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2015/03/05

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 京都にて 3 蜷川式胤実家

 日曜日ごとに蜷川が、私がその週間に蒐集した陶器を鑑定するべく、私の家へ来る。ある日私は彼を勾引し、拒む彼を私の人力車に乗せて写真師のところへつれて行き、彼の最初にして唯一の写真をとらせた。蜷川は京都人で、彼の姉はいまだに京都で、三百年になるという古い家に住んでいる。彼は私に、彼女への紹介状をくれたので、私は彼の写真を一枚持って彼女を訪問したが、蜷川の写真を見た彼女のよろこびは非常なもので、おかげで私はその家の内部や外部を詳しく調べることが出来た【*】。

 

 

* この家庭と庭園との写生図は、『日本の家庭』に出ている。

 

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、冒頭の「日曜日ごとに蜷川が……」から「……彼の最初にして唯一の写真をとらせた」までの箇所は、今回の西日本旅行に出る以前の東京での話である。「蜷川」はモースの陶器の師で、元内務省博物館掛であった考古家蜷川式胤(にながわのりたね 天保六(一八三五)年~明治一五(一八八二)年)で、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 大森貝塚出土の貝類と現生種の比較」等で既注。今回はウィキの「蜷川式胤」もリンクしておく。それによれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、式胤はこの明治一二(一八七九)年『年初から、モースと繁く交わって日本の陶器の鑑識について教え、一千点以上と推測される古陶器を、贈り、或いは共に町に出て集めた。今日ボストン美術館が所蔵する『モース日本陶器コレクション』の発祥である』とある。また、この時、モースが訪ねた屋敷は高い確率で、そこに記されてある、東寺『境内東北隅の屋敷』と考えられる。

「彼の姉」原文は“his sister”であるが、実は、以下の注に示されたモースの「日本の家庭」、“Japanese homes and their surroundings”(1885)の原典では“maiden sister”とあり、しかも斎藤正二・藤本周一訳の邦訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)では、これを『妹御』と訳しているのである。これは流石に困った。“maiden”とあるからと言って、未婚の「妹」と断定する訳にも行かないけれど、当時、式胤は既に満四十四歳であるから、ここは名家の若い美しい妹御をイメージしたくなるのは、これ、私ばかりではあるまい。……「妹御」と、とりとう存じまする……モース先生せんせ……。

「この家庭と庭園との写生図は、『日本の家庭』に出ている」これは上記邦訳書「日本人の住まい」の「第二章 家屋の形態」の八二~八六頁(三枚の附図がある)をまず指していると考えてよかろう(室内を模写した可能性もあるが、私が読んだ限りでは、ここと特定は出来なかった)。少し長いが、先に示した蜷川式胤の実家である旨の叙述も現われ(訳語の齟齬もあり)、本段落の引用としては、学術的にも欠かせないものと私は判断することから、以下に引用させて戴く(途中に図を配した関係上、一部の段落は繋がっていないが、底本では文章は改行の後、すぐ連続している。

   《引用開始》

 富裕な人々が住んでいる草葺きの家が、東京や京都の郊外でよく見られる。また、奇異に思われるかもしれないが、都会の中心部においても見かける。誰しもが想像することは、このような屋根は、火事のさいに火の粉が降りかかればたちまちに火炎に包まれてしまうのではないかということである。しかし、長い歳月を経た草茸屋根は、塵(ちり)や煤(すす)が詰まって固まっており、多種多様な雑草などの植物、苔などが屋根一面に生え広がっていて、飛んでくる火の粉に対して防護の役目を果たしている。京都に、ここに述べたような屋根の建物の例があったのを思いだすが、それは約三世紀を経たといわれる一軒の家である。この家のたたずまいについて、表通り、門を入ったばかりのところおよび家の裏側の三方から見たスケッチがあるので、以下、順々に述べてみよう。

[やぶちゃん注:「約三世紀」本段の「京都で、三百年になるという古い家」と一致する。]

 

H46

46図 京都の古い家。中庭への入口。

 

