九(一八一二)年に隠居して十方庵(じっぽうあん)と号した。茶人としては集賢(または宗知)、俳号を以風と称した。「十方庵遊歴雑記」(十五冊五編)は彼の見聞記で、その足跡は江戸周辺から関東一帯、遠くは三河まで及ぶ(以上はkurofune67 氏のブログ「黒船写真館」のこちらの転載記事を参照した)。根岸鎮衛は元文二(一七三七)年の生まれであるから二十五年下であるが、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年で、十方庵は既に隠居しており、この「遊歴雑記」のデータ収集や執筆に入っていたものと考えられるから(序に文化十二年のクレジットがある)、これは根岸の採取した時期と殆んど変わらない共時的記載であると考えてよい。以下は国立国会図書館の「江戸叢書十二巻 巻の四」の画像を視認して起こした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。後に簡単な注記を附した。]

 

  七拾參 本所數原氏石庫の妖怪

一、東武本所二ツ目相生町とみどり町との横町に寄合に入れる御醫師に、數原宗得(スハラソウトク)とて持高五百石二十人扶持を賜ふ、今は宗得隱居して當主を宗安といえり、此やしきに作れる土藏の中に妖怪あり、是は場末の屋敷なれば持高に應ぜず、方量も廣きまゝ土藏は、居宅をはなれ廣庭の遙隅にありて、火災を厭ふには一入よし、此庫の作り方は屋根と戸前口ばかり木にて作り、壁といふものは皆切石を以て積上たり、恰も彼日本橋四日市河岸通の土手藏(ドテグラ)の類(タグ)ひなるべきか、廣さ二間半に三間半かとよ、是はむかし有德尊君より拜領せしといひ傳ふ、案ずるに此御代安南(アンナン)より象を一匹獻ぜしに依て、置處なく本所豎川筋にさし置る、その砌象扶持(ゾウフチ)など積入し藏なるべし、されば此石藏の中に妖怪の住事なれば、夜は勿論晝とても兩三人づゝ連立行(ツレタチユキ)て、藏のものを出し入れす、しかるに此石庫は這入て、小用を達し度とおもう通氣の萌(キザシ)あれば、おのおの早々に藏を出しばらく外にて猶豫(タメライ)て後、土藏に入れば子細(シサイ)なし、是怪物の出べきしらせなりとなん、扨又小用の通氣あるを忍(コラ)へて、若物など扖(サガ)し居る事あれば、必ずしもその妖怪にあふ、但しその妖怪の形是とさだまるほあらず、小女、小坊主、小瞽(コメクラ)、大達摩(ダルマ)、木兎(ミ〻ヅク)、犬張子(イヌハリコ)、竹輿(カゴ)、からかさ、鬼女、よろづの面瞽(メンゴ)、女仁王(ゼニワウ)、鷄犬(ケイケン)、牛馬(ギウバ)の類と種々に變化して出るとかや、これに依て庫に入て誰にても通氣の氣味あれば、申合せ早々飛(トビ)いだす事となん、若又近邊に火災あらん前方には誰としれす、夜すがら鐡棒を引て歩行(アルク)音す、是によりて家内火災のあるべきしらせぞとこゝろえ、諸道具取片付用心するに、果して不慮に近火ありて、宗安居宅のみ遁るゝ事むかしより數度なり、既に去し寛政年間件のしらせありければ、大體(ダイタイ)品皆仕舞しかどその砌老母大病にして手放しがたく、今にも取詰やせんと見へたる折柄、出火ありて風又甚烈しく、近所一圓に燒廣がりければ、漸く手人ばかりにて竹輿(カゴ)に懷きのせ一番輩さしそひつゝ、しるべの方へ立退けるまゝ、家内いよいよ人少になり、殘れる道具を石藏の中へ詰入る暇さへもなければ、戸前口へみな積置ぬ、スワといはゞ濡薦(ゴモ)を懸んと、殘りし家内只とりどりに立騷ぐばかりなりしが、彼石庫の内より壹人の女、髮をうしろへ下て振亂したるが、甲斐甲斐しく立出戸前口に積置たる品々を、土藏の内へ抱えて運び入れる事取廻し速(スミヤカ)也、爰に居殘りし卑女(ハシタ)は不思議に思ひ駈來りて、件の女の顏を見んと彼方へ廻れば、こちらへ振向、此方へ廻ればあちらへ顏を背(ソム)けて、見せざりしかば不圖こゝろ付是かねて傳え聞、妖怪ならめと思ふや、否、ゾツと惣身さむけ立ければ、卑女は萬事を打すてゝ迯込(ニゲコミ)しが、彼(カノ)道具をみな石藏の中へ運び入、内よら戸前を〆けるとかや奇怪といふべし、終にその砌も類燒を遁れたり、かゝれば此妖怪宗安が家の爲に、幸あれど更に害なし、是によつて四月十四日を例祭とし、石庫の中には燈明をかゝげ、種々の供物を備へ毛氈を敷詰、外には大燈籠提燈等をかざり、晝は修驗來りて佛事を取行ひ、夜はもろもろの音曲鳴物神樂を奏して、夜すがら彼怪物のこゝろをなぐさむを祭祀とすとなん、これによつて當家より火防の札を出すに、是を以て家内にあがめ置ば、一切火災の煩ひなしと巷談す、しかるに彼石庫の隅の棚に一つの箱あり、大さ五六寸四方、昔よら置處を替ず、又手を付る者は曾てなし、恐らくは此箱怪物の住所ならんかといへり、此外に石庫の内更にあやしき物をしとぞ、上來の一件(イチマキ)奇談といふべし、但し此類の事世上に儘ありて人みな恐怖し祭り崇める者又少なからず、曾て古人のいえらく、怪を見てあやしまざれば怪おのづから去とおしえ、又は妖は德にかたずとの金言は宜なる哉、巫咒桃符(フジユトウフ)を貴ばんよりは、身を正ふし德行を逞ふせんにはしかじ、退治魔事の法といふも、先その身潔齊し六根精進をして正ふせんにはしかじ、何ぞその身の行狀を亂し德行をばせずして.一向(ヒタスラ)に神齋を責(セム)る事やあらん、我人仁義禮恕孝貞忠信の勤しばらくも怠るべからず、此一件(イチマキ)を荒川新助といへる人、彼數原氏へ立入て見聞せしまゝを、しるし置ものなり、

 

*やぶちゃん注記
「耳嚢」の話よりも遙かに詳細で、しかも間然する箇所が殆んどと言ってない点でも非常に優れた記載である。祭祀も式日も四月十四日と明記されてあり、驚くべきことにその「物の怪」の棲み家まで特定している!

