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« 停滞にあらず | トップページ | 今日の「耳嚢 巻之十 兄の敵を討し者の事」について »

2015/03/11

耳嚢 巻之十 兄の敵を討し者の事

 兄の敵を討し者の事

 

 朋友にて御徒頭(おかちがしら)勤(つとめ)し小笠原十左衞門は、劍術の師範をなしける者也。文化五六の年より、同人方に召仕(めしつかひ)儀中小性(ちうこしやう)、羽州者にて倉尾又藏と名乘(なのり)、三ケ年程も勤しに、隨分貞實ものにて、劍術傳法を願ったひし故、十左衞門も無他事(たじなく)傳授せしが、甚(はなはだ)執心にて晝夜共(とも)藝を勵(はげみ)ける間、拔群に上達なしける故、十左衞門より傳授の書物をも附屬せり。文化八未年、難去(さりがたき)心願有之(これある)由にて暇(いとま)を願(ねがひ)し故、任其意(そのいにまかせ)候處、尤(もつとも)十左衞門方に勤(つとめ)の内、聊(いささか)兄の敵(かたき)をねらひ候抔と申(まうす)事、主人は勿論傍輩へも不申(まうさず)候處、文化八未年九月廿二日、敵土屋丑藏(うしざう)を討(うち)候由の又藏書面、庄内鶴岡又藏隨身(ずいじん)の者より奧書をいたし、十左衞門家來宛の書面差越(さしこし)、且(かつ)山田周佐(すさ)と申(まうし)候もの方へ、十左衞門方へ差出(さしいだし)候樣(やう)書付到來、且(かつ)劍法傳授の書物も、十左衞門方へ、右敵討(かたきうち)の前日、返上の樣(やう)いたし度(たき)旨、人に預け候由にて是又到來の趣(おもむき)、十左衞門物語有之(これあり)。右敵討の元來の譯合(わけあひ)も、不相分(あひわからず)候得共、誠(まこと)事實無相違(さういなき)事故、十左衞門相(あひ)見せ候。書面爰に記し置(おく)。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が最後まで二字下げ。二箇所の書状の表書は底本では書状封筒(以下の図像の通り、ただの四角い枠ではなく、リアリズムのあるものである)の図の中に入っているのでまずそれを画像で再現し、次にテクストに起こした(二つの封書表書画像は編集権侵害に当たらぬよう、底本の図像(封書の枠線)部分のみを拝借し、中の活字部分(底本フォントは明朝であるが、ここでは楷書太字を用いてみた)は総て私が新たに打ったものである)。以下の本文は、原文を存分に味わって戴くために、底本のままに読みを附さずに示した。読みを附したものは、後に掲げてある。底本は活字の大きさにも心配りがなされてあるが、ブログ公開版では操作が難しく、完全には底本に準じてはいない(図像中のそれは底本に準じて変えて示した)。]

Kataki1

 
 

  庄内鶴ヶ岡

 

小笠原十左衞門樣御内    倉 尾 又 藏

 

   岩 崎 正 兵 衞 樣

 

   渡  邊  源  藏  樣

 

 

 

 

尚々私心願御座候處十分に成就仕候。委細之儀は追而申上候。前日認に御座候間荒增宗四郎より可申上候。

一筆啓上仕候先以

上々樣益御機嫌克被遊御座恐悦の至に奉存候。各樣方御家内樣御壯健に被爲入珍重奉存候。私儀無異に道中仕、當月八日に着仕候。只今迄段々御高情に預り難有仕合に奉存候。右時候御尋申上度如此御座候。恐惶謹言

  九月二十二日          倉 尾 又 藏

   岩 崎 正 兵 衞 樣

   渡  邊  源  藏  樣 參人々御中

尚々九月二十二日朝五ツ半時敵土屋丑藏に出合、一時餘相戰候處、午角にて右前日遺言に依て相認奉貴覽入。

              羽陽庄内 宗 四 郎

Kataki2

 
 

 

 

 小笠原十左衞門樣へ差上度段申來候

 

 書付麁紙亂筆に御座候得共到來之儘

 

 奉差上候   山 田 周 佐

 

 

 

 

折付

 六番町

  小笠原十左衞門殿          羽州庄内敵討

當廿二日、土屋丑藏養租父久左衞門忌日に付、總穩寺へ佛參いたし候處、股引半天着用之壯士近寄、其元には土屋丑藏に候哉、某は土屋萬次郎弟虎松、當時倉尾又藏と申ものにて、先年兄萬次郎を手に被懸候鬱憤を散じ申度、年月心懸罷在候、今日出會大慶不過之、尋常に勝負も致候得と詰寄。時に丑藏挨拶には、兄の敵と被存候も、所謂有に似たれども、萬次郎儀はおりを破り出奔いたし、其後立歸り所々惡業の聞へ有り、依て指圖に召捕歸り候途中に而、腰刀に而手向致候に付、手取にとあしらひ候、後ロより、同姓三藏及殺害に候。乍去兄の敵を打度と數年心懸、遙々罷越候段神妙に候得ば、任其意に勝負を可決候。場所と云、且屆も無之に、不可然と云宥候得共、不聞入。此期に場所等可憚哉と、切てかゝり候間、拔合良暫くいどみ戰ひ候處、虎松聲を上げ、敵討おふせたるぞ、出あへと呼ばるに、丑藏相手に助太刀もやと、少し心配りしひるみか、右の腕に疵を得る。されどもさわがず、左の手にて眞甲を切込を、ひねりたるや、耳の上よりあごまで切下らる。續けて右の膝の上をしたゝかに切付る。丑藏も肩先疵付、双方數ケ所疵負といへども、少しもたゆまず彌戰の處、互に危急の手に至り、最早勝負是迄、此上據人を得候て、刺違可申と引分れたをれ候所へ、竹内修理參り懸り候而、丑藏に委細承り屆、刺違まで見屆遣し候由。修理存寄には、立歸りの牢人、討捨可然、丑藏には存命候樣にと申候得共、見候通双方重き手負、迚も奉公も不相成體に候得ば、不差留に見屆呉候樣に賴に付、末期の水を爲吞、爲差違候由。丑藏は言舌も不斷に不相替候へ共、又藏は最初よりあごの疵にて、物言分り兼候由。刺違も漸三寸計突立候由。丑藏は左の手に候得共、裏かき候由。疵は双方とも十ケ所餘り也。双方見事に刺違候。

