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2015/03/25

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十八章 講義と社交(Ⅱ) 家族学校講演と慶応義塾での進化論講話と剣道試合観戦 第十八章 講義と社交~了

 私は華族の子弟だけが通学する華族学校で、四回にわたる講義をすることを依頼された。校長の立花子爵はまことによい人で、私が発した無数の質問に、辛抱強く返事をしてくれた。私の質問の一つは、長い間別れていた後に再会した時、日本人は感情を表現するかということであった。私は、日本人の挨拶が如何にも冷く形式的で、心からなる握手もしなければ抱擁もしないことに気がついたので、この質問を発したのである。彼は日本の貴族が、長く別れていた後では、抱擁を以て互に挨拶することも珍しく無いといい、実例を示す為に私の肩に両腕を廻し、そして愛情深く私を抱きしめた。その後、私は、私を彼の「アメリカのパパ」と呼ぶ可愛らしい少年(今や有名な法律家で、かつてドイツ及び北米合衆国の日本大使館の参事官をしていた)に、彼の父親が、長く別れていた後で、両腕に彼を抱き込まぬかと聞いた。彼は「そんなことは断じて無い」と答えた。「然しお父さんは如何にして彼の愛情を示すのか?」「彼はそれを目で示すのです。」その後私は、彼の父親が遠方の町から私の家へ来て、息子に挨拶するのを見たが、なる程彼の両眼には、この上もなく優しい親の慈愛が輝いていた。

[やぶちゃん注:「華族学校」前述したように現在の学習院大学であるが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この四回に亙る講演は厳密に言うと大学の校舎ではなく神田錦町の学習院敷地内にあった華族会館で行われたもので、公演日は明治一二(一八七九)年七月二十日(日曜)・二十一日・二十四日・二十五日の四日であった。ウィキの「霞会館」(かすみかいかん:一般社団法人で同会館組織の後身の現存組織)組織としての華族会館は明治七(一八七四)年に発足(同組織は単なるクラブではなく書籍局・講義局・勉強局・翻訳局の設置がその規約に謳われている)、明治一〇(一八七七)年に華族子弟の教育機関として学習院が創立されたとある。また、華族会館が発足したのは浅草本願寺であったが、二ヶ月後に永田町の旧二本松藩邸に移り、ここで創立総会を開いて、その後、神田錦町の学習院内・宝田町・上野公園内文部省官舎へと移り、明治二三(一八九〇)年に鹿鳴館を借り受けて移転、明治二七(一八九四)年にはその八千坪の土地とともに総て買い受けたとあるから、一応、当時の神田錦町の学習院内であろうと推定する(鹿鳴館の落成は本記載内時間より四年後の明治一六(一八八三)年で、所謂、「鹿鳴館時代」というのは、そこから明治二〇(一八八七)年までの時期を指すのでモースが永遠に日本を去った後であるので注意が必要である)。なお、この時の講演について、「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には、以下のようにある(注記号は省略した)。

   《引用開始》

 同じ七月にモースは、神田錦町にあった華族会館で、四回連続の講演を行なっている。これは上流階級を対象にしたもので、そのときの招待状――

[やぶちゃん注:以下、底本では引用全体が一字下げ。底本は新字であるが、ここは恣意的に正字化した。]

「今般米國博物大博士東京大學教授モールス氏ヲ本館ニ招請シ、左ノ題案ヲ講述致候(東京大學理學部教授矢田部良吉口訳[原文、割注])。右ハ新説奇聞ニシテ學術上裨補不少候條、同族一般(不論男女)日割之通リ毎日午前八時御來館、聴聞相成度候也。

  明治十二年七月十六日   華族會館

  課題幷(ならびに)日割

一 動物成長ノ怪異    七月廿日

一 蟻ノ奇ナル習慣    同 廿一日

一 人生ノ原由      同 廿二日

一 日本ノ古人種     同 廿五日」

 このうちの「人生ノ原由」は人類の由来ということだろう。講演は、毎回朝八時半くらいから一時間半ほどだったという。皇族も聴講し、最終日には講演後パーティが開かれ、三五〇人が出席したと『その日』にある。

