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« 堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅸ) | トップページ | 譚海 卷之一 内外遷宮材木の事 »

2015/04/26

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅹ)

十月二十四日、夕方  

 きのふ、あれから法隆寺へいつて、一時間ばかり壁畫を模寫してゐる畫家たちの仕事を見せて貰ひながら過ごした。これまでにも何度かこの壁畫を見にきたが、いつも金堂のなかが暗い上に、もう何處もかも痛ゐたしいほど剝落してゐるので、殆ど何も分からず、ただ「かべのゑのほとけのくにもあれにけるかも」などといふ歌がおのづから口ずさまれてくるばかりだつた。――それがこんど、金堂の中にはひつてみると、それぞれの足場の上で仕事をしてゐる十人ばかりの畫家たちの背ごしに、四方の壁に四佛淨土を描ゐた壁畫の隅々までが螢光燈のあかるい光のなかに鮮やかに浮かび上がつてゐる。それが一層そのひどい剝落のあとをまざまざと見せてはゐるが、そこに浮かび出てきた色調の美しいといつたらない。畫面全體にほのかに漂つてゐる透明な空色が、どの佛たちのまはりにも、なんともいへず愉しげな雰圍氣をかもし出してゐる。さうしてその佛たちのお貌(かほ)だの、寶冠だの、天衣だのは、まだところどころの陰などに、目のさめるほど鮮やかな紅だの、綠だの、黄だの、紫だのを殘してゐる。西域あたりの畫風らしい天衣などの綠いろの凹凸のぐあひも言ひしれず美しい。東の隅の小壁に描かれた菩薩の、手にしてゐる蓮華に見入つてゐると、それがなんだか薔薇の花かなんぞのやうな、幻覺さへおこつて來さうになるほどだ。

 僕は模寫の仕事の邪魔をしないやうに、できるだけ小さくなつて四壁の繪を一つ一つ見てまはつてゐたが、とうとうしまひに僕もSさんの櫓の上にあがりこんで、いま描いてゐる部分をちかぢかと見せて貰つた。そこなどは色もすつかり剝てゐる上、大きな龜裂が稻妻形にできてゐる部分で、さういふところもそつくりその儘に模寫してゐるのだ。なにしろ、こんな狹苦しい櫓の上で、繪道具のいつぱい散らばつた中に、身じろぎもならず坐つたぎり、一日ぢゆう仕事をして、一寸平方位の模寫しかできないさうだ。どうかすると何んにもない傷痕ばかりを描いてゐるうちに一と月ぐらゐはいつのまにか立つてしまふこともあるといふ。――そんな話を僕にしながら、その間も絶えずSさんは繪筆を動かしてゐる。僕はSさんの仕事の邪魔をするのを怖れ、お禮をいつて、ひとりで櫓を下りてゆきながら、いまにも此の世から消えてゆかうとしてゐる古代の痕をかうやつて必死になつてその儘に殘さうとしてゐる人たちの仕事に切ないほどの感動をおぼえた。……

 それから金堂を出て、新しくできた寶藏の方へゆく途中、子規の茶屋の前で、僕はおもひがけず詩人のH君にひよつくりと出逢つた。ずつと新藥師寺に泊つてゐたが、あす歸京するのださうだ。さうして僕がホテルにゐるといふことをきいて、その朝訪ねてくれたが、もう出かけたあとだつたので、こちらに僕も來てゐるとは知らずに、ひとりで法隆寺へやつて來た由。――そこで子規の茶屋に立ちより、柿など食べながらしばらく話しあひ、それから一しよに寶藏を見にゆくことにした。

 僕の一番好きな百濟觀音は、中央の、小ぢんまりとした明かるい一室に、ただ一體だけ安置せられてゐる。こんどはひどく優遇されたものである。が、そんなことにも無關心さうに、この美しい像は相變らずあどけなく頰笑まれながら、靜かにお立ちになつてゐられる。……