 第一景(四六図)は表通りからのもので、重厚な瓦葺きの正門があって、門の側面には小さな戸口が覗いている。正門の扉は外されてあって、小さな戸口は締切りになっていた。このずっしりした構えの門の一方の側には、低い建物が続いている。外壁には漆喰が塗られ、通りに面して格子の倣った小さな窓や、門の内外を見張るための格子の嵌った小さな窓や、門の内外を見張るための格子の嵌った物見がついている。

[やぶちゃん注:これはデッサンから長屋門を改造した感がある。]

 正門のもう一方の側は背の高い厚壁があり、やはり窓か物見のようなものがついている。外壁は、道路ぎわの排水溝を形作っている壁が、そのまま上部に延長されたように見えるが、この溝は、もっと適切な言いかたをすれば、道端に沿って設けられた小さな濠といってよいだろう。何枚かの大きな板石がこの濠に差し渡されて橋をなしており、この橋を渡って正門に達する。上述した建物の屋根越しに、急勾配の棟をした古めかしい建物が見えている。

 

H47

47図 京都の古い家。中庭のたたずまい。

 

 四七図は、その建物を正門の内側から見たところである。四六図では、スケッチの右よりに、開けっ放しの正門を通して、格子を嵌めた窓が見えている。また同図で、正門の屋根越しに聳え立っていた大樹は、いまその全容を見せたことになる。前述のあの古風な家は、草葺きであるが、屋根の勾配は著しく急で、棟の部分にだけ瓦が葺かれている。また、草茸屋根の庇の下からさらに瓦葺きの屋根が取り付けられている。この瓦草屋根の軒下には、火急時用の梯子(はしご)と消防ポンプが吊されている。しかし、実際には、これら自家製ポンプが役立つことはあるまい。すなわち、いざ使用というときになって、肝心要の木製角型の圧縮函(シリンダー)が、夏の日照りで歪(ひず)んだり罅(ひび)が入っていたりして、このポンプを必死に作動させようとする人たちに、そのひび割れから飛び散る水を浴びせかけるのが関の山だからである。庭は手入れが行き届いていて、雑草などは見当たらない。しかし、一方の側には、灌木類とバショウの木が混生している。さらに、庭への入口脇には、かなりの樹齢の木が一本まっすぐに立っている。

 この種のあらゆる家について言えることだが、この家も、通りから見るとなんの変哲もない感じである。この家の場合は、小さな円窓のついた差掛小屋のようなものが母屋に付随している。この部分は、おそらく台所になっており、台所は菜園に面していると思われる。四七図では、そこに通じる小さな門が見えている。

 

H48

48図 京都の古い家、庭のたたずまい。

[やぶちゃん注:「古い家」の後の読点はママであるが、原典ではピリオド。]

 

 四八図は、裏庭から見たこの家のたたずまいである。この家の裏側は、同図の手前に見えている池や庭を見渡してまったく開放的である。縁側の上にかかっている瓦葺屋根および別棟の小さな建物は、いずれものちに母屋に附設されたものであった。この家の住人は、古物蒐集家として著名な蜷川式胤氏の母堂と妹御である。庭には、灌木の植え込みや花があり、飛石が他に向かって打たれている。池やその水辺には蓮(はす)や百合(ゆり)が群生し、また竹を組んだぶどう棚のようなものがあって、この庭は、素朴な古い庭園のよい手本というべきものであろう。

   《引用終了》

 この引用の最終段落の「蜷川式胤氏」の後には、『〔訳注=一八三五-一八八二。陶器研究家として著名。本書の著者モースと親交があった〕』とあるが、ここに押し出す形で省略した。因みに、原典を見ると、「蜷川式胤氏」の部分の綴りは“Ninagawa Noritani”と誤っている。]

 

 京都に於る私の時間の大部分は各所の製陶所で費され、それ等でも有名な道八、吉左衛門、永楽、六兵衛、亀亭等から私の陶器研究の材料を大いに手に入れ、彼等の過去の時代の家族の歴史、陶器署名の印象等を聞き知った【*】。