   《引用終了》

老婆心乍ら、この内の、

 右ハ新説奇聞ニシテ學術上裨補不少候條、同族一般(不論男女)日割之通リ毎日午前八時御來館、聴聞相成度候也。

は、

 右は新説奇聞にして、學術上、裨補(ひほ)少なからず候(さふら)ふ條(でう)、同族一般(不論男女(なんによ)を論ぜず)日割(ひわ)りの通り、毎日午前八時御來館、聴聞(ちやうもん)相ひ成られたく候ふなり。

と読んでいよう。「裨補」は「ひほ」と読み、畳語で、助けおぎなう意である。

「校長の立花子爵」学習院初代院長立花種恭(たねゆき 天保七(一八三六)年~明治三八(一九〇五)年)。旧陸奥下手渡藩第三代藩主(佐幕派)、後に旧筑後三池藩藩主として廃藩を迎え、明治二(一八六九)年に版籍奉還により知藩事となるが、明治四(一八七一)年には廃藩置県により退任、明治一〇(一八七七)年十月から明治一七(一八八四)年五月まで学習院初代院長を務めた。但し、子爵になったのは明治一七(一八八四)年七月八日のことであるから、この時(明治一二(一八七九)年七月)は子爵ではない。しかも授爵はモースが永遠に日本を発った翌年のことである。これはもしかすると、その後に彼からの手紙があったか、関係者からの報知によって子爵となったことを記憶していたモースが時差無視してこう記述したしまったものかと思われる)。その後は明治二三(一八九〇)年七月に貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任した。その他、華族会館副幹事・同学務局長・宮内省御用掛・同省爵位局主事などを務めた(以上は主にウィキの「立花種恭」に拠った。下線はやぶちゃん)。

『私を彼の「アメリカのパパ」と呼ぶ可愛らしい少年(今や有名な法律家で、かつてドイツ及び北米合衆国の日本大使館の参事官をしていた)』「第十一章 六ケ月後の東京 21 モース遺愛の少年宮岡恒次郎」に出る東大予備門の学生で、モースの動物学教室の助教で生物学者高嶺秀夫の書生でもあった、モース一家から実の子同然に可愛がられたという宮岡恒次郎のことである。リンク先の私の「小宮岡」(“little Miyaoka”)の注を参照されたい。当時は恒次郎は未だ満十三、四歳であった。なお、床間彼方氏のブログ「青二才赤面録」の「926 宮岡恒次郎・その2」には、宮坂(彼は元は竹中姓で養子である)の出自について(ということはモースの弟子格となる恒次郎の兄で医師の竹中成憲も)『幕臣、譜代・旗本を強く匂わせる』という記載がある。この推理が本当なら、この少年はこれ――美濃岩手竹中家本家――かの竹中半兵衛の子孫ということになるのである! リンク先、必読!]

 

 華族学校は、間口二百フィート以上もある、大きな木造の二階建で、日本人が外国風を真似て建てた多くの建物同様、納屋式で非芸術的である。両端には百フィートあるいはそれ以上後方に突出した翼があり、それ等にはさまれた地面を利用して大きな日本の地図が出来ている。これは地面を山脈、河川、湖沼等のある浮彫地図みたいに築き上げたもので、滞沼には水が充してあり、雨が降ると河川を水が流れる。富士山の頂上は白く塗って雪を示し、平原には短い緑草を植え込み、山は本当の岩石で出来ている。都邑はそれぞれの名を書いた札によって示される。大海には小さな鼠色の砂利が敷き詰めてあるが、太陽の光線を反射して水のように輝く。この美しくて教育的な地域を横切って、経度と緯度とを示す黒い針金が張ってある。小さな娘たちが、彼等の住む町や村を指示する可く、物腰やさしく砂利の上を歩くところは、誠に奇麗な光景であった。日本の本州はこの地域を斜に横たわり、長さ百フィートを越えていた。それは日本のすべての仕事の特徴である通り、精細に、正確に設計してあり、また何百人という生徒のいる学校の庭にあるにもかかわらず、完全に保存されてあった。私はまたしても、同様な設置が我国の学校園にあったとしたら、果してどんな状態に置かれるであろうかを考えさせられた。