 しかしながら、此のうら若い少女の細つそりとしたすがたをなすつてゐられる菩薩像は、おもへば、ずいぶん數奇(すき)なる運命をもたれたもうたものだ。――「百濟觀音」といふお名稱も、いつ、誰がとなへだしたものやら。が、それの示すごとく古朝鮮などから將來せられたといふ傳説もそのまま素直に信じたいほど、すべてが遠くからきたものの異常さで、そのうつとりと下脹(しもぶく)れした頰のあたりや、胸のまへで何をさうして持つてゐたのだかも忘れてしまつてゐるやうな手つきの神々しいほどのうつつなさ。もう一方の手の先きで、ちよいと輕くつまんでゐるきりの水瓶などはいまにも取り落しはすまいかとおもはれる。

 この像はさういふ異國のものであるといふばかりではない。この寺にかうして漸つと落ちつくようになつたのは中古の頃で、それまでは末寺の橘寺あたりにあつたのが、その寺が荒廢した後、此處に移されてきたのだらうといはれてゐる。その前はどこにあつたのか、それはだれにも分からないらしい。ともかくも、流離といふものを彼女たちの哀しい運命としなければならなかつた、古代の氣だかくも美しい女たちのやうに、此の像も、その女身の美しさのゆゑに、國から國へ、寺から寺へとさすらはれたかと想像すると、この像のまだうら若い少女のやうな魅力もその底に一種の犯し難い品を帶びてくる。……そんな想像にふけりながら、僕はいつまでも一人でその像をためつすがめつして見てゐた。どうかすると、ときどき搖らいでゐる瓔珞(やうらく)のかげのせゐか、その口もとの無心さうな頰笑みが、いま、そこに漂つたばかりかのやうに見えたりすることもある。さういふ工合なども僕にはなかなかありがたかつた。……

 それから次ぎの室で伎樂面などを見ながら待つてゐてくれたH君に追ひついて、一しよに寶藏を出て、夢殿のそばを通りすぎ、その南門のまえにある、大黑屋といふ、古い宿屋に往つて、晝食をともにした。

 その宿の見はらしのいい中二階になつた部屋で、田舍らしい鳥料理など食べながら、新藥師寺での暮らしぶりなどをきいて、僕も少々うらやましくなつた。が、もうすこし人竝みのからだにしてからでなくては、さういふ精進三昧はつづけられさうもない。それからH君はこちらに滯在中に、ちか頃になく詩がたくさん書けたといつて、いよいよ僕をうらやましがらせた。

 四時ごろ、一足さきに歸るといふH君を郡山(こほりやま)行きのバスのところまで見送り、それから僕は漸つとひとりになつた。が、もう小説を考へるやうな氣分にもなれず、日の暮れるまで、ぼんやりと斑鳩(いかるが)の里をぶらついてゐた。

 しかし、夢殿の門のまへの、古い宿屋はなかなか哀れ深かつた。これが虛子の「斑鳩(いかるが)物語」に出てくる宿屋。なにしろ、それはもう三十何年かまへの話らしいが、いまでもそのときとおなじ構へのやうだ。もう半分家が傾いてしまつてゐて、中二階の廊下など歩くのもあぶない位になつてゐる。しかしその廊下に立つと、見はらしはいまでも惡くない。大和の平野が手にとるやうに見える。向うのこんもりした森が三輪山あたりらしい。菜の花がいちめんに咲いて、あちこちに立つてゐる梨の木も花ざかりといつた春さきなどは、さぞ綺麗だらう。と、何んといふことなしに、そんな春さきの頃の、一と昔まえのいかるがの里の若い娘のことを描ゐた物語の書き出しのところなどが、いい氣もちになつて思ひ出されてくる。――しかし、いまはもうこの里も、この宿屋も、こんなにすつかり荒れてしまつてゐる。夜になつたつて、筬(をさ)を打つ音で旅びとの心を慰めてくれるやうな若い娘などひとりもゐまい。だが、きいてみると、ずつと一人きりでこの宿屋に泊り込んで、毎日、壁畫の模寫にかよつてゐる畫家がゐるそうだ。それをきいて、僕もちよつと心を動かされた。一週間ばかりこの宿屋で暮らして、僕も仕事をしてみたら、もうすこしぴんとした氣もちで仕事ができるかも知れない。

