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2015/03/22

柳田國男 蝸牛考 初版(7) 方言轉訛の誘因

  方言轉訛の誘因

 

 地方語調査事業の學問上の價値が、今まで輕視せられて居た大なる理由は、それが無識裁と誤解と模倣の失敗とのみによつて、亂脈に中央の正しい物言いから離れて言つたかの如く、我も人も思ひ込んで居たことであつたが、それは到底立證することの出來ない甚だ不當なる臆斷であつた。小兒の片言のやうな生理學上の理由があるものでも、「匡正」の必要があるものは打ち棄てゝおいても自分で匡正する。外國語を學ばうとする者は、今まで持ち合さぬ語音までも發しようと試みる。ましてや豫て自分たちに具はつた音韻を以て、自由に知つて居る語を選擇する場合に、眞似ようとして誤つた語に落ちて行く道理がない。要するにこれは眞似なかつたのである。さうしてわが居る各自の群のうちに、通用することを目途としたのであつた。唯前代の群は概ね小さく、又相互の交通は完全でなかつた故に、暫らくの隔離の間に、時として意外な變化を出現せしめるやうな餘地が、今よりははかに多かつたゞけである。音韻の改定は文章音樂の盛んであつた地域に、寧ろ頻々として行はれて居た筈である。故に若し古きに復することが即ち正しきに反する道であるならば、邊鄙の語音こそは却つて心を留め耳を傾くべきものであつたかも知れない。ただ今日の實狀に於ては、その地方差は既に複雜を極め、人ほは中央との往來によつて、次第に自ら法則の煩はしさに倦んで、進んで一つの簡明なるものによつて、統一せられんことを欲して居るのである。所謂標準語の運動の、單に便宜主義のものなることを思はねばならぬ。それと國語史の研究とは、全然無關係なる二つの事柄であり、而うして後者の更に重要なる根本の智慮を供給するものなることは、事新らしく論ずるまでも無いのである。

[やぶちゃん注:「豫て」「かねて」と訓じている。

「眞似ようとして誤つた語に落ちて行く道理がない」底本では「眞似ようとして」が「其似ようとして」となっているが、意味が通らない。改訂版で補正した。

「正しきに反する道」この「反」は恐らく「はん」ではなく「へん」と読んでおり、返るの意である。ただこのままだと「反(はん)する」と誤読されることを惧れたためであろう(実際、私はこれを「はんする」と読んで意味がいおかしいと感じて「へん」と読んでいるのだと確信した)、改訂版では『歸する道』と変えられている。]

 

 微々たる一個の蝸牛の名稱からでも、若し我々が觀察の勞を厭はなかつたならば、尚國語の地方的變化の、由つて起るべかりし根抵を見つけ出すことが出來る。それを一言でいふならば古きを新たにせんとする心持、即ち國語の時代的變化を誘うた力が、個々の小さな群や集落に於ても、割據して又働いて居たことである。或は若干の空想を加味すれば、言語も亦他の人間の器械什具と同じやうに、一定の使用囘數を過ぎると、次第に鈍り且つ不精確になるものであつたと言ふことが出來るかも知らぬ。さうして兒童の群は又花柳界などゝ同じく、殊に短期間の言語使用度が激しい群であった。それ故に一旦彼等の管轄に委ねられた言語は、物々しい法廷教壇等の辭令に比して、一層迅速なる代謝を見たのかとも思はれる。實例の三四を順序立てて擧げてみると、千葉縣では海上郡の一部分に、蝸牛の名をヲバヲバといふ方言があるが、それは疑ひも無く次の蝸牛童詞から出たものであった(海上郡誌一二〇八頁)。