[やぶちゃん注:ネット上にこの大八洲のミニチュアの写真がないか探したが、見当たらない。写真その他、情報をお持ちの方、是非、御教授あれかし。

「間口二百フィート以上」建物のフロント幅六十一メートル以上。

「百フィート」三十・四八メートル。]

 

 私はこの学校で初めて、貴族の子供達でさえも、最も簡単な、そしてあたり前の服装をするのだということを知った。ここの生徒達は、質素な服装が断じて制服ではないのにかかわらず、小学から中等学校に至る迄、普通の学校の生徒にくらべて、すこしも上等なみなりをしていない。階級の如何に関係なく、学校の生徒の服装が一様に質素であることに、徐々に注意を引かれつつあった私は、この華族女学校に来て、疑問が氷解した。簡単な服装の制度を立花子爵に質問すると、彼は、日本には以前から、富んだ家庭の人々が、通学する時の子供達に、貧しい子供達が自分の衣服を恥しく思わぬように、質素な服装をさせる習慣があると答えた。その後同じ質問を、偉大なる商業都市大阪で発したが、同じ返事を受けた。

[やぶちゃん注:「華族女学校」学習院女子中・高等科の前身。
 
「その後同じ質問を、偉大なる商業都市大阪で発した」この「その後」とは明治一五(一八八二)年六月の三度目の来日で同年七月二十六日からフェノロサやビゲローと関西を旅した折りのことと思われる。モースはこの四十日後の明治十二年九月三日に帰国しており、その間、関西方面には行っていない。]

 

 この学校に於る私の最後の講義には、皇族方や、多数の貴族やその家族達が出席された。率直さや礼儀正しさによって、まことに彼等は貴族の名に辱じぬものがある。彼等の動作の、すこしもてらう所無き魅力は、言語に現し得ぬ。これは興味の深い経験であった。そして、通訳者を通じで講義せねばならぬので、最初は窮屈だったが、遂に私は一度に一章を云うことに慣れ、それを私の通訳者たる矢田部教授が日本語でくり返した。この最後の講義の後で、西洋風の正規の正餐が出たが、それは大したものであった。正餐に臨んだ人数は三百五十人で、私はひそかに彼等の動作や行動を視察した。静粛な会話、遠慮深い謝礼、お辞儀や譲り合い、それ等はすべて極度の率直さと、見事な品のよさで色どられていた。

[やぶちゃん注:「矢田部教授」矢田部良吉。]

 

 私は福沢氏の有名な学校で講演する招待を受けた。日本で面会した多数の名士中、福沢氏は、私に活動力も知能も最もしっかりしている人の一人だという印象を与えた。私は、実物や黒板図に依て私の講演を説明し、自然陶汰の簡単な要因を学生達に判らせようと努力した。この種の経験のどれに於ても、私は、日本人が非常に早く要点を捕えることに気がついたが、その理由はすぐ判った。日本人は、米国人が米国の動物や植物を知っているよりも遙かに多く、日本の動植物に馴染を持っているので、事実田舎の子供が花、きのこ、昆虫その他類似の物をよく知っている程度は、米国でこれ等を蒐集し、研究する人のそれと同じなのである。日本の田舎の子供は、昆虫の数百の「種」に対する俗称を持っているが、米国の田舎の子供は十位しか持っていない。私は屢々、彼の昆虫の構造上の細部に関する知識に驚いた。

[やぶちゃん注:モースが最後に虫の名前の子どもらの知識について述べていることは、実はそれ以上にモースの専門やそれに近しい魚類や海産無脊椎動物の名前にこそ言うべきであるという気が私はする。これは今現在の、大人の日本人と外国人の間でも、はっきりとした有意な違いである。あなたの近くの外国人に魚や貝の名前を母国語でどれだけ挙げられるか競争してみられるがよい。まず、十中八九、あなたの勝ちである。

