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2015/03/03

耳嚢 巻之十 天狗になりしといふ奇談の事

 天狗になりしといふ奇談の事

 

 □□の頃信州松本の領主の藩中に、高(たか)貮百石とつて物頭(ものがしら)を勤めたりし萱野(かやの)五郎太夫と云(いふ)有(あり)し。武藝も相應に心懸(こころがけ)、少しは和漢の書にもたづさわりて萬事物堅く、されど常に我を慢(まん)ずる心有(あり)けり。或年の正月、何か大半切桶(おほはんぎりをけ)新(あらた)にゆひ、幾日の晝頃に出來候樣にと、嚴敷(きびしく)僕(しもべ)に言付(いひつけ)たり。何になる事にやといぶかりながら、調出來(ととのへでき)たりとて、新敷(あたらしき)莚拾枚を調(ととのへ)、餠米四斗入(いり)三俵を赤飯にこしらひ、十枚の莚を座敷へ敷(しか)せ彼(かの)半切桶をすゑ、其中へ右の赤飯を盛入(もりいれ)、日の暮を待(まち)て、其身は沐浴して服を改(あらため)、麻上下(あさかみしも)を着、家内を退(しりぞけ)、無刀にて彼(かの)一間にとぢ籠れり。家内にては、若(もし)亂心にやと氣遣ひけれど、餘事(よじ)は言行ともに少(すこし)も違ひたる事もなく、殊更に無刀の事なれば言(いふ)に任せたり。其夜半頃と覺しきに、何さま人數(にんず)三四十人も來りしけわひ足音也(なり)しが、さらに物言(ものいふ)聲は聞へず、曉頃にはひつそりとなりて音もせず。兎角する内夜も明ければ、何の音もなく靜まりかへりて有(あり)ける故、こわごわに襖を少し明(あけ)て覗き見るに物かげもなく、赤飯は一粒もなし。剰(あまつさえ)五郎太夫も見へざれば、爰かしこさがせども更に行方(ゆくゑ)しらず。家内大きにおどろき、同藩中に久米兵太夫と云(いへ)るは、五郎太夫の從弟違(いとこちがひ)にて有けるを早速呼寄(よびよせ)、彼是と評議するに、いかゞともせんすべなし。しからば席も此儘にて、目付へ屆(とどけ)、見分致(いたし)候方と評議して、大目付目付方へ屆ければ、早速兩役立越(たちこえ)、見分すれど何といふわけもしれず、其段有(あり)のま々に領主へ訴(うつたへ)けり。常々出精(しゆつせい)に勤(つとめ)、貞實の者、不埒(ふらち)にて出奔といふにもあらず、又主人に對(たいし)立退(たちのき)たると云(いふ)にもあらねども、故なく行衞(ゆくゑ)しれざる上は是非もなき事なり、依(よつ)て家名は斷絶、乍去(さりながら)代々の舊功に寄(より)、悴儀新規に呼出(よびいだ)し、元の如くの食祿にて召仕(めしつかは)れしと也。翌年正月、床の間に誰(たれ)置(おく)ともなき書狀一通有(あり)。取(とり)て見れば五郎太夫の手跡(しゆせき)にて、何事も不書(かかず)、我等事當時愛宕山(あたごやま)に住(すみ)て、完戸シセンと申(まうす)也。左樣に可心得(ここうべし)と有(あり)て、尚々書(かく)に、廿四日には必々(かならずかならず)酒をのむ間數(まじく)候と書(かき)て有(あり)しが、其後は何の替りたる事もなかりしとなり。其年領主は故有(あり)て家名斷絶せし也。かの久米兵太夫も其時浪人となり、其子兵太夫、青山家に仕へたり。其子兵太夫成(なる)者の物語なり。シセンの文字忘れたりと言(いひ)し。常時正月廿四日禁酒すれば、火災を除くと言(いふ)事有(あり)。此頃より初(はじま)りし事にや、如何(いかが)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪異奇譚連関。しかしどうもこれ、作中の最後に出る松本藩第六代藩主水野忠恒の乱心を事件をベースに、創作された噂話のように私には感じられる(底本が敢えて冒頭の「享保」を意識的欠字としているのも、かえってそうした作為が見え透いていると私は思う)。乱心の末に若死にした悲劇的な「慢心」大名の事蹟としては、悪い話ではない。五郎太夫という「慢心」男を出して、忠恒のトリック・スターとすることで、乱心藩主をポジティヴに捉え直させる契機が仕掛けられてあるように思うのである。旧藩主への思いがそれなりにあった可能性のある、後に浪人したという久米兵太夫自身が案外、震源元なのかも知れない。

