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2015/03/08

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十八章 講義と社交(Ⅱ) 家族学校講演と慶応義塾での進化論講話と剣道試合観戦 第十八章 講義と社交~了

 第十八章 講義と社交 

 

 私の動物学の学級のための試験問題を準備するのに、多忙を極めた。今日の午後、私は四時間ぶっ続けに試験をしたが、私は学生達を可哀想だと思った。彼等はここ一週間、化学、地質学、古生物学、植物学の試験を受けて来たのである。これ等の試験はすべて英語で行われる。英語は、彼等が大学へ入学する迄に、完全に知っていなくてはならぬ語学なのである。

 

 世界一周旅行の途にあるグラント将軍は、目下彼の夫人、令息及び著作家ヤング氏と共に日本にいる。東京と横浜の米国人が、上野公園で彼の為に晩餐と招待会とを開いた。私は、申込金は払ったが、かかる事柄に対する暇が無いので、特別に行き度いとも思っていなかった。然し友人達が私に適当なことはした方がいいとすすめるので、いやいやながら晩餐会に出席した。私は永い列をつくった他の人々と一緒に順番にグラント将軍に紹介され、彼に対して先入主的な僻見を持っていたにかかわらず、彼の静かな、品のよい、而も安易な声調に感心した。私と一緒に行った娘は、大きにこの会をよろこんだ。戸口の近くに立っていた娘に向って、グラント将軍は話しかけ、彼女の手を取り、そして六尺豊かの大きくて頑丈な彼の令息を「私の小忰」に関する諧謔的な言葉と共に、彼女に紹介した。彼を凝視した時、我国の新聞紙の言語同断な排毀に原因する私の僻見は、即座に消え去った。他の人々が子息たちをこの招待会に連れて来ているので、私は静かに退場し、人力車で加賀屋敷へ急ぎ、熟睡している私の九歳になる忰を起し、着物を着せ、そして急いで会場へ連れて行った。後年彼が、この偉大な将軍に会ったことを、記憶に残させようとしたのである。

 

* その後好運なる偶然の結果、我々はグラント将軍と同じ汽船でサンフランシスコヘ戻り、彼は私の忰に西洋象棋(チェス)のやり方を教えて呉れた。

 

 

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、之は明治一二(一八七九)年七月三日のことである。この日、日本を世界一周旅行の最後に選んだ前アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・グラント将軍が横浜に着いており、その日の夜に上野精養軒で在日アメリカ人主催により開かれたグラント歓迎会がここ以下のシークエンスである。