 

■一部に読みを附した資料パート

[やぶちゃん注:字配を詰め、一部に私の附加補正した字を〔 〕で挿入した。]

 

 
 

            庄内鶴ヶ岡

 

小笠原十左衞門樣御内(みうち)  倉尾又藏

 

   岩崎正兵衞樣

 

   渡邊 源藏樣

 

 

尚々(なほなほ)私(わたくし)心願御座候處十分に成就仕(つかまつり)候。委細之儀は追而(おつて)申上(まうしあげ)候。前日認(したため)に御座候間荒增(あらまし)宗四郎(むねしらう)より可申上(まうしあぐべく)候。

一筆啓上仕候先以(まづもつて)

上々(うへうへ)樣益(ますます)御機嫌克被遊(よろしくあそばされ)御座〔候〕恐悦の至(いたり)に奉存(たてまつりぞんじ)候。各(おのおの)樣方御家内樣御壯健に被爲入(いらせられ)珍重奉存(たてまつりぞんじ)候。私儀無異に道中仕(つかまつり)、當月八日に着仕(ちやくつかまつり)候。只今迄段々御高情に預り難有(ありがたき)仕合(しあはせ)に奉存(たてまつりぞんじ)候。右時候御尋申上度(おたづねまうしあげたく)如此(かくのごとく)御座候。恐惶謹言

  九月二十二日          倉尾又藏

   岩崎正兵衞樣

   渡邊 源藏樣 參人々(まゐるひとびと)御中

尚々九月二十二日朝五ツ半時(どき)敵(かたき)土屋丑藏(うしざう)に出合(であひ)、一時餘(いつときあまり)相戰(あひたたかひ)候處、午角(ごかく)にて右前日遺言に依(よつ)て相認(あひしたため)奉貴覽入(きらんにたてまつりいれ)〔候〕。

              羽陽(うやう)庄内 宗四郎

 

 
 

 

 

 小笠原十左衞門樣へ差上度(さしあげたき)段申來(まうしきたり)候

 

 書付麁紙(そし)亂筆に御座候得共(さうらえども)到來之(の)儘(まま)

 

 奉差上(さしあげたてまつり)候         山田周佐

 

 

 

 

折付(をりつけ)

 六番町

  小笠原十左衞門殿          羽州庄内敵討(かたきうち)

