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2015/04/18

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅳ)

一 「非人の女太夫(をんなたいふ)といへるもの、むかしは衣類に縮緬(ちりめん)其外見事なる衣を着たりしかば、甚だ平人(へいにん)と紛(まぎらは)しく且(かつ)はあるまじき驕奢(きやうしや)の有樣なれば、已來は木綿(もめん)にかぎるべし」と、きびしく絹布類(けんぷるい)を制止し申付(まうしつけ)られしかば、今以(もつて)其(その)令(れい)をかたく守りて木綿のみを用(もちゐ)し事なり。さりながら近比(ちかごろ)は絹に見まがへるやうなるもあれど、みな木綿にて其令を犯すものなし。扨又一とせ北の奉行永田備後守、「とびのものまたいさみなど唱ふ若者共、身體にほりものして、賴光(らいかう)の山入(やまいり)また紅葉狩(ももぢがり)の鬼女其外渡邊の綱(つな)の羅生門(らしやうもん)など、五色の畫具をもて彩色しほりて、いかめしくりきみあるく事甚(はなはだ)見ぐるし。是(これ)その入用金拾兩餘も費(つひ)ゆる、畢竟はそのこれを彫るものあるゆゑなれば、巳來は決して右樣の業(わざ)をなすものあらば訴へよ」と、きびしく申渡(まうしわた)されしかば、その頃は壹人も彫りつかはすものなくなりしにより、我(われ)これを大(おほい)に悦び備後守え申(まうし)けるは、「此程は彫もの御制止のよし。扨々結構なる事にて、ほらせ候ものは身體髮膚(しんたいはつぷ)を花々敷(はなばなしく)する事不孝と申(まうす)事は一向不存(ぞんぜず)。せめて孝經(かうきやう)にても覺えたらばかゝる事をすまじきにて、第一年寄(としより)て子や孫に對して後悔するもの多しとの事なり。扨(さて)死して桶(をけ)に入るとき、ゆかんをするに、佛になられたと人々なみだを流す時分にも、おそろしきほりものしたる死人は、さてさて殊勝らしく見えず。佛にはならで鬼にもなりさうに見るよし。かたがた以(もつて)不孝の罪を救ひ給ふ處なるべし」と申(まうし)ければ、永田氏の申されしは、「今度(このたび)我(われ)申渡(まうしわた)せし條もわれら御役を勤(つとむ)る内は守るべきが、後々は天下の法度(はつと)は三日法度(みつかはつと)といへり、あしき申習(まうしなら)はしなれ共(ども)是非に不及(およばず)。すへすへはまたもとのもくあみとなるべし」とて笑ひながら申されしが、果(はたし)て今頃は盛んにほりものをするものもとの如くに成(なり)ぬ。これかれを思へば、根岸翁の女太夫の令は今によく守ることいみじき事にこそ。

[やぶちゃん注:この一条、鎮衛の捌き話以外に実は、理斎の語る刺青始末滑稽談も眼目の一つであるのでお楽しみあれ。なお、本条では当時の被差別者についての叙述が出るので、批判的視点をも持ってお読みになられるようお願いする。

