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2015/03/16

耳嚢 巻之十 蛇甲の事

 蛇甲の事

 

[やぶちゃん注:以下、本話は全文が漢文表記であるので、ベタ・テクストを最初に掲げ、次に私が書き下したもの(一部の読みも含む)を示す。]

 

 津輕甲斐守家

 小田切軍造所持當時悴年藏所持護蛇冑記

 天明五年乙巳四月十三日、津輕之民、小屋敷村太左衞門者〔小屋敷村屬津輕黑石、則在治之西北一里許〕釆蕨相澤山中〔相澤村在黑石、東北二里半許、〕山有稱七曲阪、行見戴冑蛇、將欲捉之、蛇忿然將囓人之勢、廼劇脱裏頭巾而覆蛇上、〔郷俗、在山谷者、男女、俱以方三尺許之木綿巾、纏頭、〕重打以棘、蛇脱冑去〔郷里往々見此蛇者、欲得其冑、必覆以物、則冑自脱、今又如其爲、〕摭而覩之、形狀頗類皀莢子、然冑之兩角、屹然相對、兩倭纖然並埀、又有似眼目處、金光瑩然、天然之妙、實以可賞可珍也、玆載、寛政壬子余偶聘於弘前城、〔即津輕之治城〕先至黑石、視修聘事、〔黑石即寡君之治也、在弘前之東北三里、〕一日、友人榊雄充〔通稱兵馬、黑石之士人、〕來慰旅況、談及此事、余舊有好奇之癖、聞之愕然、舌上不下、頻欲一見、雄充重更袖來、爲余贈之、余亦發嚢裝而、因雄充、贈之太左衞門者、以陳謝意、實壬子六月十一日也、郷俗相傳、見蛇冑者、後亦大其門戸、不知果有此祥也否、余唯好奇、婆心敢除、珍重之、併記所以獲之、以挨博雅之君子云爾、

津輕 小田切軍曹貞固識  

[やぶちゃん字注:「摭」は底本では(れっか)の部分が「从」であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版と校合して「摭」とした。]

 

Mimibukuro_hebikabuto

[やぶちゃん注:図の右下には、

 此髭動

(此の髭、動く)とある。実際にはクワガタ類の甲虫の触角部分と推定される。]

 

■やぶちゃんの書き下し文

 

 蛇甲(へびかぶと)の事

 

[やぶちゃん注:底本の句読点には一部に疑義があり、従っていない。書き下しには長谷川強氏の校注になる岩波文庫版の訓点を一部参考にさせて戴いたが、こちらも一部の訓読に疑問があり(その訓読では私には意味がとれない箇所がある)、結局、概ね私のオリジナルとなった。また、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版と校合して脱字と思われるものを【 】で附け足した。読み易くするために一部に字空けや改行を施し、一部の記号や句読点も変更増補した。]

 

   津輕甲斐守家

   小田切軍造・所持 當時(たうじ)、悴(せがれ)年藏・所持

 

 蛇冑(へびかぶと)を護(まも)るの記

 

 天明五年乙巳(きのとみ)四月十三日、津輕の民、小屋敷村・太左衞門なる者〔小屋敷村は津輕黑石に屬(ぞく)し、則ち治(ち)の西北一里許りに在り。〕、相澤山中に蕨(わらび)を釆(と)る〔相澤村は黑石が東北二里半許りに在り。〕。山に七曲阪(ななまがりざか)と稱する有り、行きて冑(かぶと)を戴く蛇を見、將に之を捉へんと欲するに、蛇、忿然として將に人を囓まんとするの勢ひ、廼(すなは)ち劇(はや)く頭巾を脱裏(だつり)して蛇の上に覆ひ〔郷俗(がうぞく)、山谷に在る者、男女俱に方三尺許りの木綿巾を以つて、纏頭す。〕、重ねて棘(いばら)を以つて打つに、蛇、冑を脱して去る〔郷里、往々此の蛇を見る者、其の冑を得んと欲すれば、必ず物を以つて覆へば、則ち冑、自づから脱す。今、又、其のごとく爲(な)す。〕。

