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2015/04/22

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅷ)

十月二十一日夕  

 けふはA君と若き哲學者のO君とに誘はれるがままに、僕も朝から仕事を打棄つて、一しよに博物館や東大寺をみてまはつた。

 午後からはO君の知つてゐる僧侶の案内で、ときをり僕が仕事のことなど考へながら歩いた、あの小さな林の奧にある戒壇院の中にもはじめてはひることができた。

 がらんとした堂のなかは思つたより眞つ暗である。案内の僧があけ放してくれた四方の扉からも僅かしか光がさしこんでこない。壇上の四隅に立ちはだかつた四天王の像は、それぞれ一すぢの逆光線をうけながら、いよいよ神々しさを加へてゐるやうだ。

 僕は一人きりいつまでも廣目天(くわうもくてん)の像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視してゐる貌(かほ)を見上げてゐた。なにしろ、いい貌だ、温かでゐて烈しい。……

 「さうだ、これはきつと誰か天平時代の一流人物の貌(かほ)をそつくりそのまま模してあるにちがひない。さうでなくては、こんなに人格的に出來あがるはずはない。……」さうおもひながら、こんな立派な貌に似つかはしい天平びとは誰だらうかなあと想像してみたりしてゐた。

 さうやつて僕がいつまでもそれから目を放さずにゐると、北方の多聞天(たもんてん)の像を先刻から見てゐたA君がこちらに近づいてきて、一しよにそれを見だしたので、

 「古代の彫刻で、これくらゐ、かう血の温かみのあるのは少いやうな氣がするね。」と僕は低い聲で言つた。

 A君もA君で、何か感動したやうにそれに見入つてゐた。が、そのうち突然ひとりごとのやうに言つた。「この天邪鬼(あまのじやく)といふのかな、こいつもかうやつて千年も踏みつけられてきたのかとおもふと、ちよつと同情するなあ。」

 僕はさう言われて、はじめてその足の下に踏みつけられて苦しさうに悶えてゐる天邪鬼に氣がつき、A君らしいヒュゥマニズムに頰笑みながら、そのはうへもしばらく目を落した。……

 數分後、戒壇院の重い扉が音を立てながら、僕たちの背後に鎖された。再びあの眞つ暗な堂のなかは四天王の像だけになり、其處には千年前の夢が急にいきいきと蘇り出してゐさうなのに、僕は何んだか身の緊(しま)るやうな氣がした。

 それから僕たちは僧侶の案内で、東大寺の裏へ拔け道をし、正倉院がその奧にあるといふ、もの寂びた森のそばを過ぎて、畑などもある、人けのない裏町のはうへ歩いていつた。

 と、突然、僕たちの行く手には、一匹の鹿が畑の中から犬に追ひ出されながらもの凄い速さで逃げていつた。そんな小さな葛藤までが、なにか皮肉な現代史の一場面のやうに、僕たちの目に映つた。

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年十月二十一日火曜日。なお、四天王の画像を示すためにしばやん氏の個人ブログ「しばやんの日々」の東大寺戒壇院と、天平美術の最高傑作である国宝「四天王立像」』をリンクさせて戴く。

「A君と若き哲學者のO君」阿部知二とその連れ。前条参照

「戒壇院」既注であるが思うところあって再掲する。東大寺戒壇堂。天平勝宝六(七五四)年に聖武上皇が光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真和上から戒を授かったが、翌年、日本初の正式な授戒の場としてここに戒壇院を建立した。当時は戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていたが、江戸時代までに三度火災で焼失、戒壇堂と千手堂だけが復興されている(以上は東大寺公式サイトに拠る)。現在の建物は享保一八(一七三三)年の再建で、内部には中央に法華経見宝塔品(けんほうとうほん)の所説に基づく宝塔が安置され、その周囲を塑造四天王立像(国宝)が守る。ウィキの「東大寺」によれば、この四天王像は『法華堂の日光・月光菩薩像および執金剛神像とともに、奈良時代の塑像の最高傑作の一つ。怒りの表情をあらわにした持国天、増長天像と、眉をひそめ怒りを内に秘めた広目天、多聞天像の対照が見事である。記録によれば、創建当初の戒壇院四天王像は銅造であり、現在の四天王像は後世に他の堂から移したものである』とある。私は教え子に連れられて初めてここに行き、その教え子の好きだという、まさにこの広目天像に親しく接し、痛く魅入られたことが忘れられない。