當廿二日、土屋丑藏養租父久左衞門忌日に付、總穩寺(さうをんじ)へ佛參いたし候處、股引(ももひき)半天(はんてん)着用之壯士近寄(ちかより)、其元(そこもと)には土屋丑藏に候哉(や)、某(それがし)は土屋萬次郎弟虎松(とらまつ)、當時倉尾又藏と申(まうす)ものにて、先年兄萬次郎を手に被懸(かけられ)候鬱憤を散じ申度(まうしたく)、年月心懸(こころがけ)罷在(まかりあり)候、今日(こんにち)出會(であひ)大慶(たいけい)不過之(これにすぎず)、尋常に勝負も致(いたし)候得(さふらへ)と詰寄(つめよる)。時に丑藏挨拶には、兄の敵(かたき)と被存(ぞんぜられ)候も、所謂(いはれ)有(ある)に似たれども、萬次郎儀はおりを破り出奔いたし、其後立歸(たちかへ)り所々惡業の聞へ有り、依(よつ)て指圖(さしず)に召捕歸(めしとりかへり)り候途中に而(て)、腰刀(こしがたな)に而(て)手向(てむかひ)致(いたし)候に付、手取(てとり)にとあしらひ候、後(うし)ロより、同姓三藏及殺害(せつがいにおよび)に候。乍去(さりながら)兄の敵を打度(うちたき)と數年心懸(こころがけ)、遙々(はるばる)罷越(まかりこし)候段神妙に候得(さふらえ)ば、任其意に(そのいにまかせ)勝負を可決(けつすべし)候。場所と云(いひ)、且(かつ)屆(とどけ)も無之(これなき)に、不可然(しかるべからず)と云宥(いひなだめ)候得共(さふらえども)、不聞入(ききいれず)。此期(このご)に場所等(など)可憚(はばかるべき)哉(や)と、切(きり)てかゝり候間、拔合(ぬきあはせ)良(やや)暫くいどみ戰ひ候處、虎松聲を上げ、敵討(かたきうち)おふせたるぞ、出あへと呼ば〔は〕るに、丑藏相手に助太刀(すけだち)もやと、少し心配りしひるみか、右の腕に疵(きず)を得る。されどもさわがず、左の手にて眞甲(まつかう)を切込(きりこむ)を、ひねりたるや、耳の上よりあごまで切下(きりさげ)らる。續けて右の膝の上をしたゝかに切付(きりつけ)る。丑藏も肩先疵付(きずつき)、双方數ケ所疵負(おふ)といへども、少しもたゆまず彌(いよいよ)戰(たたかふ)の處、互(たがひ)に危急の手に至り、最早勝負是(これ)迄、此上(このうへ)據人(きよにん)を得候て、刺違(さしちがへ)可申(まうすべし)と引分(ひきわか)れたをれ候所へ、竹内修理(しゆり)參り懸り候而(て)、丑藏に委細承り屆(とどけ)、刺違まで見屆遣し候由。修理存寄(ぞんじより)には、立歸(たちかへ)りの牢人、討捨(うちすて)可然(しかるべし)、丑藏には存命候樣(やう)にと申候得共、見候通(とほり)双方重き手負(ておひ)、迚(とて)も奉公も不相成(あひならざる)體(てい)に候得ば、不差留(さしとめず)に見屆(みとどけ)呉(くれ)候樣に賴(たのむ)に付、末期(まつご)の水を爲吞(のませ)、爲差違(さしちがへさせ)候由。丑藏は言舌(げんぜつ)も不斷に不相替(あひかはらず)候へ共(ども)、又藏は最初よりあごの疵にて、物言(ものいひ)分り兼(かね)候由。刺違(さしちがひ)も漸(やうやう)三寸計(ばかり)突立(つきたて)候由。丑藏は左の手に候得共、裏(うら)かき候由。疵は双方とも十ケ所餘り也。双方見事に刺違(さしちがひ)候。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。敵討(かたきうち)実録物。以下の注で明らかにするように、これは実際にあった敵討事件である。兄の敵討を成し、相討ちとなった弟の自筆文書と、その互いに差し違えるまでの一部始終を実録した見届け人の自筆文書の写しである。私は読みながら、下手な時代劇なんぞより、遙かに心打たれたことをここに告白する。読み進むうちに我々は驚天動地の事実に気づくことになる。又蔵が兄萬次郎の敵きとする丑蔵自身が語る兄の最期のシーンである。「……腰刀にて手向ひ致し候に付き、手取(てとり)にとあしらひ候、後ろより、同姓三藏、殺害に及びに候……」――丑蔵は護送中に脱走を試み、腰刀を抜いてはむかってきたため、丑蔵は素手で制止させ、再捕縛しようとした――と丑蔵は言っているのである。そうして、萬次郎を背後から斬り殺したのは――丑藏と「同姓」の別人――土屋三蔵――であったと、述べているのである。則ち、この敵討ちの、その瞬間の時間内の人々には、これ実は、何処にも当然殺されねばならぬ/殺されても仕方がない/時代劇お得意の勧善懲悪の惡業三昧の者など、何処にもいない、のである(敢えて言うなら兄萬次郎こそが、死んでも仕方がない/どうしようもない不良武士であった可能性さえ、ここにあっては濃厚でさえある)。――或いはまた、こうした不条理な現実を冷たく嘲笑したりするニヒリストも、いないのである。封建社会に於ける敵討ちや上意討ちの余りにも哀しい真実の一つが、私はここに実に鮮やかに浮き彫りにされている気がする。――この二人は孰れも武芸に優れた好青年であった。――彼らは孰れも、死ぬべき謂われなどない、若者であった。何と、悲しいことであろうか?! 彼らは何故死なねばならなかったのか?――これについて、万人どころか、私一人をさえも論理的に納得させ得る答えは、決してない、と私は断言出来る。そして何より大事なことは、これが風聞や流言飛語の類いではなく、根岸の友人でしかも当事者である倉尾又蔵(実は実名は土屋虎松又蔵。後の「倉尾又藏」の注を参照)の剣術の師である小笠原十左衞門方に送られてきた一包二通の書状につき、直接十左衛門から見聴きして複写したもの――歴史学で言うところの確実な一次資料――であるという点である。なお、本実話は、長谷川伸が戯曲「総穏寺の仇撃」を書き、国劇として大当たりし、また近年では藤沢周平によって「又蔵の火」という短編時代小説ともなっており、こちらに梗概が載るが、私は孰れも未読である。これらを読めば、私のいろいろな疑問は、もしかすると氷解するのかも知れない。しかし、ここでは敢えて、まず本文から与えられた情報(くどいが一次資料であるからこの考証は正当である)に基づき、私がオリジナルに推理し、それに後付けで、ネット上の幾つかの史実記載(しかし実際には「又蔵の火」関連のレビュー系やモデル関連記載が殆んどである。最初に見つけたのも個人サイト「村から街から」の「庄内・鶴岡市に藤沢周平作品の場所を訪ねて」であったが、そこにはサイト主の「又蔵の火」についての率直な感想として、『心で何故か物語が落ち着きません。土屋丑蔵への仇討ちは極めて理不尽ではないかと言う思いが何時までも消えないのです。土屋の面汚しとして討たれた兄にかわって、一言いうべきことがある、火のように体を貫いた復讐心と書かれた又蔵の心象風景が実感として受け入れられないのです』とある。また、藤沢周平自身もこの話の中のある種の不条理性や苦さをその「あとがき」で『読む人に勇気や生きる知恵をあたえたり、快活で明るい世界を開いて見せる小説が正のロマンだとすれば、この小説は負のロマンというしかない』と述懐している。以上はグーグル・ブックスの松田静子・本間安子編集「海坂藩遙かなり 藤沢周平こころの故郷」の本事件の本間安子氏の記載からの孫引き)として残されているものを幾つか附す形で注を進めたい。これは、私の又蔵虎松と丑蔵という二人の若者の魂へのオマージュであるからである。なお、「総穏寺の仇撃」や「又蔵の火」を読んだら、また追記をしたいとは思っている(実は本話柄は前記本間安子氏の記載によれば、古く当時から、藩中の横死事件を記録した「秋官余言」「閑散文庫」や、実況的に描写されている「滝沢八郎兵衛日記」、作家池田玄斉作「故郷の紅葉」、惨劇のあった総穏寺の隣りにあった光学寺から覗いていた樋越松風斉の風刺的な「文化鍛治虎丑相討ちの巻」、庄内藩藩校致道館助教坂尾萬年が『虎松の悌心と丑蔵の義烈を後世に伝えんと』して記したとある「土屋虎松復讐記」などがあり、『現代になって第二次世界大戦の頃、この事件に関する記事や出版などが盛んであった』ともあり、近くは二〇〇七年中公新書刊の氏家幹人「かたき討ち 復讐の作法」にも出るらしく(以上総て私は未見)、これ捜せば、わんさと資料は出て来るらしいことも分かったこともここに附記しておく。

・「小笠原十左衞門」底本の鈴木氏注に、『六番町に住んでいたことが知られるが、安政五年再板の番町切絵図には表六番町、裏六番町、ともに小笠原家が見当らない。小笠原久左衛門ならば、三年坂の近くにある』とあるが、しかし根岸が嘘をつく必要は、私はないと考える。この剣術指南は確かにここにいた、のである。