 摭(ひろ)ひて之を覩(み)るに、形狀、頗(すこぶ)る皀莢子(さうけふし)に類し、然して冑の兩角、屹然(きつぜん)として相ひ對し、兩倭(わ)、纖然(せんぜん)として並び埀(た)る。又、眼目に似たる處有りて、金光瑩然(えいぜん)たり。天然の妙、實(まこと)に以つて賞すべく、珍すべきものなり。

 玆載(しさい)、寛政壬子(みづのえね)、余、偶(たまたま)弘前(ひろさき)城に聘(へい)せられる〔即ち津輕の治城(ちじやう)。〕、先づ黑石に至り、聘事(へいじ)を視修(ししう)す〔黑石は即ち、寡君(くわくん)の治【邑】(ちいう)なり。弘前の東北三里に在り。〕。一日(いちじつ)、友人榊雄充(さかきよしみつ)〔通稱、兵馬(ひやうま)。黑石の士人。〕、來たりて旅況(りよきやう)を慰め、談、此の事に及ぶ。余、舊(もと)より好奇の癖有り、之を聞きて愕然、舌(した)上がりて下がらず、頻りに一見せんと欲す。雄充、重ねて更に袖にして來たり、余が爲に之を贈る。余、亦、嚢裝(なうさう)を發(ひら)く。而して雄充より、之を贈りし太左衞門なる者に、以つて謝意を陳ぶ。實(げ)に壬子六月十一日なり。

 郷俗、相ひ傳へて、蛇の冑を見し者は、後(のち)に亦、其の門戸(もんこ)を大きくせりと。知らず、果して此の祥(しやう)の有るや否(いな)や。余は唯だ好奇のみ、婆心(ばしん)敢へて除(じよ)して、之を珍重す。併せて之を獲(え)し所以(ゆゑん)を記して、以つて博雅の君子を挨(ま)つのみ。

津輕 小田切軍曹貞固(さだもと) 識(しき)す  

 

□やぶちゃん注

○前項連関:ヘッピリムシの博物誌から異形の蛇の兜の博物誌へ。「耳嚢 巻之九 鰹の烏帽子蛇の兜の事」でちらっと出たものの詳報である。しかしこれ、図を見れば、昆虫嫌いの私でさえも、『これを蛇の戴き居たりといふは非なるべし。是全くかぶとむし』鍬形『などの類の蟲の頸なり。蛇それを食て、首ばかりを餘したるか』と思った。以上の引用は国学者喜多村信節(きたむらのぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の「筠庭雑録(いんていざつろく)」(成立年未詳)に図入りで、文政四(一八二一)年の実見クレジットとして記載されたもので、全文と図を訳の後に配しておいた。なお、根岸が終わらせるつもりだったはず巻之九で結局、これがあったのに使わなかったとすれば、私は実は根岸は続投する気持ち(九百話より、やっぱ、キリのいい千話でしょう)が内心はかなり強かったのではないかとも思うのである。

・「津輕甲斐守家」これは弘前藩(津軽藩)の支藩である陸奥国津軽郡黒石(現在の青森県黒石市)に置かれた黒石藩、交代寄合旗本黒石津軽家五千石である。黒石陣屋は明暦二(一六五六)年に交代寄合旗本であった津軽信英により築かれたもので、本話が記される少し前の文化六年(一八〇九)年に(「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月)に当時の領主津軽親足(ちかたり 天明八(一七八八)年~嘉永二(一八四九)年)が加増されて一万石を領することとなって諸侯に列し、黒石藩として立藩、親足が初代藩主となった。