・「女太夫」現代仮名遣で「おんなだゆう/おんなたゆう」と読む。女の門付け芸人のこと。菅笠を被って各戸を訪ね歩き、三味線や胡弓の弾き語りをして物乞いをした。正月には鳥追い笠をかぶって「鳥追い」(後述)となって、鳥追い唄を歌って家々を回った。また、浄瑠璃・水芸・奇術などの演芸をする女芸人のことをも指す。以下、ウィキの「女太夫」より引く(注記号は省略した。下線やぶちゃん)。『江戸時代において、門付は非人のみが許されていたが、非人であっても小屋頭』(非人は関東では長吏頭(ちょうりがしら)弾左衛門と各地の長吏小頭の支配下にあり、さらに抱非人(かかえひにん)と野非人(のびにん)との別があった。野非人は「無宿」(今日的には路上生活者のような生活形態)で、飢饉などになると一挙にその数が増えた。抱非人は非人小屋頭(ひにんこやがしら)と言われる親方に抱えられて各地の非人小屋に定住していたグループを指す。非人小屋は江戸の各地にあった。その非人小屋頭はこれまた、それぞれ有力な非人頭の支配を受けており、江戸にはそれは四人おり(一時期五人)、この非人頭を弾左衛門が支配下に置いて末端への伝達を計った。この非人頭の中でも特に有力であったのが浅草非人頭車(くるま)善七であった。非人の主な生業は「物乞い」で、他に街路の清掃や門付などの「清め」に関わる芸能、長吏の下役として警備や刑死者の埋葬、病気になった入牢者や少年囚人の世話などにも従事していた。以上はウィキの「非人に拠る。なお、次の「平人」の注も参照されたい)『クラスの妻や娘は女太夫をやることはなく、その下の層である小屋者の女性が行なった。小屋者の女は遊郭の遊女になることが許されず、櫛・簪をつけることも禁じられており、外へ出るときは笠をかぶる決まりだった。天保の改革以降は、下駄も許されなかった。絹の着用も許されなかったため、女太夫の着物は綿であったが、襟にだけ縮緬をあしらったり、染めや色合わせに凝ったりして工夫し、それがかえって色香があって粋に見られた。門付以外にも呼ばれて歌うこともあり、次第に演芸をする女芸人一般を女太夫と呼ぶようにもなった。容貌に優れた者も多く、色恋沙汰が歌舞伎の題材になったりもした』。『なお、関西には鳥追いはあったが、女太夫は生まれなかった。明治時代に女太夫は禁止された』。「鳥追い」は小正月(一月十四日~十五日)に行われる年中行事の一つで、その正月からこの時期にかけて祝い芸として各戸を回っては鳥追い唄を歌った門付芸人をも同時に指した。以下、ウィキの「鳥追い」から引く。農耕儀礼の一つであるそれは『主に東日本の農村において行われる行事で、田畑を鳥の被害から守ることを祈念して行われる。この行事は、主に子どもが主役となって行われ、地域によってやり方は異なるが、木や藁・正月に使われた注連縄などで小屋をつくり、その小屋を小正月の夜に燃やすものや、子どもたちが鳥追いの歌を歌いながら村の中を回ったり、村境まで行くものなどがある』。門付芸としてはまず、『新年に門口で、扇で手をたたきながら祝言を述べ、米銭の施しを得たもの。江戸初期、京都悲田院の与次郎が始めたという。たたき。たたきの与次郎』という男性のものが始まり、後の『江戸中期以降、新年に女太夫たちが、新しい着物に日和下駄・編み笠姿で三味線などを弾きながら、鳥追い歌を歌って家々を回』るようになった。『近世には三味線の伴奏で門付(かどづけ)しながら踊る者が現れ、これも鳥追いという。正月元日から中旬まで、粋(いき)な編笠(あみがさ)に縞(しま)の着物、水色脚絆(きゃはん)に日和下駄(ひよりげた)の2人連れの女が、艶歌(えんか)を三味線の伴奏で門付をした。中旬以後は菅笠(すげがさ)にかえ、女太夫(おんなだゆう)と称したともいう。京都悲田院に住む与次郎の始めたものと言い伝えるが、京坂では早く絶え、江戸では明治初年まであった』とあり、現在の『阿波踊りの女性の扮装はこの鳥追い女の風俗がもとになっている』と記す。