「福沢氏の有名な学校」無論、「福沢」は福沢諭吉、「学校」は彼の創立した慶応義塾大学であるが、これは順序からいうと、華族会館での講演よりも九日前の七月十一日に行われた進化論講話を指している。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に以下のようにある(注記号は省略した)。

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]『慶応義塾百年史』に引用されている当日の『永井好信日記』には、

[やぶちゃん注:以下、底本では引用全体が一字下げ。底本は新字であるが、ここは恣意的に正字化し、読みも歴史的仮名遣に代えた。]

「此日午前十時半頃東京大學の教師「モールス」、メンデンホール、フェネロサの三氏及び英國の女一人來たり、當塾教授を一見し、終(をはり)て柔術場に至り、柔術、劍術を見、夫(それ)より三階に至り午飯を喫し、終て書生一同で公開演説館に會し、モールス氏變進論(エボリユーシヨン)を演説し、矢田部氏之を口譯せり。右演説をはり暫時萬來舍にて福澤先生及び教師等と談話し歸れり」

とある。福沢諭吉はモースを高く評価しており、明治十一年十二月十八日付の田中不二麿宛書簡でモースを東京学士会院の会員に推薦したほどだった。もっとも、モースがアメリカ人だったからか、帰国を決意していたからか、この推薦は実現しなかった。また、のちに福沢は、留学した子息捨次郎の世話をモースに頼んでもいるのである。

   《引用終了》]

 

 一例として、私が一人の小さな田舎の子で経験したことを挙げよう。私は懐中拡大鏡の力をかりて彼に、仰向けに置かれると飛び上る叩頭虫(こめつきむし)の、奇妙な構造を見せていた。この構造を調べるには鏡玉(レンズ)が必要である。それは下方の最後の胸部環にある隆起から成っており、この隆起が最初の腹部切片にある承口にはまり込む。叩頭虫は背中で横になる時、胸部と腹部とを脊梁形に曲げ、隆起は承口を外れてその辺にのりかかる。そこで身体を腹面の方に曲げると、一瞬間承口の辺で支えられる隆起は激烈な弾き方を以てピンと承口の中へはまり込み、その結果虫が数インチ空中へ飛び上る。さてこの構造をよく知っているのは、我国では昆虫学者達にとどまると思うが、而もこの日本の田舎児はそれを総て知っていて、日本語では米搗(つ)き虫というのだといった。蹴爪即ち隆起が臼の杵と凹(くぼみ)とを現しているのである。彼は然し、この構造を精巧な鏡玉で見て大きによろこんでいた。

[やぶちゃん注:「叩頭虫(こめつきむし)」(謂わずもがな乍ら、「叩頭」は音「コウトウ」で「こめつきむし」は無論、当て字)原文は“an elater beetle”。“elater”は植物学用語で胞子を弾き出す弾糸で、ここに言う鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae のコメツキムシ類(英名は他にClick beetle とも)をも指す。ウィキの「コメツキムシ」によれば、『天敵に見つかると足をすくめて偽死行動をとる(世に言う「死んだふり」)。その状態で、平らな場所で仰向けにしておくと跳びはね、腹を下にした姿勢に戻ることができる。(胸―腹の関節を曲げ、胸を地面にたたきつけると誤解されるが、頭―胸を振り上げている。地面に置かず手に持つことで確認できる』。『この時はっきりとパチンという音を立てる。英語名のClick beetleはクリック音を出す甲虫を意味する』。『天敵などの攻撃を受けてすぐに飛び跳ねる場合もある。これは音と飛び跳ねることによって威嚇していると考えられている。この行動をとらないコメツキムシ科の種も存在する』とある。なお、その跳躍の高さを「数インチ」(一インチは二・五四センチメートルであるから六インチとしても十五センチメートル強だが、コメツキムシは大型個体ならその跳躍は三十センチメートルに及び、恐らく動物の中では恐ろしく敏捷な動作を示す。

