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2015/03/14

耳嚢 巻之十 奇體の事

 奇體の事

 

 文化九年、大貫次右衞門支配所、奇體を掘出(ほりいだ)し候由にて、次右衞門營中へ持參の畫文。

 相州津久井(つくゐ)縣名倉(なぐら)村名主源内召仕(めしつかひ)はな娘つね、四ケ年以前巳年六月廿日病死いたし、源内所持字(あざ)谷向(たにむかひ)と唱へ候芝地(しばち)に葬置(はうふりおき)候處、つね母はな儀、當(たう)申(さる)五月十日是又(これまた)病死いたし、同所へ葬(はふる)候積(ともり)にて、村内の者ども穴を掘(ほり)候處、其節鍬(くは)打當(うちあたり)候哉(や)、つね入葬(いれはふり)候古桶(ふるをけ)破れ、つね形(かた)ち其儘有之(これあり)候を見付(みつけ)、誠に色白く候故、幽靈かとぞんじ、穴掘のものども打驚(うちおどろき)迯去(にげさる)。夫(それ)より同村禪宗桂林寺住僧相賴(あひたのみ)、同道致(いたし)、猶(なほ)又見請(みうけ)候處、朽木(くちき)の如くかたまり有之(これあり)候に付、同寺へ持參(もちまゐ)り、法華經囘向(ゑかう)等相賴(あひたのみ)、弔(とむらひ)遣(つかはし)候處、高さ壹尺八寸程有之(これあり)、段々日增(ひまし)に色薄黑く、かたく相成(あひなり)、左眼をあき右眼をふさぎ、鼻くぼみ口結び、兩耳付(つき)、眉(まゆ)髮毛(かみのけ)無之(これなく)、頭をさげ、兩手合掌いたし、膝を建、手足爪悉(ことごとく)有(あり)て、乳の肉、腹の臟腑共(とも)自然とかたまり、陰門肛門穴一つになり、死骸をたゝき候得ばポクポクと鳴り、重さ三才位の小兒程有之(これあり)。別(べつし)て手足等かたく、蟲(むし)匂(にほひ)等も無之(これなく)、此節蠅などもたかり不申(まうさざる)由。

惣身(そうしん)肉付(にくづき)有之(これあり)、當時は木腐(きぐさ)れ候匂(にほひ)いたし、肉を爪又は木抔にてつき候ても、跡付(あとつけ)不申(まうさざる)由。形(かたち)肉色の樣子、圖の通(とほり)の旨、見分(けんぶん)の者申(まうし)きけ候。

 

Kitai

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。実録。所謂、屍蠟(しろう)と呼ばれる現象である。ウィキの「死蝋によれば、『永久死体の一形態。死体が何らかの理由で腐敗菌が繁殖しない条件下にあって、外気と長期間遮断された果てに腐敗を免れ、その内部の脂肪が変性して死体全体が蝋状もしくはチーズ状になったものである。鹸化したものもみられる』。『ミイラとは異なり、乾燥した環境ではなく湿潤かつ低温の環境において生成される』とある。「鹸化」は「けんか」と読み、狭義には、古くは油脂・蠟を水酸化アルカリと加熱、加水分解して脂肪酸のアルカリ塩、即ち石鹸をつくる反応をさしたが、現在は一般にエステル類を加水分解してカルボン酸またはその塩とアルコールにする反応をさす語である(ブリタニカ国際大百科事典に拠る)。ここは遺体が石鹸のような質に変化することを言っている。なお、この一件は「宮川舎漫筆」にも載っており、そこでは「つね」の死亡年齢は二十六歳と記してあるらしい(瀬川淑子氏の「江戸時代女性の噂話 第二部:農村あるいは地方の女性」の現代語訳に拠る)。本文を読み解くにはこの年齢は非常に重要である。

・「大貫次右衞門」底本の鈴木氏注に、『光豊。天明三年(二十八歳)家督。廩米百俵。六年御勘定吟味方改役より御代官に転ず。文化六年武鑑に、武蔵下総相模郡代付、大貫次右衛門とある』と記す。ちゃり蔵氏のブログ「ちゃりさん脳ミソ漏れ漏れなんですが」のこちらに、大貫光豊(おおぬきみつとよ)と出、『代官・大貫次右衛門』、『代々、次右衛門を名乗る』とあって、天明六(一七八六)年に『勘定吟味方改役から越後水原陣屋の代官の後、関東郡代付代官・馬喰町詰代官を歴任し』、文政六(一八二三)年五月に勇退と記されてある(こちらの方の記載は佐藤雅美作「八州廻り 桑山十兵衛」の登場人物の解説である)。