・「御徒頭」既注であるが、再注しておくと、将軍外出の際に徒歩で先駆を務め、沿道警備などに当たった担当職の組頭。

・「文化五六の年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、五、六年前となる。後注するように又蔵の上府は文化元年(一八〇四)年で齟齬はない。

・「中小性」ここでの謂いは正規の職分(狭義の幕府軍制では徒歩で将軍に従う歩行(かち)小姓組の主だった者を称した)としての呼称ではなく、侍と足軽の中間に位置する下級武士について用いられた呼称で、身分的には侍の最下層に属した者ことを指す。

・「羽州」出羽国の異称。現在の山形県と秋田県。

・「倉尾又藏」本文では後から元庄内藩(鶴岡藩)の藩士であったが、脱藩(恐らく兄の敵討ちには武芸が未だ未熟であったことや敵討ち自体が公に認められなかった――兄の行跡からは当然である――ことによるものと推測される)した者であったことが分かる。講談社「日本人名大辞典」にちゃんと載っている。土屋虎松(天明八(一七八八)年~文化八(一八一一)年)は出羽鶴岡藩藩士土屋久右衛門の庶子。実兄万次郎が土屋家を継いだ養子の丑蔵に殺されたため、敵討を決意、文化八年九月二十二日に丑蔵と決闘、万次郎の墓前で刺し違えて死去した。享年二十四歳。『名は別に又蔵』という、驚くべき記載があるのである(下線やぶちゃん)。本文に述べられている通り、実は萬次郎も又蔵も仇も実際の萬次郎を斬り殺した者も総てが同じ「土屋」姓なのである。これは実は偶然ではない。調べて見ると、驚くべきことに実は、萬次郎・又蔵とその仇である丑蔵は同じ――土屋久右衛門の一族――なのであった(実際に萬次郎を斬り殺した者もやはり同族と考えてよい)。ここで問題なのは「庶子」という表現である。そこで更に検索を掛けて見たところ、グーグル・ブックスで松田静子・本間安子編集「海坂藩遙かなり 藤沢周平こころの故郷」の本事件の記載を辛うじて一部、読むことが出来た(但し、残念なことに萬次郎が殺害されるに至る箇所が読めない)。そこにある系図(この系図を小説のそれではなく事実の記載として採るとすると)を見ると、実は萬次郎と虎松(兄より四つ下とある)は土屋久右衛門久明の妾の子であったことが分かった。そうして土屋久右衛門の正妻美代野は嫡男八三郎を産んで死亡、その八三郎は二十二で病死とあり、久右衛門は掘彦大夫なる人物の三男である才蔵とその妻九十尾(藩医久米娘)を夫婦養子として迎え、実はその間に生まれた年衛なる娘の婿が丑蔵(黒谷四郎吉行の次男)であることが分かった。則ち、そこで土屋家を丑蔵が婿養子として土屋家を継いでいるのである。則ち、非常に複雑であるが、萬次郎や又蔵(又蔵)から見ると(義理の銘の婿であるから)義理の甥という関係になるのであった。更に「日本掃苔録」の「土屋虎松」の頁には、庄内藩士土屋久右衛門の三男『として鶴岡新屋敷に生れ』、文化元年(一八〇四)年十七歳の時、『放蕩で自宅座敷牢に拘禁中の兄万次郎を脱出させ、共に江戸に出奔したが、路銀尽きて困窮したため、万次郎は金策のためひそかに庄内に戻ったところを見付けられ、義兄の養子丑蔵の手により殺された。虎松はこれを遺恨として仇討ちを決意。丑蔵と決闘し、万次郎の墓前で刺しちがえて死去した』(下線やぶちゃん)とあるものの、「又蔵の火」に基づくならば、兄萬次郎が殺害されたのは文化三年(一八〇四)年中のことで、これと先の系図に示された没年などから逆算推定すると、

 萬次郎(天明三(一七八三)年~文化三年(一八〇四)年五月) 享年二十二歳

であり、敵討ちの虎松(又蔵)と丑蔵の二人は、

 又蔵 (天明八(一七八八)年~文化八(一八一一)年)    享年二十四歳

 丑蔵 (天明元・安永一〇(一七八一)年~文化八年)     享年三十一歳

であることが判明するのである。映像を皆さんの脳裏に再現して戴きたいのである。虎松は丑蔵より七つ年下であるが、まだ二人とも本当に確かに若いのである。

・「文化八未年九月廿二日」グレゴリオ暦一八一一年十一月七日。

・「土屋丑藏」庄内藩士。実際のモデルは土屋家を継いだ久右衛門の夫婦養子の娘の婿であるもと黒谷四郎吉行次男であった土屋丑蔵である。前の「倉尾又藏」の注を参照のこと。