・「小田切軍造」「年藏」孰れも不詳。

・「天明五年乙巳四月十三日」西暦一七八五年。グレゴリオ暦では五月二十一日。季節的早いが、私が「蛇冑」の正体と考えているクワガタ類(何より後に載せる「筠庭雑録」の本文と図を参照されたい)は前年の秋に羽化して成虫となり、そのまま蛹室内で越冬するから、この時期にいて何らおかしくないのである。なお、採取のこの時の弘前藩分家黒石津軽家第六代当主は交代寄合旗本津軽寧親(やすちか)である。彼は、後の寛政三(一七九一)年に第八代藩主津軽信明が若死にしたためにその養嗣子となって主藩弘前藩第九代藩主となっている。この時、黒石の方は彼の長男典暁(つねとし)が継いだが、彼も若死にし、後を黒田直亨の四男であった先に示した津軽親足が末期養子となって継承した。

・「小屋敷村」現在の青森県黒石市大字小屋敷字小屋敷村。黒石の北北東方三・五キロメートルに位置する。

・「津輕黑石」青森県黒石市。先に述べた通り、文化六年(一八〇九)年に黒石藩の陣屋が置かれた。本話は執筆時には黑石藩が成立しているので、注の表現には敢えてそれが分かるように気配りしたつもりである。

・「治の西北一里許り」「治」は領主の主支配地である黒石のこと。三・九キロメートルであるから一致する。実は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では原文が『則左治之西北一里許』となっている。諸本を校合したところ、私は「在」が正しいという結論に達した。大方の御批判を俟つ。

・「相澤」小屋敷村の北東に隣接する位置に浪岡町がある。地図を見ると、そのずっと西方の山深い一帯に旧浪岡町地区があって、そこに浪岡大字相沢という地名を見出せる。

・「相澤村は黑石が東北二里半許りに在り」九・八キロメートルになるが、現在の地図上では直線で七・四キロメートル、その東北にある標高三百五十一メートルの都谷森山(つやのもりやま)があり、ここまでは、ずばり九・八キロメートル近い距離がある。

・「七曲阪」現行ではこの坂名は残っていないようである。ネットではヒットしない。

・「方三尺許り」約一辺が約九十センチメートルとあるから、かなり大きい。

・「棘」「とげ」ではおかしいので「いばら」と訓じた。「茨」「荊」は「棘」と書くからである。枳殻(からたち)などの棘(とげ)のある低木の総称であるが、木の枝ぐらいの意味で用いているように思われる。

・「皀莢子」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ Gleditsia japonica の実のこと。この豆果は漢方で皁莢(ソウキョウ)という生薬として去痰薬・利尿薬に用いる。なお、この木の樹液をカブトムシを始めとする甲虫類が好むことから、カブトムシのことを別称で「サイカチムシ」とも呼ぶ。

・「倭」辞書などには出ないが、岩波の長谷川氏注には『きりさげ髪。二本の補足垂れ下がった部分が』その蛇冑には『あるのであろう』とあり、目から鱗。

・「纖然」細くすっきりとあるさまであろう。

・「瑩然」きらきらと輝いているさま。

・「寛政壬子」寛政四(一七九二)年。則ち、「蛇の冑」が採取されてから七年後のこと、ということになる。なお、この当時は黒石陣屋の当主は先に示した津軽典暁である。

・「弘前城」弘前藩藩庁。寛永四(一六二七)年の落雷により五層五階の天守が焼失、以後、二百年近く天守のない時代が続いていて、この当時もそうであったが、この寛政四年から十八年後の文化七(一八一〇)年に第九代藩主津軽寧親(やすちか)が三層櫓を新築することを幕府に願い出、本丸に現在見られる三層三階の御三階櫓(天守)が建てられている(ウィキの「弘前城に拠る)。

・「聘事を視修す」よく分からないが、重役に登用されて、まずは領内を視察巡検したということであろうか。

・「寡君」「寡徳の君」(徳の少ないことを言い、通常は自己を卑下して言う)の意で、諸侯の臣下が他国の人に対して自分の主君を自分の側として遜っていう形式上の謙遜語。

・「治【邑】」領有する村。

・「旅況」旅心。旅愁。

・「嚢裝」物を袋で包んだもの。

・「婆心」老婆心。度を越した親切心。小田切は五月蠅い好事家の自慢心やお節介からではなく、あくまで自身の純粋な好奇心からのみこの「蛇冑を護るの記」を記し、家伝として後代へ残すのだと述べているのである。