●「一入」「ひとしほ(ひとしお)」。

●「日本橋四日市河岸通の土手藏」屋根で覆われた石積みの蔵群。日本橋川南河岸沿いに明暦三(一六五七)年の大火の後、防火のために築造されたもの。現在の中央区日本橋の野村證券本社付近にあった。

●「二間半に三間半」凡そ間口四・五メートル×奥行六・三メートル。

●「有德尊君」徳川吉宗。

●「安南より象を一匹獻ぜし」享保一三(一七二八)年に吉宗の注文で安南(ベトナム)の貿易商鄭大威(ていたいい)雌雄二頭の象を長崎に齎した。雌は同年死亡したが、翌年、雄の方が江戸へ運ばれる。この象は途中、広南従四位白象の名を授けられて宮中に参内、中御門天皇・霊元上皇に拝謁、江戸では待ちかねていた吉宗を悦ばせた(以上は講談社「日本人名大辞典」の「鄭大威」の項他に拠った)。

・「本所豎川」現在の墨田区(本所)横川。

●「猶豫(タメライ)」は二字に対するルビ。

●「通氣」使用されてある三箇所を並べてみると、怖気立つような怪しき気配、の意である。

●「よろづの面瞽(メンゴ)」いろいろな風体(ふうてい)の視覚障碍者の意か。

●「女仁王(ゼニワウ」不詳。女体の金剛力士というのもおかしい。鬼女の謂いか。

●「鷄犬、牛馬」これは鶏や犬や牛や馬の意。

●「寛政年間」西暦一七八九年~一八〇一年。

●「一番輩」一の家来の意であろう。

●「これによつて當家より火防の札を出すに、是を以て家内にあがめ置ば、一切火災の煩ひなしと巷談す」これはまた、結構な副収入となったものと私には思われる。

●「五六寸四方」十五・二~十八・二センチメートル四方。

●「但し此類の事世上に儘ありて人みな恐怖し祭り崇める者又少なからず……」こうした道話めいた附言は当時の定式の一つで、しかも彼が僧侶であることを考えれば、合点がいく。

●「巫咒桃符」「桃符」は中国で陰暦の元旦に門にかかげる魔除けの札のこと。桃の木の板に百鬼を食べるという二神の像や吉祥の文字を書いたもの。魔除けの呪(まじな)いの御札。

●「我人」わがひと」と読むか。我々人たるもの、の意であろう。

 

●「荒川新助」不詳。

……「八紘一宇」の熱弁だぁって?……

長屋の壁の向こうから聴こえて参ったこと。――

「……「八紘一宇」の熱弁だぁって?

ちょいと、お前さん!

熱があるんじゃないのかい!

きっとそりゃあ、脳味噌が炉心溶融とかしてるんだよ! きっと!

ああ、あぶないよう!

熱弁どころか、腦の底から、ずぅーと溶け下がって熱便が出ちまうよう!

お前さん、しっかりおしよ!……」……

耳嚢 巻之十 龜と蛇交る事

 龜と蛇交る事

 

 龜の卵を集めかえし候を見るに、十に一つ二つは蛇にかへる由聞(きき)しに、官醫□□□儀、西丸(にしのまる)山里御庭(やまさとおには)にて、蛇と龜と交(まぢは)る樣子見しと語りし由。夫(それ)に付(つき)、或人語りしは、尻の丸きものは雄はなく、尻の細きものは雌なしといひき。實事なる哉(や)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:動物奇譚で直連関し、しかもこれは、八つ前の亀が蛇の卵を産むという龜玉子を生む奇談の事と、その次の龜玉子を生むに自然の法ある事二篇に対して別々に短い続報という体(てい)を成してもいる点にも注意されたい。

・「龜の卵を集めかえし候を見るに、十に一つ二つは蛇にかへる」龜玉子を生む奇談の事では「龜の玉子四つ産(うみ)候に、かへり候時、ふたつが一つは是非(ぜひ)蛇にかへる」とあったのからは、数値がかなり後退している。

・「官醫□□□」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も三字分ほど伏字である。因みに、龜玉子を生む奇談の事の話者も如何にも医師臭い『人見幸榮』という人物であった。目撃した場所が場所、それも亀と蛇の交尾とあっては、確かに名前はこれ、憚って伏せたくもなる。

・「山里御庭」或いは「山里のお庭」で、江戸城西丸御殿の西にあった庭園を指す。

・「或人語りしは、尻の丸きものは雄はなく、尻の細きものは雌なしといひき」――その亀の産卵については、それに蛇の卵が混じっているという話とは無関係に、別にこんな話も聴いた。それは卵の底の部分が丸くなっているものは中に入っている子は♀、逆に底が細く尖っている場合は♂、というのである――ということであろう。この部分は亀の産卵だけで話が続いていているのであって、前話の亀が蛇の卵も産むという奇説とは繋がっていないと採らないと意味が取れないのである。なお、画像で見る限りでは川亀の場合は、卵は楕円形(長円形)を成している。「尻」というのがどっちを指しているのかはよく分からないが、ニワトリの卵のように重心がある方を「尻」と呼んでいるのであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 亀と蛇が交わる事

 

 亀の奇体なる話を追加しておく。

一、亀の卵を集め、それを孵(かえ)して見たところが、十に一つ或いは二つは、これ、蛇に孵るということを以前に聴き、この「耳嚢」にも亀が蛇の玉子を生む奇談の事として書き記しておいたが、ここにきて、官医×××殿が、西丸(にしのまる)の山里(やまさと)の御庭(おにわ)に於いて、まさに蛇と亀の交わっておる、その現場を目撃されたと語って御座った由。

一、亀の産卵についての奇談も、やはりこの「耳嚢」に亀が卵を生むに際して驚くべき自然の理法がある事として書き記しておいたが、その孵化については、また、これ、ある人が、「卵の尻の丸いものは雄ではなく、孵れば総て雌亀であって、尻の細いものは、これ、雌ではなく、孵れば総て雄亀である。」と、申して御座った。

 この二点、果たして、これ、真実(まこと)で御座ろうか?

耳嚢 巻之十 蛙かはづを吞候事

 蛙かはづを吞候事

 

 文化九年初秋、予が許へ來る小野某語りしは、所用ありて千住までまかりしに、大橋にてはあらず、餘程手前なる小嶋の脇、下水の邊、草むら動(うごき)ける故、蛇の蛙を吞(のむ)事やと立寄り見しに、蛇にはあらず、背に嶋の二寸斗(ばかり)もある蛙、ちいさき赤蛙を吞(のむ)に有(あり)し。眼前見たりと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:動物奇譚で連関。因みに、ここに書かれてあるように事実、蛙は共食いをする。私も小さな頃に実際に見たことがあった。ウィキの「共食い」の「成長段階に見られるもの」にも、『よくあるのがサイズ構造化された共食いである。すなわち大きな個体が小さな同種を食べるのである。このような場合の共食いは全体の死亡率の8%(ベルディングジリス)から95%(トンボの幼虫)になるため、個体数へ大きな影響を与える要素となる。このサイズ構造化された共食いは野生の状態ではさまざまな分類群でみられる。それにはタコ、コウモリ、カエル、魚類、オオトカゲ、サンショウウオ、ワニ、クモ、甲殻類、鳥類(フクロウ)、哺乳類、そしてトンボ、ゲンゴロウ、マツモムシ、アメンボ、コクヌストモドキ、トビケラといった多数の昆虫が含まれる』(下線やぶちゃん)。因みに「ベルディングジリス」はアメリカ合衆国西部の山間部に棲息する齧歯(ネズミ)目リス科ジリス(地栗鼠)属ベルディングジリス Spermophilus beldingi のこと、「コクヌストモドキ」は穀物害虫として知られる鞘翅(コウチュウ)目ゴミムシダマシ科コクヌストモドキ Tribolium castaneum のことである。……しかし、もっと驚くべきことは……まだまだ、ある。……