   をばをば

   をばら家が燒けるから

   棒もつて出て來い

   槍もつて出て來い

 ところがこの伯母の家の出火なるものは、往々蝸牛を誘ひ出さうとする策略として、他の府縣の小兒にも用ゐられて居る口實であつた。獨り蝸牛ばかりで無く、夕方空を通る烏なども、しばしばこの報告をもつて欺かれんとして居たことは、以前人間が伯母の家を大切にし、何はさしおいてもその災厄を救援しに往つた名殘とも考えへられる。察するところ是も前には一句マイマイツブロを呼びかける語があつたのを、後には伯母々々をまづ唱へたために、それが蝸牛の名である如くに、解する者を生じたのが元であらう。實際又此地方で、今日ヲバというのは次女三女などの、若い娘のことであつた。それ故に蝸牛をヲバヲバといふことが、殊にをかしく感じられたのである。

[やぶちゃん注:日本文化藝術財団のブログ「四季おりおり -日本歌謡物語-」の「第二十回 だいぼろつぼろ(蝸牛)」には、茨城の古河地方の童謡として、

   だいぼろ つぼろ

   おばけの山 焼けるから

   早く起きて 水かけろ

   水かけろ

という、明らかにここに示されたものの激しく変型したものが紹介されていて興味深い。また同記事には、

   蝸牛(かたつぶり)

   蝸牛

   銭(ぜに)百呉(け)えら

   角コ出して

   見せれ見せれ

という秋田のそれ、東京・千葉・神奈川のそれとして、

   まいまいつぶろ

   湯屋で喧嘩があるから

   角出せ槍出せ

   鋏み箱出しゃれ

を載せ、また、鹿児島の、

   でくらでくら

   角出して踊らんと

   向えの岸岩坊(きしがんぼう)が

   蛇を追て来(こ)

が、更に福島・茨城のものとして、

   まいまいつぶろ

   小田山焼けるから

   角出してみせろ

挙げられてあるものは、この「蝸牛考」の次の次の段落に紹介されるものと相同で、この後に千葉のものとして掲げられている、

   おばおば

   おばら家が焼けるから

   棒もってこい

   槍持って出てこい

というのが、この段のものとほぼ同じである。愛媛のそれでは、

   カタタン

   カタタン

   角出しゃれ

   爺(じい)も婆(ばあ)も焼けるぞ

   早う出て水かけろ

という、残酷系の歌詞も紹介されてある。「蝸牛考」に出ない多くの童謡が示されてあるので網羅的引用させて貰ったが、表記の一部は本書の「童詞」に合わせて一部変更してある。

「什具」は「じふぐ(じゅうぐ)」で、日常に使う道具や家具・道具類のこと。什器。

「海上郡」千葉県(旧下総国)にあった郡。現在の銚子市の大部分(富川町・森戸町以北を除く)と旭市の大部分(秋田・萬力・米込・入野・関戸・萬歳以北を除き、更に井戸野・川口・泉川・駒込・大塚原・鎌数・新町を除く)が相当した(ウィキの「海上郡」に拠る)。

「ヲバヲバ」後の「をばをば」もそうであるが、ちくま文庫版はこれを「オバオバ」「おばおば」と、本文に合わせて現代仮名遣化してしまっている。これははっきり言って致命的な改悪である。ここは、それこそ本文で柳田が肝要と考えているところの、古き方言の形(発音)を活字として保存すべき箇所で、それを致命的に変えてしまった完全な誤りだからである。

「夕方空を通る烏なども、しばしばこの報告をもつて欺かれんとして居た」このような童唄は見出し得なかった。識者の御教授を乞う。]

 

 次には山梨縣の北巨摩郡、古來逸見筋と稱する一小區域に、蝸牛をジツトーと呼ぶ方言が行はれて居る。他には一つも類例の無い語で、一見する所は殆ど其由來を知るに苦しむが、これも土地の人ならば簡單に説明し得ることゝ思はれる。即ち是をまたヂットウバットウとも謂ふ者のあるのを見れば、ここには蝸牛の童詞に「爺と婆と」といふ始の句を有つものがあって、それを直ちに此蟲の名にして居たらしいのである。爺婆の名を以て知らるゝ物で、最も有名なのは春蘭の花がある。それから土筆や菫などにも、或は此名があつたかと思ふが、大抵は兩々相對するものに向つていふ戲れの言葉であつた。逸見筋の蝸牛の歌はまだ聞いては見ないが、多分あの二つの角を出したり引込めたりすることが、それに近い文句を唱へさせて居たものと思ふ。

