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2015/03/05

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 大阪城址

M608

図―608

M609

図―609

 

 大阪を訪れる者は必ず、一五八三年に秀吉が建造した有名な城の跡を見るべきである。この廃墟は高地にあるが、その頃としては、この城は殆ど難攻不落であったに違いない。一六一五年、第二回の攻撃に逢って落城し焼かれたのであるが、城壁を構成する巨石の角々がまるくなっているのは、大火の高熱が原因している。私は勝手に歩き廻ることを許され、また自由に写生するのを、誰も制止しなかった。図608は城の最高所で、図609は外壁である。中央にある巨石は長さ三十五フィート、厚さ高さ各々十フィートを越している。これ等の石は五十マイル乃至百マイルの所から舟で運ばれて来たのであるが、その中のある物の巨大さを見ると、どうしてこれを切り出したか見当がつかぬ。更にそれ等を如何様に運搬し、現在廃墟の立っている高地まで如何にして曳き上げたかは、到底判らない。蒸気起重機、水力装置、その他の現代の設備によって、これ等の巨石を据えつけたのではない。而もエジプト人はその二千五百年前、すでに同様の不思議を行っている。日本人の小形な家や庭、可愛らしい皿、彼等の生活に関係のある繊細な物品等に馴れた人にとっては、日本人と巨大な建造物とを結びつけることが困難であるが、而も大阪城は、その城壁の巨人的構造に於て、実に驚異というべきである。京都と大阪の巨鐘、鎌倉と奈良の大仏、大きな石の鳥居、その他大きな建造物の例はすくなくないが、古い城や城壁や、また欧洲で教会堂が他のすべてを圧すると同様に、住宅の上に聳える寺院を除くと、建造物は普通小さくて繊麗である。

[やぶちゃん注:現在の大阪市中央区の大阪城跡である(沿革については後の注も参照されたい)。既に寛文五(一六六五)年の落雷によって天守は焼失、以後幕末に至るまで天守を持たなかったが、慶応四年一月三日(グレゴリオ暦一八六八年一月二十七日)、鳥羽・伏見の戦いの敗北によって大坂城は新政府軍に開け渡され、この前後の混乱の際に出火し、御殿・外堀・幾つかの櫓など、城内の建造物の殆んどが焼失してしまっていた。維新後、新政府は城内敷地を陸軍用地に転用していた(東側の現在の大阪環状線までの広大な敷地には、その後、主に火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられたため、太平洋戦争時は米軍の爆撃目標ともなった。なお、現在の天守閣の復元竣工は戦前の昭和六(一九三一)年のことである。以上はウィキの「大坂城」に拠った。以下の二つの注も同じ)。なお、モースが不思議がっている石垣の切り出しや運搬方法については個人サイト「まつみInternet」の1号室 お城の部屋の左コンテンツの「第4章 石垣にせまる」の「その8 石垣ができるまで」に分かり易く解説されてある。築城のみでなく「石積み文化の歴史」なども詳細を極め、必見である。

「一五八三年に秀吉が建造した」、大阪市にある南北に長い丘陵上町(うえまち)台地のほぼ北端、石山本願寺の跡地に天正一一(一五八三)年に羽柴秀吉が築城を開始、本丸は完成に一年半を要した。

「一六一五年、第二回の攻撃に逢って落城し焼かれた」慶長二〇(一六一五)年の大坂夏の陣で豊臣氏滅亡とともに落城、灰燼に帰したが、元和五(一六一九)年に幕府直轄領(天領)に編入されると、その翌年より第二代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が命ぜられ、凡そ三期に亙る工事を経て寛永六(一六二九)年に再築城された。

「長さ三十五フィート、厚さ高さ各々十フィートを越している」横長一〇・七メートル、縦長及び奥行約三メートル。ウィキの「大坂城」の「遺構」によれば、石垣石には最大で高さ五~六メートルで最大幅十四メートルに達する巨石が数多く使われている、とある。

「これ等の石は五十マイル乃至百マイルの所から舟で運ばれて来た」「五十マイル乃至百マイル」は八十キロ強或いは約百六十一キロメートル。やはりウィキの「大坂城」の「遺構」によれば、『現存する石垣も多くが当時の遺構である。江戸時代の大坂城は、徳川幕府の天下普請によって再築された。石垣石は瀬戸内海の島々(小豆島・犬島・北木島など)や兵庫県の六甲山系(遺跡名:徳川大坂城東六甲採石場)の石切丁場から採石された花崗岩である。また遠くは福岡県行橋市沓尾からも採石された。石垣石には、大名の所有権を明示するためや作業目的など多様な目的で刻印が打刻されている』とある。徳川大坂城東六甲採石場で直線で二十五~三十キロメートル、小豆島で百キロ、北木島で百九十キロ、福岡県行橋市沓尾に至っては四百二十八キロメートルもある。

「エジプト人はその二千五百年前、すでに同様の不思議を行っている」とモースは述べているが、大阪城の石垣石の方が遙かに大きく重い。やはりウィキの「大坂城」の「遺構」によれば、大阪城の石垣石の重量は最大百三十トンと推定されており、エジプト・ギザの大ピラミッドの積石が1個約二・五トン、ピラミッド内部にある花崗岩でさえも約八十トンと言われる。また、イギリス・ストーンヘンジで最大の石でも高さは六・六メートルしかなく重量も四十五トンであると記す。]

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