・「平人」「へいじん」と読む。通常の官位を持たない普通の庶民を便宜上指して言っている(「平人」という公的身分階級が存在したり認知されていた訳ではないので注意されたい)。所謂「士農工商」の「農工商」のグループが属する。因みに、それらの下位(枠外)に賤民として「穢多(えた/かわた)」「非人」が配されていた(現在、正しい理解に於いては「士農工商」は身分制度でなく、職業区分枠と認識されているようだ)。以下、ウィキの「賤民」から引いておく。『穢多(かわた)は、死牛馬(「屠殺」は禁止されていた)の皮革加工、履物職人、非人の管理』(西日本に於いては必ずしも非人は穢多の支配下にはなかった。部落解放同盟東京都連合会公式サイ内の「東京の被差別部落の歴史と現状」「非人」に拠る)。『などを主な生業とした。最下層ではないが、脱出の機会がなかった。職業は時代によって差があり、井戸掘りや造園業、湯屋、能役者(主役級)、歌舞伎役者、野鍛冶のように早期に脱賤化に成功した職業もある。諸職人(刀鍛冶や、石工、仏師など)や舟渡、陰陽師、宿曜師、山伏、禰宜、巫女、白拍子、舞々、楽人、能役者(端役)、連歌師、俳諧師、通事(翻訳業)、瓦版売りなどのように地域・時代によっては賤民とされた職業もある』。『非人には非人頭の配下に属する抱え非人と野非人(浮浪者)など区別があり、心中の生き残り、近親相姦者、税金不納者、権力に収容された野非人(病人を含む)がこの身分に置かれた。穢多とは異なり、彼らには非人化から』十年以内であれば『脱出(足洗い)の機会が与えられることもあった。ただし、非人の子として生まれた者は脱出の機会はなかった。奴隷労働から脱走し、逮捕されると腕に入れ墨を入れられて脱走回数が記録された』。脱走が三回に及ぶと死刑と決せられて行刑役も非人が負わされた。また、平人が無礼などを理由に非人を七人殺した場合、平人一名を殺したのと同等の罪として詮議されたとある。但し、『地方地域によっては穢多と非人の区別は一定していない』ともある。なお、部落解放同盟東京都連合会公式サイト内の「東京の被差別部落の歴史と現状」が最も詳しく、情報の改訂も厳密なので必ずそちらも参照されたいが、同サイト内に「2003年新春特集」として「被差別民衆が担った江戸の芸能」という記事があり、『近世の江戸の町には、非人や猿飼、そして乞胸など被差別民衆が担った様々な芸能の世界がありました。新春の言祝ぎの芸―女太夫の鳥追、清めの意味を持った門付や猿回し、様々な大道芸がそれでした』という浦本誉至史氏の「新春を祝う芸―女太夫の鳥追」に、この「女大夫」が出るが、そこでは、本文を読み解くに大切な、描かれていない彼女たちの生き生きとした姿や、江戸庶民とのその交流が髣髴としてくるので引用させて戴く(以下、下線部やぶちゃん)。

   《引用開始》

 江戸時代後期の庶民生活や風俗を記した史料に、『守貞漫稿』(もりさだまんこう)『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん)という書物があります。これらの書物の中に、「鳥追」(とりおい)芸の話がかなり詳しく出てきます。

 

 鳥追は今では京阪にはなく、江戸に多い。江戸ではこれを女太夫(おんなだゆう)というものが行っている毎年正月元日から中旬に至るまで、新しい服を着て編笠をかぶり、また常の歌・浄瑠璃と異なる節を唄い三味線を特に繁絃して町屋に(女太夫が)やって来る。女太夫は非人小屋から来るが、一人に12銭の紙包みをわたす。中旬以降は編笠が菅笠に変わるのだが、編笠の時を鳥追と言うのである。

 

 『守貞漫稿』に出てくる鳥追に関する記述です。又この記述の少し前に、女太夫についてつぎのように記されています。

 

