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2015/04/24

北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師

      〇下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師

貞永二年五月の末に、紀州絲我莊(いとがのしやう)より、一封(ほう)の書を武藏守泰時に奉る。即ち將軍家の御前に持參して、周防〔の〕前司親實(ちかざね)に讀ましめらる。昔、右大將賴朝卿、下野國那須野の御狩の時、大鹿一頭(づ)、勢子(せこ)の内に蒐(かけ)下る。賴朝卿、御覽ぜられ、殊に勝れたる射手(いて)を撰(えら)ばし、下河邊(しもかうべの)六郎行秀に仰付られたり。行秀、嚴命を蒙(かうぶ)り、馳向(はせむか)うて、矢を發(はた)つに、鹿に當らず。勢子の外に走り出しを、小山〔の〕左衞門尉朝政、一矢にて射留(いとめ)たり。下河邊行秀は面目を失ひ、狩場にして髻(もとゞり)を切り、出家して逐電す。行方、更に知る人なかりけるに、智定房(ちぢやうばう)と名を付(つ)き、暫く山頭(さんとう)に籠りて行ひしが、熊野の那智の浦より舟に乘りて南海補陀落山(ふだらくせん)にぞ渡りける。屋形舟(やかたぶね)に入りて後に、外より屋形の戸を釘付(くぎづけ)にし、四方に窓もなし。日月の光を見ることなく、燈火(ともしび)を微(かすか)にし、食物(しよくぶつ)には、栗(くり)、栢(かや)、少づつ命を助け、一心に法華經を讀誦し、三十餘日にして到著(たうちやく)す。岸に上りて、山の姿を拜み廻(めぐ)るに、山徑(さんけい)危く險(けは)しくして、岩谷(がんこく)、幽邃(いうすゐ)なり。山の頂(いたゞき)に池あり。大河を流して、山を廻りて海に入る。池の邊に、石の天宮(てんぐう)あり。觀世音菩薩遊行(ゆぎやう)の所なり、願行(ぐわんぎやう)滿ちたる人は、直に菩薩を拜むといへり。智定房、この山に五十餘日留(とゞま)りて、御經を讀み奉り、又舟に取乘(とりのつ)て、熊野の那智に歸りつゝ、同法(どうばふ)の沙門に書を誂(あつら)へ、武藏守殿に參(まゐら)せたり。在俗の時には、弓馬の友にて候ひしが、智定房出家以後の事共を、具(つぶさ)に記(しるし)て奉りぬ。哀(あはれ)なりける事共多かりけり。後に行末を尋ねらるゝに、更に又、知る人なし。古(いにしへ)、文德(もんとく)天皇の御宇、齋衡(さいかう)二年に、惠蕚(ゑがく)法師とて、道行(だうぎやう)の上人、橘太后(たちばなのたいこう)の仰(おほせ)に依つて、入唐(につたう)して五臺山(だいさん)にのぼり、觀世音菩薩の像を感得し、四明(しめい)山より、日本に歸朝せし所に、風に離(はな)されて補陀洛山に至りたり。舟を出さんとするに、更に動かず、怪(あやし)みて像(ざう)を舟より上げたりければ、舟は輕(かろらか)に出でたり。惠蕚は、觀音の像を置きて歸らんことを悲(かなし)み、海邊に庵(いほり)を結びて、住居(ぢうきよ)して、誦經奉事(じゆきやうぶじ)す。後に漸く寺となる。禪刹の名藍(めいらん)なり。智定房は重(かさね)て南海を渡りて、この山にや行(おこな)ひけん。殊勝の事なりとぞ語られける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十九の天福元(一二三三)年五月二十七日の条に拠る。

