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2015/04/01

藪野直史野人化4周年記念+ブログ・アクセス670000突破記念 火野葦平 海御前 附やぶちゃん注

本未明、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、670000アクセスを突破した。
藪野直史野人化4周年記念と合わせて、記念テクストとして火野葦平の「海御前」を公開する。
この掌篇、何か妙に心に残る。

[やぶちゃん注:各段落の後に必要に応じて注を附した関係上、読み易さを考え、次の段落とは注の有無に限らず一行空けた。]

 

   海御前

 

 ここは、暗うございますね。たいへん、暗い。あたくしの棲んでゐる海底も、そんなに明るくはないけれども、ここよりはずつと明るい。なんだか異樣な臭氣がしますね。息苦しい。なんのにほひでせう? 草いきれのやうでもあるし、饐(す)ゑた土のにほひのやうでもあるし、遠い人間の屍のやうないやなにほひでもある。それに、ひどくじめじめしてゐる。蚯蚓(とかげ)や土龍(もぐら)がたくさんゐますね。あまり棲み心地のよいところではないやうに思はれますわ。でも、あたくしはうれしいのです。ほんたうにうれしうございますわ。ここがいくらか快適の土地でないくらゐがなんでございませう。すべての環境といふものがそこに棲んだり旅したりする者の主觀によつて、よくもなつたり惡くもなつたりすることは、當然のことではありませんか。あなたがたがここをもつとも棲みよい場所として選ばれたのならば、そのあなたがたをかぎりなく力づよい味方と思ふあたくしにとりましても、同じやうに樂園と感じられます。

[やぶちゃん注:「蚯蚓(とかげ)」のルビはママ。「みみづ」のルビの方の誤りであろう。]

 

 でも、正直、はじめ、いきなりここへ引つぱりこまれたときにはびつくりいたしました。あたくしも河童と生まれかはりましてからは、前世の手搦女(たをやめ)とはちがつた神通力を得、馬でも機關車でも川にかきこむほどの膂力(りよりよく)を持つやうになつてをりましたのに、油斷でした。油斷といふことはどんな英雄豪傑にもございます。あたくしは日暮れとともに西の空にわきいでた夕燒雲のあまりの美しさに、ただうつとりみとれてをりましたので、突然、あたくしの足もとから強い力で引つぱられたときは、たわいもなく引きこまれてしまひした。心が空洞(うつろ)になつてゐるときは神をうしなつてゐるときで、やむを得ません。あたくしが夕燒雲に見とれてゐたのは、あたくしが詩人であるとか、あの女學生趣味の感傷にとらはれてゐたのではありません。あの巨大な眞紅の旗、空全體が一旒(いちる)の赤い旗になつたやうな神祕、奇蹟、憧憬と歡喜、歴史がつねにその眞實としてつたへてきた囘想の正しさ、さういふものにあたくしの全精神をふるはせてゐたのでございました。眞紅、赤い旗こそ、あたくしの命です。その昔、あたくしが源氏とあらそつて、つひに力及ばず、一の谷、屋島、壇の浦と西へ西へと逃れたとき、あたくし守つてゐてくれたのは、平家の象徴たる赤旗でした。あたくしたちはどんなに苦しい戰(いくさ)ときにも、敗北と富の流竄(るざん)におちましたときにも、宗家の旗じるし眞紅のいろを見ると勇氣が出ました。それははかなくもあたくしたちの一族が壇の浦の海底に沈んで亡びたのちもなほ、あたくしたちの消えざる矜持(きようぢ)として、今日まであたくしたちの全精神を支へてをるものでございます。さればあたくしが今日のたそがれど空いらめんを眞紅に染めた夕燒に、恍惚としてをりましたわけを理解下さいましたでせう。不覺でした。そのため通力を使ふいとまもなく、ここへ引きずりこまれましたのは。……でも、今はうれしうございますの。思ひがけなくあなたがたのやうな味方に今日めぐりあへたことは、あたくしの幸福(しあはせ)でございます。平家も壇の浦滅亡以來、ちりぢりばらばらになり、源氏のきびしい追悼の眼をのがれて、全國いたるところの山國邊陬(へんすう)の地にかくれ棲むやうになつてから、早や數百年が經ちました。時間の魔力が忘却を強ひたとて、なんの不思議がございませう。あなたがたがあたくしのことを知らなくなつてゐたとて、お恨みはいたしません。お望みにしたがつて、お話しいたしませう。さすればあたくしの今日までの復讐の悲願も、あなたがたの理解と協力とを得て、さらに力づよいものとなりませう。

[やぶちゃん注:「膂力」筋肉の力。腕の力。

「神をうしなつてゐるときで」この「神」は「じん」と音読みしていよう。神通力。

「一旒(いちる)」「旒/流」は接尾語で助数詞。旗や幟(のぼり)などを数えるのに用い、通常は「りう(りゅう)」と読むが、「旒」には呉音で「ル」もある。

「邊陬」中央から遠く離れた土地。片田舎。]

 