「承口」「うけぐち」と訓じている。

「米搗(つ)き虫」原文は“a rice-pounder”。“pounder”は石板や鉢で擂り潰す人、突き砕く人の意。]

 

 講演後福沢氏は私に、学生達の素晴しい剣術を見せてくれた。彼等は皆剣術の甲胃を身につけていた。それは頸部を保護する褶(かさね)と、前方に顔を保護する太い鉄棒のついた厚い綿入れの冑と、磨いた竹の片で腕と肩とを余分に保護した、つっばった上衣とから成っている。上衣には綿入れの褶数片が裾として下つている。試合刀は竹の羽板を数本しばり合わせたもので、長い日本刀に於ると同じく、両手で握るに充分な長さの柄がついている。大なる打撃は頭上真直に来るので、両手で試合刀を縦に持ち、片方の手を前方に押すと同時に下方の手を後に引込ます結果、刀は電光石火切り降される。

[やぶちゃん注:「褶(かさね)」原文は“lappets”。この訓は一般的なものではない。防具の面の正面の咽喉の前に下がる「顎(あご)」と左右の「面布団(めんぶとん)」。“lappets”は衣服・帽子などの垂れ飾り・垂れで、石川氏の「褶」は襞状の垂れ下がるものを指して言っているらしいが、訓ならば「しびら」「ひらみ」「ひらおび」である。但し、それらは孰れも腰に垂らすものであり、失礼ながら、石川氏は鎧の「札(さね)」の意に慣用転用しておられるようにも見える。]

 

 学生達は五十人ずつの二組に分れ、各組の指導者は、自分を守る家来共を従えて後方に立った。指導者の頭巾の上には直径二インチ半で、糸を通す穴を二つあけた、やわらかい陶器の円盤があり、対手の円盤をたたき破るのが試合の目的である。丁々と相撃つ音は恐しい程であり、竹の羽板はビシャンビシャンと響き渡ったが、もっとも撲った所で怪我は無い。福沢氏は、有名な撃剣の先生の子息である一人の学生に、私の注意を向けた。彼が群衆をつきやぶり、対手の頭につけた陶盤をたたき潰した勢は、驚く可きものであった。円盤は数箇の破片となって飛び散り、即座に争闘の結果が見えた。学生達は袖の長い籠手(こて)をはめていたが、それでも戦が終った時、手首に擦過傷や血の出るような搔き傷を負った者がすくなくなかった。

[やぶちゃん注:ここで唐突に二回目の来日の記載は終わっている。モースは実はこの二回目の来日を最後として、この時には三度目の来日は考えていなかった(故郷の友人ジョン・グールド宛書簡では専門の腕足類の研究と書物の執筆の他、イーディスとジョンの教育上の問題をその理由として挙げている)。そうした当時の彼自身の内心を見透かされることをモースは――愛する日本のために――嫌ったのかも知れない。それが、こうした不思議なブレイクになって表れているように、ここまでモース先生と一緒にやってきた私には、何となく、感じられるのである。但し、モースは離日の前月の八月中旬に武蔵国冑山(かぶとやま:現在の埼玉県東松山市と熊谷市の境)の古墳を調査しているが、ここは次の三度目の来日の際に行った同所の調査と混同してずっと後の「第二十四章 甲山の洞窟」で一緒くたに書かれてしまっている(随って、この時調査はそちらで注する)。

「丁々と相撃つ音は恐しい程であり、竹の羽板はビシャンビシャンと響き渡ったが、もっとも撲った所で怪我は無い。」原文は“The noise of the clash was terrific; the slats of bamboo made a resounding whack, though the blows did no damage.”である。“whack”というのは一種のオノマトペイアらしく、棒で殴打・強打すること・ぴしゃり、と辞書にある。

「二インチ半」六・三五センチメートル。]

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