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2015/03/26

耳嚢 巻之十 安藤家重器茶碗の事

 安藤家重器茶碗の事

 

 安藤右次衞門方に、先祖次右衞門大坂御陣の時深手を負(おひ)候間、赤繪の茶碗に藥湯(やくたう)を入(いれ)、御手自(づから)賜(たまはり)候由。右は朝鮮王より太閤秀吉へ三つ遣りし、其一品にて、其後太閤より被進(しんぜられ)候器にや、其銘に曰(いはく)、〔赤繪染付なり〕

  十年窓下無人問   一擧成名知天下

 右次右衞門家に、重器とて持傳(もちつた)へし、蟲干の節見しと、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:物品譚で軽く連関。茶事に興味のなければ、語るも、検索するも、これ、意欲なし。悪しからず。

・「安藤右次衞門」底本の鈴木氏注に、『次右衛門の誤。正武。同家は代々次右衛門を称す。二千五百石。先祖次右衛門正次は大坂冬の陣後大坂城の外堀を埋める工事の奉行をし、夏の陣には旗奉行として出陣、前田利常、本多康紀の陣に軍令を伝えるために赴き、敵数十騎と戦い首級を得、なお深く進んで負傷し、家康自ら秀吉下賜の茶碗で茶を立ててねぎらった。茶碗の銘は太閤の武威を称した句。以上は寛政譜に記すところであるが、茶碗を賜わったとは記してない。なおこの傷によって正次は没した。五十一』とある。ウィキの「安藤正次(旗本)」によれば、安藤正次(永禄八(一五六五)年~元和元(一六一五)年)は三河安藤氏の分家の阿久和安藤氏。始祖の安藤定次の子で次右衛門尉、禄高二千石。父が慶長五(一六〇〇)年の伏見城の戦いで戦死し、家督を継ぎ、元和元年の大坂夏の陣に徳川秀忠に属し、御旗奉行(戦場にて旗指物の管理を行う役)を務めた。五月七日、大坂城落城の直前に秀忠の使者として前田利常及び本多康紀両軍に敵陣への攻撃を伝えたが、その際、数騎の敵と遭遇、単身で戦って敵方の首級を挙げたものの、自らも深傷を負って家臣に助けられて本陣に戻り、秀忠から高名したと賞賛された。宿所の平野郷願正寺にて傷の療養をしていたが、再起不能と悟って自刃した。享年五十一。墓所は大阪市平野区の樋尻口地蔵堂向かいにある、とある。名は訳では訂した。

・「朝鮮王」当時の朝鮮王は李氏朝鮮時代(但し、中国王朝の冊封(さくほう)体制下)の第十四代国王宣祖(ソンジョ/せんそ 一五五二年~一六〇八年)。この茶器は天正一八(一五九〇)年に豊臣秀吉に派遣された通信使(十二月三日に秀吉に謁見)の折りにもたらされたものか? 因みに、この時の朝鮮通信使は名目上は秀吉の日本統一を祝賀することを目的としつつも、実際には朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめるために派遣されたものであった。

・「赤繪」赤を主調として緑・紫・青などの顔料で上絵付けをした陶磁器。中国では宋代から見られ,日本では正保年間(一六四四年~一六四八年)に柿右衛門が取り入れて同時期に九谷でも行われるようになった。

・「十年窓下無人問 一擧成名知天下」は、元の劉祁(りゅうき)の元が亡ぼした金史を綴った史書「帰潜志」が出典。

 

 十年 窓下(さうか) 人の問ふなし

 一擧 名を成し 天下知る

 

と一般には読むようだ。

――苦学すること十年を経たが、誰(たれ)独りとして立ち止まって私を振り返り声をかけて呉れた人はいなかった。しかし、かく一たび功を成したれば、瞬く間に天下これ皆、我が名を知り尽くす――といった意味であろう。但し、原典通りならば、

 

十年窗下無人問。一舉成名天下知。

 (十年するに窗下(さうか)、人の問ふ無し。一舉(いつこ)して名を成し、天下、知る。)

 

が正しい(訓読は野狐禅風我流)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 安藤家御家宝の重器茶碗の事

 

 安藤次右衛門(じえもん)殿が方に、先祖次右衛門殿が大坂夏の陣の時、深手を負われたところが、畏れ多くも、大御所様御自身、これ、手ずから、赤絵(あかえ)の茶碗に薬湯(やくとう)をお入れ遊ばされて賜わられたと申す、これ、いわくつきの名茶器にて御座る由。

 これは、かの朝鮮王より太閤秀吉へ三つ贈られた内の、その一品にして、その後(のち)、太閤より大御所様へ進ぜられたる茶器なる由。

 その銘に曰く――赤絵にて、茶器そのものに染め付けられたものである――

 

  十年窓下無人問   一挙成名知天下

 

「……これ、次右衛門家に、家宝の重器として持ち伝えたるものにして、虫干しの折りに、拙者、管見致いて御座った。……」

とは、とある御仁の畏れ入って語っておられたことにて御座る。

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