「四天王」仏教の世界観の一つを担う四鬼神。世界の中心にある須弥山(しゅみせん)の中腹、東西南北の四方に住むとされ、東に持国天、南に増長天、西に広目天、北に多聞天(毘沙門天) がそれぞれ配される。古代インドの神話的な神であったが、仏教に取入れられて仏法の守護神とされた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「廣目天」「毘留博叉」「毘流波叉」とも音写され、「雑語」「醜眼」「悪眼」とも訳される。須弥山中腹の西方にある周羅城に住し、西大洲(中央の閻浮提(えんぶだい)の西にある大陸。西牛貨洲(さいごけしゅう))を守護するところから「西方天」とも呼ばれる。悪人を罰し、仏心を起させるとされ、像容は戒壇院のそれのように、甲冑を着けて左手に絵巻、右手に筆を持ち、足下に邪鬼を踏みつけている姿で表わされることが多い(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「多聞天」音写が毘沙門。名は、北方を守る仏法守護の神将で、常に如来の道場を守って法を聞くことが最も多いことに由来する。甲冑を着けて、両足に悪鬼を踏まえ、手に宝塔と宝珠又は鉾(戒壇院のそれは右手で宝塔を掲げ、右手に短い鉾を持つ)を持った姿で表される。日本では福徳の神とされる。因みに、東方を守護する持国天像は、左手に刀を持ち、足下に鬼を踏むのが通例(戒壇院のそれは右手で柄を持ち、左手で剣先の少し手前を押さえている)で、インド神話では東方の守護神はインドラであるが、仏教のそれとは全く異なる。古くからインドの護世神であった南方を守護する増長天の戒壇院のそれは、右手に長槍を立て、左手を腰に添えてやはり足下に鬼を踏んでいる(以上は総て「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「天邪鬼」「あまんじゃく」とも呼称する。悪鬼神の小鬼、また、日本の妖怪の一種ともされ、「河伯」「海若」とも書く。参照したウィキ天邪鬼によれば、『仏教では人間の煩悩を表す象徴として、四天王や執金剛神に踏みつけられている悪鬼、また四天王の一である毘沙門天像の鎧の腹部にある鬼面とも称されるが、これは鬼面の鬼が中国の河伯(かはく)という水鬼に由来するものであり、同じく中国の水鬼である海若(かいじゃく)が「あまのじゃく」と訓読されるので、日本古来の天邪鬼と習合され、足下の鬼類をも指して言うようになった』。『日本古来の天邪鬼は、記紀にある天稚彦(アメノワカヒコ)や天探女(アメノサグメ)に由来する。天稚彦は葦原中国を平定するために天照大神によって遣わされたが、務めを忘れて大国主神の娘を妻として8年も経って戻らなかった。そこで次に雉名鳴女を使者として天稚彦の下へ遣わすが、天稚彦は仕えていた天探女から告げられて雉名鳴女を矢で射殺する。しかし、その矢が天から射返され、天稚彦自身も死んでしまう』。『天探女はその名が表すように、天の動きや未来、人の心などを探ることができるシャーマン的な存在とされており、この説話が後に、人の心を読み取って反対に悪戯をしかける小鬼へと変化していった。本来、天探女は悪者ではなかったが天稚彦に告げ口をしたということから、天の邪魔をする鬼、つまり天邪鬼となったと言われる。また、「天稚彦」は「天若彦」や「天若日子」とも書かれるため、仏教また中国由来の「海若」と習合されるようになったものと考えられている』とある。

「そんな小さな葛藤までが、なにか皮肉な現代史の一場面のやうに、僕たちの目に映つた」私には辰雄の当時の時勢への精一杯の皮肉であるように読める。]

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