 あたくしは平家の侍大將能登守教經(のとのかみのりつね)の妻のなれのはて、いまは海御前(あまごぜ)とよばれてゐる者でございます。

[やぶちゃん注:「能登守教經の妻」平教経はご存じ平家随一の猛将にして源義経の好敵手として壇の浦で華々しく戦い義経を追い詰めて組みかからんとしたが、八艘飛びで逃げられ、源氏の荒武者二人を締め抱えて錘として入水し果てた(「吾妻鏡」では、一ノ谷の戦いで捕縛されて獄門となったいう野暮な記事が載るが、私の好きな彼のためにこれ採らない)。享年二十六。その妻というのはよく知られていないが、死後に河童に変じたという伝承は古くから知られている。ウィキの「海御前」によれば(注記号は省略した)、『海御前(うみごぜん、あまごぜ)は、福岡県宗像郡東郷村(現・宗像市)、北九州市門司区大積に伝わる海の妖怪。河童の女親分と言われている。かつて壇ノ浦の戦いで敗れ去った平家が海へ身を投じた際、武将・平教経の奥方(母親という説もある)が福岡まで流れ着き、河童に化身したものとされる(ちなみの他の女官たちは手下の河童に、武将たちはヘイケガニに化身したと言われる)。普段は他の河童たちを支配しているが、毎年5月5日だけは支配を解いて河童たちを自由に放す。この際に河童たちに、ソバの花が咲く前に帰るように告げると言うが、これは、自分たち平家を滅ぼした源氏の旗印が白であるために白い色のソバの花を恐れているためといい、自身もソバの花が咲く時期には住処にこもって一歩も外へ出ず、わなわなと震え上がりながら過ごすという』(この蕎麦の花の話は本文でも後に言及される)。『また平家出身であるため、人に危害を加える際も、源氏の人間以外に手を出すことは決してなかったと伝えられている』。『この伝承の名残りで門司港地区には現在でも、教経の奥方を葬ったという「海御前の碑」が建てられている』とある(福岡県北九州市門司区大積(おおつみ)に在る)。また、逸匠冥帝氏のサイト「日本伝承大鑑」内の「海御前の墓」には、そもそもが平家一門と河童は強い親和性があり、九州の河童の総帥とされる「巨瀬(こせ)入道」は『平清盛の生まれ変わりであるとされており、水天宮に祀られている二位の尼(清盛の妻)に時々逢いに筑後川を訪れるが、その時は川が大荒れになるとされる。多くの者が入水して亡くなったという史実から、平家一門が水を司る神や妖怪に化身したという伝説が生まれたと推察される』とある。]

 

 壇の捕は平家終焉(しゆうえん)の地として、その名殘りを海底にとどめてをります。榮華をほこり、沈む太陽を扇をもつてよびかへしたほどの權勢に、永い夢を見てをりました平家も、あの關東の暴力團、源氏の理不盡な攻擊に潰(つひ)えましたが、その無念をばやるかたなく、その怨靈(をんりやう)は今日まで、男は蟹となり、女は河童となつてのこつてをります。ところが不甲斐ないことに、かれらは現在は關門海峽のはげしく潮流の鳴りはためく海底に、ただ淫逸(いんいつ)無爲の日をおくつてゐるばかりでありまして、せつかく怨靈として再生しましたのに、いつかうに雄々しく復讐のためたたかふ氣配もありません。それどころか、あの平素蟹とよばれ、背の甲羅の紋樣に無念の形相をたたへてゐる男たちは、賤しい漁師の手に埒(らち)もなくとらへられ、賣られたり、食べられたり、剝製(はくせい)にされて飾りものになつたりしてゐる始末です。門司の突端、壇の涌口にのぞんだところにある和布利(めかり)神社の境内には、あたかも平家の腰拔けを嘲笑するかのやうに、巨大な平家蟹の剝製が、繪馬堂にたかだかとかかげられてをります。ああ、なにをかくしませう、それこそあたくしの夫、かつてその勇猛をうたはれ、平家の花とたたへられ、壇の浦の合戰においてあの源氏の大將九郎判官義經をすんでのことに生けどりにしようとした能登守教經のかはりはてた姿なのでございます。これを申しあげるのはつらいことです。あのとき、義經は八艘(さう)とびをしてのがれましたが(ああ、あの飛鳥にも似た義經の姿が眼にうかびます)もしあたくしの夫が義經を生けどりにしてをりましたならば、歴史もまつたく轉してをりましたらうか。それほどの無念さでありましたのでございますから、怨靈となつてのちは雄々しく源氏へ復讐すべく渾身の勇をふるひおこすが當然でありますのに、夫はたたかひに倦み、海底に安逸をむさぼつて、あらうことか、下賤の漁師の網にとらはれ、恥づき見世物となつてしまつたのでございます。

[やぶちゃん注:「和布利神社」は現在の福岡県北九州市門司区門司にある和布刈(めかり)神社のこと。ウィキの「和布刈神社」に、『神社名となっている「和布刈」とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える「和布刈神事」(めかりしんじ)が行われる』。和銅三(七一〇)年には『神事で供えられたワカメが朝廷に献上されているとの記述が残って』おり、現在、この神事は『福岡県の無形文化財に指定されている』とある。因みにこの神事、私には中学生の頃に貪るように読んだ松本清張の一作、「時間の習俗」以来、耳馴染みの神事である。私は行ったことがないが、壇ノ浦に面した海岸に鳥居が建っており、そこから石段が社殿に向かって延びているのがネット上の写真で確認出来る。ただ、ここに記されているような「繪馬堂」やそこに「巨大な平家蟹の剝製」があるかないかは調べ得なかった。識者の御教授を切に乞うものである。但し、この剥製は本文でも再度、叙述され、異様なリアリズムの映像で迫ってくる。火野は実際にそれを見たものと私は信じたい。]

