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2015/03/17

耳嚢 巻之十 怪倉の事

 怪倉の事

 

 本所にて御醫師にて數原宗德(すはらしゆうとく)といへる人の屋敷に、古來より右倉内(くらうち)に怪物あり、藏内より物を取出(とりいだし)候節も其(その)度々(たびたび)、斷(ことわり)候て取出し候由。何品(なんのしな)明日入用の段申候得(まうしさふらえば)ば、戸前(とまへ)へ誰(たれ)持出(もちいだ)し候哉(や)、差出置(さしいだしおき)候由。斷(ことはら)ざる時は甚だ不宜(よろしからざる)由。尤(もつとも)右御醫師、高(たかも)も大身(たいしん)には無之(これなく)候へ共(ども)、貧家には無之(これなき)由。或年類燒の節、藏は殘りしが、家來の内、何程(なにほど)平日は斷の上、物の出入(だしいれ)いたし候共(とも)、非常の節は何かくるしかるべき、燒場(やけば)故、臥所(ふしど)も無之(これなき)迚、土藏の内へ入(いり)、物を片付(かたづけ)、其所(そこ)に臥(ふせ)りしに、暫くあり、こゑ如何にも怖しき坊主樣(やう)のもの出て、兼ての極めを破り藏内へ立入(たちいり)、殊(ことに)無禮にも臥りし事の憎さよ、命をも可取(とるべき)なれども、かゝる非常のせつ故此度(このたび)はゆるすなり、以來決して立入間敷(たちいりまじき)旨申ける故、右家來は大いに恐れて早々迯出(にげだせ)しとや。年々極(きは)めありて、祭禮などいたしける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前二篇の最初のニュース・ソースが医師、これも幽霊蔵の持ち主が医師で軽く連関した怪異譚である。それにしも、この巻、俄然、医師の情報屋が増えた感じがするが、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月で、根岸はこの翌文化十二年十一月四日に南町奉行在職のまま、満七十八歳で亡くなっている。医師がしばしば根岸の許を訪ねて参ったというのも、これ、肯けるようにも思われるのである。なお、驚くべきことにウィキには「倉坊主」というのがあってほぼ本話を簡略した現代語の梗概が載っている。そこではこの数原宗徳(ママ)の倉があったとされる東京都墨田区吾妻橋の現在の写真も載っている。ただこの怪異といい、出現した坊主といい、これ、何だかかなり怪しい。例えば、数原家に永く召し使われている最下級の下男辺りに、この蔵の蔵品を最もよく知っている男がおり、ここを管理保守することに秘かにマニアックな拘りを持っていたりすれば、こういう「擬似的怪異」は、容易に起こりそうだ。その場合、「倉坊主」は、その男に雇われた者の幽太(ゆうた。怪談咄に出る幽霊役)であったようにも思われる。……いや、これは無粋なことを申し上げた。悪しからず……

・「數原宗德」底本の鈴木氏注に、『スハラ。宗得が正しい。安永二年(九歳)家督。五百石月俸二十口』(ここは岩波の長谷川氏注では『二十人扶持』とある)、『寄合となり、寛政七年番医となる』とある。「扶持」は扶持米のことで、蔵米や現金の他に与えられた一種の家来人数も加えられた家族手当のようなものであって一人扶持は一日当たり男は五合、女は三合換算で毎月支給された。参照した清正氏のサイト「武士(もののふ)の時代」の「武士の給料」に現代の金額に換算を試みた例が載るので、興味のある方は試算されみることをお勧めする。これから類推すると彼は確かに「大身」ではないが「貧家」とは言えないようで、怪異は起こるもののそれなりの大きさの倉持ちでもあり、相応な屋敷を構えた幕医ではあったようだが、清正氏のサイトにあるように、年貢率は概ね四公六民で実質的に入る基本給は年間で二〇〇石、仮に総て男扶持で計算しても附加手当は一日五合×三六〇日×一二人=二一六〇〇合で約二十一石として二百二十一石、簡便化するために一石約一両換算一両を十万円とすると年間全収入は二千二百十万円、しかしこれで二十人からの者(全部男扶持としたのは個人営業の中小企業の社員に相当するとしてである)を養うというのは、これ、相当厳しいと言わざるを得ない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 怪蔵(かいくら)の事

