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« 志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅱ) | トップページ | 片山廣子の芥川龍之介宛の幻の書簡の所在が判明した »

2015/04/09

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅲ)

一 根岸老人方に召仕(めしつかひ)の近習(きんじふ)若者ども、奥向(おくむき)えも立入(たちいり)て用向(やうむき)を勤めける故、奧腰元のわかき女共(ども)と色情の事抔あれば、いつとても女のかたは暇(いとま)と成(なり)、男はしかりのみにて何のかまひなし。北の同役永田備後守方にては、男女別を嚴しくせられ、錠口(ぢやうぐち)樣(やう)の處より内えは男子はかたく入れられず。依(よつ)て永田方の近習の若もの、「南の御役所はよき事也。さりとては浦山(うらやま)し」と申合(まうしあひ)けるもおかしき事ながら、若きものにはまた尤(もつとも)なるべし。さて根岸にて女ばかり暇とは片落(かたおち)なる事と申罵(まうしののし)る處、肥州のはじめより申聞(まうしき)かするには、「男の方より女をいざなふは陽の道にて常の習(ならひ)なり。女はそこをかたく守るべきが女の道なり。なんぼ男がいざなふとて、夫(それ)に引かるゝは女の掟(おきて)を背(そむ)く處なれば罪ゆるさず」と、平生(へいぜい)しめし置かるゝも一理あれど、またをかしからずや。

[やぶちゃん注:節操について男女を陰陽の現象として捉え、その正常異常を人の道に於ける正不正の基準としていたという鎮衛のユニークな持論がなかなか面白い。一見、彼の男女差別の意識を感じさせるように見えるが、その実、近習らの奥向きへの出入りを一切禁じなかった彼は、寧ろ、当時の武家の日常生活に於ける男女の差別意識とは異なった――『男女が惹かれ合うはこれ当たりきしゃりきのことじゃ!』――という本音に基づくユニークな立ち位置にあったのではない? それがまさに「なんぼ」というリアルな口語一語(後注参照)となって表われていると私は信じて疑わないのである。

・「永田備後守」北町奉行永田備後守正道(まさのり)。

 根岸肥前守鎮衛の南町奉行在任期間は、

 寛政一〇(一七九八)年十一月 十一日から文化一二(一八一五)年十一月九日

 永田備後守正道の北町奉行在任期間は、

 文化 八(一八一一)年 四月二十六日から文政 二(一八一九)年四月二十二日

であるから、この話柄は文化八年から文化十二年までの四年間の閉区間の中でのエピソードと考えてよいであろう。なお、根岸は実際には十一月四日に亡くなっているが、公儀の死亡通知は九日付であった(なお、永田も在任のまま死去している。以上のデータはネット上の複数のサイトを確認した)。

・「なんぼ」小学館「日本国語大辞典」には副詞「なんぼ」の項に、「何程(なにほど)」の変化したものとして、最後(三番目)の意味として、『普通には認められないものが特に認められると許容・譲歩する気持を表わし、それでもこの場合には認めるわけにはいかないという判断を導く。いくら(…でも)。なんぼう』とあり、方言の採集例が怖ろしく膨大な量、示されてある。ネットなどではこれを関西方言であるとか北海道方言などとするのであるが、この多量のデータを見ると、北は北海道から南は熊本県まで「なんぼ」はあり、しかもその中に鎮衛の実父安生定洪(さだひろ)の出身地である『神奈川県津久井郡』が明記されている

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 根岸老人方の召し使って御座った近習(きんじゅう)の若者どもはこれ、御屋敷の奥向きへも自由に立ち入ることが許され、種々の奥方の用向きをも普通に勤めて御座ったによって、時に、奧腰元の若き女どもとの色恋沙汰なんども、正直、御座ったのだが、そのような折りには、如何なる場合にあっても、女の方(かた)は暇(いと)ま申し付けと相い成り、当の近習の男はこれ、叱りのみにて何のお構いも、これ、御座らなんだ。