・「□□の頃」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『享保の頃』と出る。西暦一七一六年から一七三六年。訳は享保を採った。

・「松本の領主」松本藩。当時、譜代大名水野氏七万石。後の叙述から第六代藩主水野忠恒であることが分かる(後注参照)。

・「物頭」足軽大将。弓組・鉄砲組などの足軽の頭。組頭。足軽頭。藩によって呼称が微妙に異なったらしい。

・「大半切桶(だいはんぎりをけ)」の内「はんぎり」の読みは底本の編者ルビで出る。「半切桶」は単に「半切り」「はんぎれ」とも言い、また「半桶」「盤切」などとも書く。盥(たらい)状の浅くて広い桶。食料を入れたり、道具を洗うなどいろいろな用途に使われ、容量は百四十~三百六十リットルが一般的。

・「赤飯四斗入三俵」七十二・一五六リットル×3=二百十六・四六八リットル。

・「剰(あまつさえ)」は底本の編者ルビ。

・「從弟違」父母が従姉弟同士である人の、その人の子同士。

・「ま々」底本のママ。

・「愛宕山」「あたごさん」とも読む。現在の京都府京都市右京区の北西部、山城国と丹波国の国境にある山。標高九百二十四メートル。ウィキの「愛宕山」によれば、『京都盆地の西北にそびえ、京都盆地東北の比叡山と並び古くより信仰対象の山とされた。神護寺などの寺社が愛宕山系の高雄山にある。山頂には愛宕神社があり、古来より火伏せの神様として京都の住民の信仰を集め、全国各地にも広がっている』とある。この愛宕権現の信仰は同じくウィキの「愛宕権現」から引くと、『愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号であり、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏とする。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、愛宕山白雲寺から勧請されて全国の愛宕社で祀られ』ていた。『愛宕修験では天狗信仰が盛んだったため、愛宕太郎坊天狗も祀った。藤原頼長の日記『台記』にも愛宕山の天狗信仰に関する記載がみられ』、『若宮を太郎坊大権現と称してカグツチをイザナミの第五皇子であるとしその化身が愛宕太郎坊であるとされた。(第五とするのは日本書紀の記述より天照、月読、蛭児、素戔鳴の順でその次の弟とされる為)また、神武天皇が長脛彦』(ながすねひこ)『を撃破した際、現れた金鵄もまたカグツチの化身であるとされた。なお東京都港区の愛宕神社(東京都港区)では、愛宕太郎坊は猿田彦の化身とされている。塞神信仰や陰陽道の影響から、愛宕山は平安京の北西(乾)に位置する守護神ともされた』。また、『塞神信仰から、愛宕山は京の火難除けや盗難除けの神として信仰されたが、愛宕修験によって阿当護神と本尊の勝軍地蔵が習合して火防せの神である愛宕権現として日本全国に信仰が広ま』り、『愛宕山白雲寺の参拝者は祈祷を受け、お札や火伏せの神花である樒(しきみ)を受領した』。『お札は「愛宕山大権現守護所」と書かれた朱札と、声聞地蔵・毘沙門天・不動明王を描いた「三尊図像」の二種をセットにしたもので、各坊の名を印刷した包紙に包んで渡された』とあり、「その他」の項には、一種の御霊(ごりょう)として『安元の大火は太郎焼亡とも呼ばれたが「太郎」は愛宕太郎坊天狗に由来』し、『当時は天狗が大火を引き起こすとの俗信があった』と記す。本話で最後に火難除けの話が出るのはそれによる。

・「完戸シセン」カリフォルニア大学バークレー校版では『宍戸(ししど)シセン』と出る。これは「宍戸」の誤写である可能性が深く疑われるが、しかし、魔王や天狗の名は通常の読み方や表記をしない方が普通であるから、これを単なる誤字とすることは出来ない。ここでもこのまま「完戸」で「かんど」と読んでおく。

・「猶々書」岩波の長谷川氏注に、『追伸』とある。

・「廿四日」岩波の長谷川氏注に、『愛宕権現の縁日』とある。ウィキの「愛宕神社によれば、鎮火祭四月二十四日とあるが、不思議なことに愛宕神社公式サイトの「祭典行事」にはその記載はない。この鎮火祭は内々で行われる秘儀なのであろうか? 識者の御教授を乞う。