 

 本所に幕医を勤めておらるる数原宗徳(すはらしゅうとく)と申さるる御仁の屋敷が御座る。

 その屋敷の蔵内(くらうち)には、これ――怪しの物――の棲みついて御座って、蔵より家人が何か物を出そうとする折りでさえ、その度ごとに、断りを入れて取り出すとのことで御座る。いや――これ――「取り出す」――のでは――ない。

 例えば、

「――これこれの物、明日入用(にゅうよう)にて御座る。――」

と前日に蔵に向って言上(ごんじょう)致いておくと、翌朝にはもう――何者かによって――その蔵の扉の前に――ちゃんと取り出されて揃え置かれてある――と申すのである。

 うっかり断りを入れずに、勝手に手ずから出したりすると――それも出来ぬことにてはないものらしいが――甚だ宜しからざる、不吉不審なることが、これ――必ず起こる――と申す。

 尤も、この幕医は、石高も――大身(たいしん)にては御座らねど――まず、貧しき医師にては、これ、御座ない。

 また、ある年のこと、近場にて火事の御座って、数原殿の御屋敷の母屋が類焼致いた。幸い、かの蔵が焼け残って御座ったが、家来か内弟子の内の一人かが、これ、

「……普段ならば如何にも断りを入れた上にて、奇怪な物の出し入れなんぞ、これ、なしては御座れど……かくも非常の折りから、何の憚るること、これ、御座ろうか?!……御屋敷もこれ、丸焼けにして、我らの臥し所とて、これ、御座ない! されば……」

とて、かの土蔵の中(なか)へ立ち入り、とり散らかされた物を勝手に片付け、臥床(ふしど)を拵えては、そこで寝泊りをせんと致いたと申す。

 すると、暫くたって、うとうとっとしかけた頃、何処(いずく)からともなく、坊主のような姿をした者が突如現われ、おどろおどろしき大声にて、

「……かねてよりの掟を破り!……蔵内へ許しもなく立ち入り!……そればかりか、かくも無礼にも!……この倉内に寝(い)ぬることの、これ、憎さよッツ!!……本来ならば、これ、命をも奪い取るところじゃ!……じゃが……かかる回禄の非常の折りから、この度だけは、これ、許して遣わそうずッツ!……貴様ッツ!……以後! 決して立ち入ってはならぬぞうッツ!!!――」

と大喝したによって、かの家来、これ、その音声(おんじょう)を耳にしただけで、これ、胆も消え入り、脱兎の如く蔵から逃げ出だいた、と申す。

 何でも、古くより数原家にては、これ、毎年決まった月日、この蔵の前にて祭礼なんどをも行(おこの)うておる由にて御座った。
 

【以下、2015年3月18日追加分】

■資料 釈敬順「十方庵遊歴雑記」より「本所数原氏石庫の妖怪」

[やぶちゃん注:作者は小日向水道端(現在の文京区水道二丁目)にあった浄土真宗廓然(かくねん)寺第四代住職大浄釈敬順。俗姓は津田氏。宝暦一二(一七六二)年本所生まれ。二十歳で寺を継ぎ、文化九(一八一二)年に隠居して十方庵(じっぽうあん)と号した。茶人としては集賢(または宗知)、俳号を以風と称した。「十方庵遊歴雑記」(十五冊五編)は彼の見聞記で、その足跡は江戸周辺から関東一帯、遠くは三河まで及ぶ(以上はkurofune67 氏のブログ「黒船写真館」のこちらの転載記事を参照した)。根岸鎮衛は元文二(一七三七)年の生まれであるから二十五年下であるが、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年で、十方庵は既に隠居しており、この「遊歴雑記」のデータ収集や執筆に入っていたものと考えられるから(序に文化十二年のクレジットがある)、これは根岸の採取した時期と殆んど変わらない共時的記載であると考えてよい。以下は国立国会図書館の「江戸叢書十二巻 巻の四」の画像を視認して起こした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。後に簡単な注記を附した。]

 