・「文化九年初秋」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、二年前。

・「大橋」現在の隅田川に架橋されて日光街道を通す千住大橋の前身。現在のものは右岸が足立区千住橋戸町、左岸が荒川区南千住六丁目であるが、旧千住大橋はウィキの「千住大橋」によれば、『最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない』文禄三(一五九四)年十一月『のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流』二百メートル『ほどのところで、当時』「渡裸川(とらがわ)の渡し(戸田の渡し)」『とよばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と推測される』とある。因みに、この「渡裸川(或いは渡裸)の渡し」については、ウィキの「隅田川の渡し」に、『古くは裸になって徒歩で渡っていたという記録から「渡裸(とら)川の渡し」と呼ばれるようになったと伝わる。後に「とら」という音から「とだ」となり「戸田の渡し」とも称された。現在の千住大橋のやや上流にあたり、奥州への古道が通っていた場所である。千住大橋架橋に伴い、江戸初期に廃されたという』とある。

・「餘程手前なる小嶋の脇」千住大橋の下流は隅田川が西大きく蛇行しているから、砂洲が出来やすかったと考えられる。旧千住大橋からこの蛇行部に南千住八丁目附近は孰れも、一キロメートル以上あり、「餘程手前なる」という表現にしっくりくる。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『小橋』とある。前の「千住大橋」や、以下の「下水」というところからは、小橋の方がしっくりくるし、中州では覗き見することが困難でロケーションとしても変な感じがする。しかし問題は、隅田川の千住大橋より下流の隅田川には、ずうっと下流の浅草の吾妻橋(旧名大川橋・安永三(一七七四)年架橋)まで、当時は橋はなかったものと考えられる点である(勿論、この「小橋」が吾妻橋(大川橋)である可能性は話柄からあり得ない)。とすると、「小橋」というのは、隅田川に流れ込む「下水」(恐らくは左岸の)に架かっていた、市井の路地に架橋されてあった粗末な橋を意味しているのではあるまいか? 但し、訳は本文に合わせて訳した。

・「嶋の二寸斗もある蛙」「嶋」は縞模様でその模様が「二寸」六センチメートル程もある大きな蛙、ということである。無尾(カエル)目カエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属トウキョウダルマガエルRana porosa porosato と思われるウィキの「ダルマガエル」によれば、トウキョウダルマガエルは体長が♂で三・九~七・五センチメートル、♀で四・三~八・七センチメートルでダルマガエルRana porosa (Cope, 1868) 中の最大亜種である。『日本(仙台平野から関東平野にかけて、長野県、新潟県)固有亜種。北海道の一部(岩見沢市)に移入分布』するとある。『皮膚の表面には隆起が少なく比較的滑らか。吻端は尖る。体色は背面が褐色や淡褐色、紫がかった褐色などで赤褐色の背側線と暗色の円形の斑紋が入るが、円形の斑紋は繋がらない個体が多い。腹面は白く、網目状の斑紋が入る』。『後肢は短く、静止時に趾が鼓膜に達しない。和名は体形が太く後肢が短い形態をダルマに例えたのが由来』し、トウキョウダルマガエルは『正中線上に筋模様が入る個体が多』いとある。そして「生態」の項に、『低地にある流れの緩やかな河川や池沼、湿原、水田などに生息する。半水棲で、水辺から離れることはまれ。トノサマガエルと同所分布するものは生息地や繁殖期が重複しないよう住み分けをしている。冬季になると水の干上がった水田の泥中や藁の下などに潜り冬眠する』。『食性は動物食で、昆虫類やクモ、多足類、貝類、小型のカエルなどを食べる。幼生は雑食で落ち葉や水草などを食べる』と記されてあるからドンピシャである(下線やぶちゃん)。しかもなお、私は無批判に当時日本には巨大なナミガエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属 Aquarana 亜属ウシガエル Rana catesbeiana はいなかったから(ちょっとトリビア脱線すると、ウシガエルは大正七(一九一八)年に、当時の東京帝国大学動物学教室教授渡瀬庄三郎が食用としてアメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオリンズから十数匹を導入した。因みに、その最大の養殖場は、今、私の住む大船で、そのウシガエル養殖用の餌として同時に輸入されたのが、私が小さな頃に盛んに獲ったアメリカザリガニであったが、それがまた、大雨で養殖場から流れ出てしまい、日本各地へ分布を広げてしまったのであった。この渡瀬は沖縄島へのマングース移入でも知られ、人為的に外来種移入を指導し、結果、本邦の生態系に大きな変容を齎してしまった動物学者でもあることは記憶しておいてよい。因みに貪欲なウシガエルもしっかり自分より小さな個体をしっかり共食いしてしまう)、これはトノサマガエルだろうと勝手に思い込んでいた。ところが、いざ、この注を書くために調べて見たところが……今日の今日まで私は知らなかったのだが、何と! アカガエル亜科トノサマガエル属トノサマガエル Pelophylax nigromaculatus は関東には自然分布しないのだという! ウィキの「トノサマガエル」によれば、一九三〇年代までは、『日本全国にトノサマガエルが分布していると考えられていた』一九四一年に、『西日本の一部の個体群がトノサマガエルではないことがわかり(ダルマ種族と呼ばれた)、さらにその後、関東平野から仙台平野にかけて分布しているカエルもトノサマガエルではないまた別のカエル(関東中間種族と呼ばれた)であることが判明した。これらの互いによく似た「トノサマガエル種群」とされたカエルたちは、同所的に分布する地域では交雑個体が発見されるほど近縁であり、分布が重ならない場合でも交雑実験を行うとある程度の妊性が認められた。このため同種なのか別種なのか分類が混乱し』、一九六〇年代には、『関東中間種族は、トノサマ種族とダルマ種族の雑種であると考えられていた』。ところが、一九九〇年代になって、『分子生物学的手法などを用いた研究が行われるようになった結果、雑種起源説は否定されつつある。今世紀に入ってからも、どの分類群に名前を与えるべきか、などの点で若干の混乱が残っている』とある! うひゃあ! これこそ、「ゲロゲェロ!」だぜ!

・「赤蛙」アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属ニホンアカガエル Rana japonica であろう。形態的にも生態的にもよく似ているアカガエル亜属ヤマアカガエル Rana ornativentris は山間部に生息する(ヤマアカガエルはニホンアカガエルよりもさらに背側線が真っ直ぐである)。ウィキの「ニホンアカガエル」には、但し書きで、『近年の水田周辺の環境変化により、カエル類の生息数が減少している。本種はその生息環境がその区域に強く重なるため、その影響を非常に強く受けるのに対して、山間部のヤマアカガエルは比較的その影響を受けない。そのため、本種が数を減らしており、ヤマアカガエルばかりが見られる傾向がある』とあるが、これは二百年近くも前の記載であるから、目撃場所からもニホンアカガエル Rana japonica ととって問題あるまい。序でに言えば、先のウィキの「共食い」の『大きな個体が小さな同種を食べる』という記載が狭義に於いても美事にマッチする(属レベルならば同種という謂いに齟齬が生じないと言ってよい)点にも着目されたい!