「貞永二年」一二三三年。この貞永二年四月十五日(ユリウス暦一二三三年五月二十五日) に天福に改元しているから、ここは正確には天福元年である。本条は私の偏愛する本邦の中世に於いて行われた、過酷な捨身行である補陀落渡海(ふだらくとかい)のエピソードとして広く知られるものである。以下、ウィキの「補陀落渡海」から引く。『この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗り込み、そのまま沖に出るというものである。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。場合によってはさらに』煩悩の数を表象する百八の石を『身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし江戸時代には、既に死んでいる人物の遺体(補陀洛山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬で葬るという形に変化する』。『最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると』、貞観一〇(八六八)年から享保七(一七二二)年の間に二十回行われたとされる(下線やぶちゃん)。『この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある』。『熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀洛山寺の住職が渡海行の主体であった』とあるが、ここに本条に出る下河辺六郎行秀という元武士の渡海を例外として記してある。『日秀上人のように琉球に流れ着き、現地で熊野信仰及び真言宗の布教活動を行った僧もいたと伝わって』おり、また、『補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている』。『仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。その原語は、チベット・ラサのポタラ宮の名の由来に共通する、古代サンスクリット語の「ポータラカ」である。補陀落は華厳経によれば、観自在菩薩(観音菩薩)の浄土である』。『多く渡海の行われた南紀の熊野一帯は重層的な信仰の場であった。古くは『日本書紀』神代巻上で「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適(いでま)しぬ」という他界との繋がりがみえる。この常世国は明らかに海との関連で語られる海上他界であった。また熊野は深山も多く山岳信仰が発達し、前述の仏教浄土も結びついた神仏習合・熊野権現の修験道道場となる。そして日本では平安時代に「厭離穢土・欣求浄土」に代表される浄土教往生思想が広まり、海の彼方の理想郷と浄土とが習合されたのであった』。以下、「琉球における影響」の項。「琉球国由来記巻十」の『「琉球国諸寺旧記序」によれば、咸淳年間』(一二六五年~一二七四年/本邦では文永二年~文永十一年に相当)に『国籍不明の禅鑑なる禅師が小那覇港に流れ着いた。禅鑑は補陀落僧であるとだけ言って詳しいことは分からなかったが、時の英祖王は禅鑑の徳を重んじ浦添城の西に補陀落山極楽寺を建立した。「琉球国諸寺旧記序」は、これが琉球における仏教のはじめとしている』とある。ここに出る『補陀洛山寺』についてもウィキの「補陀洛山寺」から引いておく。前のウィキの「補陀落渡海」の記述とやや異なる記述があるので、内容の重出を厭わず引用する。『補陀洛山寺(ふだらくさんじ)和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある、天台宗の寺院。補陀洛とは古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である』。『仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる寺である』。『江戸時代まで那智七本願の一角として大伽藍を有していたが』、文化五(一八〇八)年の『台風により主要な堂塔は全て滅失した。その後長らく仮本堂であったが』、一九九〇年に『現在ある室町様式の高床式四方流宝形型の本堂が再建された』。『補陀洛は『華厳経』ではインドの南端に位置するとされる。またチベットのダライ・ラマの宮殿がポタラ宮と呼ばれたのもこれに因む。中世日本では、遥か南洋上に「補陀洛」が存在すると信じられ、これを目指して船出することを「補陀洛渡海」と称した。記録に明らかなだけでも日本の各地(那珂湊、足摺岬、室戸岬など)から』四十件を超える『補陀洛渡海が行われており、そのうち』二十五件が『この補陀洛山寺から出発している』とある(下線やぶちゃん。このウィキの「補陀落渡海」との違いは誤りではなく、時制上の閉区間の違いによるものであろう)。

「絲我莊」現在の和歌山県有田(ありだ)市糸我町。この補陀落渡海で知られる那智の補陀落山寺からは直線で東北へ八十五キロメートルほどの位置にある。この当時の紀伊半島に於ける北条方の有力豪族が支配していたのであろう。

「周防前司親實」藤原親実(ちかざね 生没年不詳)は将軍頼経に仕えた諸大夫で、御所の祭祀及び礼法を司る御所奉行。文暦二(一二三五)年に厳島社造営を命ぜられて周防守護から安芸守護に転任し、厳島神社神主に任ぜられている。寛元二(一二四四)年に上洛、六波羅評定衆となっている。後、周防守護に復職して寛元三年から建長三(一二五一)年迄の在職が確認出来る(以上は「朝日日本歴史人物事典」の永井晋氏の解説を参照した)。