・「庄内」山形県北西部の地域名。現在の酒田市・鶴岡市。

・「山田周佐」不詳。まずは倉尾又蔵が総ての遺書を頼む以上、縁者か或いは知り合いのように見え、庄内藩士である可能が頗る高いと考える。であれば一見、肩書をつけそうなものだが、藩主の許可を得ていない敵討であるから、庄内藩士ならばこそ、公的にはそれを名乗ることは憚られると考えてよかろう。縁者ではない庄内藩江戸屋敷勤めで、昔、倉尾又蔵或いは兄萬次郎と近かった旧友と考えるならば、よりしっくりくるように私は思う。何故に江戸詰めかというと、彼の添え状に「書付麁紙亂筆に御座候得共到來之儘奉差上候」とあるからである。即ち、これは庄内藩で起ったこの敵討に就き、この後に載る「羽州庄内敵討」とする実録文書が鶴岡から送られてきたので、それが送られてきた真意を深慮の上、直筆のやはり送付を頼まれていた末期の、宗四郎の添え書きの附された手紙とともに「羽州庄内敵討」を添えて小笠原十左衛門に送付した、ということを明らかに意味するからである。少なくとも、江戸で又蔵が親しくしていた人物という推定は揺るぎない。ところがそうなると、この最後の「羽州庄内敵討」という恐ろしいリアリズムと、二人を見つめる古武士のような遖(れあっぱ)れの魂を持った筆記者は山田周佐ではないことになる(くどいが、これは実見記である)。では、「羽州庄内敵討」は誰が書いたのか? 家来宗四郎ではあるまい。何故なら、倉尾又蔵・土屋丑蔵双方の叙述描写は頗る客観的で、概ね平等であるものの、細かく読み進めて行くと、丑蔵をより確信犯的に賛美しており、この「羽州庄内敵討」の筆録者は身分上は仇きである土屋丑蔵に近い同輩か、その上司ではなかったかと思われるからである。そうすると、この無署名の「羽州庄内敵討」を書き得る人物は誰か? それは実は決闘の最後に偶々通りかかったと本文にはある(但し、後の「竹内修理」の注に示すように現行の伝えられる事実としては修理が自身の菩提所である総穏寺に墓参(恐らくは自家の)の折りに、たまたま又蔵・丑蔵の敵討に遭遇したとはある。事実、現存する総穏寺に修理自身の墓もある。実録の別なデータを後に私は知ったが、ここ以降、ここの注での私の推理は、あくまで与えられたこの「耳嚢」本文のみからのそれをあえて残すこととする)、庄内藩士竹内修理その人ではなかったろうか? 何故なら、敵討から竹内修理の登場以降の末期のシーンの聴き取りなど、これは第三者がその細かい部分まで確認し、記載出来る内容とは思えないからである。謂わば、これは比喩的に申すなら「秘密の暴露」に当たるものであって、その場にあって、彼らの状態を間近に観察し、丑蔵と直接話をし、直接それを聴きとった竹内修理以外には、実はこれは記せない内容であると私は思うからである。とすれば、この竹内修理も、本話の主人公二人とともに、非常に優れた冷静な観察眼と人並み外れた驚くべき感性を持った、大切な登場人物であると言えるのである。しかし、そうなると竹内修理は何故、この敵討に最初からいたのであろう?(前半部を聞き書きしたものなどという仮説は凡そ成り立たない。修理登場の後半部の叙述や描写とこの前半部の間には一切の変化や乱れが見られず、これは一貫して同一人が観察した事柄をそのまま記したものである)一つのヒントは、冒頭の土屋丑蔵の「養祖父久右衞門忌日」にないだろうか? 彼は既に述べたように実は又蔵の実父である。修理は旧藩士で知己であった先輩、土屋又蔵の父であり、同時に丑蔵の養祖父でもあった久右衛門の忌日に初めから参列していたのではないか? と考えても何らおかしくないのである。いや、寧ろ、たまたま敵討の終り頃に、たまたまこの修理が自家の墓参に参り、たまたまよんどころなく敵討双方刺し違えの証人となった、なんどとするよりは、私は遙かに自然だと思うのである)。さて、そう設定するなら、もう一つの仮定が必要となる。それは、又蔵や丑蔵よりやや年嵩の竹内修理は、実は倉尾萬次郎事件の一部始終についても、実はよく知っていた人物だったのではないかということである(或いは丑蔵に萬次郎捕縛を命じた当時の上司こそがこの修理だったという仮定も時代劇なら面白かろうが、だったら何としても丑蔵を守ったはずであるから、残念ながらそれはあり得ない)。そうして、そこから次の仮定も引き出し得る。それは、その萬次郎処断(入牢と出奔その後の再捕縛と脱走、殺害に至る経緯)は萬次郎側に概ねの不行跡はあって致し方なき仕儀ではあったものの、そこにはそれなりに竹内修理にも心情的には納得出来る萬次郎側の理由や動機があったのではなかったかという仮説である。さらにもっと言えば、修理は部下の藩士として丑蔵と近しかったものの、一方では萬次郎や又蔵とも交情があったという設定を附加してもよい(これは不自然なこととは私には思われない)。ともかくも、この文書が竹内十左衛門方に纏まって届いたという揺るぎない事実は、事実上の立会い人が竹内修理であり、しかも修理が又蔵(或いは萬次郎)と丑蔵の二人、或いは二人の包含される土屋家と何らかの親しき因みのある人物であったという設定なしには、私自身が納得出来ないのである。話が仮定の堆積となって恐縮だが、序でに言わせてもらうならば、この敵討の直後に江戸詰藩士山田周佐のところには又蔵家来宗四郎から十左衛門宛(宗四郎添書)の手紙が届き、周佐はそのことを国元に急報して指示を仰いだ。藩の上位職の可能性が高い印象がするこの竹内修理(実際に当時、家禄千百石の上席番頭であった。後注参照)は、それを知ると(そこで周佐は彼が藩士時代に又蔵と旧知の間柄であったを告げたはずである)、自身が立会人となった何とも曰く言い難い青年武士二人の死に就き、この周佐や、又蔵の師である十左衛門、さらにはその門弟であった又蔵の朋輩らに、この兄弟孝心と義烈の物語をせめても語ることが、矛盾を孕んだ武士道を敢えて生きぬいた二人の武士(もののふ)への、せめてもの手向けともなると考え、急遽、無署名の「羽州庄内敵討」を認(したた)めた上、それも添えて十左衛門に送ることを命じたのではなかったろうか? いや、そう考えて初めて、私は、この話柄及び文書資料の全体を極めて自然なものとして読めると断言するのである。文書「羽州庄内敵討」は、丑蔵は正確には実は仇(かたき)ではなかったことを明かし、しかも終始丑蔵の古武士のような清貧さを称讃しはているが、しかし同時に、この筆者は又蔵の私怨刃傷(にっじょう)沙汰を標題で「敵討」と明確に認め、末尾にあっては二人に差をつけることなく「双方見事に刺違候」と結んで讃えている。この覆面ライターである修理のアンビバレントな、しかし頗る首肯出来る深いこの二人への感慨こそが読む者の心を激しく打つのだ、と私は信じて止まないのである。