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蛙が小さな蛙を吞んで御座った事

 

 文化九年初秋、私の許へ来たった小野某(ぼう)の語ったこと。

「……所用の御座って千住まで参りましたが――いえ、かの千住大橋ではなく、あそこより、これ、かなり手前にある川岸の、ごく近い中州の、その脇の辺り――そこへ下水の流れ込む辺りにて、叢(くさむら)がやけにざわついて御座ったゆえ、蛇が蛙を吞みこもうとでもしておるのかと、近くへ寄って行き、そこを覗いて見ましたところが――これ――蛇にてはあらず――背に二寸ばかりも縞模様のある蛙が――小さき赤蛙を――吞みこもうとしておる……ので御座った。……いや、目の当たりに蛙が蛙を共食いするのを見、全くもって、驚き申した。……」

との話にて御座った。

さっき

「耳嚢 巻之十 風狸の事」で、ひさびさに「和漢三才図会」の訓読と電子化注釈したら、やっぱ、楽しいわぁ……またぞろ、始めようかしらん……♪ふふふ♪……

耳嚢 巻之十 風狸の事

 風狸の事

 

 或人云く、搜神記に風狸(ふうり)の事ありしが、日本にも邂逅(たまさか)有之(これある)由。怪敷(あやしき)異獸にて、狸の一種の由。野に出て草木の内如何成(いかなる)目利(めきき)にや、一種の草を取(とり)、枝梢(えだこずゑ)に止(とま)る諸鳥を見、右をかざしねらひ候へば、右鳥類自分(おのづ)と落來(おちきた)るを取りて、餌となす由。其草はいかなる事や、しるものなし。是を見屆(みとどけ)、右風狸を退散し、渠(かれ)が持(もち)し草を奪取(うばひと)り、木に登り居(をり)候ものをさせば、鳥獸人共(とも)に落(おち)ぬる由。怪談なれども、記して後の君子をまつ而已(のみ)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。妖怪博物誌。

・「風狸」底本の鈴木氏注に、『風貍。獺に似る。背筋から尾の間を除き全身毛が無い。人に逢うと低頭して羞じるような様子をする(酉陽雑俎)。黄猨に似て、空中を飛行することができる(桂海獣志)』とある。ウィキの「風狸」に以下のようにある(半角空きを全角に代え、注記号は省略した)。『風狸(ふうり)は、中国および日本の妖怪。風生獣(ふうせいじゅう)、風母(ふうぼ)、平猴(へいこう)とも呼ばれる。中国の『本草綱目』、日本の鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』、根岸鎮衛の『耳嚢』、『和漢三才図会』など江戸時代の各種文献に名が見られる』。『『本草綱目』獸之二では、「其獸生嶺南及蜀西徼外山林中 其大如狸如獺 其狀如猿猴而小 其目赤 其尾短如無 其色青黃而黑 其文如豹 或云一身無毛 惟自鼻至尾一道有青毛」とありその大きさはタヌキかカワウソ程度。状態はサルに似ており、目が赤く、尾は短い。色は黒っぽく、豹のような模様がある。毛は鼻から尾に青い毛がある。「其性食蜘蛛 亦啖薰陸香」とあり餌はクモなどで、香木の香も食べる。「晝則蜷伏不動如 夜則因風騰躍甚捷 越岩過樹 如鳥飛空中」とあり昼は動き回ることはなく、夜になると、木々の間や岩間を鳥の如く滑空する。「人網得之 見人則如羞而叩頭乞憐之態」とあり人に網で捕らえられると、恥しがるような素振りをし、憐れみを請うような仕草をする。「人撾擊之 倏然死矣 以口向風 須臾複活 惟碎其骨 破其腦乃死 一云刀斫不入 火焚不焦 打之如皮囊 雖鐵擊其頭破 得風複起 惟石菖蒲塞其鼻 即死也」とあり風狸は打ち叩くとあっけなく死んでしまうが、口に風を受けただけで生き返る。刀で斬っても刃が通らず、火で焼こうとしても焼けないという説もある。但し骨や頭を砕かれると生き返ることはできず、石菖蒲(サトイモ科の多年草のセキショウのこと)で鼻を塞いでも殺すことができるとされる』(単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus 。強い芳香を持ち、漢方としても用いられる)。『その飛距離は、山の一つや二つを飛び越えるほどともいう。 『本草綱目』では、風狸は東南アジア産のヒヨケザルのこととされる』(「ヒヨケザル」は哺乳綱真主齧上目皮翼(ヒヨケザル)目 Dermoptera に属するヒヨケザル(日避猿)類。東南アジアの熱帯地方に生息し、フィリピンヒヨケザル Cynocephalus volans とマレーヒヨケザル Cynocephalus variegatus の二種のみが現生種である。体長四十センチメートル内外、外見はムササビに似、頸から手・足・尾を包む大きな皮膜を持ち、木から木へ滑空する。頭骨の口先は幅広く頑丈で下顎の門歯には櫛の歯状の突起を持つ。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」とウィキの「ヒヨケザル目」を参考に纏めた。因みに「本草綱目」にしては、現代の動物学的知見からもすこぶる首肯出来る説のように私には思われる。私自身、ヒヨケザルを実見したことがないのでグーグル画像検索「Dermopteraをリンクし、また英文サイト「Wildscreen」の「Philippine flying lemur (Cynocephalus volans)フィリピンヒヨケザルの飛翔動画も合わせて附す。素晴らしい!)。『『和漢三才図会』では、日本に風狸はいないとされているが、『耳嚢』では日本にも風狸の話があると記述されている。それによれば、風狸はタヌキの一種とされており、ある種の草を抜き、梢(こずえ)に止まった鳥にかざすと、なぜかその鳥が落ちてくるので、それを餌にしているという。どんな草にそのような効果があるかは不明だが、ある者が風狸からその草を奪い、鳥を捕らえようとして木に登り、鳥に向かって草をかざしたところ、鳥とともにその者も木から落ちてしまったという』と、本話についての記載もある。岩波の長谷川氏注には、眉が長いという記載もある。以上、ウィキでは「本草綱目」がよく引用されて解説されてあるので、これは省略し、他に示されてある「今昔百鬼拾遺」と「和漢三才図会」(但し、これはその記載の殆んどが「本草綱目」のそれである。しかしさればこそ、ウィキのそれを補完する読みとして私は十分に学術的意義があると考える)を、以下にオリジナルに翻刻しておくこととする。といっても、「今昔百鬼拾遺」の方はキャプションが図像の左に少しあるだけである。画像もこれについてはウィキのパブリック・ドメイン画像で示した。「和漢三才図会」のそれは東洋文庫版の画像を用い、原典の白文(原典の一行字数に合致させて改行)及びそこに打たれてある訓点を参考にして私が書き下しものを示した(本文テクストの底本は一九九八年刊大空社版CD-ROM「和漢三才図会」を用いた。表示法は私の手掛けた「和漢三才図会」水族部の電子テクストのそれに準じた。「青」「黒」などの表字は原文のママである。訓読では大幅に読みと送り仮名を増やしてあるが、読み難くなるだけなので、補正箇所は【 】で示した一部を除き、特に指示していない。「和漢三才図会」の方には(ということは自動的に「本草綱目」の)私のオリジナルな注を附しておいた)。