「下野國那須野の御狩の時」「下野國那須野」は栃木県北東部。現在、那須塩原市内。これは恐らく、以下の「吾妻鏡」の建久四(一一九三)年四月二日の条に出る狩りであろう。

   *

〇原文

二日戊戌。覽那須野。去夜半更以後入勢子。小山左衞門尉朝政。宇都宮左衞門尉朝綱。八田右衞門尉知家。各依召獻千人勢子云々。那須太郎光助奉駄餉云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

二日戊戌。那須野を覽る。去ぬる夜半更以後、勢子を入る。小山左衞門尉朝政、宇都宮左衞門尉朝綱、八田右衛門尉知家、各々、召に依つて千人の勢子を獻ずと云々。

   *

 那須太郎光助、駄餉(だしやう)を奉ると云々。

文中の「駄餉」は弁当のこと。

「勢子」「列卒」とも書く。狩猟で鳥獣を狩り出したり、逃げるのを防いだりする人夫。かりこ。

「下河邊六郎行秀」専ら、この補陀落渡海をした智定房として知られる。姓からは現在の千葉県北部の下総国葛飾郡下河辺庄の出身と思われ、下河辺氏は藤原秀郷流太田氏流の流れを汲むか。

「小山左衞門尉朝政」(保元三(一一五八)年?~嘉禎四(一二三八)年)は頼朝直参の家臣で奥州合戦でも活躍した。

「山頭」山の頂上。具体的な場所を示すものではないが、補陀落渡海からは那智の滝の直近にある那智山青岸渡寺辺りが私にはイメージされる。

「屋形舟」この補陀落渡海のための渡海船については、ウィキの「補陀落渡海」に、『渡海船についての史料は少ないが、補陀洛山寺で復元された渡海船の場合は、和船の上に入母屋造りの箱を設置して、その四方に四つの鳥居が付加されるという設計となっている。鳥居の代わりに門を模したものを付加する場合もあるが、これらの門はそれぞれ「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」と呼ばれる』。『船上に設置された箱の中には行者が乗り込むことになるが、この箱は船室とは異なり、乗組員が出入りすることは考えられていない。すなわち行者は渡海船の箱の中に入ったら、箱が壊れない限りそこから出ることは無い』。『渡海船には艪、櫂、帆などの動力装置は搭載されておらず、出航後、伴走船から切り離された後は、基本的には海流に流されて漂流するだけとなる』とある。これについてウィキの「補陀洛山寺」の方では、『船上に造られた屋形には扉が無い。屋形に人が入ると、出入り口に板が嵌め込まれ外から釘が打たれ固定されるためである。その屋形の四方に』四つの鳥居が建っている。『これは「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を表しているとされる』。渡海は北風が吹き出す旧暦の十一月に行われ、『渡海船は伴船に沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後、朽ちたり大波によって沈むまで漂流する。もちろん、船の沈没前に渡海者が餓死・衰弱死した事例も多かったであろう。しかし、船が沈むさまを見た人も、渡海者たちの行く末を記した記録も存在しない』とする。以下、「渡海者と金光坊」の項。『渡海者たちについて詳しく記した資料は残っていないが、初期は信仰心から来る儀礼として補陀洛渡海を行っていたと考えられている。平安・鎌倉時代を通じて』六名が渡海したと『補陀洛山寺に建つ石碑に記されている。これが戦国時代になる』と、六十年間に九名もの渡海者が現れたとされ、『この頃になると、熊野三山への参詣者が減少したことから、補陀洛渡海という捨身行によって人々の願いを聞き届けるという形で宣伝され、勧進のための手段としての側面が現れたとされる』。十六世紀後半には、『金光坊という僧が渡海に出たものの、途中で屋形から脱出して付近の島に上陸してしまい、たちまち捕らえられて海に投げ込まれるという事件が起こった。後にその島は「金光坊島(こんこぶじま)」とよばれるようになり、またこの事件は井上靖の小説『補陀洛渡海記』の題材にもなっている』(井上の作品は諸星大二郎の漫画で異端の民俗学者稗田礼二郎(編集者によってシリーズ名を不本意にも「妖怪ハンター」と名付けられてしまった)シリーズの「六福神」の短編「帰還」とともに私の補陀落渡海を素材とした愛読書である)。『江戸時代には住職などの遺体を渡海船に載せて水葬するという形に変化したようである』とある。私は二〇〇六年夏、念願のこの地に参り、親しく渡海僧の供養塔や復元された渡海舟も見、写真にも収めたのであるが、すぐにそれが出てこない。取り敢えず、ウィキの「補陀落渡海」にある使用が許諾されている663highland 氏の写真を以下に掲げておくこととする。
 