「グラント将軍」ユリシーズ・S・グラント(Ulysses S. Grant 一八二二年~一八八五年)は南北戦争北軍の将軍で第十八代アメリカ合衆国大統領。モースの「先入主的な僻見」を考察するため、例外的にウィキの「ユリシーズ・グラント」より全面的に引かせて戴く(アラビア数字を漢数字に代え、注記記号を省略した。下線部は私が考えるモースの偏見の根っこの選択肢である)。アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領にして、南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・リー将軍と並んで(また、そのリー将軍を最終的に破ったことで)最も有名な将軍の一人。『軍人としては成功したが、大統領在任中の「クレディ・モビリエ事件」を始めとする多くのスキャンダルおよび汚職により、歴史家からアメリカ最悪の大統領のうちの一人と考えられている』。『オハイオ州クラーモント郡ポイント・プレザントで』製革業者の子として生まれた。『十七歳のときに、オハイオ州選出の下院議員トーマス・L・ハマーからニューヨーク州ウェストポイントの陸軍士官学校への推薦を受けた』。一八四三年に結婚し、『四人の子供(フレデリック、ユリシーズ・シンプソン・ジュニア、エレン、ジェシー)をもうけた』(フレデリック(Frederick Dent Grant)とユリシーズ・シンプソン・ジュニア(Ulysses S. Grant Jr.)は二歳違いであるが、英語版のそれぞれのウィキを見る感じでは、この時、モースの娘イーディス(当時十四歳)に引き合せたのは未だ独身であった後者のように思われる。であれば二十七歳である)。『グラントは、ザカリー・テイラー将軍およびウィンフィールド・スコット将軍の配下で米墨戦争に従軍』して中佐に昇進したが、一八五四年に多量飲酒で軍籍から一度離脱、『辞職後はセントルイスで農場経営、不動産仲介業、そして最後にイリノイ州ガリーナで父親の皮革・金物店の経理助手となっ』ている。その後の『南北戦争において、グラントは最優秀の将軍の一人であり、また最終的に北軍に勝利をもたらした偉大な司令官であった。戦術的な能力だけでなく、戦略家として南北戦争において両軍を通じて最も優秀であったといえる。優秀な司令官をもたなかったために再選が危うくなったエイブラハム・リンカーン大統領を救った一因となったのみならず、その後の切り札となり、前半では西部戦線での攻勢に、後半では東部戦線での大反攻に大きな功績を挙げた』。『南北戦争が勃発し、サムター要塞陥落の十日後、一八六一年四月二十四日にグラントはイリノイ州スプリングフィールドに彼が募った志願兵を連れて到着した。知事はグラントを反抗的な第二十一イリノイ歩兵連隊の連隊指揮官(大佐)に任命した。その後グラントはハンニバル&セント・ジョセフ鉄道を守るためにミズーリ州に派遣された。この時点ではまだミズーリ州は南部連合と合衆国の間で揺れ動いており、南部に同情的だったクレイボーン・ジャクソン知事は武装中立を宣言して州に侵入する軍隊は南北どちらであろうと攻撃すると宣言していた。ミズーリ州に「侵攻」した北軍は八月までにジャクソン知事を免職し、ミズーリ州を支配下に置いた。この行為はミズーリ州内の南部連合派の態度を硬化させ、北軍はこの後しばらく彼らの活動に悩まされることになる』。『同年八月、グラントは志願兵の准将に昇進した。下院議員エリフー・ウォッシュバーンの進言にリンカーンが耳を傾けた結果だと言われている。八月末、グラントは西部戦域司令官ジョン・C・フレモント少将によりヘンリー・ハレック将軍の下で南東ミズーリ戦線を任されることとなる』。『一八六二年二月、東部では北軍の苦戦が続く中、西部では河川砲艦と奇襲を組み合わせてヘンリー砦とドネルソン砦を奪取し(ヘンリー砦の戦い、ドネルソン砦の戦い)、西部戦線の東西河川交通の要衝を支配した。これは北軍のミシシッピー河を南下して南部連合の中部と西部を分断する大戦略を可能にした。その後、シャイロー付近で部隊を駐屯中に南軍の奇襲攻撃を受けたが、これの撃退に成功した(シャイローの戦い)。上官のハレック将軍は一時グラントの功績を嫉妬したのか、飲酒癖を理由に解任したが、結局のところ彼の能力は捨てがたく、再任されることになる』(後の段落で一切、酒を飲まないとあるのとは齟齬する。先の飲酒による軍籍離脱やこの記述からは明らかに彼は「大酒家」(モースの後段の謂い)であった。モースは案外、単純に彼を、新聞の伝えるところの、酒乱の乱暴者、と信じ込んで反感を持っていたとも考えられなくはない)。『十月にはハレック将軍が東部戦線のポトマック軍司令官に召還され、後任としてテネシー軍司令官となった。野戦軍司令官としてポトマック軍司令官に次ぐ重職といえる。グラントは水陸一体の作戦を進めミシシッピ河を南下。一八六三年四月には南部でのミシシッピ河の重要な渡河点であるビックスバーグ要塞を河川砲艦による強行突破と奇襲上陸により包囲体制を築くと、七月四日にこれを陥落させた(ビックスバーグの包囲戦)。これは有名なゲティスバーグの戦いの最終日の翌日であり、南軍の攻勢の終末点であると同時に、戦略的に南部が東西に分断され西部での北軍の攻勢が完遂した日でもある。十一月にはチャタヌーガで南軍を敗退させ、西部において南軍が組織的反撃を行う能力をほぼ喪失させた』。『リンカーン大統領にとって首都防衛と敵攻略を兼ねるポトマック軍の司令官に人材を得ないのが最大の悩みであり、師団長クラスでは優秀な戦術家であっても司令官となるととたんに弱点を露呈する将軍が多く、マクドウェル、マクレラン、フッカー、バーンサイド、ハレックとことごとく期待を裏切っており、ゲティスバーグでリーを撃退したミードもこの任に長く耐えられそうもなかった。そのため、西部で南軍を切り裂いたグラントに白羽の矢が立てられることになる』。『一八六四年三月、ミードはそのままポトマック軍司令官に留任し、その上級司令官の形でグラントが北軍総司令官に任命され、主に東部戦線の指揮をとった』。『西部戦線の後任にはグラントの盟友でかつ忠実な部下であったウィリアム・シャーマン将軍がテネシー軍司令官となり、アトランタを抜けてサバンナへの海への進軍を行った。その途上の各都市を破壊し、物資の略奪を公然と行った。南軍の戦争遂行能力をずたずたに引き裂いた』(モースは例えば、伝えられたこの略奪行為をグラントに結び付けて悪印象を持っていたとも考え得る)。