   *

鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」

Sekienfuri

   風狸(ふうり)

風によりて巖(いはほ)をかけり

木にのぼりそのはやき事

飛鳥(ひてう)の如し

   *

寺島良安「和漢三才圖會 卷第三十八 獸類 ○二十一」

Kazetanuki_wakan

かぜたぬき

風貍

フヲンリイ

 

風母 平猴

風生獸 ※1※2

[やぶちゃん字注:「※1」=「犭」+「吉」。「※2」=「犭」+「屈」。]

 

 加世太奴木

 

本綱風狸大如貍如獺其狀如猿猴而小其目赤其尾短

如無其色青黄而黒其文如豹或云一身無毛惟自鼻至

尾一道有青毛廣寸計長三四分其尿如乳汁其性食蜘

蛛亦啖薫陸香晝則踡伏不動如螬夜則因風騰躍其捷

越巖過樹如鳥飛空中人綱得之見人則如羞而叩頭乞

憐之態人※3擊之倏然死矣以口向風須臾復活惟碎其

骨破其腦乃死一云刀斫不入火焚不焦打之如皮囊雖

鐡擊其頭破得風復起惟用石菖蒲塞其鼻即死也

△按風狸嶺南山林中多有而未聞在于本朝

[やぶちゃん字注:「※3」=「扌」+「過」。]

 

○やぶちゃんの書き下し文

かぜたぬき

風貍

フヲンリイ

 

風母(ふうも) 平猴(へいこう)

風生獸(ふうせいじゆう) ※1※2(きつくつ)

[やぶちゃん字注:「※1」=「犭」+「吉」。「※2」=「犭」+「屈」。]

 

 加世太奴木(かぜたぬき)

 

「本綱」に、『風狸(かぜたぬき)は大いさ貍(たぬき)のごと、獺(かはうそ)ごとし。其の狀(かたち)、猿猴(えんこう)のごとくして小さく、其の目、赤く、其の尾、短かく、無きがごとし。其の色、青黄にして黒し。其の文(もん)、豹のごとし。或ひは云ふ、一身に毛無く、惟だ鼻より尾に至る一道にのみ、青毛有り、廣さ寸計(ばか)り、長さ三、四分(ぶ)。其の尿、乳汁のごとく、【ごとし。】其の性、蜘蛛を食(く)ひ、亦、薫陸香(くんろくかう)を啖(くら)ふ。晝(ひる)は則ち、踡(せくぐま)りて伏し、動かず、螬(すくもむし)のごとし。夜は則ち、風に因つて騰(のぼ)り躍(をど)り、其の捷(はや)きこと、巖(いはほ)を越へ、樹を過ぎ、鳥の空中を飛ぶがごとし。人、綱し、之を得て、人を見るときは、則ち、羞(はづ)るがごとし。【ごとくして、】頭を叩き憐(あはれ)みを乞ふ態(ありさま)の之れあり。人、之れを※3擊(うちたゝ)[「※3」=「扌」+「過」。]きするときは、倏然(しゆくぜん)として死す。口を以つて風に向くときは、須臾(しゆゆ)にして復た活(い)く。惟だ其の骨を碎(くだ)き、其の腦を破れば、乃(すなは)ち死す。一(いつ)に云ふ、刀斫(たうしやく)入れず【入らず】、火に焚(や)きて焦(こが)れず、之を打つに皮囊(かはぶくろ)のごとし。鐡にて擊ち、其の頭を破ると雖も、風を得れば、復た起く。惟だ石菖蒲(せきしやうぶ)を用ゐて其の鼻を塞げば、即ち死すなり。』と。

△按ずるに、風狸は嶺南の山林の中に多く有りて、未だ本朝に在ることを聞かず。

 

●「三、四分」凡そ九~十二ミリメートル。●「薫陸香」インドやイランなどに産する樹脂が固まって石のようになったもので香料・薬剤とする。薫陸石。本邦では主に岩手県久慈市で産出される、琥珀に似た、松や杉の樹脂が地中に埋もれて化石となったものを、やはりこう称して香料としているが、これは「和の薫陸」である(ここまでは「大辞泉」の記述)。なお、平凡社の「世界大百科事典」の「香料」には、インドで加工された種々の樹脂系香料が西方と東アジア、特に中国へ送られ、五~六世紀の中国人はこれを薫陸香と称し、インドとペルシアから伝来する樹脂系香料として珍重した旨の記載がある。●「螬」地中にいる甲虫類の幼虫を指す語。主にコガネムシ類の幼虫をいう。地虫(じむし)。●「倏然」あっという間に。たちまち。程なく。「須臾」も同じ。●「刀斫入れず」「斫」は斬るであるから、ここはせめて「刀斫(たうしやく)するも」と読みたい(原典では「刀斫」の間に熟語記号の「―」が入っている)。意味は、その皮革は刀を以って斬り刻もうとしても、刃が入らない、刃が立たない、である。こうなってくると、あたかもこれは例の本邦の「竹取物語」にも出る(しかもあれは中国伝来と騙られている)火鼠の皮袋(実物は石綿)である。●「石菖蒲」セキショウ。前注参照。

 

・「搜神記」六朝時代の志怪小説。晋の干宝(かんぽう)の著。神仙・道術・妖怪などから動植物の怪異、吉兆・凶兆の話など奇怪な話を記す。著者は有名な歴史家であるが、身辺に死者が蘇生する事件が再度起ったことに刺激されて古今の奇談を集めて本書をつくったという(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠ったが、「かんぼう」という読みは訂した)。私の偏愛する作品で何度も読んだが、ここに出る「風狸」の話は所載しないと思う(岩波版の長谷川氏も注で不載の旨、述べておられる)。一つ、「狸」と「風」の文字が含まれる一篇がある。巻十八の次の一篇であるが、以下に見るように「風狸」ではない。

   *

董仲舒下帷講誦、有客來詣。舒知其非常客。又云、「欲雨。」。舒戲之曰、「巢居知風、穴居知雨。卿非狐狸、則是鼷鼠。」。客遂化爲老狸。

   *

〇やぶちゃんの書き下し文

董仲舒(とうちゆうじよ)、帷(ゐ)を下(おろ)して講誦(こうじゆ)するに、客有りて來詣す。舒、其れ、非常の客なるを知れり。又、云ふ、「雨ふらんと欲す。」と。舒、之に戲れて曰はく、「『巢居(さうきよ)は風を知り、穴居(けつきよ)は雨を知る。』と。卿(けい)、狐狸に非ずんば、則ち是れ、鼷鼠(けいそ)ならん。」と。客、遂に化して老狸と爲れり。

   *

●「董仲舒」(紀元前一七六年頃~紀元前一〇四年頃)前漢の儒学者。武帝の時、五経博士を置き、儒教を国の根本思想とすべきことを建言、後世の儒学隆盛の濫觴となった人物。●「帷」とばり。●「講誦」は弟子に対する講義。●「非常の客」通常の人間の客ではないこと。●「巢居」鳥のように木の上に住まいを作って住む生物。●「鼷鼠」二十日鼠。ネズミ目ネズミ上科ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  奇獣風狸(ふうり)の事