Fudarakusanji02s1024

 
「栢」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ
Torreya nucifera ウィキの「カヤ」によれば、『種子は食用となる。そのままではヤニ臭くアクが強いので数日間アク抜きしたのち煎るか、土に埋め、皮を腐らせてから蒸して食べる。あるいは、灰を入れた湯でゆでるなどしてアク抜き後乾燥させ、殻つきのまま煎るかローストしたのち殻と薄皮を取り除いて食すか、アク抜きして殻を取り除いた実を電子レンジで数分間加熱し、薄皮をこそいで実を食す方法もある。果実から取られる油は食用、灯火用に使われるほか、将棋盤の製作過程で塗り込まれる。将棋盤のメンテナンス用品としても使用される。また、山梨県では郷土の食品として、実を粒のまま飴にねりこみ、板状に固めた「かやあめ」として、縁日などで販売される。また、カヤの種子は榧実(ひじつ)として漢方に用いられるほか、炒ったものを数十粒食べるとサナダムシの駆除に有効であるといわれる』とある。

「文德天皇の御宇」平安前期の天皇第五十五代文徳天皇の在位は嘉祥三(八五〇)年~天安二(八五八)年。彼はかの惟喬親王の父である。

「齋衡二年」西暦八五五年。

「惠蕚法師」(生没年未詳)平安前期の僧。承和の初めに本文に出る「橘太后」、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ)の命を受けて渡唐し、「五臺山」(山西省北東部の台状の五峰からなる山で、峨眉山・天台山とともに中国仏教の三大霊場の一つ。文殊菩薩の住む清涼山に擬せられた。元代以降はチベット仏教の聖地となった)に袈裟などを寄進し、承和一四(八四七)年に日本に禅を広めることを志して、義空を伴って帰国したが、斉衡年間に再び渡唐し、その帰途、現在の浙江省の舟山列島の補陀(ふだ)山に補陀洛山寺(後の普済寺)を開いて、遂にその地に留まったという(以上は主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。唐から初めて禅僧を招聘したこと、平安文学に大きな影響を与えた「白氏文集」の本邦での後の普及発展の動機を与えたことなど、当時の日本の東アジア交流に大きな足跡を残した人物である(ここは出版二〇一四田中史生入唐僧恵蕚と東アジア 附 恵蕚関連史料集書店解説に拠った)。