 

 いや、なにごとも隱しますまい。歷史の眞實をかたるのはその歷史とともに永く生きた者の義務でございます。壇の浦以來、今日まで生をうけてゐるあたくしをのぞいて、眞相を知る者はない筈です。恥もいとひません。じつは、すべてのことは、戀ゆゑでした。

 

 おゆるし下さい。女の胸の奧底にある不思義な感情、自分でもどうにもならぬ神祕な衝動、あたくしも一人の女でございました。はつきり申しあげませう。あたくしはあの憎い憎い源氏、敵の大將である九郎判官義經を戀するやうになつてゐたのでございます。いつのころ、どのやうにしてか、戀のめばえをさぐることなどは思ひもつかぬことですが、あの一の谷、屋島、壇の浦とつづく戰場の中において、あたくしの義經への慕情は、せつなく耐へがたく加速度的に燃えあがるやうになつてゐました。

[やぶちゃん注:「不思義」はママ。]

 

 一の谷で、那須の與市が船上の扇を射おとしたあと、この關東の荒武者は、圖に乘つて、しきりと拍手喝采してゐる平家の一老兵を、つづいて射殺しました。なんといふはしたないわざでありませう。それまで、みごとに扇のかなめを射た妙技に、敵も味方も舷(ふなべり)をたたいてやんやと褒めそやしてゐましたが、このことのために、空に浮かぶ平家の軍船ははたと沈默し、味氣なく白けはてた空氣のなかに、この弓の名手にたいする輕侮と憎惡の感情がながれました。しかし、陸にゐる源氏の軍勢はさらに喝采のどよめきをつづけてゐます。あたくしは夫教經とともに齒をくいしばるやうにしてその光景をながめてをりました。その射ころされた老兵といふのがほかならぬ夫の古く忠實な郎黨であつたからでございます。

[やぶちゃん注:「一の谷で、那須の與市が船上の扇を射おとした」誤り。ご存じの通り、那須与一の扇の的のエピソードは屋島の戦いである。もしかするとこれは確信犯で、火野葦平は知られた話とは意識的にずらしたパラレル・ワールドとしての今一つの「平家物語」の滅亡の序曲を構築しようとしているのかも知れない(そういえば名前も「與一」でなく「與市」となっている。次段注も参照)。

「その射ころされた老兵といふのがほかならぬ夫の古く忠實な郎黨であつた」平家などではこの老兵が誰であったかは特に明らかにされてはいないが「源平盛衰記」では「伊賀平内左衞門尉(いがへいないざゑもんのじよう)が弟に、十郎兵衞尉家員(いへかず)」とする。しかし設定としては無理ではない。]

 

 那須の與市は意氣揚々として、馬をいそがせ、渚にかへりました。そして眉をいからし胸を張る歩きかたで、大將義經のまへへ伺候しました。さぞかし晴れがましいお褒めの言葉と、なにかのすばらしい引出物でもあるかと期待したものでせう。ところが與市のあてはみごとに外れました。なにぶん遠方なので、しかとしたことはわかりかねましたが、大將の義經がすこぶる不興で、褒めるどころか、したたかに與市を叱りつけたにちがひないことは遠目にもそれと知れました。扇を射おとしただけでかへつてきたならば、與市は胴あげきれるくらゐに歡迎されたでせうに、大將の義經が與市を武士道を知らぬ者としておこりつけましたために、部下の兵隊たちももはや拍手をするどころか、すごすごと與市が御前を下つてまゐりましても、慰めようとする者すらなかつたのです。あたくしはこれを眺めてをりまして、ああ義經といふのはなんといふ立派な大將であらうかと、思はずためいきが出たのでした。そのあとで夫に氣づかれなかつたかと、はつといたしましたが、夫は淺ぐろい顏にぐりぐり眼をむいて、ふん馬鹿な大將奴、部下の手柄は褒めてやつとけばいいのに、あれでは那須與市は恨みで寢返りをうつだけの話だと、さんざんに嘲り笑つてをりました、しかし、那須與市宗高もさすがに音にきこえた武士(もののふ)で、このことを深く恥ぢ、その後は領國にとぢこもって、後に平家追討がはじまり、與市に、九州日向(ひうが)の椎葉(しいば)にのがれた殘黨討滅の命がくだつたときにも、自分は遠慮して、自分の次子小次郎宗昌を派遣したほどでした。