・「相州津久井縣名倉村」底本の鈴木氏注に、『神奈川県津久井郡藤野町大字名倉』とする。岩波版の長谷川氏注には、『神奈川県津久井郡藤野町名倉。津久井県は当時の正しい称。なお以下の事件を『武江年表』の筠庭補正には文化八年七月十一日の事とするが、九年五月の本書の記述が正しいか』とある。「筠庭」は「いんてい」と読み、国学者喜多村信節(きたむらのぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)のペン・ネーム。「武江年表補正」は考証家斎藤月岑(げっしん 文化元(一八〇四)年~明治一一(一八七八)年)の「武江年表」を、筠庭の天明元年以来の手控えであった「きゝのまにまに」によってな増補補正したものと思われる。ここで長谷川氏の言う『津久井県は当時の正しい称』については、ウィキに、『律令制以前には「国」とともに「県」(あがた)が地域区分の単位として用いられていたが、律令制下で国(令制国)・郡(はじめ評)・里(のち郷)という地方区分が確立すると「県」は地域区分の単位としては用いられなくなり、小県郡(信濃国)、方県郡(美濃国)、大県郡(河内国)のように郡名など地名の一部に名残をとどめるようになった。例外として』平成一九(二〇〇七)年まで『神奈川県に存在した津久井郡は、江戸時代には全国で唯一、地域区分単位として「津久井県」を称していた。これは従来「津久井領」と呼ばれていたこの地域を支配した幕府代官の命によるものであるが、敢えて「県」を称したのは山間僻遠であるこの地域が単独の「郡」を称するには不足であると考えられたからだと言われている(『藤野町史・通史編』)』。津久井県は明治三(一八七〇年)に「津久井郡」と改称された、とあることを言う(下線やぶちゃん)。

・「營中」柳営(匈奴征討に向かった前漢の将軍周亜夫が細柳という地に陣を置いて軍規を厳しくして文帝の称賛を得たという「漢書周勃伝」の故事から、将軍の陣営・幕府を指すようになった。細柳とも)の中。将軍の居所。江戸城。

・「巳年」文化六(一八〇九)年己巳(つちのとみ)。数え年と同じく死亡した当年を一年と計算するので文化九年からは「四ケ年」となる。

・「申」文化九(一八一二)年壬申(みずのえさる)。因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月で死蠟出土は文化九年五月であるから、二年前の比較的ホットな出来事である。

・「壹尺八寸」約五十五センチメートル弱・

・「膝を建」底本では「建」の右に『(立)』と訂正注がある。

・「桂林寺」相模原市緑区名倉に現存する曹洞宗月中山桂林寺。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇体(きたい)の事

 

 文化九年、大貫次右衛門の支配せる地所にて、奇体(きたい)を掘り出したという事実につき、次右衛門が営中へ持参致いた画文(がぶん)を示す。

   *

 相州津久井県(つくいけん)名倉(なぐら)村の名主源内の召し使っておった――女「はな」なる者の娘「つね」――四年前の文化巳年六月二十日、病死致し、源内所持の字(あざ)谷向(たにむかい)と呼称せる芝地(しばち)に葬ったところ、この――「つね」母「はな」――儀、当年申年の五月十日、これもまた病死致し、全く同じき場所へ葬ることとなった。

 ところが、村内の者どもが同所にて墓穴を掘って御座ったところが、墓穴を掘らんとした鍬(くわ)のたまたま打ち当たったものか、嘗て「つね」を埋葬致いたところの古桶(ふるおけ)が破損し、「つね」の遺体が、これ、形もそのままに露出してしまった。

 ところがその遺体、これ、すこぶる肌色の白く御座ったれば、墓穴を掘っていた者どもが、これを見て、

「ゆ、ゆ、幽霊じゃッツ!!」

と、恐懼、そのまま皆、逃げ去ってしまった。

 そこで、名主源内、同村にある禅宗の桂林寺住僧へ依頼の上、かの墓地へ同道致いて、なおまた、検分致いてみたところ、

――朽木(くちき)の如くに固まった遺体

を、これ、現認致いた。

 されば取り敢えず、同寺へと運び入れた上、法華経などを誦し、回向(えこう)を重ねて依頼致し、丁重に弔いの儀を成した。

 さても、その奇なる遺体は、これ、

――高さ一尺八寸

ほどのものであって、安置せる内、日増しに、

――色薄黒く

なって、

――硬化

する様子が窺われたが、細かに観察すると、

――左眼を開け

――右眼を塞ぎ

――鼻は窪み

――口は固く結び

――両耳は生前同様に付いたままで

――眉及び髪の毛は剥落しており

――頭部を有意に下へ下げ

――両手は合掌の形を成し

――膝を立て

――手足の爪は、悉く生前のまま現存

――乳の肉及び腹部の臟腑はともに自然に硬化を示し

――陰門と肛門は癒合して一つの孔に変質していた。

 試みにその死骸を叩いてみると、

「ポクポク」

と鳴った。

――重量は凡そ三才児に相当する体躯(たいく)にして

――別して手足などは堅く硬化成し

――虫などがたかったり匂いなどは全くなかった。

 時節柄、蠅などもよく飛んでいたにも拘わらず、それらが集(たか)るといったこともなかったという。

 総身はこれ、

――肉付きは概ねそのまま

――出土した当初は木の朽ちたような匂いがし

――肉の部分を爪または木などを以って軽く突いてみても凹んだり欠損したりするような何らの跡も残らなかった

と申す。

 この奇体の遺体全体の形状、及び肉やその様態は以下に示した図の通りである。

Kitai_2

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