 非人小屋の妻娘は女太夫と号し菅笠をかぶり木綿の服と帯ではあるが新しい着物を着、袖口などには絹の縮緬などを用い、綺麗に化粧し、日和下駄をはいて「なまめきたる」風姿で一人あるいは二三人ずれで三弦を弾きながら市中の店や門口に立って銭を乞う。往々にして女太夫に美人がいる。市中の店などでは1文をわたすが、参勤で江戸にやってきた諸国の下級武士などは長屋の窓下などに呼んで2・30銭をわたし、一曲を語らせたりする。

 

 同じような記述は、もう一つの書物『嬉遊笑覧』にもあります。それによれば女太夫たちは三弦だけではなく胡弓も弾いたようです。

 このように、江戸の町の正月の風物詩の一つであった「鳥追」は、女性の非人である女太夫がおこなったものでした。また記述の内容から、江戸の町人や武士などが、日頃から女太夫が来ることを楽しみにしていたことが分かります(著者である喜田川守貞や喜多村信節は、儒教道徳を身につけた民間「知識人」として、こういう「身分の垣根を曖昧にするような」風潮には批判的ですが)。

 日頃、非人たちの「物乞い」について規制することが多い幕府も、「鳥追はめでたいことだから」と、あまり規制しませんでした。女太夫の鳥追(そして正月以外の浄瑠璃の門付)は、今日的に言えばまさに江戸の町のアイドルでした。この江戸町人の文化は、やがて北廻船に乗って遠く北陸地方にまで(その風俗が)伝えられます。北陸地方などでは、今でも「江戸の女太夫の鳥追」姿をして夜の町を弾き歩くお盆の祭りが、大切に伝承され続けているのです。

   《引用終了》

ここに出る「守貞謾稿」は喜田川守貞(生没年未詳。江戸後期の風俗史家で大阪生)の江戸の事物風俗を渉猟解説した類書(一種の百科事典)で起稿は天保八(一八三七)年である。……袖口に絹の縮緬……鎮衛翁ならきっと「まあ、よかろう、衣の袖は衣ではない」と粋に言った気がする……それより幕末に至っても「女太夫」たちは鎮衛の決めた定めを守っていたことが分かる。江戸の「アイドル」であった「女太夫」たちもさしずめ、名捌きの名奉行たる鎮衛を、これ、尊敬していた故の仕儀ではなかろうか?

 また、この不当に差別された人々の中に「乞胸(ごうむね)」と呼ばれた門付芸を生業とする一団が存在したことも分かる。それを「東京の被差別部落の歴史と現状」「乞胸」の記載より引用させて戴く(当該データ元最終改定日二〇〇三年三月二十三日附記載)。

   《引用開始》

 浅草非人頭・車善七の支配下に置かれた被差別民に、乞胸(ごうむね)と呼ばれる人々がいました。大道芸を業とする被差別民であり、その頭は仁太夫と言いました。

 乞胸が特殊な位置にあるのは、法的にはその身分が町人とされ、大道芸をおこなって金銭を取るときその生業が非人頭車善七の支配を受けるとされたことでした。非人が門付(かどづけ)芸を生業としていたことが、この支配関係に結びついているのではないかと考えられます。

 一応「身分は町人」とされていた乞胸でしたが、しかし前近代にあっては職業と社会的身分および居住は分離できないと考えられていました。したがって乞胸たちは一般の町人や武士からは蔑視されました。

 乞胸は江戸中期までは乞胸頭仁太夫の家の周辺等江戸の街の数カ所に住んでいました。しかし1843年(天保14年)天保の改革の時、幕府によって集住を命じられます。その理由は「身分は町民だなどと言っているが、非人と同じような業をしているのだから市中に置くのはよろしくない」(町奉行鳥居甲斐守〈耀蔵〉の水野忠邦への上申)という差別的なものでした。

 1870年(明治3年)、「平民も苗字を名乗ってよい」という布告が出されましたが、このとき乞胸は布告から除外されました。つまり近代になって、はっきりと行政的に被差別民の規定を受けたわけです。