[やぶちゃん注:言わずもがな乍ら、本段も「平家物語」と異なる。躍り出た老兵を射るように命じたのは知られるストーリーでは義経であった(厳密にはその命を受けた伊勢三郎義盛が伝令する)。また「源平盛衰記」では、射るべきか射ざるべきかで評議がなされたが、「情は一旦の事ぞ、今一人も敵を取たらんは大切也とて、終に射るべきにぞ定めにける」とやはり義経が決めている。寧ろ、命ぜられるがままに射ざるを得なかった与一の方がやや不快感を持った可能性の方が高い。ウィキの「那須与一」によれば、嘉応元(一一六九)年頃に那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)で生まれたと推測され、この折りの平家追討の働きによって源頼朝より丹波・信濃など五ヶ国に『荘園を賜った(丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘)。また、十郎為隆を除く』九人の兄達が、『皆平氏に味方し、為隆ものちに罪を得たため、与一が十一男ながら那須氏の家督を継ぐ事となった。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。しかし、某年、山城国伏見において死去』したとする。「寛政重修諸家譜」では文治五(一一八九)年八月八日没、「続群書類従」では建久元(一一九〇)年十月没とする。家督は兄の五郎資之(之隆)が継承したが、まもなく鎌倉幕府の有力御家人宇都宮朝綱の実子(異説もある)である頼資が資之の養子となり家督を継ぎ、その頼資の子が』、建久四(一一九三)年に『源頼朝の那須巻狩の際に饗応役を務めた(『吾妻鏡』による)光資である』とある。また「異説・伝承」の部分には、『子孫についてはいないとされているが、歴史学者の那須義定などが主張する異説(越後那須氏)もあり、梶原氏と諍いを起こしたため家督を捨てて出奔し、越後国の五十嵐家に身を寄せ、結婚して一男一女を儲け(息子は越後那須氏の祖となる)たという。その他、常陸国、出羽国、阿波国にも与一の末裔と称する一族が存在したという伝承、寺伝がある』とし、『また扇の的を射た功名で得たと伝えられている荘園の』内の一つに備中国荏原荘があるが、この伝承が事実であるかどうかは不明なものの、『少なくとも鎌倉時代中期の段階で那須氏の一族(荏原那須氏・備中那須氏)がこの地域を支配していたことを示す記録が残されている。また、与一に関する伝説の継承には備中那須氏をはじめとする西国の庶流が関わっており、下野那須氏の間では少なくても南北朝期の段階では与一の伝説については認識されていなかった可能性も指摘されている』。また、没年についても、一一八九年(又は一一九〇年)に『没したとするのは頼朝の粛清を免れるための偽装、出家した理由は癩病にかかり顔が変わってしまったため、とする伝承もある。また、那須義定によると頼朝の死後に赦免されて那須に戻った後に出家して浄土宗に帰依し、源平合戦の死者を弔う旅を』三十年余り続けた末、貞永元(一二三二)年に中風のため摂津国で没したという説もあるという。なお、どうしても私としては附しておきたい。冤罪であった弘前大学教授夫人殺人事件で権力側に組する法医学によって有罪判決が確定し、十年間服役せねばならなかった那須隆氏(仮釈放後に真犯人が出現、後、那須氏は再審で無罪)は、この那須氏の子孫なのである(リンク先はウィキ)。

「九州日向の椎葉」現在の宮崎県北西部に位置する東臼杵郡椎葉村(しいばそん)。ウィキの「椎葉村」に、『伝承としては、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の』一つとされ、平美宗(不詳)や『平知盛の遺児らが落ち延びてきたという。那須氏はその出自ではないかともいわれる(那須大八郎と鶴富姫伝説)』とある。さらにその那須大八郎のリンク先である同じくウィキの「那須宗久」によれば、那須宗久(なすむねひさ)は『鎌倉時代初期の武士とされる伝説上の人物。宮崎県椎葉村に伝わる鶴富姫伝説で知られる。通称は大八郎』で、『弓の名手として有名な那須宗高(与一)の弟とされる。江戸時代中期に編纂された『椎葉山由来記』によると、源頼朝の命を受け、病身の兄・宗高の代理として、宗高の次男とされる宗昌ら手勢を率いて、日向国椎葉へ平氏残党の追討に向かい』、元久二(一二〇五)年に『向山の平氏残党を討つ。次いで椎葉に進撃するが、平氏残党が農耕に勤しみ、戦意を喪失している様を目の当たりにし、追討を取り止め、幕府には討伐を果たした旨を報告した。宗久はそのまま椎葉に滞在し、屋敷を構え、農耕技術を伝え、平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めた。また、平清盛の末孫とされる鶴富姫を寵愛し、鶴富は妊娠したが、その直後の』貞応元(一二二二)年に『宗久は鎌倉より帰還命令を受けたという。宗久は「やがて安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越すべし、女子なる時は其身に遣す」と言って太刀と系図を与え帰国したと伝わる。その後、鶴富は女子を生み、長じて婿を取り、婿が那須下野守を名乗って椎葉を支配したといわれる。戦国時代に椎葉を治めた国人・那須氏は、宗久と鶴富の子孫とされる』。但し、元久元(一二〇四)年に『平家追討の宣旨が出されているが、その追捕使が那須宗久であったという記録は無く、椎葉の伝説にのみ残る人物である。また『椎葉山由来記』の記載によると』、元久二年に椎葉に入り、三年間滞在したというが、椎葉を去ったとされる貞応元年は十七年後であり、矛盾がある、と記す。火野が素材としたのはこの伝承の変型譚か? 或いは全くの創作か。