 一方、当時、北町の方(ほう)の同役であられた永田備後守正道(まさのり)殿が方に於いてはこれ、家内での男女の別をはなはだ厳しくなされており、錠(じょう)の掛かる出入り口のようなるものを屋敷の表向きと奥向きの間に設(しつら)え、そこより内へは、これ男子は堅く入ることを禁ぜられて御座った。

 されば永田殿方(がた)の近習の若者どもはこれ、

「……南の御役所さまは如何にもええなぁ。……それにしても羨ましいことじゃ。」

などと、噂し合っておったとか申すも、これ、おかしきこと乍ら、若き者にとっては、これまた、もっともな本音とも言えよう。

 ところがその中には、

「……さても根岸殿方(かた)にては、家中のけしからぬ色恋沙汰を咎むるに、女ばかりに暇まをとらせ、男にはただお叱りのみと申すはこれ、如何にも不公平なことではないか。」

なんどと、陰口をきき、罵しる向きも御座ったが、肥前守殿、これ、以前より語られてこられた持論のあって、

「――男の方(かた)より女を誘(いざな)うと申すはこれ、『陽』の『陰』に対する常なる正道(せいどう)の現象として、これ何ら、おかしなところはない。――されど、女と申すは、これ、そうした際、堅く節操を守らねばならぬのが、『陰』の『陰』たる女の正道(せいどう)の現象である。――なんぼ、男が誘(いざの)うたからと申せ、それに安易に引かるると申すは、これ、女の本来の節――掟(おきて)――に背(そむ)くところなれば、我らはその――罪――をこれ、許さぬ。」

と、平生(へいぜい)より主張なさっておられた。

 これ、一理あるとも申せようが、いや、また、面白いお考えではないか。]

 

一 ある日借金出入(でいり)の事有て、雙方呼出し訴狀讀上(よみあげ)たり。畢(をはり)て肥州申されけるは、「今訴狀の趣を聞く處、金高(かねだか)何拾何兩銀何匁(もんめ)何分(ふん)とあり。はじめ貸(かす)ときに何匁何分と貸す事あるべきや。おもふに是は古借(こしやく)の殘金に利銀(りぎん)を加へて、あらたに改(あらため)て金高とせしと見えたり。屆(ふとどき)也。得手(えて)ある事也、腰掛(こしかけ)にてよくよく内談(ないだん)をしろ」といはれて、その通りの事にてありければ、早速内談して願ひ下げにしたりとぞ。この事留役を勤たる奧村源太郎が一話なりき。

[やぶちゃん注:幕府が手を焼き、よほどのことでなければ訴訟を取り上げなくなっていったき金公事(かねくじ)の名捌きである。本件は、裁判が行われている中で裁判官から文書の一部書き換えが指摘されているところからは現行なら貸主の訴訟が無効とされ、全面敗訴となると思われる。但し鎮衛はそこで一旦審理を中断して、両者話し合いをさせている。これは民事上の訴訟が開始されている中で当事者が互いに譲歩して争いをやめる契約をした「和解」であるから、当時の謂いならば「内済(ないさい)」(現行の「和解」)だか、これは貸主が利息分を放棄し、借主も残りの元金を払うことを素直に認めたのであるから、互いに譲歩した「相対(あいたい)」(現行の「示談」であるが、しかし現行でもこように相互譲歩の場合は同時に同じく「和解」と規定している)でもあろう。

・「得手」これは聞き手にそれと分かる事物・人物・場所などをさして、「例のもの」「例のこと」「例のところ」の意を表す特殊な用法で、ここでは借金證文を貸主が改竄したものであるという事実を暗に指しているのである。先に注した徳川吉宗が享保四(一七一九)年に出した相対済令(あいたいすましれい:金公事を永年に亙って取り上げないことが明文化されたもの。但し、後にこの厳しい方針はこの単独法令の廃止によって廃されてはいる。)の例外事項として、但し、『利息を伴わない金公事や宗教目的による祠堂銭(名目金)、相対済令を悪用した借金の踏み倒し行為は例外とされた』(ウィキの「相対済令」より引用。下線やぶちゃん)とあるから、これは貸主がそうした利息を取り、しかも後から貸した額の残金にその利息も附け足して借用證文を改したのであるから、逆に訴えた貸主が罰せられるべき事例であるように思われる。それだからこそ訴人であろう貸主はびびりまくって、即座に譲歩したのであろう。被告の借主の方も、寧ろ、改竄の詮議なんどに拡大して、無暗に呼びつけられて、審議に参加せねばならぬことになったのでは堪らぬ。借金の残っていることは事実である訳だし、不満だった利子も無効とされた以上、ここでは却って貸主に全面的に協力して和解示談に積極的に賛同したと考えておかしくない。