   《引用終了》

この「乞胸」については、先に引いた「被差別民衆が担った江戸の芸能」という記事の方の「乞胸」の頁には、乞胸の大道芸の種類を挙げた中に、『浄溜璃(じょうるり)、義太夫節(ぎだゆうぶし)や豊後節(ぶんごぶし)の節をつけて語る芸のこと』というのが含まれている。こうなると「女太夫」と「乞胸」は境界域がはっきりしないように私には読めるのであるが、特に女性がやるものを「女太夫」と呼び、男性の場合は「乞胸」であったものか? しかしそうなると同じ生業をなしながら、非人女性の生業としての「女太夫」と町民とも非人ともつかない特異的隔離的扱いを受けることになってしまった「乞胸」は、その差別された運命に於いても微妙に異なった経緯を辿ることになったと読める。誤解があれば、識者の御教授を乞うものである。

・「身體にほりものして」刺青。ウィキの「入れ墨」より、歴史のパートから奈良から江戸までの部分を引用しておく(下線やぶちゃん)。縄文以来の古代の日本に於ける『入れ墨の習俗が廃れるのは、王仁および』継体天皇七(五一三年)の『百済五経博士渡来による儒教の伝来以降と考えられ、以降の律令制の確立とともに入れ墨は刑罰としての入墨刑に変化した』。『一方では、律令制の確立と密接な関係を持つ遣唐船の乗組員達に入れ墨の習俗があったとされ、後に発生した倭寇集団もまた入れ墨を入れており、海上交易や漁撈を生業とする人々の間では、呪術と個体識別の目的で広く入れ墨が施された』。『この他、 蝦夷や隼人といった人々や、儒教と対立した密教の僧侶によって、入れ墨の技術が継承された。山岳仏教出身者であり、書寫山圓教寺を開いた性空は、胸に阿弥陀仏の入れ墨を入れていた』。『日本においては耳なし芳一の説話が有名だが、経文を直接身体に書き込む行為は、仏法への帰依とその加護を得る目的で広く行われた。現代のタイやカンボジアなど小乗仏教の盛んな地域では、経文を身体に入れ墨する習慣が一般的に見られる』。『中世に入ると人々の日常生活を描いた絵画が残されるようになるが、これらの絵画に入れ墨をした人々が描かれている例は見られない』。『また、戦国時代には死を覚悟した雑兵達が、自らの名や住所を指に入れ墨で記す個体識別目的の習俗があった』。『現代に続く日本の華美な入れ墨文化は、江戸時代中期に確立された』。『江戸や大阪などの大都市に人口が集中し始め、犯罪者が多数発生するようになったため、犯罪の抑止を図る目的で町人に対する入墨刑が用いられ、容易には消えない入墨の特性が一般的に再認識されたことで、その身体装飾への応用が復活した』。『遊郭などにおいては、遊女が馴染みとなった客への気持ちを表現する手段として、「○○命」といった入れ墨を施す「入黒子」と呼ばれた表現方法が流行した。入れ墨の他にも、放爪(爪を剥いで贈る)・誓詞・断髪・切指(指を切って贈る)・貫肉』(かんにく:腕や股の肉を傷つける)『といった、遊女による独特の愛情表現が存在した』。(中略)『こうした風潮に伴って、古代から継承された漁民の入れ墨や、経文や仏像を身体に刻む僧侶の入れ墨といった、様々な入れ墨文化が都市で交わり、浮世絵などの技法を取り入れて洗練され、装飾としての入れ墨の技術が大きく発展した』。『装飾用途の入れ墨は入墨刑とは明確に区別され、文身』(ぶんしん)『と呼ばれることが多く、江戸火消しや鳶などが独特の美学である『粋』を見せるために好んで施したほか、刑罰で入れ墨を施された前科者がより大きな入れ墨を施すことでこれを隠そうとする場合もあった』『背中の広い面積を一枚の絵に見立て、水滸伝や武者絵など浮世絵の人物のほか、竜虎や桜花などの図柄も好まれた。額と呼ばれる、筋肉の流れに従って、それぞれ別の部位にある絵を繋げる日本独自のアイデアなど、多種多様で色彩豊かな入れ墨の技法は、この時代に完成されている』。十九世紀に『入ると入れ墨の流行は極限に達し、博徒・火消し・鳶・飛脚など肌を露出する職業では、入れ墨をしていなければむしろ恥であると見なされるほどになった』。『幕府はしばしば禁令を発し、厳重に取り締まったが、ほとんど効果は見られず、やがてその影響は武士階級にも波及して行き、旗本や御家人の次男坊・三男坊や、浪人などの中にも、入れ墨を施す者が現れるようになり、図案にも「武家彫り」や「博徒彫り」といった出身身分の違いが投影された』。『下総小見川の藩主内田正容などは、一万石の知行を持つれっきとした大名でありながら入れ墨を入れていたと言われる。ただし正容は幕府に不行跡を理由に隠居を命ぜられた』。『時代劇で有名な江戸町奉行の遠山景元に入れ墨があったとの伝承が残されているが、これを裏付ける資料は発見されていない』(因みに実は根岸鎮衛にも入れ墨をしていたという噂があるが、これは恐らくデマであろう)。『また、当時の武士階級の間では、入れ墨のある身体を斬ることに対して、その呪術性への恐れから生じた忌避感情が存在していたことも記録』『されており、市中では帯刀できない町人にとって、刃傷沙汰を避ける自衛策としての側面もあった』とある。最後の部分は極めて興味深い。これはリンク先の注の「27」で、江戸の斬首刑を担当していた山田浅右衛門が副業で相当の報酬があった刀の試し切りに於いては、それに使用する死体には入れ墨の無いものを選んでいたという事実が記されてある。必読。