「自分の次子小次郎宗昌」不詳。一般には与一には子はなかったとされる。前注も参照のこと。]

 

 義經がながれた弓を拾はうとして、危險におちいり部下からたしなめられたとき、叔父鎭西(ちんぜい)八郎爲朝のやうな強弓なら、こちらから好んでながして拾はせてもよいが、この弱弓が源氏の大將義經の弓かと笑はれるがいやさに、危險ををかして拾つたのだという話をきかされたときにも、あたくしの胸の奧の琴線は不思議な感應をうけて、ふるへるやうに鳴りました。

[やぶちゃん注:先の屋島の扇の的に連続したシチュエーションとして知られる、義経弓流しの段である。これに続いて起こった激しい合戦の最中、義経が海に執り落とした弓を敵の攻撃の中にあって拘って拾い上げて帰り、部下から「いかでか御命には代へさせ給ふべきか」と諫められ、義経が「嘲弄せられんが口惜しさに命に代へて取つたるぞかし」と答えた、その台詞を、火野はほぼ忠実に用いている。]

 

 めざましかつたのは壇の浦でございます。陣頭に立つて指揮する義經の美しい武者ぶりを、あたくしはなんど惚れ惚れと眺めましたでせう。あつてはならぬこと、してはならぬこと、敵將へのこのやるせない慕情、あたくしは運命の神をうらみ、身も世もあらぬなげきにいくたびか涙で袖をぬらしました。はじめはなにも知らなかつた夫教經は、かよわい女であるあたくしがはげしい合戰と敗亡の悲運のなかで、神經衰弱になつたのだときめ、しきりとあたくしを慰めてをりましたが、そのうちにあたくしの眞意を氣ついたやうです。するとはげしい嫉妬が夫をさいなんで、にはかにあたくしに邪慳(じやけん)にあたるやうになつたと同時に、その憎惡が一途に敵將義經ひとりにそそがれるやうになりました。このために夫の勇猛さはさらに加はり、合戰のたびに義經を目がけて殺到しましたので、一時はこのために味方の志氣もふるひたつたほどでした。

 

 あのときの合戰は忘れられません。彼我の軍船は舷を接し、兵隊たちの雄たけびと、劍、槍、弓矢などのかちあふ音、法螺貝と陣太鼓の狂ほしい合奏、荒れる壇の浦の海は靑く、數十旒(る)の赤旗と白旗とが風にかるがへつて、その凄絶のありさまはとても口では傳へられません。そのとき、瞋恚(しんい)の眼に嫉妬のほむらをたぎらす夫教經が宿願を達して、目的の義經に近づき、その鎧の錣(しころ)をつかんだのです、あたくしはそれを見てゐまして、思はず眼をとぢ、舷側に膝まづいて神に念じました。ことの善意、理非、曲直を問うてなんになりませう。それは不倫でせうか。夫ある身が夫の成功を願はずして、かへつて敵の安全のために祈つたとは、しかしそれこそは女の僞りない神聖な戀の感情でした。あたくしは義經の勇武のほどをきいてをりましたが、能登守教經の勇猛がそれに倍することをつてゐましたので恐れたのでした。ふと眼をひらいたとき、靑空を背景にして、義經が空間をとんでゐる姿を見ました。美しい飛鳥の姿でした。緋縅(ひおどし)の鎧がきらきらと陽にかがやいて、それはあたかも極樂にゐる迦陵頻迦(がりようびんが)かと思はれました。義經は教經の手に鎧の錣をのこして、別の船にとびうつつたのでした。それは義經の八艘とびとよばれてゐますけれども、多分四五隻であつたでせう。それとも鞍馬山で天狗に飛行の術をならひ、京都の五條橋で欄干から欄干へとびうつつて、さすがの武藏坊辨慶をへこたれさせた人ですから、ほんたうに八隻の船をとびこえたのかも知れません。いづれにしろ、義經の安全を知つてあたくしは安堵の胸をなでおろし、神に感謝して舷に身をよせたのです。そのときあたくしは突然はげしい力で舟底にたたきすゑられました。夫教經の怒りのために朱泥となつた顏が眼前にありました。夫はあたくしが敵のために祈つたことを知つて、あたくし半殺しの目にあはせました。

[やぶちゃん注:「瞋恚」怒り怨むこと。

「錣」兜の左右・後方に下げて首筋を覆う部分。

「緋縅」の縅(鎧(よろい)の「札(さね)」(鉄や革で作った小さな板)」を糸・革紐などで綴り合わせること。また、そのようにしたもの。材料によって糸縅・革縅・綾(あや)縅など、綴り方によって荒目・毛引き・敷き目など、色によって緋(ひ)縅・黒革縅・萌黄(もえぎ)縅・卯(う)の花縅などの種類がある)の一つで、クチナシやキハダで下染めした上から紅で染めた紐・革緒などで造作したもの。

「迦陵頻迦」梵語の漢訳。想像上の鳥で雪山(せつせん)又は極楽にいるとされ、美しい声で鳴くという。上半身は美女、下半身は鳥の姿をしている。その美声は仏の声の形容とされた。