  七拾參 本所數原氏石庫の妖怪

一、東武本所二ツ目相生町とみどり町との横町に寄合に入れる御醫師に、數原宗得(スハラソウトク)とて持高五百石二十人扶持を賜ふ、今は宗得隱居して當主を宗安といえり、此やしきに作れる土藏の中に妖怪あり、是は場末の屋敷なれば持高に應ぜず、方量も廣きまゝ土藏は、居宅をはなれ廣庭の遙隅にありて、火災を厭ふには一入よし、此庫の作り方は屋根と戸前口ばかり木にて作り、壁といふものは皆切石を以て積上たり、恰も彼日本橋四日市河岸通の土手藏(ドテグラ)の類(タグ)ひなるべきか、廣さ二間半に三間半かとよ、是はむかし有德尊君より拜領せしといひ傳ふ、案ずるに此御代安南(アンナン)より象を一匹獻ぜしに依て、置處なく本所豎川筋にさし置る、その砌象扶持(ゾウフチ)など積入し藏なるべし、されば此石藏の中に妖怪の住事なれば、夜は勿論晝とても兩三人づゝ連立行(ツレタチユキ)て、藏のものを出し入れす、しかるに此石庫は這入て、小用を達し度とおもう通氣の萌(キザシ)あれば、おのおの早々に藏を出しばらく外にて猶豫(タメライ)て後、土藏に入れば子細(シサイ)なし、是怪物の出べきしらせなりとなん、扨又小用の通氣あるを忍(コラ)へて、若物など扖(サガ)し居る事あれば、必ずしもその妖怪にあふ、但しその妖怪の形是とさだまるほあらず、小女、小坊主、小瞽(コメクラ)、大達摩(ダルマ)、木兎(ミ〻ヅク)、犬張子(イヌハリコ)、竹輿(カゴ)、からかさ、鬼女、よろづの面瞽(メンゴ)、女仁王(ゼニワウ)、鷄犬(ケイケン)、牛馬(ギウバ)の類と種々に變化して出るとかや、これに依て庫に入て誰にても通氣の氣味あれば、申合せ早々飛(トビ)いだす事となん、若又近邊に火災あらん前方には誰としれす、夜すがら鐡棒を引て歩行(アルク)音す、是によりて家内火災のあるべきしらせぞとこゝろえ、諸道具取片付用心するに、果して不慮に近火ありて、宗安居宅のみ遁るゝ事むかしより數度なり、既に去し寛政年間件のしらせありければ、大體(ダイタイ)品皆仕舞しかどその砌老母大病にして手放しがたく、今にも取詰やせんと見へたる折柄、出火ありて風又甚烈しく、近所一圓に燒廣がりければ、漸く手人ばかりにて竹輿(カゴ)に懷きのせ一番輩さしそひつゝ、しるべの方へ立退けるまゝ、家内いよいよ人少になり、殘れる道具を石藏の中へ詰入る暇さへもなければ、戸前口へみな積置ぬ、スワといはゞ濡薦(ゴモ)を懸んと、殘りし家内只とりどりに立騷ぐばかりなりしが、彼石庫の内より壹人の女、髮をうしろへ下て振亂したるが、甲斐甲斐しく立出戸前口に積置たる品々を、土藏の内へ抱えて運び入れる事取廻し速(スミヤカ)也、爰に居殘りし卑女(ハシタ)は不思議に思ひ駈來りて、件の女の顏を見んと彼方へ廻れば、こちらへ振向、此方へ廻ればあちらへ顏を背(ソム)けて、見せざりしかば不圖こゝろ付是かねて傳え聞、妖怪ならめと思ふや、否、ゾツと惣身さむけ立ければ、卑女は萬事を打すてゝ迯込(ニゲコミ)しが、彼(カノ)道具をみな石藏の中へ運び入、内よら戸前を〆けるとかや奇怪といふべし、終にその砌も類燒を遁れたり、かゝれば此妖怪宗安が家の爲に、幸あれど更に害なし、是によつて四月十四日を例祭とし、石庫の中には燈明をかゝげ、種々の供物を備へ毛氈を敷詰、外には大燈籠提燈等をかざり、晝は修驗來りて佛事を取行ひ、夜はもろもろの音曲鳴物神樂を奏して、夜すがら彼怪物のこゝろをなぐさむを祭祀とすとなん、これによつて當家より火防の札を出すに、是を以て家内にあがめ置ば、一切火災の煩ひなしと巷談す、しかるに彼石庫の隅の棚に一つの箱あり、大さ五六寸四方、昔よら置處を替ず、又手を付る者は曾てなし、恐らくは此箱怪物の住所ならんかといへり、此外に石庫の内更にあやしき物をしとぞ、上來の一件(イチマキ)奇談といふべし、但し此類の事世上に儘ありて人みな恐怖し祭り崇める者又少なからず、曾て古人のいえらく、怪を見てあやしまざれば怪おのづから去とおしえ、又は妖は德にかたずとの金言は宜なる哉、巫咒桃符(フジユトウフ)を貴ばんよりは、身を正ふし德行を逞ふせんにはしかじ、退治魔事の法といふも、先その身潔齊し六根精進をして正ふせんにはしかじ、何ぞその身の行狀を亂し德行をばせずして.一向(ヒタスラ)に神齋を責(セム)る事やあらん、我人仁義禮恕孝貞忠信の勤しばらくも怠るべからず、此一件(イチマキ)を荒川新助といへる人、彼數原氏へ立入て見聞せしまゝを、しるし置ものなり、