・「北の奉行永田備後守」既に何度も登場している生前の同僚(根岸は南町奉行)で仲の良かった永田正道(まさのり)。

・「いさみ」俠気に富んで言葉や動作の威勢のいい若い衆(しゅ)。おとこだて。

・「入用金拾兩餘」当時の刺青の相場が分かる。文化・文政期の十両は百万円相当であるから、とんでもない出費である(彫りに時間がかかるので恐らく分割支払したものとは思われる)。

・「孝經」中国の十三経の一。一巻。編者未詳。戦国時代に成立か。孔子とその弟子の曽子(そうし)の問答形式で孝道について述べ、「孝」を最高道徳・治国の根本と説いている。

・「われら御役を勤る内は守るべきが」以前に注したが、永田備後守正道の北町奉行在任期間は、文化八(一八一一)年四月二十六日から文政二(一八一九)年四月二十二日で鎮衛と同様に現職のままで死去した(因みに、根岸肥前守鎮衛の南町奉行在任期間は、寛政一〇(一七九八)年十一月十一日から文化一二(一八一五)年十一月九日である)。

・「三日法度」古くからある故事成句であるらしい。短い期間しか守られない法律や規則のこと。また、効き目の薄い薬などをも比喩的に指す。

・「今頃」前の正文の跋のクレジットが「天保三年」であるからそれ以降、志賀理斎は天保一一(一八四〇)年一月に享年七十九で亡くなっている。天保初年頃として、正道死去から二十五年ほどでこの条例は守られなくなっていたことが分かる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 肥前守殿、町奉行として、

「――非人の女太夫(おんなたゆう)と申す門付芸の者は、昔は衣類に絹の縮緬、その他、華美なる衣裳を着しておったがため、はなはだ平人(へいにん)と紛わしく、且つは、あるまじき驕奢(きょうしゃ)のありさまを呈するに至ったによって、向後、着用の儀はこれ――木綿のみに限る――ように。」