「朱泥」「しゆでい(しゅでい)」は、狭義には鉄分の多い粘土を焼成して作った赤褐色の無釉(むゆう)陶器のこと。明代に煎茶の流行に伴って宜興窯(ぎこうよう)で創始された。急須・湯呑を主とし、日本では常滑(とこなめ)・伊部(いんべ)・四日市などに産する。ここはその色を換喩で用いたもの。]

 

 そして、結末がまゐつたのでございます。亡びた平家は壇の浦の海底に、男は蟹となり、女は河童となつてわづかに殘るだけになりました。そのほか全國の山間僻地にのがれた殘黨は、三族までも根だやしにする源氏のきぴしい追討で大半は殺され、その幸運な少數の者が人跡未踏の奧地に哀れな小さな部落をむすんで、世を忍んでゐるにすぎません。さうして、あたくしは多くの女御(にようご)たちと運命をともにし、河童となつて關門海峽の海底に棲む身となつたのでございます。

 

 ところが、この海底生活はまもなくあたくしには耐へがたいものとなりました。源氏への復讐に燃えるあたくしのはげしい氣塊は、もはや氣力をうしなつて安逸にふけるやうになつてゐた同僚のなかでは、かへつてはぐらかされるばかりで、つひにあたくしをこの海底から脱出させるにいたりました。だから、さつき、あたくしが自分の棲んでゐる海底といつたのは、この壇の浦の底ではありません。現在あたくしは企救(きく)郡松ケ枝の大積(おほづみ)の海底に居住してゐます。ここがあたくしの復讐の悲願の據點です。

[やぶちゃん注:「企救郡松ケ枝の大積」先に注で示した福岡県北九州市門司区大積。壇の浦とは企救半島を隔てた、東南側の周防灘に面した深く西へ入り込んだ湾である。]

 

 恥のついでに、申しませう。あたくしが思ひ出ぶかい壇の浦をすてた理由のひとつに、うるさい夫の燒き餠がありました。夫教經は蟹となつてからも、しつこくあたくしの不倫を責め、あのとき義經をとりにがして勝利の契機を逸したことがあたくしの罪のやうにいふのです。お前の浮氣が平家を亡ぼしたといふのでございます。そしてそのあとではふいにあたくしの機嫌をとつて、あたくしを求めようとする。あたくしはもうそのうるささ、いやらしさに耐へがたくなりました。夫をはじめとする蟹たちはもう戰ひは倦き倦きしたといひ、かへつて蟹となつて海底で平和の日の送れるやうになつたことをよろこんで、ときにぶつぶつとだらしない泡をふいて、昔の榮華の日を未練がましく語りあふだけです。その不甲斐なさは女であるあたくしの胸をはがゆさで煮えたぎらせるのでした。河童になつた女は女で、三々五々、群をなして陸のうへを遊び呆けることに熱中し、くやしげな泣面を背の甲羅にのこしてゐる男の蟹たらをなぐさめることもせず、あちこち飛びまはつてゐますが、秋になるとまつ靑な顏をしてふるへながらみんな海底へかへつてきます。彼女らはなにより源氏の白旗がこはいので、その敵の旗におどろいて逃げかへつてくるのですが、なに、それは敵の白旗でもなんでもなく、蕎麥(そば)の白い花なのです。あきれた臆病といふほかはありません。それやこれやで出廬の覺悟がしだいにかたまつてきましたので、或る日、思ひきつてあたくしはなつかしい壇の浦の海底を脱出いたしました。

 

 あたくしはさうして現在の大積の海底に棲み、阿修羅(あしゆら)となつて、源氏への復讐のため方々を荒しまはるやうになり、その勇猛さのために、いつか誰からともなく海御前(あまごぜ)とよばれるやうになつたのでございます。ところが、ここにきすがにそのあたくしをおどろかせたひとつのことがございました。それはさきほどもらよつと申しあげました能登守教經が、下賤の漁師にとらへられて、和布利(めかり)神社の繪馬堂にさらしものになつてかかげられたことでございます。幸ひ、人間どもはそれを教經の化身と知りませんだけがせめてものことで、わかりましたら大騷ぎでせう。すでに他人となつた夫とはいへ、さすがにあたくしはしばらく愁傷のこころに胸をしめつけられて、そのからからに乾いた赤黑い夫の殘骸のまへにしばらく呆然と彳(たたず)んでをりました。背の紋樣の異樣に無念さうな顏つきがあたくしの心をふるはせます。一瞬、ふつとすまぬ氣持もわきます。あとでわかつてみますと、夫はあたくしの出奔以後、魂がぬけたやうになり、失戀したといつてなげきかなしんでゐたとのことです。それでわかりました。それでなくては、驍將義經をあはやとりひしがんとした敏捷の教經が、どうして愚鈍な下賤の漁夫などの手に負へませうか。ふらふらと氣が拔けたやうになつてゐたにちがひません。あたくしはそれを知ると、やむを得なかつたとはいへ、あたくしが自然にいつしかをかしてきた罪といふものを考ヘずにはをられませんでしたが、それでは罪とははたしていかなるものでせうか。それを斷ずることは神樣以外にはできないことです。失戀ですつて? 失戀といへば、あたくしも同樣です。あたくしの生きる命の燈であつた九郎義經は、兄賴朝からにらまれ、どこか遠い奧羽の方へのがれたきりで、まつたく消息を知りません。殺されたといふ風評もあり、蝦夷(えぞ)地へわたつて蒙古(もうこ)の方へ行つたといふ説もあつて、眞僞のほどをたしかめ得ません。はつきりわかつてゐることは、もう絶對に義經を見ることができないといふこと、あたくしが失戀したといふことです。あたくしはもはや青春を暗黑のそとへ放りだし、いまはただ復讐の鬼となつてゐるのです。