[やぶちゃん注:「北巨摩郡」山梨県の旧郡。現在の韮崎市・北杜市・甲斐市の一部(下今井・龍地(りゅうじ)・大垈(おおぬた)・團子新居(だんごあらい)以西)に相当する(ウィキの「北巨摩郡」に拠る)。

「逸見筋」「へんみすぢ(へんみすじ)」と読む。これは近世の甲斐国に於ける同国内の地域区分・領域編成単位であった「九筋二領(くすじにりょう)」の一つである。ウィキの「九筋二領」によれば、『「九筋」は甲府盆地から甲斐北西部の国中地域における区分で、栗原筋・万力筋・大石和筋・小石和筋・中郡筋・北山筋・逸見筋・武川筋・西郡筋を指す(『甲斐国志』に拠る)。「二領」は甲斐南部の富士川沿岸地域の河内領と甲斐東部の郡内領を意味する』。『律令制下の国郡制において甲斐国は甲府盆地の山梨郡・八代郡・巨摩郡、郡内地方の都留郡の四郡が成立し、中世には甲府盆地において東郡・中郡・西郡の三区分による地域呼称が用いられる。東郡は笛吹川以東地域、西郡は釜無川以西地域、中郡は釜無以西・笛吹以東地域を指した』。『戦国期には西郡のうち甲斐北西部の巨摩郡北部(旧北巨摩郡域)が「逸見」と区別され四区分となり、それぞれ「筋」を付けて』、「~郡筋」と呼ばれる。天正一七(一五八九)年には『関東郡代伊奈忠次(熊蔵)による五カ国総検地が実施され、これによって九筋の区分が設定される。近世に確立した九筋においては戦国期の四区分を基盤に、東郡が栗原筋・万力筋・大石和筋・小石和筋にあたり、中郡は北山筋・中郡筋、西郡は西郡筋、逸見は逸見筋・武川筋に分割されて九筋の地域区分が確立』した。この『逸見筋は八ヶ岳からの湧水により甲斐国第一の米生産地域であった。 この地域には、以下の地域が含まれていたとされる』とあって、釜無川以東の現在の韮崎市と北杜市の明野・須玉・高根・長坂・大泉・小淵沢・白州花水(はくしゅうはなみず)の各地区が挙げられてある。

「ジツトー」改訂版では「ジットウ」と大幅に表記法が変更されている。しかも「ここには蝸牛の童詞に「爺と婆と」といふ始の句を有つものがあって、それを直ちに此蟲の名にして居たらしいのである。」の最後が、『ここには蝸牛の童詞に「爺と婆と」といふ始の句を有つものがあって、それを直ちに此蟲の名にして居たことは確かである。』と変更しているから、高い確率でこの改訂版との間に於いて、柳田は何らかの断し得る情報を得ていたものと思われる(次の注も参照のこと)。

『蝸牛の童詞に「爺と婆と」といふ始の句を有つものがあって』文脈上からはこの謂いは、その「北巨摩郡、古來逸見筋と稱する一小區域」で「蝸牛をジツトーと呼ぶ方言が行はれて居る」地域に伝わる童唄と読める(としか読めない)。前段の注で紹介した童唄の中に、愛媛のそれとして、

