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2015/04/04

耳嚢 巻之十 精神に足痛も直る事

 精神に足痛も直る事

 

 文化十一年の頃、一つ橋の家老を勤仕(ごんし)ありし仙石(せんごく)丹波守、祖父治兵衞、後□□と申ける。番頭(ばんがしら)を勤(つとめ)しに、其頃まで兩山御參詣の節、番頭も御供申(まうし)けるが、道の程の無心許(こころもとなし)とて、日々一里宛(づづ)馬を牽(ひき)、又は駕(かご)を爲持(もたせ)て、神明(しんめい)とか觀音とか百日程參りけるが、後は兩山程の御供は何の苦もなく歩行(ほかう)有(あり)し。此事、德廟の御聞(おきき)に達し、番頭の御供御(ご)めん有(あり)しとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。徳廟吉宗公の懐旧譚。急にえらく昔に遡るところは、根岸の老いの現われという気もする。そろそろ千話になろうという感慨の成せる技とも言えようか。残り千話まで――八つ――。

・「精神」一心に思う心。誠心。

・「文化十一年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。

・「仙石丹波守、祖父治兵衞、後□□と申ける」岩波の長谷川氏注に、『久貞。二千石。祖父は久近。延享二年新番頭より西城御小性組番頭にすすみ、従五位下丹波守。寛延三年西城御書院番頭。宝暦三年没、四十二、法名良義。足痛の持病があったらしい』とある。岩波の長谷川氏注には、仙石久貞は『一橋家老。文化元年(一八一八)御側衆』とある。寛延三年は西暦一七五〇年、宝暦三年は西暦一七五三年。逆算すると正徳二(一七一二)年生まれで近侍した吉宗よりも二十八歳も若く、西城御書院番頭となったときは未だ三十八歳であったから、彼の足痛(そくつう)というのは先天的な障碍だった可能性もあるかも知れない。因みに、この祖父久近の没年は近侍した吉宗の没した寛延四(一七五一)年の二年後のことであった。なお書院番は徳川将軍及びその継嗣直属の親衛隊で、西丸(鈴木氏注の「西城」と同義)が使用されている際(大御所或いは将軍継嗣がいる際。吉宗は満六十一の延享二(一七四五)年九月に将軍職を長男家重に譲って大御所であった)には西丸にも本丸と別に四組が置かれた。大番と同じく将軍の旗本部隊に属したが、敵勢への攻撃を主任務とする大番と異なり、書院番は将軍の身を守る防御任務を主とした。また、毎年交代で駿府に在番した。小姓組とともに「両番」と称せられ、有能な番士には出世の途が開かれていた。どちらも、登城して勤番した日から三日目は供番といって、この日に将軍が外出すれば、そのお供を務める。四日目は西丸勤番。五日目は大手門の警固、六日目に将軍外出に当たれば先供を務め、七日目は西丸供番。八日目に明番といって休日が回ってきた、とウィキの「書院番」にはあり、所謂、現在のSPに当たり、相当に神経を遣う仕事であったことが窺われる。――なお蛇足ながら、この仙石氏というのは美濃国の豪族出身で清和源氏頼光流土岐流を称したが――これ実は私――藪野家の直系の祖先――らしいのである。……根岸殿……「耳嚢」の終盤に至って我ら、先祖に逢わせて戴いた。心より感謝申し上ぐる。……

・「後□□」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『伯耆守(はうきのかみ)』。岩波の長谷川氏注には、これについて、『ただし伯耆守となったのは久貞父の治兵衛久峰か、久近の先代の久尚』とある。

・「兩山御參詣」底本の鈴木氏注に、『将軍が東叡山と芝増上寺の祖廟へ参詣すること』とある。

・「神明」現在の東京都港区芝大門一丁目にある芝神明宮。公式サイトの「由緒」によれば、伊勢神宮の祭神である天照大御神(内宮)・豊受大神(外宮)の二柱を主祭神とし、鎮座は平安時代の寛弘二(一〇〇五)年、一条天皇の御代に創建されたとある。古くは飯倉神明宮・芝神明宮と称され、鎌倉時代には源頼朝の篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代には徳川幕府の篤い保護の下、大江戸の大産土神(うぶすながみ)として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を受けた、とある。

・「觀音」聖観音菩薩を本尊とする浅草寺のこと(当時は天台宗。第二次世界大戦後に独立して現在は聖観音宗の総本山となっている)。

・「德廟」有徳院。第八代将軍徳川吉宗の戒名。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 誠心の心あれば足痛(そくつう)も治るという事

 

 文化十一年の頃、一橋(ひとつばし)の家老を勤仕(ごんし)なさっておられる仙石(せんごく)丹波守久貞(ひささだ)殿の、これ――祖父であらるる治兵衛久近(ひさちか)殿――後に□□と称された――の話にて御座る。

 当時、久近殿、番頭(ばんがしら)を勤めておられたが、その頃までは両山御参詣の折りは番頭も御供を致いて御座ったが、久近殿はお若い乍ら、足のやや不自由であられ、御供の道のほど、これ、心もとのうては成り難しとて、日々、これ一里ずつ、馬を牽き、または駕籠(かご)を吊らせては、芝神明(しばしんめい)や浅草観音などに百日ほども足弱(あしよわ)平癒の祈念を以って参られたと申す。

 されば、後、両山ほどの御供はこれ、何の苦もなく、歩き勤められたと申す。

 このこと、後に徳廟吉宗公の御耳に達し、その誠心にいたく御心を打たれなされ、その後は番頭の御供をお差し止めになられたのであった。

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