と、厳しく絹織物の着用を制止し、堅く申し付けられたが、今以って女太夫らは、その禁制を堅く守って、木綿のみを着用なしおる由。

『……然りながら、近頃にては、絹にしか見えぬもののこれあるぞ……』

と申さるる御仁もあろう。

 が――しかしこれ――絹に見紛ごうようなもの――であって――これ――絹にては御座らぬ。これ皆、木綿にして、その禁制を犯す者はおらぬ、のである。

 さてもまた、とある年のこと、かの肥前守御同朋にして、北の御奉行永田備後守正道(まさのり)殿が、

「――鳶の者、また、巷間にて「勇(いさ)み」などと称する若者ども、身体(からだ)に彫り物なんど成して、

――源賴光(みなもとのらいこう)酒呑童子(しゅてんどうじ)征伐 大江山山入(おおえやまやまい)りの図――

また、

――平維茂(たいらのこれもち)鬼退治 「紅葉狩(もみじがり)」は鬼女の図――

その他、

――頼光四天王筆頭渡邊綱(わたなべのつな) 髭切(ひげきり)にて羅生門の鬼を斬るの図――

なんど、五色の絵の具を以って、けばけばしき彩色に成し彫り、それを見せびらかしては厳めしく力んで歩きおること、これ、はなはだ見苦しい。

 これ、その入用金も十両余りも費やすと申す由々しきものである。

 畢竟それは、これを彫る者が在(あ)る故なれば――向後は、かような者どもへ、かような刺青(いれずみ)を成す者のあった場合は――これ――必ず訴え出る――ように。」

と、厳しく申し渡されたによって、その禁制を定められたその折りには、これ、一人もかような刺青を己(おの)が身に彫ろうとする者はふっつりとおらずなった。

 されば、私はこれを大いに歓迎致いて、備後守殿方へ参ってご挨拶の折りから、

「――このほどは、彫物御制止の由。さてさて結構なることにて。彫らせようと致す若造どもはこれ、父母から受けた身体髪膚(しんたいはっぷ)を、おぞましくもけばけばしく傷つくること、これ、不孝の極みたることは一向、存ぜぬタワケ者にて御座る。……せめても「孝経」などをも暗記致いて御座ったとならば、かかる不埒なることは致しますまいに。……この刺青をなしたる者、第一からしてが、年寄って後に子や孫に対し、遅まきながら、後悔致す者の多いと聴いて御座る。……さてもそれ何故(なにゆえ)かと申さば、死して棺桶に入(はい)るとき、湯灌(ゆかん)をせんとしたところが……仏(ほとけ)になられたと、人々の涙を流すが当たり前の場面に御座っても……これ……あまりに怖ろしき彫り物をした死人(しびと)は……さてさてこれまず以って一向、殊勝らしく見えず――仏には成らで――鬼にも成りそうに――見る由にて御座る。……さすればこそ、そうしたあらゆる意味に於きまして――備後守様はこれ――不孝の罪を――お救いになられた――ということにて御座いまする。」

と、申し上げたところ、永田氏の仰せには、

「……この度(たび)、我ら、申し渡せし条も、これ……そうさ、我ら御役(おやく)を勤めておる内は守られようが……さても、後々は――天下の法度(はっと)は三日法度――と申すではないか。……これもまた、悪しき申し習わしにして不快なる諺じゃが……まあ、是非に及ばず、じゃて。……いやさ、末々(すえずえ)には……これまた――元の木阿弥――となるに違いあるまい。……」

と、お笑いになりつつ、述懐なさっておられた。

 ……が……さても果たして……近頃にては、これ――永田氏の御言葉通り――盛んに彫り物をする者ども、雲霞の如(ごと)湧き出だいて、元の如く相い成ってしもうて御座る。……

 この遺憾なる事実と比較して考えてみれば、かの根岸翁の「女太夫への令(れい)」が今によく守られて御座ると申すはこれ、まっこと、類い稀なる奇跡の定めと申せよう。]

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