 

 同僚の女河童連中が蕎麥の花におそれるなんて、だらしのない話です。あたくしはそんなものはこはくもなんともありません。いや、あたくしのまへにはなんの障害物もないのです。あたくしは憎い白旗のあるところ、あたくしの敵のゐるところ、縱横無盡にあばれまはります。このごろはあたくしの猛威におそれ、白旗をそのままかかげず、字をかいたり、日の丸をかいたり、繪をかいたりしてごまかしてゐますが、あたくしはさういふあさはかな詐術(さじゆつ)にはごまかされません。あたくしは姿をくらますことは得意だし、水中はむろんのこと、陸でも空でも自由に翔(かけ)ることができますし、馬でもトラックでも機關車でも河中にひきこむだけ膂力(りよりよく)をもつてゐます。あたくしの攻擊を避けるために、人間どもはさまざまの防禦法を講じてゐますが、そんなものはなんの役にも立ちません。あたくしは草や藁や魚の卵のなかから簇生(そくせい)したやうな卑賤の河童らとはちがつて、高貴の生まれと育ちによつて、神格にちかい通力を附與されてゐますから、低級にして通俗的な呪禁(まぢなひ)ごときであたくしの術を封じようと思つたら、大まちがひです。あきれるではありませんか。卑賤の河童を封じる佛飯や久留米水天宮の札、「古の約束せしを忘るなよ。川だち男氏(うぢ)は菅原」といふやうな滑稽な世迷言(よまひごと)で、あたくしの活躍を封じようとやつきになつてゐるのです。あたくしは自由で、あたくしの復讐の事業は着々とすすんでゐます。

[やぶちゃん注:「日の丸をかいたり」本作は戦後のものである。美事な皮肉である。ここに味な伏線が張られていることに気づかれたい。

「佛飯」ウィキの「ガラッパ」に、『仏飯(仏壇に供えるご飯)が弱点。熊本では、仏飯を口にしたガラッパが力を失ってしまったという伝承があ』り、『また伊佐郡や薩摩川内市では、仏飯を食べた人間や動物に対しては、ガラッパは恐れて近寄らないと言われている』とある。そこには外に、光り物の金属類・人間の歯・網を忌避するともある。

「久留米水天宮」現在の福岡県久留米市瀬下町にある全国の水天宮の総本宮である水天宮。なお、ここは天御中主神の他に安徳天皇・高倉帝中宮(建礼門院平徳子)・二位の尼(平時子)をも祀っており、これでは海御前には効かないとも解せる。ウィキの「河童伝説」の「筑後」の項に、『「水に入る前にはタケノコを食べる」「水に入る前には仏前飯を食べる」「水に入る前には水天宮の申し子だと唱える」といった河童除けの風習は久留米市の水天宮付近が起源とされ』、毎年八月には「水の祭典」という祭りが行われるが、『これは、元々河童をあがめるために始まった祭りである』とある(下線やぶちゃん)。これは元水天宮の神であったものが零落したものが河童であるという可能性をも推測させる。

「古の約束せしを忘るなよ。川だち男氏は菅原」ウィキの「ひょうすべ」(佐賀県や宮崎県を始めとする九州地方に伝承されている河童の一種とされる妖怪)に、佐賀県武雄市では嘉禎三(一二三七)年に武将・橘公業に伊予国(現在の愛媛県)からこの地に移り、潮見神社(武雄市橘町永島にあり、橘諸兄と河童を祀る)『の背後の山頂に城を築いたが、その際に橘氏の眷属であった兵主部(ひょうすべ)も共に潮見川へ移住したといわれ、そのために現在でも潮見神社に祀られる祭神・渋谷氏の眷属は兵主部とされている』。『また、かつて春日神社の建築時には、当時の内匠工が人形に秘法で命を与えて神社建築の労働力としたが、神社完成後に不要となった人形を川に捨てたところ、人形が河童に化けて人々に害をなし、工匠の奉行・兵部大輔(ひょうぶたいふ)島田丸がそれを鎮めたので、それに由来して河童を兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったともいう』とあり、さらに『潮見神社の宮司・毛利家には、水難・河童除けのために「兵主部よ約束せしは忘るなよ川立つをのこ跡はすがわら」という言葉がある。九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真が河童を助け、その礼に河童たちは道真の一族には害を与えない約束をかわしたという伝承に由来しており、「兵主部たちよ、約束を忘れてはいないな。水泳の上手な男は菅原道真公の子孫であるぞ」という意味の言葉なのだという』とあって、河童伝承と菅原道真は縁が深い。]

 