・「劍法傳授の書物も、十左衞門方へ、右敵討の前日、返上の樣いたし度」又蔵は敵討のために剣法伝授を受けたことを一切黙っていたから、剣道の真髄から言えば、彼の受けた伝授は不純なものとも言える。されば、謹んで返納したとも言え、また敵討ちに失敗したり、相討ち(事実そうなった)となれば、相伝された伝授の秘法の書に対し、非礼となるからでもあろう。かつまた、この敵討が公的に許されたものでないことから、師である小笠原十左衛門へ累が及ぶことを避けるためでもあったものと思われる。

・「岩崎正兵衞」「渡邊源藏」小笠原十左衛門の筆頭の高弟二人と思われ、恐らくは又蔵の兄弟子に当たる者らであろう。前に述べた通り、又蔵は敵討のための剣法伝授という目的を隠していた以上、師十左衛門を欺いていたのであるから、師へ直接書簡を送ることは憚られたのである。

・「五ツ半時」午前九時頃。

・「一時」凡そ二時間の死闘であった。

・「宗四郎」前に「庄内鶴岡又藏隨身の者より奧書をいたし」とある倉尾又蔵の家来。短いながら、主人の最期をしっかりと見届けた内容を的確に記しているその筆致からも、相応の学問を積んだ青年であったことが窺われる。彼も言葉少な乍ら、この敵討を凝っと見つめ続けた本作の脇役として画面の中に確かに配さねばならぬ人物である。

・「羽陽」広域として現在の山形県を指す古称。一説に「羽」は海岸沿いの景観を、「陽」は内陸の景観を現わすとネットの記載にはあった。「陽」は一般に天子・君主を指し、洛陽・武陽(えど)・紀陽(紀州)など、国や地方の中心地という意で頻繁に用いはする。

・「麁紙」安物の粗末な紙。

・「折付」不詳。岩波の長谷川氏注は、山田周佐名義の『書付を添えた形状をいうか』とある。しかし、とすれば以下の「羽州庄内敵討」は周佐の叙述ということにもなるのであろうが、どうもそれには私は納得出来ないのである。

・「羽州庄内敵討」「山田周佐」の注で述べた通り、非常に重要なことは、この冒頭にこの標題を記した時から一貫して、この文書の筆者自身は、又蔵の行為を正当な「敵討」と終始認定していたという点である。

・「土屋丑藏養租父久左衞門」この名を見れば分かる通り、これ実は又蔵(虎松)自身の実の「父」なのである。さればこそ、確実にその忌日も、ここに来ることも、又蔵に確信があって当然なのである。

・「總穩寺」底本の鈴木氏注に、『鶴岡市鍛冶町。曹洞宗。領主酒井氏の鶴岡移封にともない信州松代から移転した名刹。土屋虎松・丑蔵の墓、刀剣がある』とある(下線やぶちゃん)。鶴岡市陽光町に現存し、今も又蔵虎松と丑蔵両〈義士〉の銅像が立つ(戦前のものは戦時供出されたが、戦後に新しいものが建立されたとある)。

・「おり」不詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『補理』で、長谷川氏は『しつらい、設備の意。ここは牢の意か』とされる。弟又蔵が脱出させたとするのなら、自宅に設えた座敷牢のようなものか。

・「腰刀」腰に挿す鐔のない短い刀。鞘巻(さやまき)など。腰差し。

・「同姓三蔵」不詳。「又蔵の火」には、やはり同族の土屋三蔵紀明とあるらしい。

・「場所と云、且屆も無之」岩波の長谷川氏注に、果し合いに『ふさわしくない寺であるし、役所に届けることも必要』と、丑蔵が静かに宥めたのである、とある。丑蔵は逃げるためではなく、敵討はよし、しかれども頗る冷静な仕儀と態度を、と求めたのであって、又蔵に敵討を留めさせようとしたのでは決してないという点に着目しなくてはならない。

・「最早勝負是迄、此上據人を得候て、刺違可申」仇の丑蔵が又蔵に述べた台詞である点に注意。「據人」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『証人』(原典は「證人」か)である。但し、「據」は拠るところ、信頼出来るという意があるから、誤字とは言えないように思う。

・「竹内修理」個人サイト「日本掃苔録」のこちらに、庄内藩家老竹内八郎右衛門(安永二(一七七三)年~文政十三(一八三〇)年)とある。『五兵衛・主馬・修理・茂林・文卿・北窓。庄内藩で放逸派の頭領といわれた竹内八郎右衛門(茂樹)の子で』、文化三(一八〇六)年七月に召し出されて用人となり、三十人扶持を給され、同七(一八一〇)年には小姓頭に任ぜられて新知三百石を与えられた。翌八(一八一一)年七月に『父茂樹が家老水野重栄らの恭敬派によって退けられたため家督を継いで』家禄千百石の上席番頭となったとある。そして、この文化八年九月、菩提所総穏寺に墓参の折り、同所で土屋両義士(丑蔵・虎松)の敵討に出合い、頼まれて刺違えの場に立ち会った。同一〇(一八一三)年組頭、文政元(一八一八)年中老と歴任、同一〇(一八二七)年十二月、家老に任ぜられて在職中病没した。享年五十八(引用元に「庄内人名事典」からの引用とある。下線やぶちゃん)。の叙述は微妙で、『仇討に出合い、頼まれて刺違えの場に立ち会った』というのは、最初からはいなかったといったニュアンスが感じられる。しかし私はやはり最初からいたのだと思う。前にも述べた通り、でなくては、ああは書けないと思うからである。因みに、文化八(一八一一)年十一月七日当時は、

 竹内修理八郎右衛門 数え三十九(満三十八)歳

であった。映像に定着、よろしく。なお序でにまた妄想を述べるなら、実は私は、かの不詳の人物――山田周佐というは実は竹内修理だったのではなかろうか?――というトンデモ仮説も腹に潜めているのである。