『一方でグラントは人口と工業生産力にまさる北軍の国力を背景に、東部では物量による不屈の南下作戦を開始し、常にリーを相手に大損害を受けながらリッチモンドへ進撃を開始。荒野の戦い、スポットシルヴェニアの戦い、コールドハーバーの戦いと全てリーの南軍は寡兵ながら自軍以上の損害を与え続けたものの、消耗戦に巻き込まれた形になり、また迂回と突破、そして水上移動を使い分けるグラントに徐々に押し込められていった。グラントは南部連合首都のリッチモンドの裏口にあたるピーターズバーグに水路押し寄せ、リーは事前に察知して先回りし塹壕線を築くが、結果的に野戦軍がリッチモンド及びピーターズバーグに押し込められる形になり、戦略的包囲に成功した。そのため、南軍はアトランタから大西洋へ抜けようとするシャーマンに対する軍に救援が送れず、シャーマンはやがてサバンナから北上してさらに両カロライナとヴァージニアを焼き尽くしながらグラントに合流する』。『リーは最後の賭けに出てピーターズバーグを放棄し、南に撤退しジョンストン率いるテネシー軍と合流しようとしたが(アポマトックス方面作戦)グラント率いる北軍に捕捉されアポマトックス・コートハウスで遂に降伏した。これによりなし崩し的に残りの南軍部隊も次々と降伏し、グラントは南北戦争における英雄となった』。『戦争後に連邦議会は、一八六六年七月二十五日に三つ星を中将位に改め、四つ星の陸軍大将(当時の呼称はGeneral of the army of the United States)に任命し、その労をねぎらった』(ここまでが軍歴。一八六六年当時、モースは二十八歳で、本格的な博物学論文の発表から二年後で、エセックス研究所に勤務を始めている)。『グラントは一八六八年五月二十日にシカゴの共和党全国大会で満場一致で共和党大統領候補に選ばれた。その年の大統領選で』勝利した。しかしながら、『グラント政権は、汚職とスキャンダルに悩まされた。特に連邦政府の税金から三百万ドル以上が不正に得られたとされるウイスキー汚職事件では、個人補佐官オービル・E・バブコックが不正行為に関与したとして起訴され、大統領の恩赦で有罪判決を回避した。ウイスキー汚職事件後に、陸軍長官ウィリアム・ベルナップがアメリカインディアンとの販売・取引ポストと交換に賄賂を受けとったことが調査によって明らかになった。グラント自身が部下の不正行為から利益を得たという証拠がないが、彼は犯罪者に対する厳しいスタンスをとらず、彼らの罪が確定した後さえ、強く反応しなかった』。なお、冒頭に出た最も悪名高いクレディ・モビリエ(Crédit Mobilier)事件については、何故か日本語版ウィキには記載がないので「ブリタニカ国際大百科事典」から引くと、当時のアメリカの鉄道建設を巡る汚職事件で、一八七二年にニューヨーク『サン』紙によって暴露されたもの。ユニオン・パシフィック鉄道の建設会社クレディ・モビリエが、連邦政府によるローンと土地下付の特権を悪用して二千三百万ドルといわれる巨額の金を着服した事件である。グラントはその後も、『荒廃した南部の再建および先住民対策に失敗し、支持が急落した』とあり、『一八七二年三月三日には、アメリカを訪問した岩倉使節団と会見した。その際使節団に対し、キリスト教禁教を続ける明治政府の政策を激しく非難した。また、琉球の帰属問題にも介入している』とある(もしかすると、キリスト教嫌いのモースのグラントへの偏見はの根っこの一つはここにあるのかも知れない)。「インディアン政策」の項。『グラントは熱心な保留地政策の支持者であり、どちらかといえば和平主義者であった。が、保留地囲い込みに従わない部族は絶滅させるとの姿勢だった』(こうした隔離強硬策はモースの最も嫌悪するところではある)。『一八六〇年代後半から、知人であったインディアン(イロコイ族)出身のエリー・サミュエル・パーカー(本名ドネホガワ)をインディアン総務局長に任命し、保留地監督官にさまざまな宗教団体から推薦された者を任命する政策を実行した。クェーカー教徒の志願者が多かったため、「クェーカー政策」、「平和政策」と呼ばれた。しかしキリスト教の押し付けもインディアン部族にとっては余計なお世話であり、対立は解消されなかった』(これもキリスト教嫌いのモースの癇に障る苛立たしい政策と言える)。『このグラントの和平案から、「戦争の諸原因を除去し、辺境での定着と鉄道建設を確保し、インディアン諸部族を開化させるための体系を作り上げる」べく、「和平委員会」が設立されることとなった。和平委員会はインディアン諸部族と数々の条約を武力を背景に無理矢理結んでいったが、すぐに白人側によって破られていく現実を前に、グラントが夢想したような和平などは実現しないと悟った』。『また、西部インディアン部族の最大反抗勢力であるスー族に対し、雪深い真冬に保留地への全部族員移動を命じて反感を増大させ、戦乱のきっかけを作った』(これもモースならひどく嫌悪したはずである)。『大統領職二期目の終了後に、グラントは二年間世界中を旅行した。最初の訪問地はイギリスで、一八七七年』、『一八七九年六月には国賓として日本を訪れた。グラントはアメリカ合衆国大統領経験者で、訪日を果たした初の人物でもある。浜離宮で明治天皇と会見した。増上寺で松を植樹、上野公園で檜を植樹した。また日光東照宮を訪問した際には、天皇しか渡ることを許されなかった橋を特別に渡ることを許されたものの、これを恐れ多いと固辞したことで高い評価を受けることとなった』(ここに記されたエピソードはモースも既に「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 2 日光東照宮へ」の原注で紹介している。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、グラント来日に対する『日本側の歓迎熱異様なほどで、将軍が離日するまでの二箇月間は、邦字新聞もグラント一色に塗りつぶされた』とある)。『一八八四年、グラント・アンド・ウォード商会の倒産後の負債で金銭的に困窮し、マーク・トウェインの勧めもあって、回想録を執筆したが、すでに末期の喉頭癌で回想録が完成したのは死の数日前だった。回想録はベストセラーとなり、妻子に快適な収入を与えることとなった。一八八五年七月二十三日にニューヨーク州サラトガ郡のマウント・マクレガーで死去した。北アメリカで最大の廟、ニューヨーク市のグラント墓地に、妻と共に埋葬されている』とある。来日当時、六十七歳。モースは一八三八年生まれであるから、グラントより十六歳年下であった。