・「軍曹」古代に於ける征討軍や陸奥鎮守府の軍監(ぐんげん:将軍・副将軍に次ぐ軍事監督官。)の次位。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蛇甲(へびかぶと)の事

 

   津軽甲斐守家

   小田切軍造の所持せるものにして、現在は、その息子である年蔵所持になる

 

 「蛇(へび)の冑(かぶと)を護れる記」

 

 天明五年乙巳(きのとみ)四月十三日、津軽の百姓にて小屋敷(こやしき)村の太左衛門なる者[注:この小屋敷村とは津軽黒石に属しており、黒石の西北一里ばかりのところにある。]、そこの相澤と申す地の山中に、これ、蕨(わらび)を取りに入(い)った[注:相澤村は黒石の東北二里半ばかりのところにある。]。

 この山に「七曲坂(ななまがりざか)」と称するところがあるが、そこへ辿り着いたところ、冑(かぶと)を戴いた蛇を見いだし、直ちにこれを捕えんとしたところが、蛇は憤然として今にも太左衛門に嚙みつかんとする勢いであったによって、素早く頭巾を脱ぎ、その蛇の上を覆った[注:この地方の山村の百姓や猟師らは、男女ともに、三尺四方ほどの木綿(もめん)の巾(きれ)を以って頭を包んでおる。]上、その上から何度も木端(こっぱ)を以って叩いたところ、蛇は冑を脱いで逃げ去って行った[注:この里にては、往々この冑を被った蛇を見つけた者、その冑を得んと欲した場合は、必ず、何か物を以って覆えば、それだけで冑は自然と取れ落ちると称し、現在でも、その通りに対処している。]。

 太左衛門、この冑を拾って、よく検見(けみ)してみたところ、

――その形状は頗る皀莢子(そうきょうし)の豆に似ており

そうして、

――冑からは二つの角が高く聳え立つように相い対して左右に延び上がっており

――その脇にやはり二つの切り下げ髪のような飾りが細く美しく並び垂れてある

また、

――眼の玉に似ている箇所もあってそこはそこでやはり美しく金色に光り耀いてあった

これ、天然の妙、まことに以って賞美するに相応しく、珍重すべきものであった。

   *

 さて今年、寛政壬子(みずのえね)の年、私は、たまたま弘前城より招かれて、とある職務を遂行することとなった[注:言うまでもないが、津軽藩の治めておらるる御城である。]。先ず最初は黒石へ出向いて、招かれて命ぜられた職務上の巡検視察を行った[注:これも言うまでもないが、黒石は我らが御主君黒石津軽典暁(つねとし)様の御領地である。弘前の東北三里のところにある。]。

 その折り、とある一日(いちじつ)、私の友人榊雄充(さかきよしみつ)殿[注:通称は兵馬(ひょうま)。黒石の武士。]の来って雑談をなし、職務旅行の気鬱(きうつ)を慰めて呉れた。その折り、話がこの「蛇の冑」のことに及んで御座った。私はもとより、ことさらに好奇なるものを好む癖のあって、この奇体なる物の話を聞くや、愕然と致いて、舌はこれ、巻くどころか、上がったまんまに、ぴくりとも下がらずなってしまい、頻りにその「蛇の冑」を一見せんことを、これ、願った。

 すると雄充殿、それからほどなく再訪なされ、しかもかの「蛇の冑」を懐に入れて持ち来って、私がために、これを贈って呉れたのである。私はまた、その袋に包んだものを、これ、遂に開き見、まっこと、心打たれたのであった。……

 しかして、雄充殿に謝意を述べたは勿論のこと、これを贈り呉れた、その太左衞門なる者へも、これ、雄充殿より、くれぐれも礼を述べて貰うよう頼んで御座った。これは実に、壬子六月十一日のことで御座る。