・「立歸りの牢人」岩波の長谷川氏注に、『藩を出奔し許可なく帰郷の浪人虎松』とある。少なくとも竹内は表面上、「討捨可然」で、返り討ちにして何ら問題はない、と述べているのだが、これはでは、止めを刺して、という謂いが感じられるかというと、私には感じられない。寧ろ――もうあれだけの深手を負っている(事実ではある)のだから、直き、息絶えるから、これでもう充分だというニュアンスと私には読める。悪いが、私は竹内の気持ちが分かる、というより、そうあって欲しい、のである。彼は正直、二人ともに死なせたくはなかったのだ、と思っていたに違いないと感ずるからなのである。

・「三寸」九・〇九センチメートル。

・「裏かき」ここは咽喉から頸部背側までざっくりと太刀を貫き通すことであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 兄の敵(かたき)を討った者の事

 

 朋友にして御徒頭(おかちがしら)を勤めている小笠原十左衞門は、剣術の師範をしている者でもある。

 その十左衛門の所で、文化五、六の年より召し使っていたところの中小姓(ちゅうごしょう)に、出羽国の者で、倉尾又蔵と名乗り、三年ばかり勤めている男がいた。

 この男、まことに貞実な人物にして、是非、剣術の伝授をと頻りに乞い願ったので、十左衛門も、この又蔵の実直さに感じ、余念なく稽古をつけ、さまざまな型の伝法を授けた。

 又蔵の精進への執着は、これ、すこぶる強いもので、昼夜を問わず、憑りつかれたように稽古に励んだ。

 されば短いうちに、十左衛門の門弟の中でも抜群に上達したため、十左衛門も、その技(わざ)の確かなことを認め、師より伝授奥義の書物をも添え与えた。

 ところが文化八年未(ひつじ)の年のこと、又蔵は突然、

「……我ら、如何にしても忘れ難き心願の、これ、御座いますれば……どうか! 何卒!御暇(おんいと)まを頂戴致したく存じまする。――」

と願い出て参った。

 十左衛門は驚きながらも、日頃の篤実な勤め振りや、その願い出の「心願」と申す語の強き響きを感じとり、その意に任せて送り出してやった。

   *

 これより、その――「心願」――敵討(かたきうち)の顛末――に就いて記すこととするが――又蔵は十左衛門が方に勤めていた間、これ、いささかも、そうした――兄の敵(かたき)を狙っているなどという――ことは、主人十左衛門は勿論のこと、門弟朋輩へも一切、洩らすことはなかったと申す。

   *

 九月も末のことであった。

 十左衛門の元に、書状が来たった。

 複数の消息を一つにしたもので、相応に持ち重りのする書簡であったが、まず、その一通は、

――文化八年未の年、九月二十二日、敵(かたき)土屋丑蔵を討ったという主旨の、又蔵直筆の書面にして、それに庄内鶴岡にてとある、又蔵に随身(ずいじん)せる家来の者の奧書をなした、表書き十左衛門家来宛の書面――

 今一通は、

――山田周佐(すさ)と申さるる御方の許へ、十左衛門方へ差し出だし下さるように、と送られて参った、敵討の一部始終を記した書付――

であった。

 なおかつ、かの又蔵に贈った剣法伝授の書物も、十左衛門方へ――この敵討の前日に返上致すように手配された、という言伝(ことづて)を以って、人に預けられてあった由のもの――これまた、別に送り届けられ参った。

 かくなり一連の事実について、まず、小笠原十左衛門の物語りが、これ、私になされた。

「……この敵討の元来の由縁(いわれ)も、この書状を読んでみても、正直、よく分からぬのだが。……されど、これらは、まっこと、事実に相違ないことであることは、拙者が請け合おう。――」

と、十左衞門は私にそれらの書状をも見せてくれた。

 その書面を、ここに総て記しおく。

 

   *   *   *

 

 
 

 庄内鶴ヶ岡にて

 

小笠原十左衛門様御内  倉尾又蔵

 

   岩崎正兵衛様

 

   渡邊 源蔵様

 

 

 なお一層、私(わたくし)儀、心願御座いましたるところ、遂にこれ、十分に成就(じょうじゅ)仕りまして御座いまする。委細の儀はこれ、追って申し上げまする。この書状は、その心願成就の前日、認(したた)めておきましたるものにて御座いますれば、成就の概略に就きましては、これ、家来宗四郎(むねしろう)より申し上ぐることとなろうと存じまする。

 

一筆啓上仕り候 先ず以て

皆々様に於かせられましては、益々御機嫌うるわしく遊ばされあらるることと、恐悦至極に存じ奉りまする。

各々様方及び小笠原様御家内様、御壮健にてあらるることと、お悦び申し上げ奉りまする。私(わたくし)儀、無事に心願の地への道中を終えまして、当月八日に到着致しまして御座いまする。只今まで幾重にも御高情に預り、有り難き幸せと存じ奉りまして御座いまする。まずは時候の御挨拶の程、申し上げたく、斯くの如く、認めまして御座いまする。恐惶謹言(きょうこうきんげん)

  九月二十二日          倉尾又蔵

   岩崎正兵衛様

   渡邊 源蔵様 他皆々様御中

 

附記

 九月二十二日朝五ツ半時(どき)、主(あるじ)又蔵儀、敵(かたき)土屋丑蔵(うしぞう)に出遇い、一時(いっとき)余り相い戦いまして御座いましたるところ、互角にて。

 以上、前日の遺言に依って、かく認(したた)めまして御座いますれば、貴覧(きらん)に奉り入られんことを。

              羽陽庄内(うようしょうない) 宗四郎

 

   *   *

 

 
 

 

 

 小笠原十左衛門様へ差し上げたき段、申し来たって参りましたに依って

 

 添えたる書付、これ粗末なる紙に乱筆にて失礼致しまするが、到来のまま

 

 差し上げ奉りまする。            山田周佐

 

 

 

 

折付(おりつけ)

 