・「其年領主は故有て家名斷絶せし也」「領主」は当時の松本藩第六代藩主水野忠恒(元禄一四(一七〇一)年~元文四(一七三九)年)のこと。以下、ウィキの「水野忠恒」より引くと、『江戸日本橋浜町邸で生まれる。幼名は為千代。嫡男ではなかったため、日頃から酒色に耽っており、みだりに弓矢を射ったり鉄砲を撃つなどの奇行がたびたび見られたという。ところが』享保八(一七二三)年満二十二歳の時、『兄の水野忠幹が嗣子なく没したため、遺言により松本藩主に就任した。藩主になってからも相変わらず酒に溺れて狩猟ばかりし、藩政は家臣任せだったという』。享保一〇(一七二五)年、『大垣藩主戸田氏長の養女(戸田氏定の娘)を娶り、その祝言を行なった翌日の』七月二十八日、『征夷大将軍徳川吉宗に婚儀報告をするため江戸城に登城して報告を済ませる。その後、松の廊下ですれ違った長府藩世子の毛利師就』(もろなり 当時十九歳で鞘刀で応戦し負傷はしていない模様。正当防衛によりお咎めなし)『に対して刃傷沙汰を起こしてしまう。忠恒は不行跡が多く、家臣に人気がないので、自分の領地が取り上げられて師就に与えられることになると思ったので切りつけたと供述したが、実際にはそのような事実は無く、乱心したとされた忠恒はその罪で改易となり、川越藩に預けられた後、叔父の水野忠穀』(ただよし)『の浜町の屋敷に蟄居し、そこで没した。』享年三十九。分家の若年寄水野忠定の取り成しによって同年八月二十七日、忠穀に信濃国佐久郡七千石(高野町知行所)が与えられて家名は存続し、しかも忠穀の嫡男忠友の代には大名に返り咲いており、この折り、四代藩主水野忠周の弟忠照にも佐久郡二千石(根々井知行所)が与えられている、とある。

・「靑山家」底本の鈴木氏注に、『丹波亀山五万石青山伯耆守、或いは丹後宮津四万八千石青山大膳亮』とある。

・「正月廿四日禁酒すれば、火災を除く」このような言い伝えは少なくとも私は耳にしたことがない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 天狗になったという奇談の事

 

 享保の頃、信州は松本の領主水野殿の藩中に、高(たか)二百石を受けて物頭(ものがしら)を勤めて御座った萱野(かやの)五郎太夫と申す者がおった。

 武芸の鍛錬も相応に心懸け、少しは和漢の書なんどにも目を通して御座って、万事、手堅い傑物ではあったが、自ら頼むところ頗る厚く、常に他の者を軽く見下すという、慢心者でも御座った。

 その五郎太夫、ある年の正月、

「――何だ! その! 大半切(おおはんぎ)りの桶を、新たに造れ! 今正月の〇〇日の昼頃には完成させとけ!」

と、例によって偉そうにきつく下僕(しもべ)の者に言いつけて御座った。

「……そんなもん……何になさるんじゃろ?……」

と訝りながらも、その命ぜられた日の昼少し前に、

「――大半切りの桶、造り終えて御座います。」

と、持って参ると、五郎太夫、

「――よぅし!――ほしたらの、新しき莚(むしろ)十枚、用意せい! それから、糯米(もちごめ)四斗(と)入りを三俵(さんびょう)、これ、蒸して赤飯にせい! 蒸し上がったらの! 十枚の莚を座敷へ敷きつめ置き、そこへこの半切り桶を据えての! そん中へ、その赤飯を、みんな、盛り入れい!――ほれぇ! さっさと、せえや!」

と云いたい放題の無理を申す。

 下僕どもが慌てふためいて、糯米やら奇麗な筵やらを買い調えに参る、厨房にはそれを待って幾つも火を焚きつけおくなど、上を下への、てんやわんや。

 叱咤されては、やっとかっと、日の落ちる前には命ぜられた通り、座敷にはみっちりと莚が敷きつめられ、蒸し上がった山のようなる赤飯を入れたる、大きなる半切り桶が真ん中に据えられて御座った。

 主人五郎太夫はと申せば、日の暮を待って、その身は沐浴(もくよく)なして衣服を改め、麻裃(あさがみしも)を着し、家内(かない)の者を一切退け、無刀にて、かの異様なる一間に閉じ籠ってしもうた。

 家内にては、

「……もしや!……御乱心にては……これ、御座るまいのぅ!?」

と気遣いする家来衆なんども御座ったが、奇体なる仕儀以外はこれ、いつもの偉そうな言行(げんこう)と、少しも違(ちご)うたることもない、普通にむっとくるものにて御座ったれば、

「……まあ……殊に、無刀のお姿にて、お籠り遊ばれたによっての。……」

と、楽観的な意見を申す者も御座ったによって、

「……まんず……仰せの通りに……」

と、それぞれに控えて御座ったと申す。

 さても、その夜半頃かと思しき折り、

――ドドドドドドッツ!!!