   カタタン

   カタタン

   角出しゃれ

   爺(じい)も婆(ばあ)も焼けるぞ

   早う出て水かけろ

というのがあった。柳田はここで唄を紹介していないのが如何にも惜しまれる。

「爺婆の名を以て知らるゝ物で、最も有名なのは春蘭の花がある」単子葉植物綱クサスギカズラ目ラン科セッコク亜科シュンラン連 Cymbidiinae 亜連 シュンラン Cymbidium goeringii の別名ジジババ(爺婆)。ウィキの「シュンラン」には『一説には、ジジババというのは蕊柱を男性器に、唇弁を女性器になぞらえ、一つの花に両方が備わっていることからついたものとも言われる』とある。

「土筆や菫などにも、或は此名があつたかと思ふ」孰れも不詳。識者の御教授を乞う。土筆では古くは手間のかかる袴取りとアク抜きが家族の中でも爺婆の仕事であったという記載は見かけ、また、双子葉植物綱キンポウゲ目キンポウゲ科オキナグサ Pulsatilla cernua を「ジジババ」と呼んでいたという記載もあった。]

 

 方言は大よそ此の如く、もとは少しも世間を構はずに、入用なる群ばかりで作り出して居たものであつた。それが面白ければ第二の土地に採擇せられ、次々に彼等の元からもつものを棄てさせたのであつたが、成功しなかつた例は勿論非常に多かつた。しかも其發生地に在つて當座の力をもつことは、堂々たる儀禮公事の語も異なる所はない。それを悉く本貫より携え來り、乃至は中央から勸請したものゝ如く、考へてかゝるのは無理であつた。是も千葉縣であるが海上郡などの一部に、蝸牛をタツボと謂つて居る土地がある。タツボは本來田螺のことであるから、是を樹上の貝類に付與することは、甚だしき無智又は錯誤とも評し得られる。併し徐ろにさうなつて來た順序を考へてみると、是は兒童がマイマイツブロの歌をいつの頃よりか「まいまいたつぼ」と歌い改めて居た結果であつて、その證據には現にさういふ文句もあの地方に行はれて居り、又山武郡では蝸牛をメエメエタツボと呼ぶ方言も採集せられて居る。さうして實際又蝸牛はマイマイのあるタツボに相違なかつたのである。それよりも尚弘い地域に亙つての變化は、利根川水域のことに左岸一帶に於いて、蝸牛をメエボロと呼び習はす方言である。是も如何にして斯んな語が起つたかは、土地に行われて居る童言葉を、聽いたばかりでも直ぐに諒解し得る。常陸新治郡の蝸牛の唄には、

   まいまいつぼろ

   小田山燒けるから

   角出して見せろ

というのがあるそうだが(郷土研究二卷三卷)、是は小田山の附近に住む子供だけらしく、それから南の他の村々では、大抵は「伯母とこ燒けるから」と言つて居る。さうして其「まいまいつぶろ」を、しやれて又「めいぼろつぼろ」と唱へる子供も多かつたのである。自分は今から四十年ほど前に、久しくあの地方に住んで居た者だが、其頃の記憶でも「めいぼろつぼろ」と言つた者と、「めいめいつぼろ」と言つた者とが兩方あつて、殆ど一人一人の考へ次第のやうなものであつた。從つてかの蟲をマイマイツブロと呼ぶ方言も無論通用したが、大勢は當時既にメェボロの方に傾いて居た。多分は此方ならば只四言で間に合つたといふことが、珍らしく又氣が利いて致いたのであらう。茨城縣方言集覽・稻敷郡方言集、其他かの方面の採集書を比較してみると、案外にこの變化の行はれた區域は弘く、しかもそれが一地毎に少しづゝ違つて居るのであつた。