 六番町

  小笠原十左衛門殿          羽州庄内敵討(かたきうち)

 

 当二十二日、土屋丑蔵、養租父久左衛門(きゅうさえもん)の忌日に付き、総穏寺(そうおんじ)へ仏参致いたところ、股引(ももひき)・半纏(はんてん)を着用の壮士一人、近寄って、

「――そこもとは――土屋丑蔵――にてはあられんか?!――某(それがし)は――土屋萬次郎弟虎松――只今は倉尾又蔵と申しおる者にて――先年、兄萬次郎、そなたが手にかけられて相い果てたれば、その鬱憤をこれ、散じ申したく、この五年の年月、兄が仇(あだ)のみ心懸けて参ったによって――今日(こんにち)かくも出合うたること、大慶、これに過ぐるはない! 尋常に勝負、致されいッ!――」

と、詰め寄った。

 時に、それに応えた丑蔵が挨拶には、

「――兄の敵(かた)きとお思いになられて御座ったとのことも、これ、その謂わるる所、尤もなるには似たれども――かの萬次郎儀は、これ、藩より差し置かれたる土屋家座敷牢を破って出奔致し、その後(のち)、秘かに立ち帰っては、これ、所々にて悪業の聞えあり。――さればこそ、その咎に依って御城主より指図のあり、召し捕って帰る、その途次、腰刀(こしがたな)にて手向い致いたにつき、拙者、まずは素手にて取り押えんとせしところが、後ろより――同姓土屋三蔵――これ、殺害(せつがい)に及んで御座ったもの。……さり乍ら……兄の敵きを討ちたしと数年も心懸け、はるばるこの地へと罷り越して御座ったと申す儀、これ、まっこと、神妙にて御座れば、その意に任せ、勝負を決し申そうぞ。……なれど――殺生禁断の寺という場所といい――且つは、そなたが旧藩主への届け出もこれなければ――そなたの敵討はこれ――私怨の刃傷(にんじょう)――となり下がるばかり。――これは、ようない――」

と、まずは虎松を静かに諭し、宥(なだ)めて御座ったものの、虎松、いっかな、聞き入るる気配なく、

「――この期(ご)に至って場所など! 憚るべき必要など! ないッ!!」

と、矢庭に斬りかかる。

 されば丑蔵も太刀を抜いて合わせる。

 それよりややしばらくの間、互いに間合いを測っては、挑み戦って御座ったところ、突如、虎松、声を挙げ、

「――敵討を成し遂げたるぞぅッツ! 出会え! 出会えッツ!!――」

と甲高く呼ばわったによって、丑藏、相手に助太刀の者のあらんかと、少し気の散ったものか、幽かにその謂いによって怯(ひる)みの生じたものか、

――ザッ!――

と、右の腕に深く傷を受けた。

 されども騒がず、左の手に、太刀の柄をこれ、鍔深く握ると、虎松の真甲(まっこう)へ斬り込んだ。

 虎松はこの正面からの太刀筋を避けんとして、咄嗟に体を捻ったものか、右の耳の上より頤(あご)に至るまで、これまた、ざっくりと斬り下げられてしまった。

 丑蔵はすかさず、続けて虎松の右膝の上をしたたかに斬りつける。

 しかしこの時、丑蔵もまた、再び右肩先を虎松の一振りによって傷つけられていた。

 かくして双方ともに数ヶ所及ぶ傷を負うて御座った。

 されども、互いに少しも弛(たゆ)まず、これ、いよいよ烈しく戦(たたこ)うたところ、遂には互いに危急存亡の様態へ陥ったによって、丑蔵、

「――最早――勝負、これまで!……この上は……誰(たれ)れか、しかるべき証人を捜し得て立て申し……互いに刺し違えを……これ……申そうぞ!……」

と、虎松に呼びかけた。

 そうして、互いに引き分かれ、ともにどぅと、地に斃(たお)れ臥した。

 そこへ、これ、たまたま、上席番頭(ばんがしら)の竹内修理(しゅり)が菩提寺たる当寺へ墓参がために、通りかかって御座った。

 倒れ伏しておる一人が馴染みの藩士の丑蔵であったによって、駆けよれば、丑蔵より件(くだん)の仕儀につき、委細を承り、以上、納得の上、互いに刺し違えるまで、これ、見届け役を務めた、との由。

 ただ修理、これ、案じて、

「……この狼藉者虎松とやら……脱藩の上に許可なく立ち帰ったる浪人者なれば、これ、うち捨て――あの深手なれば放っておかば、ほどなく相い果てんと存ずれば――ここで総て仕舞いとなさるるが、よかろうと存ずる。丑蔵殿にては、これ、藩がため、まだまだ存命の上、一層の御奉公なさるるように。……」

と申し諭して御座ったが、丑蔵は、

「……ご覧の通り、かの者も拙者も、双方ともに、重き手負いを受けて御座いまする。……されば、我ら、とてものこと、これより後の御奉公も、凡そ成し得ざる体(てい)となり下がって御座いますれば。……どうか、お差し止めなさるることなく、何卒、見届け下さいまするように。――」

と切に頼んだ。

 されば修理、丑蔵と又蔵が双方に、末期(まつご)の水を含ませ、刺し違えさせて、御座った由。

 丑蔵は最後まで話し方も不断と全く変わることなく御座ったが、又蔵の方は、これ、最初に受けた頤(あご)の深手によって、何か、末期に述べんとせしも、残念なことに、それを聴き分くることは叶わなかった。

 刺し違えの際は、又蔵は丑蔵の咽喉笛(のどぶえ)に、太刀先を、これ、三寸ばかり突き立てて御座った。

 と同時に丑蔵、それに怯(ひる)むことなく――したたかに右手を斬られて御座ったゆえ――左の手にては御座ったものの、又蔵の咽喉(のんど)を一突き――背中まで、貫き通して御座った。

 傷は双方ともに十ヶ所余りあった。

 双方、これ――美事に――刺し違えて、御座った。

   *   *   *

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