「觀世音菩薩の像を感得し、四明山より、日本に歸朝せし所に、風に離されて補陀洛山に至りたり。舟を出さんとするに、更に動かず、怪みて像を舟より上げたりければ、舟は輕に出でたり。惠蕚は、觀音の像を置きて歸らんことを悲み、海邊に庵を結びて、住居して、誦經奉事す。後に漸く寺となる。禪刹の名藍なり」「四明山」は浙江省東部の寧波の西方にある山で古くからの霊山。名は「日月星辰に光を通じる山」の意で寺院が多い。宋初に知礼(九六〇年~一〇二八年)が、ここの延慶寺(保恩院)で天台の教えを広めた。……しかし……どうも気になる。先に示した「惠蕚」の注の事蹟によれば、彼が最後に漂着したのは日本ではなく、現在の浙江省の舟山列島の補陀山でそこに補陀洛山寺を建立して、そこで没したという。これが公式見解であるらしいが、どうも何かおかしい。そこで調べて見ると実は、現在の兵庫県神戸市兵庫区松原通にある時宗の真光寺(ここは一遍が遷化したところで一遍廟所がある)は、恵萼が唐より観世音を持ち帰った際にこの近くの和田岬(兵庫県神戸市兵庫区の大阪湾の神戸港に面する岬)で船が動かなくなったので、堂を建てて祀ったのが始まりとされているのである。ro-shin 氏の「Pilgrim 東西南北巡礼記 【関西】」の真光寺 (一遍上人・寺宗の本山)でその観音像が見られる。……まあよかろう、行き行きて観音の留まれば、そこはどこであろうと補陀落である……

 以下「吾妻鏡」の天福元年(一二三三)五月二十七日の条を示す。

 

〇原文

廿七日辛未。武州參御所給。帶一封狀。被披覽御前。令申給曰。去三月七日。自熊野那智浦。有渡于補陀落山之者。號智定房。是下河邊六郎行秀法師也。故右大將家下野國那須野御狩之時。大鹿一頭臥于勢子之内。幕下撰殊射手。召出行秀。被仰可射之由。仍雖隨嚴命。其箭不中。鹿走出勢子之外。小山四郎左衞門尉朝政射取畢。仍於狩場。遂出家。逐電不知行方。近年在熊野山。日夜讀誦法花經之由。傳聞之處。結句及此企。可憐事也云々。而今所令披覽給之狀者。智定誂于同法。可送進武州之旨申置。自紀伊國糸我庄執進之。今日到來。自在俗之時。出家遁世以後事。悉載之。周防前司親實讀申之。折節祗候之男女。聞之降感涙。武州昔爲弓馬友之由。被語申云々。彼乘船者。入屋形之後。自外以釘皆打付。無一扉。不能觀日月光。只可憑燈。三十ケ日之程食物幷油等僅用意云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日辛未。武州御所に參り給ふ。一封の狀を帶して、御前に披覽せられ、申さしめ給ひて曰く、

「去ぬる三月七日、熊野那智の浦より、補陀落山に渡るの者有り。智定房と號す。是れ、下河邊六郎行秀法師なり。故右大將家、下野國那須野の御狩の時、大鹿一頭、勢子の内に臥す。幕下、殊なる射手を撰(えら)びて、行秀を召し出で、射るべきの由、仰せらる。仍つて嚴命に隨ふと雖も、其の箭(や)中(あた)らず、鹿、勢子の外へ走り出づ。小山四郎左衞門尉朝政、射取り畢んぬ。仍つて狩場に於いて出家を遂げ、逐電し、行方を知らず。近年、熊野山に在りて、日夜法花經を讀誦(どくじゆ)の由、傳へ聞くの處、結句、此の企(くはだ)てに及ぶ。憐むべき事なり。」と云々。

而るに今、披覽せしめ給ふ所の狀には、智定、同法(どうほふ)に誂(あつら)へ、武州に送り進ずべきの旨、申し置く。紀伊國糸我庄(いとがのしやう)より之を執り進じて、今日、到來す。在俗の時より、出家遁世以後の事、悉く之れを載す。周防前司親實、之れを讀み申す。折節、祗候(しかう)の男女、之を聞き、感涙を降(くだ)す。武州、昔、弓馬の友たるの由、語り申さるると云々。

彼(か)の乘船は、屋形(やかた)に入るの後(のち)、外より釘(くぎ)を以つて皆、打ち付け、一扉(いつぴ)も無し。日月(じつげつ)の光を觀る能はず。只だ、燈(ともしび)を憑(たの)むべし。三十ケ日が程の食物幷びに油(あぶら)等僅かに用意すと云々。]

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