   メメチヤブロ        下總東葛飾郡

   メエボロツボロ、メエボロ等 同 北相馬郡、常陸稻敷郡

   マエボチツボロ、メーポロ等 常陸稻敷郡

   マイマイツボロ、マイボロ  同 久慈郡

   ネエボロ、ナイボロ等    同 眞壁郡、下總結城郡

   ナイボロ、ダイボロ     下總猿島郡

   ネアーボロツボロ      下野芳賀郡一部

   ダイボロ、デエボロ     同郡及河内郡一部

[やぶちゃん注:「山武郡」「さんぶぐん」と読み、現在も千葉県に存在する郡であるが、この当時は、東金市・山武市・九十九里町、芝山町の全域、大網白里市の大部分(清水を除く)、千葉市の一部(緑区越智町・高津戸町・下大和田町以南及び大高町の一部)、横芝光町の一部(栗山川以西)を含む広域であったので注意が必要である。

「メエメエタツボ」改訂版では『メェメェタツボ』。

「新治郡」「にいはりぐん」と読む。近代、茨城県(常陸国)にあった郡(但し、江戸以前の群とは領域を全く異にするので注意)。当時は、石岡市の全域・かすみがうら市の全域・土浦市の大部分(概ね上高津・下高津・富士崎・小松・滝田以南と、大志戸・小高・小野・東城寺・永井・本郷を除く)・つくば市の一部(大角豆(ささぎ)・倉掛・花室(はなむろ)・妻木(さいき)・栗原・玉取(たまとり)・大曽根(おおぞね)・篠崎・長高野(おさごうや)・前野・大穂・佐(さ)・若森より南東と、苅間(かりま)・葛城根崎(かつらぎねさき)・東平塚・西平塚・下平塚・西大橋・新井・大白硲(おおじらはざま)・平(たいら)・柳橋・山中・島・西岡・小白硲(こじらはざま)・原)・小美玉(おみたま)市の一部(概ね園部川以西)が郡域であった(以上はウィキの「新治郡」などに拠った)。

「小田山」筑波山から南東に連なる筑波連山の支峰の一つで、茨城県つくば市と土浦市との境に位置する標高四六一メートルの宝篋山(宝鏡山)(ほうきょうさん)の地元での呼称。以上はウィキの「宝篋山」に拠ったが、それを見るとこの山の南西麓にある小田城(鎌倉期から戦国期まで小田氏の居城)に関連する城郭跡に由来する呼称らしい。

「從つてかの蟲をマイマイツブロと呼ぶ方言も無論通用したが、大勢は當時既にメェボロの方に傾いて居た」この箇所は改訂版では『從つてかの蟲をメェメェツブロと呼ぶ方言も無論通用したが、大勢は當時既にメェボロの方に傾いて居た』と書き換えられてある。

「四言」ちくま文庫では『よこと』とルビがある。

「茨城縣方言集覽」茨城教育協会編で明治三七(一九〇四)年刊。国立国会図書館近代デジタルラブラリーのこちらで読める。

「稻敷郡方言集」稻敷(いなしき)郡教員集会編で明治三五(一九〇二)年刊。稲敷郡は茨城県に現存する郡であるが、当時は牛久市の全域・龍ケ崎市の大部分(川原代町(かわらしろまち)・長沖新田町(ながおきしんでんまち)・須藤堀町(すとうほりまち)以南を除く)・稲敷市の大部分(清久島(せいきゅうじま)・橋向(はしむこう)・佐原組新田・手賀組新田・八千石(はっせんごく)・上之島(かみのしま)・本新(もとしん)以南を除く)・土浦市の一部(荒川沖・沖新田・荒川沖西・荒川沖東・中荒川沖町(なかあらかわおきまち)・北荒川沖町)・つくば市の一部(樋の沢(ひのさわ)・西大井・牧園(まきぞの)・高野台(こうやだい)・鷹野原・中山・若葉・若栗以南)・阿見町(あみまち)の全域・美浦村の全域・河内町(かわちまち)の一部(長竿(ながさお)・田川以西)・千葉県印旛(いんば)郡栄町(さかえまち)の一部(生板鍋子新田(まないたなべこしんでん)・龍ケ崎町歩(りゅうがさきちょうぶ))に相当する広域であったので注意が必要(以上はウィキの「稲敷郡」他に拠った)。