と、これ、何とも! その人数(にんず)、まず、軽く三、四十人は来たかという、もの凄き足音の、屋敷に鳴り響いて御座った。

 宿直(とのい)の者、これ、大きに驚いた。

 が、その実、人の喋る声は、これ、一切、ない。

 暁時に至るまで、ひっそりとしたまま、ことりとも音も、せなんだ。

 とこうするうち、夜も明けたによって、宿直(とのい)の者、気になって眠れなんだ他の朋輩どもとともに、主人の籠ったる座敷へと参った。

 しかし、部屋内、やはり何の音ものぅ、静まりかえっておる。

 一人の者が意を決し、こわごわ、襖を少しばかり開けて覗き見た……と……

――誰(だぁれ)も……おらん。

――赤飯は……これ……一粒ものぅなって……すっかり掻き消えておる。

――いや! それどころか!

――主人五郎太夫も!

――見えぬ!

 されば、屋敷中、大騒ぎとなり、家中総出で、戸袋から畳・床下・縁の下から天上に至るまで、ここかしこと、捜せども、さらに主人が行方、これ、知れぬ。

 家内、事態の深刻さに誰(たれ)もが震え上がって御座った。

 さても、同藩中に久米兵太夫(くめへいだゆう)と申す者のおり、この者、かの五郎太夫の従兄弟違(いとこちが)いで御座ったによって、早速に彼を呼び寄せ、かれこれと評議致いてはみたものの、

「……何処(どこ)へ行ったかも分からぬとなれば……これ、どうしようも御座らぬ……」

と匙を投げた。

「……されば、かく成っては仕方がない。……莚や半切りもそのままにしておいて、藩の御目付様へ届け出でて、御検分の儀、これ、お頼み申し上ぐるより外、御座るまいて。……」

と評議決し、大目付・目付が方へ届け出でたによって、その日の内に、早速、両役の方々、お見えになられ、検分致いてはみたものの、莚敷きの座敷の真中に大半切りのデンと座りおるばかりなれば、これ、何が起こったものか、五郎太夫の何処(いずこ)へ消えたものかも、これ、全く分からなんだと申す。

 されば、何とも不甲斐ないことながら、大目付も目付も職務柄、訳の分からぬ、その「分からぬ」という「ありのまま」に、領主水野様へ上申致いたと申す。

 御藩主は、

「……かの五郎太夫は、常々、精勤致いて、貞実なる者であったが。……さるにても……不埒(ふらち)なる行いを成して出奔(しゅっぽん)致いたと申す訳でも、ない。……また、我ら主(しゅ)に対して脱藩すと申した訳にても、これ、ない。……ない、が、しかし……故なく行方知れずとなった上は、これ、最早、是非もない。……よって――萱野の家名は断絶、これ、申しつくるものなり。……さりながら……代々の家臣としての功績により――五郎太夫が伜儀、これ、近日中に新規に呼び出だすがよい! 元の如くの――父と同じき食禄(しょくろく)にて――我らが再び、召しつこうて遣わす!」

と、何ともお慈悲に富んだる御裁定を、お下しになられたと申す。

 さても、その翌年正月のこと。

 無事、家督を継いだ形となったる萱野五郎太夫の――今はその伜の代の――屋敷の床の間に、これ、誰(たれ)が置いやも分からぬ、書状が一通、忽然と置かれて御座ったと申す。

 今は当主となったる伜が、これをとり上げ披見致いてみたところが、明らかに懐かしき父五郎太夫の手跡(しゅせき)にて御座った。

 が、そこには失踪の理由や詫び言、いやさ、件(くだん)の出来事に就きては、これ、一切、何事も書かれておらず、ただ、

――我ら事 現今 愛宕山に住みて 完戸シセン と名乗っておる さように心得えおれ――

とのみあって、追伸として、

――廿四日には必ず絶対に酒を飲んではならんと胆に命じおくよう――

と書き添えて御座ったと申す。

 さてもその後(のち)は、一切の五郎太夫からの音信(たより)や、その他の変事、これ、萱野家にては御座らなんだと申す。

 さてもところが、その年のこと、御領主はゆえあって御家名、これ、断絶なさってしまわれた。

 かの久米兵太夫もその時に浪人となり、その子の同じき兵太夫は、伝手(つて)を頼って青山家に仕えることとなった。

 以上は、その子の方の兵太夫なる者より、私が直接に聴いた物語で御座る。彼は、

「……『シセン』という名の文字(もんじ)、これ、忘れてしもうて。……」

と云い添えて御座った。

 さても世間には、正月二十四日その一日を禁酒致さば、一年の火難除けとなる、と言い伝えて御座る。

 これはまさに、この享保の頃より始まったる風習で御座ったろうか? 如何(いかが)?

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