 どのみち、けふは夢殿(ゆめどの)や中宮寺(ちゆうぐうじ)なんぞも見損つたから、またあすかあさつて、もう一遍出なほして來よう。そのときまでに決心がついたら、ホテルなんぞはもう引き拂つて來てもいい。……

 そんな工合で、結局、なんにも構想をまとめずに、暗くなつてからホテルに歸つてくると、僕は、夜おそくまで机に向つて最後の努力を試みてみたが、それも空しかつた。さうして一時ちかくなつてから、半分泣き顏をしながら、寢床にはひつた。が、晝間あれだけ氣もちよげに歩いてくるせゐか、よく眠れるので、愛想がつきる位だ。――

 けさはすこし寢坊をして八時起床。しかし、お晝もけふはホテルでして、一日ぢゆう新らしいものに取りかかつてゐた。――こなひだ折口博士の論文のなかでもつて綺麗だなあとおもつた葛(くず)の葉(は)といふ狐の話。あれをよんでから、もつといろんな狐の話をよみたくなつて、靈異記(りやういき)や今昔物語などを搜して買つてきてあつたが、けさ起きしなにその本を手にとつてみてゐるうちに、そんな狐の話ではないが、そのなかの或る物語がふいと僕の目にとまつた。

 それは一人のふしあはせな女の物語。――自分を與へ與へしてゐるうちにいつしか自分を神にしてゐたやうなクロオデル好みの聖女とは反對に、自分を與へれば與へるほどいよいよはかない境涯に墮ちてゆかなければならなかつた一人の女の、世にもさみしい身の上話。――さういふ物語の女を見いだすと、僕はなんだか急に身のしまるやうな氣もちになつた。これならば幸先きがよい。さういふ中世のなんでもない女を描くのなら、僕も無理に背のびをしなくともいいだらう。こんやもう一晩、この物語をとつくりと考へてみる。

 ジャケット屆ゐた。本當にいいものを送つてくれた。けさなどすこうし寒かつたので、一枚ぐらいジャケットを用意してくればよかつたとおもつてゐたところだ。こんやから早速著てやらう。

[やぶちゃん注:「子規の茶屋」子規の知られた「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は「法隆寺の茶店に憩ひて」という前書を持つが、その茶店が聖霊院前の池の側にあったもので、子規の句に因んで「柿茶屋」と呼称された。但し、この茶屋は大正三(一九一四)年秋に取り壊されているので(青龍氏のブログ「大和&伊勢志摩散歩」の法隆寺 子規の句碑(1)に拠る)、辰雄が入ったのはこの実際の「柿茶屋」ではないので注意。

「誌人のH君」不詳。識者の御教授を乞う。

「百濟觀音」広隆寺蔵弥勒菩薩像とともに、飛鳥時代を代表する仏像とされる国宝「観世音菩薩立像」の俗称。基本は樟(くすのき)製一木造の着彩であるが、両腕の肘から先と水瓶・天衣などは別材を継いである。高さ二・〇九メートルの八頭身、扁平で細く直立の左右均整。光背は木造で、その文様は飛鳥時代のものに似ているものの、それを支える支柱は竹竿を模して造られており、これは極めて珍しいものである。宝冠は線彫の銅版製、三個の青いガラス玉で飾られてある。以下、法隆寺国宝美術という頁から引用する。『独特の体躯の造形を有し、杏仁形(アーモンド形)の目や古式な微笑みをたたえる表情は神秘的であり、多数の随筆等によって紹介されるなど、我が国の国宝を代表する仏像の一つです』。『本来、百済観音は、虚空像菩薩として伝わっていました。虚空とは、宇宙を意味し虚空菩薩は宇宙を蔵にするほど富をもたらす仏様ということなのです』。『その宇宙の姿を人の形に表したのが百済観音だというわけです』。『もともと、この像は金堂の壇上で、釈迦三尊像の後ろに北向きに安置されていたもので、今は新築された百済観音堂に安置されていますが、この像の伝来は謎に包まれています。法隆寺の最も重要な古記録である』天平一九(七四七)年の『「法隆寺資財帳」などにも記載がなく、いつ法隆寺に入ったのかわかっていません』。元禄一一(一六九八)年の『「諸堂仏躰数量記」の金堂の条に「虛空藏立像、七尺五分」と、初めてこの像についてと思われる記事があらわれ、江戸時代』、延享三(一七四六)年に『良訓が記した「古今一陽集」に「虛空藏菩薩、御七尺餘、此ノ尊像ノ起因、古記ニモレタリ。古老ノ傳ニ異朝將來ノ像ト謂フ。其ノ所以ヲ知ラザル也」と記されているといいます』(原サイトの引用部の表記を正字正仮名に変更させて貰った)。『明治になって、それまで象と別に保存されていた、頭部につける金銅透彫で瑠璃色のガラス玉を飾った美しい宝冠が発見され、この宝冠に観音の標識である化仏 があらわされていることから、虚空菩薩ではなく観音像であるとされるようになりました。いつしかこれに「百済国将来」という伝えがかぶせられて「百済観音」とよばれるようになったということです。しかし、作風からみて百済の仏像とはいえず、また朝鮮半島では仏像の用材に用いられていない楠の木でできていることから、日本で造られた像であると見られています』とある。グーグル画像検索百済観音をリンクさせておく。……私はこの……遠い昔、白血病った伯母のような百済観音が好きである……