「メメチヤブロ」改訂版では『メメチャブロ』。

「下總東葛飾郡」千葉県にあった郡。当時の群域は市川市・松戸市・野田市・流山市・浦安市の全域・鎌ケ谷市の大部分(軽井沢を除く)・船橋市の一部・柏市の一部・埼玉県幸手(さって)市の一部・茨城県猿島郡五霞町(ごかまち)の一部であった(ウィキの「東葛飾郡」に拠る)。

「メエボロツボロ、メエボロ」改訂版では『メェボロツボロ、メェボロ』。

「同 北相馬郡」茨城県に現存する郡であるが、当時の群域は現存の北相馬郡利根町・守谷市全域・取手市のほぼ全域・常総市の一部・つくばみらい市の一部・龍ケ崎市(一部)に当たる(ウィキの「北相馬郡」に拠る)。

「メーポロ」改訂版では『メェボロ』。

「同 久慈郡」茨城県に現存する郡であるが、当時の群域は常陸太田市の全域・日立市の一部・常陸大宮市の一部に相当する(ウィキの「久慈郡」に拠る)。

「ネエボロ」改訂版では『ネェボロ』。

「同 眞壁郡」茨城県にあった旧郡。筑西(ちくせい)市の全域・下妻(しもつま)市の一部・桜川市の一部・結城郡八千代町(やちよまち)に相当する(ウィキの「真壁郡」に拠る)。

「下總結城郡」茨城県に現存する郡であるが、当時は結城市全域と古河市のごく一部及び結城郡八千代町(東部と南部のごく一部を除く全域)が含まれた(ウィキの「結城郡」に拠る)。

「下總猿島郡」「さしまぐん」と読む。茨城県に現存する郡であるが、当時は坂東市全域・古河市の一部・猿島郡境町全域が含まれた(ウィキの「猿島郡」に拠る)。

「ネアーボロツボロ」改訂版では『ネァーボロツボロ』。

「下野芳賀郡」栃木県に現存する郡であるが、当時は真岡市・宇都宮市(桑島町を除く鬼怒川以東)で、後には宇都宮市桑島町も当郡域に加わっている(ウィキの「芳賀郡」に拠る)。

「デエボロ」改訂版では『デェボロ』。

「河内郡」「かはちぐん(かわちぐん)」と読む。栃木県に現存する郡であるが、当時は宇都宮市(鬼怒川以西及び桑島町)・日光市の一部・下野市一部と鹿沼市古賀志町で、後に宇都宮市桑島町が編入されている(ウィキの「河内郡」に拠る)。]

 

 この最後の二つの郡は、北と西との兩面に於て、前に述べたるダイロの領域と接して居る故に、爰に始めてダイボロといふが如き、中間の形を發生せしめたのみならず、更に他の一方にはそれとマイボロ地方との觸接面に、ナイボロ、ネェボロといふ變化をさへ引起して居るのである。俚謠集拾遺には又栃木縣の童詞として、

   えーぼろつぼろ

   角出して見せぬと

   臍くそぐつと

といふ一章を載せて居る。何れの村かは知らぬが、又エーボロといふ例もあつたのである。私が是を方言の邊境現象と名けた、用語の當不當は別として、少なくとも個々の田舍の一つの方言を拔き出して、轉訛の問題を論ずることの出來ぬだけは、是でもはや明白になつたことゝと思ふ。

[やぶちゃん注:「俚謠集拾遺」文部省文芸委員会編大正三(一九一四)年刊。

「臍くそぐつと」不詳。「くそぐ」は取るの意か? 栃木弁に詳しい識者の御教授を乞う。

「個々の田舍の一つの方言を拔き出して、轉訛の問題を論ずることの出來ぬ」これは単独のある地方の単なる訛りとして処理出来ない、接触する方言という有機的な中間型が発生するということを述べているように私は読む。]

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