 

 ある人の曰く、

「……晋の干宝志怪小説である「捜神記」に『風狸』についての記載があったが、実は日本にも、この風狸なるものが棲息して御座る。……これ、妖しき奇獣にて御座って、狸の一種で御座る。野に出でると――どのようにして沢山の草木類からそれを見分けるかは不分明乍ら――これ、ある種のこれも怪しき草を採り来たって、それを前足に持って、木の梢にとまっておる鳥に狙いを定め、ただその草を翳(かざ)すだけなので御座るが、するとこれ、その鳥、自然と枝より落下致し、それを餌としておるので御座る。……その草が如何なる草であるかを知る者も、これ、御座らぬ。……しかし、この風狸がかくの如き、不思議な方法で鳥を獲っておるところを見つけ、その風狸を脅して追い散らしつつ、候そ奴の持って御座った草を奪い取り、やおら、その草を以って樹上に登っておるものに対し、ただ差し向けるだけで、これ、鳥であろうと獣であろうと、いやさ、人であろうと、皆、落ちてしまうので御座る。……」

 ――聊か信じ難き怪談なれども、取り敢えず記しおき、後代の識者の御裁断を俟つのみ。

尾形龜之助 「あいさつ」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    あいさつ

 

         尾形龜之助

 

夕方になつてきて

太陽が西の方へ入いらうとするとき

きまつて太陽が笑ひ顏をする

 

ねんじう 俺達の世の中を見て

「さようなら」のかはりに苦笑する

 

そこで 俺も醉つぱらひの一人として

「ね 太陽さん俺も君もおんなじぢあないか ―― あんたもご苦労に」と言つてやらなければなるまいに

 

[注:「入いらう」「ねんじう」「さようなら」「ぢあないか」はママ。]

 

Aisatu

 

 应酬话
         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

到了黄昏

日落西方时

太阳他每次都会笑起来

 

无论什么时候都看着俺这个世间

不说“再见”而苦笑

 

那么 俺也算是一个醉鬼嘛……

就应该这样说道 “欸,老天爷呀!俺和你都一样啊——你这个人也很辛苦了!”

 

         矢口七十七/

2015/03/16

耳嚢 巻之十 多欲の人かたりに合し事

 多欲の人かたりに合し事

 

 本郷四町目菓子商人、湯嶋の一の富(とみ)とりて、其金有(ある)事をしりしや、中間體(てい)の者來りて饅頭二百個分調へ、懷中をさぐり、旦那より急に申付(まうしつけ)、急(いそぎ)候て、代料部屋に取落(とりおと)し候、しかれども取(とり)にかへり候ては、間に合不申(あひまうさず)、只今駈戻(かけもど)り代料持參可致(いたすべき)間、夫(それ)迄證據(しやうこ)差置(さしおき)候由にて、帶(おび)し候脇差を置(おき)候間、近所の事に候間、夫にも不及(およぶまじき)由申候得共(まうしさふらえども)、只今取に參り候間、差置呉(くれ)候樣申(まうし)、駈歸(かけかへ)り候間、相違も是あるまじくと存居(ぞんじをり)候處、羽織袴着用の立派な侍、小もの一人召連(めしつれ)、右菓子屋へ立寄(たちより)、菓子折(おり)一つ申付度(まうしつけたき)由にて、折の寸法、菓子の注文等好み候故、能(よ)き得意(とくい)と心得、夫々菓子をも相見せ、直段(ねだん)取極(とりきめ)、後刻(こうこく)迄に取に可越(こすべし)、自分は本阿彌三郎兵衞(ほんあみさぶろべゑ)の由を申し、最前の脇差、鄽(みせ)に有(あり)しを見て、是は何者の所持やと尋(たづね)し故、前(さき)の中間體(てい)の者差置候品の由、爾々(しかじか)の趣咄(はなし)候處、右脇差拔(ぬき)候て、得(とく)と一覽致(いたし)、驚(おどろき)候體(てい)にて、是は中々輕き者所持可致(いたすべき)品には無之(これなし)、珍しき物にて、何卒調度(ととのへたき)旨申候得共、預り物故、右樣(みぎやう)には難致(いたしがたく)、高科(かうりやう)にも成(なり)候品に候哉(や)と、相尋(あひたづね)候處、望(のぞみ)候ものありては五十兩百兩にも可相成(あひなるべし)、二三十兩にて調へ候へば、下直(げぢき)の由申(まうし)、殘念の體(てい)にて、右三郎兵衞は、折の代相拂(あひはら)ひ、右折請取立歸(うけとりたちかへ)り候處、夕暮に至り最初の中間參り、代料大きに延引(えんいん)の由にて、右饅頭の代相拂、彼(かの)脇差請取候間、菓子や欲心を生じ、此脇差我等に賣呉(うりくれ)候樣(やう)申候處、右は在所親共、先祖より傳(つたは)りものゝ由、讓り呉(くれ)候間、かゝる身分にても不手放(てばなさず)、何程に求候積りに候哉(や)、金子入用に候はゞ右金子可差遣(さしつかはすべき)段申候處、前書の通(とほり)の事、金子五十兩にも候はゞ可差遣旨(むね)、夫(それ)はあまり高値(かうじき)にて、相談難爲致(なしいたしがたし)と品々押合(おしあひ)、三十兩に相(あひ)極め右金子相渡(あひわたし)、右脇差受取、古今(ここん)の掘出(ほりだ)しいたし候、三郎兵衞方へ持參致(いたし)、猶(なほ)樣子くわしく承り、拂ひ方の世話をも可相賴(あひたのむべし)と、三郎兵衞に罷越(まかりこし)、昨日菓子折の御用被仰付(おほせつけられ)、難有(ありがたく)、夫(それ)に付(つき)、昨日御覽被成(ごらんなられ)候、腰の物の儀に付、懸御目度(おめにかけたき)旨申候處、三郎兵衞儀一向合點不致(いたさざる)體(てい)にて、昨日折抔本郷邊にて申付候事も無之(これなく)、いづれ面談を賴(たのみ)候者に候上は面會可致(いたすべし)と、やがて座敷へ出、右町人に面會の處、昨日逢(あひ)候三郎兵衞に無之故大きに驚き、昨日の始末逸々(いちいち)相咄(あひはなし)候處、何しろ其脇差見可申(みまうすべし)由にて右脇差一覽の處、一向取(とる)にたらざる品に付、其譯申諭(まうしさとし)候得ば、扨は三十金かたり被取(とられ)候事と、驚嘆せしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。手の込んだ詐欺集団による犯罪実録であるが、なんとなくよく聴くタイプの話である。岩波の長谷川氏注に「沖津白浪」の四の四、「昼夜用心記」の四の五などと同巧の詐欺談とある。この前者は元治元(一八六四)年江戸市村座初演の歌舞伎世話物の河竹黙阿弥作「小春穏沖津白浪(こはるなぎおきつしらなみ)」であろう。日本駄右衛門・小狐礼三(こぎつねれいざ)・舟玉お才の三人の盗賊を主人公とした白浪物で通称「小狐礼三」という。後者は宝永四年作の北条団水浮世草子で、所謂、ピカレスク・ロマン、騙り者の小説らしい(私は孰れも未読で、どちらもネット情報の複数情報を確認して記した)。この因業の菓子商人、全く可哀そうに感じられないところが、本話の面白い所以である。