「數奇(すき)」読みはママ。これは意味から言えば「すうき」の誤りとしか思われない。

「橘寺」聖徳太子建立七大寺(本寺の他は法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・葛木寺)の一つで聖徳太子生誕地ともされる奈良県高市郡明日香村にある天台宗の仏頭山上宮皇院菩提寺。本尊は聖徳太と如意輪観音。通称の橘寺は垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守(たじまもり)が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。

「大黑屋」前の章の私の注を参照されたい。

「三十何年かまへの話」「斑鳩物語」が『ホトトギス』に発表されたのは明治四〇(一九〇七)年。昭和一六(一九四一)年であるから、発表時でも四十三年前。

「そんな春さきの頃の、一と昔まえのいかるがの里の若い娘のことを描ゐた物語の書き出しのところ」注に引用済。以下の「夜になつたつて、筬を打つ音で旅びとの心を慰めてくれるやうな若い娘などひとりもゐまい」などもそちらを参照されたい。

「こなひだ折口博士の論文のなかでもつて綺麗だなあとおもつた葛の葉といふ狐の話」既注

「クロオデル」既注

「自分を與へれば與へるほどいよいよはかない境涯に墮ちてゆかなければならなかつた一人の女の、世にもさみしい身の上話」【2015年4月30日改注】当初、迂闊にも私はここに、『これは一体、「日本霊異記」或いは「今昔物語集」のどの話を指しているのか? 識者の御教授を是非とも乞うものである』という注をつけていたのであるが、昔の教え子から、これは辰雄の小説「曠野」の元になった「今昔物語集」巻第三十の「中務大輔娘成近江郡司婢語第四(なかつかさのたいふむすめあふみのぐんじのひとなることだいし)」ではないかと知らせて呉れた。如何にも私は愚鈍であった。辰雄がこの旅から帰って翌十一月に起筆から二日ほどで「曠野」を仕上げて十二月の『改造』に発表している。原話の梗概は以下の通り。――中務大輔某の娘が父母に先立たれ家が傾き、貧しさから自ら夫兵衛佐が身を退くようにさせ、独り零落したままに淋しく暮らしていた娘が、同居する尼の良かれと思う仲立ちの言うに任せ、近江国の郡司の子の側室となり下国、しかし正妻の嫉妬から、夫の父郡司の下働きとなった。そのうち、新任の国司の目にとまって声を掛けられたが、実はその国司は分かれた先の夫で、琵琶湖の波音のする中、遂に娘を忘れ難かった先夫が、「これぞこのつひにあふみをいとひつつ世にはふれども生けるかひなし」と一首を詠んで、自らの正体を涙ながらに明かす。しかし、その言葉を聴くや、女は己れの宿命の哀しさと恥ずかしさのあまり、息絶えてしまう――これはまさにこの辰雄の言葉通りの話であった。「曠野」と原話は本テクスト終了後に改めて電子化したい。]

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