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2015/04/13

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 犬懸谷

   ●犬懸谷

犬懸谷は釋迦堂谷の東にあり。里俗は衣掛とも呼へり。寛元の頃日光坊別當此地に居住す。永享十年十月。三浦介時高逆意(ぎやくい)を起し。二階堂の人々と引合。當所の在家(ざいか)を燒拂(やきはらひ)し事あり。

[やぶちゃん注:本記載は「新編相模國風土記稿」の「卷之九十四」の頭にある解説をほぼまるまる引き写したものである。新編鎌倉二」には、

○犬懸谷〔附 御衣張山短尺石〕 犬懸(いぬかけ)〔懸、或ひは駈に作る。〕谷(がやつ)は釋迦堂の東鄰なり。土俗、衣掛谷(きぬかけがやつ)とも云ふ。此の所ろと、釋迦堂が谷(やつ)との間に、切拔(きりぬき)の道あり。名越(なごや)へ出るなり。昔しの本道とみへたり。【平家物語】に、畠山と三浦の合戦の時、三浦の小次郎義茂(よしもち)、鎌倉へ立ち寄りたりけるが、合戰の事を聞て馬に打乘り、犬懸坂(いぬかけざか)を馳せ越えて、名越に出ると有り。此の道ならん。又【東鑑】にも犬懸が谷の事往々(わうわう)見へたり。上杉朝宗(うへすぎともむね)入道禪助(ぜんじよ)、此道に居宅す。犬懸(いぬかけ)の管領と號す。朝宗は山の内の德泉寺を建立なり。其の子上杉氏憲(うぢのり)入道禪秀(ぜんしう)を、犬懸の入道と號す。[やぶちゃん注:以下略。次の「衣張山」で出す。]

とあり、鎌倉一」の「谷名寄」には、

犬懸谷〔或ひは駈に作る。〕 釋迦堂谷の東に隣る。此所の山合に嶮路(けんろ)の間道(かんだう)有りて、名越へ出る。【平家物語】に畠山が三浦を攻めし時、三浦小次郎義茂、鎌倉へ立ち寄りしに、合戰の事を聞きて、馬に乘りて犬懸坂を馳せ越し、と有るは爰の事なり。或る説に、此所に衣掛山といふあり。前篇に出せり。犬懸も實は衣掛なりといふ。相似たる事なれど、いまだ慥成(たしかなる)説を聞かず。足利家の世となり、尊氏將軍の命に依つて、上杉の庶流なる中務犬輔朝宗、初めて此地に住し、地名をもて犬懸の上杉と稱せり。是は扇谷の始祖、上杉左馬助朝房の舍弟の家なり。

と載る。ここで「【平家物語】に」とあるが、これは正確には「源平盛衰記」とすべきである。「畠山が三浦を攻めし時」これは所謂、「小坪合戦」若しくは「由比ヶ浜合戦」と呼ばれるもので、治承四(一一八〇)年八月十七日の頼朝の挙兵を受け、同月二十二日、三浦一族は頼朝方につくことを決し、頼朝と合流するために三浦義澄以下五百余騎を率いて本拠三浦を出立、そこに和田義盛及びその弟の小次郎義茂も参加した。ところが丸子川(現現在の酒匂川)で大雨の増水で渡渉に手間取っているうち、二十三日夜の石橋山合戦で大庭景親が頼朝軍を撃破してしまう。頼朝敗走の知らせを受けた三浦軍は引き返したが(以下はウィキの「石橋山の戦い」の「由比ヶ浜の戦い」の項から引用する)、その途中この小坪の辺りでこの時は未だ平家方についていた『畠山重忠の軍勢と遭遇。和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多く、和平が成りかかったが、遅れて来た事情を知らない義盛の弟の和田義茂が』――ちょうどこのシーンが本文の引用箇所で、「犬懸坂を馳せ越て名越にて浦を見れば、四五百騎が程打圍て見え」(「源平盛衰記 小坪合戦」)てしまった結果、すわ一大事と攻め込み、義盛軍が和平なったれば攻撃するなと手を振ったが、不幸にして分からず――『畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦、義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって合戦となった。双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た』ものの、この場はとりあえず『停戦がなり、双方が兵を退いた』とある。但し、この後の二十六日には平家に組した畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの大軍勢が三浦氏を攻め、衣笠城に籠って応戦するも万事休し、一族は八十九歳の族長三浦義明の命で海上へと逃れ、義明は独り城に残って討死にしたというものである。