 今日もあたくしはこのあたりの蕎麥畑の花を全部むしりとつて、いくらか疲れたので、あの丘へ腰をおろして休憩してゐたところなのでした。そして、夕燒け雲に歷史的古典的な壯大な感慨をもよはし、ぼんやりとなつてゐるところを、不覺にも、あなたがたのために、この暗いところへ引きこまれたわけでした。でも、さきほどから申すやうにそれは後悔ではないのです。それどころか、久方ぶりにあたくしはなつかしい味方のなかに置かれて、うれしさでわくわくしてをるくらゐです。

 

 いつ見ても、赤旗はすばらしい。あたくしたちの矜持(きようぢ)の旗、燃える眞紅の旗、名門の名ごりがふくよかにこもる美しい旗、あたくしはここへ引きこまれた刹那に、それを見て、もう歡喜で胸がふくれたのです。あたくしは復讐の鬼となつて以來、勇氣は凛々としながらも、孤獨のきびしさには折々おそはれて耐へがたくなることがしばしばでしたが、今はもう寂しがりません。こんなに多くの味方ができたら、あたくしの復讐の悲願成就も近きにありませう。ふたたび平家の時代のくることも夢ではなくなりました。

 

 え? 自分は平家ではない、つて? それでは、なんです? なんでございますの? そんなに平家の旗じるしをたなびかせてゐるあなたが、平家ではないなんて。それでは、その旗はなんの旗です。

 

 人民の旗ですつて? それはどういふ意味です? あたくしにはわかりません。わかりませんわ。おどろかさないで下さいまし。赤旗は貴族の旗の筈です。平家は教養たかい貴族です。白旗こそ、人民の旗です。源氏こそ關東の野武士、暴力團、みんな無賴漢、いいえ、源九郎義經をのぞいた以外です。……なんですつて? もう一度、いつて下さい。……なに? 源氏などはもうゐない? それはずつと古い時代の語で、とつくの昔に亡びてゐる?……馬鹿な。源氏がいつ亡びたのです?……そんな筈はない。ほんたうですつて?……ああ、あなたがたは恐しいことをいふ。心臟がわれさうです。もうすこし、ゆつくり話して下きい。あまりびつくりして判斷力がなくなつてしまひました。あなたがたのいふことを復唱しながら、考へます。……ええ、いつて下さい。――源氏や平家がゐたのは、仁安、壽永、建久といふやうな古い時代のことで、すでに七百六十年も昔に源平時代は終わつた。そのあとに、南北朝、皇町、戰國、安土桃山、江戸、明治、大正、といくつかの時代がつづき、昭和の現代は高度な文明の世の中になつてゐる。それで、源氏へ復讐するなどといふやうなことは、無意味なうへに荒唐無稽といつてよいほどのことで、そのために人民が迷惑してゐるだけのこと。それより、その神通力を別途に有效に使つた方がよい。自分たちは人民の幸福をねがひ、革命を企圖してゐるが、彈壓がきびしくてうまくゆかない。それで願はくば、その神通力を自分たちに傳授して欲しい。それが赤旗へ郷愁をかんじ誇りをもつあなたの眞の慰めになるだらう。平家の旗じるしであつた赤旗の勝利はあなたも願ふところにちがかない。同じ追放者のよしみ、これを機會に、あなたの術を……とんでもない。なにをおつしやるんです。もう聞きません。これ以上、無用です。馬鹿なあたしだ。なんといふ愚かなことか。……ここは、いつたいどこです?……地下ですつて?……道理で、土龍(もぐら)だの蚯蚓(とかげ)だのがたくさんゐて、異樣な臭氣がただよつてゐると思つた。失禮します。……いいえ、放して下きい。用がすまないつて? あなたがたにもう用なんかありません。‥…

[やぶちゃん注:「すでに七百六十年も昔に源平時代は終わつた」本作品集「河童曼荼羅」は昭和三二(一九五七)年刊で、その「七百六十年」前は一一九七年となる。因みに壇の浦合戦は文治元(一一八五)年である。

「蚯蚓(とかげ)」第一段落と同じくママ。こうなると何だか単なる誤植とも思えなくなってくるのだが……]

 

 なんといふ恐しいことだらう。この數百年間、復讐の悲願に燃え、情熱をわきたたせ、退屈な日を知らずにきたのに。失戀の痛手もそれでわすれてきたのに。――源氏などはもうどこにもゐないといふ。とつくに亡びたといふ。さういへば思ひあたる節がある。馬鹿なあたしだ。けふの日まであたしはなにをしてきたのだらう。もうなんだか身體中の氣力が拔け落ちて、頭のなかが空洞(うつろ)になつたやうだ。どんな河童封じも屁とも思はなかつたのに、歷史といふ恐しいやつにいつペんでやられた。かうなると剝製になつた夫教經の方がまだ幸福であつたかも知れない。……もう、企救(きく)の大積(おほづみ)にかへるのは止さう。あそこは復讐の據點だつたので、すべてを知つた今はゐづらい。壇の浦の海底に行かう。古い友だちのをるところへ行かう。たとひ、そこで、倦怠のはて發狂することがあるとしても。

[やぶちゃん注:この海御前に私は、そこはかとない哀れを感じる。……それはまた、今の我々の我々自身への哀感(ペーソス)へと何処か繋がっているようにも思うのである。……]

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