 なお、この地方にて相い伝えることには、この「蛇の冑」を見たる者は、その後(のち)、また、その門屋敷、これ、大きく豪家(ごうけ)となる、と申しておる由。

 さても? 果して、この吉兆の、あるやなしや? こればかりは、分からぬ。

 ただ、私は全くの好奇心のみから――自慢せんとするような奇妙な欲心などにてはさらさらなく――これを珍重しておるに過ぎぬ。

 されば、併(あわ)せて、これを入手し得た事情をここに記し、以って後代の博覧強記の御仁によって、この「蛇の冑」の何(なん)なるかを、我ら及び子孫に教授下されんことを挨(ま)つのみ。

津軽 小田切軍曹(ぐんそう)貞固(さだもと) 識(しき)す  

Mimibukuro_hebikabuto_2

■附記

[やぶちゃん注:実録同酷似記事として「筠庭雑録」に載る「蛇の冑」を電子化しておく。底本は吉川弘文館昭和四九(一九七四)年刊「日本随筆大成 第二期第七巻」を底本としつつ、漢字は恣意的に正字化した。]

 

   ○蛇の冑

文政四年夏日、ある人のもとにて異物を見る。津輕家士の所藏となむ。蛇の冑と名づけて記文あり。其略(オホヨソ)は、天明五年乙巳四月十三日、津輕之民小屋敷村太左衞門者。〔割註〕小屋敷村屬津輕黒石。則在治之西北一里許。采蕨相澤山中〔割註〕相澤村在黒石東北二里半計。」山有七曲阪。行見胃蛇云々あり。それをとり傳へて、蛇の冑とは名づけたり。其狀大さ圖の如く、色は面黑褐色、裏は褐色なり。角幷に下にある蝸牛角の如き物黑漆の如し。角も動かせば少し動く、蝸牛角のやうなるものは、前と横とに動く。眼は黄色なり。總て光澤あり。鼻の下の穴は口なるべし。背には穴なし。これを蛇の戴き居たりといふは非なるべし。是全くかぶとむしなどの類の蟲の頸なり。蛇それを食て、首ばかりを餘したるか。おぼつかなし。蝦夷地へ行きたる人の隨筆、澁江長伯鴨邨瑣記といふものに、異蟲の圖をあらはして云、此二蟲ともに東蝦夷の人、名づけてシクバキリといふ。常にある蟲にて、さいかし蟲の一種なり。キリといふは蟲の事なりといへり。件の蛇冑はこの蟲なるべし。圖は雌雄と見へたり。寫生拙きにや。

 

Inteizaturoku_hebikabuto

 

[やぶちゃん注:図は右上に、

 〇蛇冑

左上に。

 鴨村瑣記

  シクバキリ

      圖

とある。

●「在治」底本では右に編者によるママ注記がある。

●「かぶとむし」現在は鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目コガネムシ上科コガネムシ科カブトムシ亜科 Dynastinae のカブトムシ類を指す語であるが、寧ろ、この時代の「かぶとむし」は私は同じコガネムシ上科クワガタムシ科 Lucanidae のクワガタ類こそ冑(かぶと)と呼ぶに相応しい形状と考えており、ここもクワガタ類を指していると考えている。「さいかし蟲の一種なり」という謂いからも断然、そう採るべきであろう。

●「澁江長伯」は幕府奥詰医師渋江長伯(宝暦一〇(一七六〇)年~文政一三(一八三〇年)で寛政五(一七九三)年に幕府の奥詰医師となり、巣鴨薬園総督を兼務、同十一年には幕命により蝦夷地で採薬した人物で、「鴨村瑣記(かもむらさき)」は彼の随筆。

●「シクバキリ」アイヌ語と思われるが「シクバ」は不詳。後に「キリといふは蟲の事なり」とあるが、これは小松和弘主宰「様似(さまに)アイヌ言語文化研究所」のサイト内の『「<私家版>浦河アイヌ語辞典」・動物・虫鳥・魚に関する用語』に「虫」の意で「キキリ」という語が見出せ、他のアイヌ語サイトでも確認出来た。

●「さいかし蟲」サイカチムシ(前の「耳嚢」本文の「皀莢子」の注を参照)。]

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