「彼の夫人」ジュリア(Julia Grant)来日当時、六十三歳。

「令息」「グラント将軍」の注で推測した通り、次男ユリシーズ・シンプソン・ジュニア(Ulysses S. Grant Jr.)ではないかと思われる。来日当時、二十七歳。

「著作家ヤング氏」アメリカのジャーナリストで作家のジョン・ラッセル・ヤング(John Russell Young 一八四〇年~一八九九年) 。後に外交官やアメリカ合衆国議会図書館司書となった。この時の随行記“Around The World with General Grant”(New York, 1879 「グラント将軍日本訪問記」)は特に知られる(英語版ウィキに拠る)。

「彼に対して先入主的な僻見を持っていた」この具体的な僻見(へきけん。偏見に同じい)の内容は分からない。軍歴上の何かによるものか、それとも大統領就任後のスキャンダルに対するものかも不明であるが、「我国の新聞紙の言語同断な排毀に原因する私の僻見」と言い換えており、私は後者であろうと臆測はしている。前の「グラント将軍」の注を参照されたい。

「私と一緒に行った娘」モースの娘イーディス(Edith Owen Morse)。当時十四歳。

「排毀」捨て去ること。やめて用いないこと。

「私の九歳になる忰」長男のジョン(John Gould Morse)。

「我々はグラント将軍と同じ汽船でサンフランシスコヘ戻り」この明治一二(一七八九)年九月三日に第二次の来日から帰国の途についたモースが横浜から乗船したサンフランシスコ行「シティ・オブ・トーキョー」にはグラントも、偶然、同船していた。因みにこの船には東大理学部の同僚で大森貝塚を巡る論争の好敵手であったナウマンも同船していた(磯野直秀「モースその日その日」に拠る)。]

 