 

 

* このことはボストン美術博物館で出版された私の『日本陶器のカタログ』に出ている。

 

 

[やぶちゃん注:ネット上で読める(PDFファイル)森下愛子氏の論文「近・現代の京焼における伝統的意匠の継承―伝統の継承に関する一考察―」(『無形文化遺産研究報告』第五号・平成二三(二〇一一)年三月発行)にモースのこのシークエンスに関する言及があり、京焼を概観するに簡潔な好論でもある。一読されんことをお勧めする。

「道八」高橋道八(どうはち)。京焼(清水焼)の窯元の一つで陶芸家の名跡。江戸後期より作陶に携わり、特に茶道具・煎茶器の名品を輩出し続けている。二代高橋道八が「仁阿弥道八」の名で特に知られるが、モース来訪時は三代目の最晩年で(晩年は祖父の桃山窯に引退しており、二ヶ月後の明治一二(一八七九)年八月二日に亡くなっている)、既に四代目(明治七(一八七四)年に襲名し、京都府勧業場の御用係として活躍、青花磁・彫刻・白磁を得意とした)となっていた彼の仕事場を見学したものと思われる。(ウィキの「高橋道八」を参照した)。

「吉左衛門」樂吉左衞門(らく きちざえもん)は千家十職(茶道に関わり三千家に出入りする塗り師・指物師など十の職家を表す尊称である。千家好みの茶道具を作れる職人は限定されており、行事や年忌に於ける役割もあるため、徐々に職方は固定され、代々の家元によってその数が変動していたが、明治期に現在の十職に整理された)の一つ、楽焼の茶碗を作る茶碗師の樂家が代々襲名している名。ウィキの「樂吉左衛門」を見る限りでは、十一代目慶入(けいにゅう 文化一四(一八一七)年~明治三五(一九〇二)年)か、十二代の弘入(こうにゅう 安政四(一八五七)年~昭和七(一九三二)年)の仕事場か。十一代目は丹波国南桑田郡千歳村(現在の京都府亀岡市千歳町)の酒造業小川直八三男で十代目旦入(たんにゅう)の婿養子となり、弘化二(一八四五)年に家督相続、明治維新後の茶道低迷期の中にあって旧大名家の華族に作品を納めるなど家業維持に貢献したとあり、十二代目は十一代目の長男で、明治四(一八七一)年に家督相続したが、茶道衰退期のため若いときの作品は少なく、晩年になって多数の作品を制作するとあるから、モースが見たのは十一代目の直接の仕事ではないかも知れない。

「永楽」京焼の家元の一つである善五郎で、やはり千家十職の一つであり、代々、土風炉(どぶろ:土を焼いて作った、茶釜を火に掛けて湯をわかすための風炉(ふろ)。陶土製の風炉。)・茶碗などを製作してきている。十代以降は永樂(えいらく)姓を名乗り、土風炉に加えて茶陶を制作している。善五郎の土風炉には素焼きの器に黒漆を重ね塗りしたもの、土器の表面を磨いたものなどがある。モース来訪時は十二代目永樂和全(わぜん(えいらく わぜん、文政六(一八二三)年~明治二九(一八九六)年)である(ここはウィキの「善五郎」を参照した)。

「六兵衛」既注。清水六兵衛。

「亀亭」和気亀亭(わけきてい)。初代は江戸中期の陶工で寛延元(一七四八)年に京都五条坂に窯を開き、後に播磨の亀坪石を用いて白磁を作製した。講談社の「日本人名大辞典」から推定すると、モースが訪れたのは四代目(文政九(一八二六)年~明治三五(一九〇二)年:三代目和気亀亭長男で文久二(一八六二)年に家督を継いで、明治六(一八七三)年に京都府勧業場に勤め、パリ万国博覧会などに出品したとある。)の工房か?

「日本陶器のカタログ」原文の目録名“Catalogue of Japanese Pottery”。現行出版物の“Catalogue of the Morse collection of Japanese pottery”の前身の一部であろう。]

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