 

*やぶちゃん注記
「耳嚢」の話よりも遙かに詳細で、しかも間然する箇所が殆んどと言ってない点でも非常に優れた記載である。祭祀も式日も四月十四日と明記されてあり、驚くべきことにその「物の怪」の棲み家まで特定している!

●「一入」「ひとしほ(ひとしお)」。

●「日本橋四日市河岸通の土手藏」屋根で覆われた石積みの蔵群。日本橋川南河岸沿いに明暦三(一六五七)年の大火の後、防火のために築造されたもの。現在の中央区日本橋の野村證券本社付近にあった。

●「二間半に三間半」凡そ間口四・五メートル×奥行六・三メートル。

●「有德尊君」徳川吉宗。

●「安南より象を一匹獻ぜし」享保一三(一七二八)年に吉宗の注文で安南(ベトナム)の貿易商鄭大威(ていたいい)雌雄二頭の象を長崎に齎した。雌は同年死亡したが、翌年、雄の方が江戸へ運ばれる。この象は途中、広南従四位白象の名を授けられて宮中に参内、中御門天皇・霊元上皇に拝謁、江戸では待ちかねていた吉宗を悦ばせた(以上は講談社「日本人名大辞典」の「鄭大威」の項他に拠った)。

・「本所豎川」現在の墨田区(本所)横川。

●「猶豫(タメライ)」は二字に対するルビ。

●「通氣」使用されてある三箇所を並べてみると、怖気立つような怪しき気配、の意である。

●「よろづの面瞽(メンゴ)」いろいろな風体(ふうてい)の視覚障碍者の意か。

●「女仁王(ゼニワウ」不詳。女体の金剛力士というのもおかしい。鬼女の謂いか。

●「鷄犬、牛馬」これは鶏や犬や牛や馬の意。

●「寛政年間」西暦一七八九年~一八〇一年。

●「一番輩」一の家来の意であろう。

●「これによつて當家より火防の札を出すに、是を以て家内にあがめ置ば、一切火災の煩ひなしと巷談す」これはまた、結構な副収入となったものと私には思われる。

●「五六寸四方」十五・二~十八・二センチメートル四方。

●「但し此類の事世上に儘ありて人みな恐怖し祭り崇める者又少なからず……」こうした道話めいた附言は当時の定式の一つで、しかも彼が僧侶であることを考えれば、合点がいく。

●「巫咒桃符」「桃符」は中国で陰暦の元旦に門にかかげる魔除けの札のこと。桃の木の板に百鬼を食べるという二神の像や吉祥の文字を書いたもの。魔除けの呪(まじな)いの御札。

●「我人」わがひと」と読むか。我々人たるもの、の意であろう。

 

●「荒川新助」不詳。

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