 食事の時グラント将軍は、酒類は如何なる物も一切口にせず、私は、彼が大酒家であるという噂が、飛んでもない誇張であるということを聞いた。工科大学に於る彼の招待会は、この上もなく興味が深かった。古風な、而も美しい宮廷服を着た王妃や内親王、奇妙な、装飾沢山な衣服に、赤い馬の尻尾のような羽根をぶら下げた白い円錐形の帽子をかぶった支那公使館員、風変りな衣裳に儀式用の帯を結び、類の無い頭装をした朝鮮人、勲章を佩(お)びた欧洲の役人達――これ等は私にとっては皆目新しく、そして興味があった。

[やぶちゃん注:モースは以下、述べていないが、グラント将軍とはこの二日後にも逢っている明治一二(一九七九)年七月十日の東京大学卒業式である。来賓として招かれたグラント将軍に、モースは『是は生物学を専攻する買う姓なりとさも自慢さうに一人宛紹介して握手の榮を得しめた』(弟子石川千代松記。『科学知識』第六巻・一九二六年所収。磯野直秀「モースその日その日」より孫引)と、モース先生の弟子思いを伝えている。

「工科大学」原文は“College of Engineering”であるが、来日当日の歓迎会から五日後の七月八日に行われた、虎の門の工部大学校(明治初期に工部省が管轄した教育機関で現在の東京大学工学部の前身の一つ。明治六(一八七三)年に大学を設置、この二年前の明治一〇(一八七七)年一月に工部大学校と改称していた。初代都検(教頭。実質的な校長)をイギリス人ヘンリー・ダイアー(Henry Dyer)が務め、東大と同様に他にも外国人教師が招かれて多くの授業は英語で行われた。以上はウィキの「工部大学校に拠った)でのグランド将軍歓迎会の一コマである。

「王妃や内親王」原文は“The royal princesses”であるが、明治一二(一八七九)年当時では出席し得る内親王はいない(第二皇女の梅宮薫子内親王(うめのみやしげこ)は未だ四歳である)から、この謂いが正しいとするならば、明治天皇正室の昭憲皇太后(当時三十歳)か、梅宮薫子内親王母の明治天皇側室権典侍柳原愛子(当時二十歳)ということになるが? 識者の御教授を乞うものである。]

 

 四十人の若い娘の一級(クラス)を連れて来た、華族学校の先生数名は、非常に奇麗だった。彼等は皆美しい着物を着ていて、沢山いた外国人達を大いに感心させた。和服を着た人々の群を見ると、そのやわらかい調和的な色や典雅な折り目が、外国の貴婦人達の衣服と著しい対照を示す。小柄な体軀にきっちり調和する衣服の上品さと美麗さ、それから驚嘆すべき程整えられ、そして装飾された漆黒の頭髪――これ位この国民の芸術的性格を如実に表現するものはない。この対照は、彼等が洋服を着用するとすぐさま判る。その時の彼等は、時としては飛んでもない外観を呈するのである。少女達と彼等の先生との可愛らしい一群は、彼等が惹起した崇拝の念に幾分恥しがりながら、広間の中央に近く、無邪気な、面喰った様な容子で立った。私は一人の日本人に、彼等をグラント将軍が他の人々と一緒に、立って引見している場所へ連れて行かせた。其後私は、誰も彼等に氷菓(アイスクリーム)や菓子を渡さぬのに気がつき、一人の日本人に手つだって貰って、彼等にそれ等をはこんでやった。彼等はすべて壁に添うて畳の上に一列に坐っていたが、彼等にとっては、氷菓と菓子のお皿を手に持つことがむずかしく、自然お菓子の屑が床に落ちた。また溶けて行く氷菓の一滴が美しい縮緬の衣服に落ちたりすると、彼等は笑って、注意深く、持っている紙でそれを取り除く。この紙はまるでポケットに似た袂に仕舞い込み、最後に立ち去る時には、注意深く畳を調べ菓子の屑を一つ残らず拾い、あとで棄てるように紙につつむのであった。貴族の子女がかかる行儀作法を教え込まれているということは、私には一種の啓示であった。

[やぶちゃん注:「華族学校」現在の学習院大学の前身。弘化四(一八四七)年に仁孝天皇が京都御所内に設けた公家を対象とした教育機関である「学習所」を起源とする(但し、仁孝天皇は前年に薨去している)。明治維新を経て、華族制度が整備され、この三年前の明治九(一八七六)年に校名を「華族学校」とした。翌十年には「華族学校学則」が制定され、さらに明治天皇のもとで開校式が行われた際、改めて「学習院」と改名されている。元来は皇室の設置する私塾という位置づけであったが、この五年後の明治一七(一八八四)年には宮内省が所轄する正式な官立学校となった(ウィキの「学習院大学」に拠る)。]

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