・「本郷四町目」現在も東京都文京区本郷四丁目はあり、ほぼ同じ位置のようである。しかもその近くには知られた老舗の菓子屋(現在も廃業はしていないが店は開いていない)があり、江戸切絵図を見ると本郷四町目にまさにその名前と同じ姓の家を見出すことが出来た。……しかしこれ、如何にも不名誉なことなれば、また、加賀屋敷直近(現在の東京大学)なれば、菓子商人は他にもいただろうから、ここではその具体的な名前その他は伏せることと致す。悪しからず。……

・「湯嶋の一の富」谷中感応寺・目黒滝泉寺と並んで「江戸の三富」と呼ばれた湯島天神の富籤(とみくじ)。底本の鈴木氏注に、『三村翁注「富とは、とみくじの事、予め催主より富札を買はしめ、或期日に、各人に売りたる富札と同一記号の札を、混同して箱に入れ、これを錐を以て突き刺し、其つき刺されたる札の記号を基準として、当籤者を定め、多額の金を配分す、其当籤金額の幾分を、富の催主なる社寺に寄附して、造営の資に充つる等の名目により、往時官許を受けて、社寺にて行ひし事あり、湯島の富は、湯島天神にて行はれ、有名なりし。」』とある。ウィキの「富籤」によれば、『寛政の改革期は、松平定信によって江戸・京都・大阪の3箇所に限られ、あるいは毎月興行の分を1年3回とするなど抑制されたが、文政、天保年間に入ると再び活発化し、手広く興行を許され、幕府は9年、三府以外にもこれを許可し、1年4回の興行とし、口数を増やし、1ヶ月15口、総口数45口までは許可する方針をとった。これは』天保一三(一八四二)年三月八日に『水野忠邦が突富興行を一切差止するまで続いた』とある。このウィキの見ると、例えば第一番に突き刺した例に三百両とある。但し、引き当てた者は『褒美金全部を入手したのではなく』、その内から社寺の『修理料として興行主に贈り』、また別に幾たりかを『札屋に礼として与え、その他諸費と称して』支払わねばならなかったとあるから、その割合から推定すると、実際に受け取った額は三百領だったと仮定すると七割の二百十両程度であったか? 騙り取られたのも三十両で七分の一(但し、細かいことを言うなら、饅頭代がバークレー校版なら三百文、偽本阿弥の菓子折り代を七百文程度と仮定すれば、これ、一両ぐらいは詐欺営業の必要経費となって二十九両か)、――私は何となく勝手に腑に落ちた。

・「二百個分」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『弐百銅(どう)分』(長谷川氏注に二百文とある)である。この「銅」の方が正しいように感じられるが、如何?

・「本阿彌三郎兵衞」底本の鈴木氏注に、『刀剣鑑定の家、祖先長春、妙本阿弥と称す、本阿弥の号、これに基けるか、三郎兵衛は代々の称にて、これを嫡系とす。(三村翁)』とある。三郎兵衛を名乗った加賀本阿弥家光悦七世の孫本阿弥光恕(唯一の刀剣書「校正古刀銘鑑」や名物帳「名物剣集」を残し、後には狂歌作者となり芍薬亭長根(しゃくやくていながね)と号して多数の著作を残したと「名刀幻想辞典」のこちらの本阿弥」のにある)なる人物がいるが、彼の没年は弘化二(一八四五)年で、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年であるから、この先代に当たる人物か?

・「下直」値段が安いこと・安価の意。ここは正当な評価としては余りに値として安過ぎることをいう。

・「……何程に求候積りに候哉、金子入用に候はゞ右金子可差遣段申候處……」カリフォルニア大学バークレー校版ではここが、『……何程に求候積りに候哉」と申す付(つき)、「金子入用に候はゞ、右金子は可遣」段申候處』となっている。こちらはその脱字が疑われる。ここの訳はカリフォルニア大学バークレー校版で行った。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 欲張りの人の騙(かた)りにあったる事

 

 本郷四町目の菓子商人、湯島の一の富(とみ)に当たって、その金を、これ、たんまり持っておるということを知ったものか、以下のような巧妙な詐欺に遇ってしまったと申す。

 籤に当たって間もないある日のこと、中間(ちゅうげん)体(てい)の者が店に参り、

「――〇〇様お召抱えの者にて御座る。――饅頭を二百個分、調えておくんなさい。」

と告げ、代金を支払わんと懐中を探ったところが、

「……旦那より急に申しつけられまして、急いで参ったところが……いかん!……代料(だいりょう)を部屋に忘れてしもうて御座る。……なれど、これより取りに帰って、また出直してから再び注文と致いたのでは、これ、饅頭の申し付け、間に合いませぬ。……これより、至急、駆け戻って代料を持参致しますれば、饅頭の支度には、これ、とりかかって下さるまいか?……ただ、それまで、御不審の趣き、これ、ありましょうほどに……そうさ――これを――我らの注文の確かな証拠と致いて、さし置いて参りますれば!……」

と申して、腰に帯びて御座った脇差を店内(みせうち)に置いたによって、主人は、

「――いや、もう。ご近所ご贔屓さまのことにて御座いますれば、それには及びませぬ。」

と返答なした。それでも男は、

「――いや! こればかりは、はっきり致いておかねば、なりますまい! 只今、取りに参りますによって――どうか、担保としてさし置かさせておくんなさい!」

と申すが早いか、脇差を店先に置いたまま、駈け帰ってしまった。

「……まあ、これ、信用してよかろう。」

と、奥に饅頭三百個を至急、製するよう命じた。

 すると、それから間もなくのこと、羽織・袴を着用なされた立派なお侍が、小者の者一人を召し連れ、この菓子屋へ立ち寄った。

 そうして、

「――菓子折りを一つ――申し付けたく存ずる。」

と、その贈答用の菓子折りの寸法や、菓子の種類の注文などの好みを、これ、如何にも仔細に告げたによって、主人、

『これはまた、なかなかの上得意の新客の参ったわい。』

と心得、それぞれ幾つもの菓子をも見せ、値段をも、これ、とり決め、

「菓子折りは、これ、おって後刻(こうこく)、取りに来(こ)さするによっての。――自分は本阿彌三郎兵衛(ほんあみさぶろべえ)と申す。」

と名乗った。それは主人も、刀剣の鑑定士として名前だけは存じておった御仁で御座った。

 ところが、この武士、最前の中間が店に置きおいた脇差を見かけ、

「……こ、これは……如何なる御仁の、所持せるもので御座るか?……」

と訊ねたによって、主人は、

「……これこれの訳にて……中間体(てい)の者が担保としてさし置かれていかれたお品に御座います……」

と委細を述べたところ、本阿彌と名乗った男は、

「――しばし拝見仕る。」

と、主人に断りを入れ、その脇差を抜いて、とくと一覧した後(のち)、ひどく驚いた様子にて、

「……これは!……なかな軽(かろ)き身分の者の所持致ような品には、これ、御座ない!――まっこと、珍しき名物じゃ!……どうじゃ、亭主。……一つ、これをお売り下さらぬか?!」