・「留役」鎮衛もかつて勤めた(宝暦一三(一七六三)年二十六歳の時から明和五(一七六八)年まで)評定所留役のことであろう。ウィキ評定所留役によれば、『評定所の書記官で、勘定所から出向した役人の勘定がこの任に就いた』。『評定所は江戸幕府の最高裁判所であり、寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行が単独では処理できない案件を処理する場であったが、評定所構成員の奉行たちは、初回の吟味と、最後の判決の申し渡しのみを行った。実質的な審理は法令や過去の判例を熟知していた留役が行い、審議する事件の事実関係の下調べ、法令や判例の調査、書類の作成、容疑者への尋問や、審議を担当した』。『容疑者の下吟味の際に取られた口書(供述書)を留役が読んで、尋問すべき点を半紙に書いて奉行に渡し、奉行はこれを見ながら最初の吟味を行う。その後、留役が勘定所で、町方の事件であれば町奉行所の与力が留役に代わって取り調べを行った。取り調べは通常は留役』が一人で、難しい事件であれば二人で『行って調書を作成。その調書を元に奉行たちによる吟味が行われた。一連の裁判の流れで一番重視されたのが実際の取り調べにあたった留役で、ほとんどの場合は留役の意見が採用されて判決が下された』。『留役は勘定所の中でも特に有能な者が勘定奉行により任命され、御目見以下の者であっても御目見以上の役職である勘定に昇進させて評定所へ出向させた。留役から遠国奉行や町奉行・勘定奉行にまで出世する者もおり、重職を歴任した川路聖謨も評定所留役を務めた。当初は勘定所からの出向者が務めたが、後に寺社奉行・町奉行所の吟味物調役(ぎんみものしらべやく)も出役して留役を務めた』とある。この職名からやはりこれも町奉行時代の判例ではなく、勘定奉行時代のそれということになる。

・「奧村源太郎」不詳。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 ある日、借金出入りの金公事(かねくじ)の御座って、訴人と訴えられた借主双方ともに呼び出し、訴状を読み上げさせた。

 読み上げの終わって、肥前守殿、徐ろに申されたことには、

「……今、訴状の趣き、これ、聴いたところ、貸したと申す額の部分

――金高(かねだか) 何拾何両銀何匁(もんめ)何分(ふん)

とあった。さて? 初め、金を貸す時に

――何匁何分

と貸すことなど、これ、あるであろうか?……思うにこれは、最初の貸した元金(がんきん)の内、返済された分を除いた残金である

――何拾何両

――銀何匁何分

という貸主の定めた利子を加へて、新たに改めて金高とした證文のように見えた。

……だとすればじゃ。

……これは、證文の改竄に当たり、看過し難き、訴人たる貸主、そなたの側の、これ、由々しき不届きである。

……そんな、きな臭き匂い、これには――ある――のぅ。……

……まあ、そこな、腰掛けにても座ってじゃ、よくよく二人して――内々に――まずは――相談をしろッツ!――」

と、最後は大声にて申し渡された。

 無論、肥前守殿の申されたことが、その通りの事実にて御座ったによって、二人はこれ、早速に泡食って相談なし、貸主もほうほうの体(てい)にて訴えを願い下げに致いた、とのことで御座った。

 この出来事は、当時留役を勤めて御座った奧村源太郎殿から伺った一話であった。]

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