「寛元」西暦一二四三年から一二四六年。

「日光坊」人物のように見えるがこれは浄明寺にあった僧坊で宗旨未詳の日光山である(現在は廃寺)。「鎌倉廃寺事典」に、『寛元三年(一二四五)三月十六日、「戌の刻、頼経、日光別当犬懸谷坊に入御」とある。日光山の別当の坊が、犬懸にあったと見える資料である。ここに』『坐禅院があったので、この辺の川を坐禅川とよぶのではないかと思う』という、文覚の坐禅伝承とは異なる滑川のこの付近での別称由来が記されてある。なお、この史料とは「吾妻鏡」である。

「永享十年」西暦一四三八年。

「三浦介時高」三浦時高(応永二三(一四一六)年~明応三(一四九四)年)。相模三浦郡新井城主。三浦義明の後裔で三浦介の称を継いだ。足利持氏に仕えたが、永享の乱では幕府方に寝返り、持氏を自害に追い込んだ。後に上杉氏から養子義同(よしあつ)を迎えたが、実子高教(たかのり)が生まれたため、追放、明応三年九月に義同に反攻されて自害した(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。以下は「永享記」の「三浦介逆心事」を基にした記載である。以下、「南総里見八犬伝」の個人研究サイト「兎の小屋」の資料を参考に恣意的に正字化した。

   *

去程に武州一揆とも馳集て上雷坂に陣を取て憲實を待懸たり。管領の勢共是を聞て、何程の事か有へき、蹴散して捨んとて、各甲の緒をしめ旗の手を下しけれは、憲實堅く制して、いやいや不可然、某下向する事、無罪由可申開ためなり、御勢に向て弓を引へからす、あなたより切てかゝらは無力防き戰ふへし、從是打てかゝるましき由、強に下ちし給へは、無力皆陣を取て忿を押へ對陣す。一揆の勢とも管領の大勢を見て叶はしとや思ひけん、其夜上雷坂の陣を拂て散り散りに成にけり。扨しも道開け憲實上州へ下り給ふ。鎌倉には宗徒の兵かけ參り、憲實の下向の事如何と評定區々也。或尊宿貴僧達を御使として下向の子細を御尋尤也と云義勢もあり。又は召返しなためさせ給へと申族も多かりけり。然とも是を次てに可追討とて其夜兩一色直兼幷同名刑部少輔時家を大將として御旗を賜り十五日の夜半計、其勢二百騎計、路次の人數を駈催し上州へ下向す。公方持氏、同十六日の未の刻、武州高安寺へ御動座なり。御留守の警固、任先例三浦介時高被仰付。時高近年領地少く軍兵なけれは不肖の身として如何難叶旨辭し申けれとも、御成敗嚴重たる上、先々奉隨仰。時高思ふやう、先祖三浦大介、右大將家に忠ありしより以來、代々功を積て御賞翫他に異也、然るに當御代になりて出頭人に覺え劣り内々失面目無念に思ける處に、持氏公内々敕命に背き給ひ京公方より三浦方へ御内書を被成けれは、則此留守を打捨て忽に逆意を起し鎌倉を罷退、わか宿地へ歸りけり。十月三日、三浦介鎌倉を退きけれは、此由公方へ早馬を以申けれは、大きに驚き給ひ、誰を打手に遣すへき由被仰ける處に同十七日、三浦介二階堂一家の人々と引合て鎌倉へ押寄、大藏犬懸等へ令夜懸、數千軒の在家え火を懸たり。鎌倉中の僧俗上を下へと北迷ふ。營中編かの分野、目も當られぬ次第也。

   *

ウィキ三浦時高には、永享一〇(一四三八)年、『持氏は関東管領・上杉憲実討伐のために武蔵高安寺に入り、時高は鎌倉府の留守を命じられた。ところが、室町幕府6代将軍・足利義教が持氏討伐を命じると、そのまま幕府軍迎撃のために箱根山に向かった持氏を横目に時高は上杉氏と結んで叛旗を翻し、三浦半島から軍を引き入れて鎌倉を占領して足利持氏・義久父子を自害に追い込んだ』とある。なお、「軍記で読む南北朝・室町 芝蘭堂」のに上記の現代語訳があるので、参照されたい。

「二階堂」当時、鎌倉にいた須賀川二階堂氏の一族と思われるが不詳。永享の乱では二階堂氏は一度滅亡したとも言われているらしい。]

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