と、突如、申し入れた。

 されど主人は、

「……と申されましても……これ、預り物にて御座いますれば、そのように致す訳にも、これ、御座いませぬものにて……」

と応じたものの、つい、

「……したが……これ……よほどの高値につきまする、お品にても、御座いまするか?……」

と、恐る恐る訊き返したところ、

「――これならば。……そうさ、手に入れたく思う者ならばこれ、五十両……いや、百両にても出そうという名物じゃて!――二、三十両にて手に入って御座ったならば、それはもう、安過ぎる値(ね)と申そうぞ!」

との答えにて、如何にも残念そうに致いて御座った。

 この三郎兵衛は、それより菓子折りの代金を支払い、その菓子折りを受け取って、たち帰って行った。

 さて、その日の夕暮れになって、最初の中間が戻って参り、

「……あい済まんことに。……饅頭の必要、これ、ご主人さまの都合によって、延引となって御座っての。……」

と、如何にも恐縮して弁解致いた上、かの饅頭の代金は耳を揃えて差し出だし、

「……まことに悪う御座った。――では、かの脇差は、これ、お返し下されい。」

と申した。

 さても、ここで菓子屋主人、ふと欲心を生じ、

「……あのぅ……この、脇差……まことに僭越ながら……私(わたくし)どもへ売って下さいませぬかのぅ?……」

と願い出た。

 すると、

「……これは……在所の親どもが、先祖より伝わったるものなる由にて、我らに譲りくれた品にて御座れば……このような身分にても、手放すことものぅ、持ち参ったる脇差にて御座る。……が……なれど、しかし……どうして、このようなる物を、これ、お求めになろうと思われたか?……」

と訊き返して御座ったによって、

「……私(わたくし)ども、刀剣好事(こうず)の者に御座いましてのぅ。……へぇ。……その……憚りながら――金子ご入用にてあらるるとならば――応分の金子、これ、差し上げとう存じますが……」

と水を向け、さらに先に本阿弥の告げた通り、

「――これ、金子五十両にては――如何で御座いましょうや?」

と申し出たところ、

「……い、い、いや! それはあまりに高値!……とても、これ、話になりませぬ。……五十両もの品にては、これ、御座いませぬ。……いやいや! やっぱり、これ……この話はなかったことに……」

と、なかなか承知せぬ。

 されば、いろいろ押し問答の末、菓子屋主人が、

「――では――三十両ならば、これ、如何で御座いましょう?」

と申したところで、これ、中間、折れた。

「……そうさな……三十両、ならば……」

と、商談の成ったによって、右金子三十両を、その男に手渡し、かの脇差をまんまと菓子屋亭主、受け取って御座った。

 さても翌日のこと、菓子屋主人は朝からうきうき致いて、

「――古今(ここん)無双の掘り出し物を手に致いたわい!」

と、悦び勇んで、本阿弥三郎兵衛が方を手代に調べさせ、自らかの脇差を、これ、うやうやしゅう戴いて、持参致し、

「――なお本名物の儀、これ、とくと詳しく承って、本阿弥殿へお示し致そうぞ。……昨日のご様子から見れば、これ、それこそ、五十両どころか、百両での売り渡し方のお世話もこれ、戴けそうなものじゃて! うひゃひゃ!……そうでのうても、これで名家本阿弥家にも目を掛けられ、ご贔屓に預かるること、これ、必定じゃ! これぞまことの一挙両得、というもんじゃ! うひゃひゃの、ひゃ!」

と、小躍り致いては、やおら、本阿弥三郎兵衛が屋敷へと罷り越し、

「――昨日は菓子折りの御用、これ、仰せつけられ、まことに有り難く存じ上げまする。――つきましてはその折りのことにつき――昨日、ご覧あそばされましたる、当店に御座いましたる腰の物の儀につき、これ一つ、お目にかけとぅ存じまするものの、これ、御座いますればこそ。……」

と、家の者に挨拶致いた。

 ところが、その知らせを伝え聞いた三郎兵衛殿は、これ一向、合点行かぬ体(てい)にて、

「……何?……本郷の菓子屋が参った?……昨日?……いや。みどもは、昨日、菓子折りなんどを本郷辺にて申し付けたことなど、これ、ない。……何? 刀剣の儀、とな?……そうか。……されば、敢えてかく面談を申し込んで参ったとならば、これ、相応の趣きもあるものにては御座ろうほどに。よし。面会致そうぞ。」

と、やがて座敷へとお出ましになられ、かの町人菓子屋主人に対面致いた。

 ところが、菓子屋、挨拶をなして顔を拝んだところが、これ、

――昨日の店で逢ったる三郎兵衛

――では――なかった。……

 されば、菓子屋、大きに驚き、昨日の一件につき、泡食って、こと細かに本阿弥殿に申し上げた。

 すると、本阿弥殿は、

「――何はともあれ、まずは。――その脇差なるもの、これ、一見致そう。」

と、徐ろに、かの脇差を受け取って、抜いて一覧致いたところが、

「――遺憾ながら……これ、一向……とりえも御座らぬ――駄品――にて御座る。」

と断ぜられたと申す。……

 されば、菓子屋主人、

「…………あつはぁ!……さ、さては!……三十金……これ、騙り取られたぁ! あっはぁぁ! ひぇええッツ!……」

と、驚き嘆くも、これ、後の祭り――とのことで、御座った。

耳嚢 巻之十 船駕に不醉奇呪の事

 船駕に不醉奇呪の事

 

 附木(つけぎ)を着坐の下に敷(しき)、又は懷中なせば、不醉(よはざる)事奇妙の由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。民間療法・呪(まじな)いシリーズ。TV番組「メディカルα」の公式サイト内の「乗り物酔いを防ぐクスリ」の江戸時代の駕籠酔い対策”から“宇宙酔い”までによれば、江戸後期の旅行ガイドブック「旅行用心集」に乗り物酔いについても書いてあり、『駕籠に酔う人は、駕籠のすだれを開けて乗りなさい』とあり(これは現在も通用する)、他にも、『南天の葉を駕籠の中に立てて、それをじっと見ていれば酔うことはない』というプラシーボ的なもの、酔って『頭痛がひどくて、気持ち悪くなってしまった人には、生姜の絞り汁を勧めて』おり、『熱湯に生姜の絞り汁を入れて飲めば、気持ち悪さも治まると』ある(これは生姜の健胃整腸効果から見ると正しい)が、船酔いについては、『船が浮かんでいるその川の水を一口飲む』とか、『船着場などの土を少し紙に包み、それを、へその上に当てていれば酔わない』という類感・共感呪術的なものが示されてあって面白い。

・「附木」松や檜の薄い木片の端に硫黄を塗りつけたもの。火を他の物につけ移すのに用いた。硫黄木。火付け木。そんなに大きなものではない。グーグル画像検索「を参照されたい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 船や駕籠に酔わないようにする奇なる呪(まじな)いの事