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2015/03/27

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 懐かしの東大風景と音楽教師ドクター・メーソンのこと

 翌朝我々は東京へ行き、人力車で加賀屋敷へ行った。銀座と日本橋とが、馬車鉄道建設のために掘り返されているので、我々はお城の苑内を通行し、お堀を越したり、また暫くその横を走ったりした。本郷へ来ると何等の変化がないので、悦しかった。角の時計修繕屋、罪の無い奇妙な小人、トントンと魚を刻む男、単調な打音を立てる金箔師、桶屋、麦藁帽子屋――彼等は皆、私が三年近くの前に別れた時と同じように働いていた。加賀屋敷には大変化が起っていた。前にドクタア・マレーが住んでいた家の後には、大学の建物の基礎を準備するために、大きな納屋がいくつか建ててある。ドクタア・マレーの家には大きなL字形がつけ加えられ、この建物は外国の音楽を教える学校になるのである。ボストン市公立学校の老音楽教師ドクタア・メーソンが教師とし雇われて来ているが、彼が今迄にやりとげた仕事は驚異ともいう可きである。彼は若い学生達と献身的に仕事をした結果、すでに信じ難い程度の進歩を示すに至った。外国人は日本の音楽を学ぶのに最大の困難を感じるが、日本の児童は我々の音楽を苦もなく学ぶものらしい。

[やぶちゃん注:日本到着の翌日、明治一五(一八八二)年六月五日。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には次のように書かれてある。

   《引用開始》

 モースは翌六月五日上京した。新橋の駅に降りたったモースは、二年半あまり見ないうちに東京が少しずつではあるが姿を変えはじめていることを実感しただろう。人力車しかなかった衝に鉄道馬車が通ることになり、ちょうどモースが釆た頃には新橋と日本橋のあいだの軌道の施設も終わっていたからである。開業はその月の二十五日、同じ年の十月には日本橋―浅草間も開通している。一方、電灯会社の設立も進められており、デモンストレーションに銀座で二〇〇〇燭光のアーク灯を点灯、真昼のような明るさに驚いた江戸っ子が連夜押しかける騒ぎとなったのも、モースの到着からわずか数箇月後のことだった。演説や講演といえば貸席しかなかったのに、その前年には木挽町に演説集会専用の木造西洋風の大建築、明治会堂が建てられていた。

 徐々にではあるが近代化しはじめた東京の街を、モースはどのような感慨で眺めたのだろうか。[やぶちゃん注:後略。]

   《引用終了》

私は個人的には、モースは恐ろしいスピードで変貌しつつある東京の都市風景に、いわく言い難い違和感と言うか、古き良き美しき日本風景が失われることへの、漠然とした危惧を感じたのではなかったかと考えている。そうした思いをモースはここでは、謂わば自身がここで果してきた職務――文明開化の宣教師(キリスト教嫌いのモースに私は敢えて使う)――として抑えようとしているかに見える。しかし私は「本郷へ来ると何等の変化がないので、悦しかった。角の時計修繕屋、罪の無い奇妙な小人、トントンと魚を刻む男、単調な打音を立てる金箔師、桶屋、麦藁帽子屋――彼等は皆、私が三年近くの前に別れた時と同じように働いていた」(下線やぶちゃん)という描写に、そうしたモースの心の底にある真情が汲み取れるように思うのである。

「ドクタア・マレー」元文部省学監ダヴィッド・マレー(David Murray)。既注。彼は明治一二(一八七九)年に帰米していた。

「罪の無い奇妙な小人」“the curious little dwarf with no chin”。問題は“curious”で、確かに「好奇心をそそるような・珍しい・不思議な・奇異な・変な」という意はあるしかしそれは続く“little dwarf with no chin”という如何にも「奇妙で」「変な」様態(わざわざ“dwarf”を“little”で形容しているのである)には屋上屋である気がするのである。寧ろこれらが、モースが馴染みで親しく好ましい人物の点景であるとすれば(私はそうだと思っている)、まさに「物を知りたがる・好奇心の強い・もの好きな・詮索好きな」と訳したくなる。則ち、辞書的な意味でしか訳せない私にはこれは、「下顎(したあご)のない好奇心旺盛でひどく背の低い小人(こびと)」と訳す以外にはないのである。しかし、それでも、この奇体は、どうにも気になってしまう。……これは、重い障碍を持った者の、家の前を通ったその折りの情景なのだろうか?(私が小学校の頃、通学途中の農家の縁側には、いつも白い綿入れを着た知的障碍を持った少女が日向ぼっこをしながら縫物をしていたのを思い出すのである。彼女は私たちが覗くと「何だよう!」と言って怒ったものだった)……しかし一読、前後が総て店屋の店先から見える職人たちであることから、私は実はこれは、前の「時計修繕屋」で働いている身体に障碍を持った、知的障碍は伴っていない職人の一人なのではないかと推理した。先天性下顎欠損症を合併していた成長ホルモン分泌不全の小人(こびと)症の人物であった可能性である。時計修繕は座業で、こうした障碍者の仕事としては向いている。また、時計職人と知的好奇心の旺盛さというのは、すこぶる相性がよい様に思われるからである。大方の御批判を俟つものではある。

「老音楽教師ドクタア・メーソン」音楽教育のお雇い外国人として文部省音楽取調掛で西洋音楽の指導を行ったアメリカ人ルーサー・ホワイティング・メーソン(Luther Whiting Mason 一八一八年~一八九六年)。ウィキルーサー・ホワイティング・メーソンによれば、『メイン州のターナー生まれ。アメリカ各地で長年音楽の教師を勤めた。おもに独学で音楽教育を確立し、歌の収集を行い、音楽教科書と音楽の掛図を公刊し、音楽教育の革新に成功した。合衆国では主に初等音楽教育の第一人者であった』。一八六四年から一八七九年のボストン滞在時代に、『合衆国に留学していた文部省の伊沢修二に唱歌の指導をしたのが縁となり』、一八八〇(明治十三)年に『明治政府に招聘され日本に渡った。メーソンは文部省音楽取調掛の担当官(御用係)となった伊沢とともに、音楽教員の育成方法や教育プログラムの開発を行った。『小學唱歌集』にも関わった。日本にピアノとバイエルの『ピアノ奏法入門書』を持ち込んだのもメーソンである』。『メーソンは当時音楽取調掛に勤務していた岡倉覚三(天心)とも親しかったという』。『メーソンは日本の西洋音楽教育の基礎を築いたのち』、この明治一五(一八八二)年に日本を離れているが、実は『メーソンは滞在の延長を望んだが、おもに予算の都合でその希望はかなえられなかった』とある。『合衆国に帰国したメーソンは、ヨーロッパ各国を歴訪を4度行い、何百もの楽譜の収集と指導法の視察を行った』。『帰国後も伊沢に書簡を送り、本格的なオーケストラ発展のためには、難かしいオーボエやホルンの演奏家を養成すべきと説いている』とある。盲人の音楽による教育にも熱心であった。明治学院大学機関リポジトリの手代木俊一氏の論文明治と讃美歌:明治期プロテスタント讃美歌・聖歌の諸相に彼の日本での業績が詳述されている。必見。「老音楽教師」とあるが、当時、メーソンは既に六十四歳であった(因みにモースはこの時、四十四歳)。]

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