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2015/04/16

博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載

[やぶちゃん注:以下は「尾張名所圖會 附錄卷四」に所収する海鼠腸(このわた)の記載をオリジナルに電子化して訳注を加えたものである。

 「尾張名所図会」は尾張藩儒者深田精一を指導者として、同藩士で歴史家の岡田啓(安永九(一七八〇)年~万延元(一八六〇)年)と野口道直(天明五(一七八五)年~元治二(一八六五)年が編し、尾張名古屋藩士で画家の小田切春江(おだぎりしゅんこう 文化七(一八一〇)年~明治二一(一八八八)年)が挿絵を描いた名所記である。

 このうち、野口道直は春日井郡下小田井村問屋町(現在の清須市西枇杷島町)の青物問屋で枇杷島橋橋守であった七代目市兵衛の長男であったが、藩士山澄家の娘「りう」と婚姻、妻の感化を受けて学問を志したといわれる。神谷三園の主唱による「同好会」に加わって小寺玉晁・細野要斎・水野正信らと親交を深めた。書籍の蒐集にも努め、共著者の岡田啓と並んで、世に「両家の二万巻」と称せられ、塙保巳一が「郡書類従」続編編纂のために閲覧を求めたと伝える。「尾張名所図会」の編纂は彼の最大の業績とされる。「尾張名所図会」は自費出版で資金の大半は道直が負担したが、これにより資産が傾くも顧みなかったというとある(以上の野口道直の事蹟は個人ブログ「美濃街道(美濃路)紀行」の「美濃街道と『尾張名所図会』」を参照させて頂いた)。

 底本は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「尾張名所図会 附録 巻四」のこちらの画像を視認して電子化した。まず、原典と一行字数を一致させたものを示し(但し、ルビと漢文脈の訓点は省略した)、次に連続した文で訓点に従って訓読したものに独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。一部の字の判読にやや迷ったが、私としては自信のないものは特にない。但し、「本朝食鑑」の訓読は我流であり、疑義を感じられた場合には、お知らせ願えれば幸いである。

 使用した挿絵画像は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「尾張名所図会 附録 巻四」のこちらの画像を用いた(無論、原本はパブリック・ドメインであり、現在、国立国会図書館の「インターネット公開(保護期間満了)」作品の画像は無許可で自由使用が認められている)。

 何? 何で海鼠腸か? 僕は出来ることなら海鼠に生まれ変わりたいほど、ナマコが好きだからさ!【2015年4月16日 藪野直史】]

 

□原文(字体の異同は総て原典のママである。ポイント落ち二行分かち書きの割注は同ポイントとしたが、原典との比較対照をし易くするために改行部はやはり一致させてある。)

 

海鼠膓  大井村の名産すでに名所圖會にのせ置たれど其旨少し

 たがへり 依て再び出す野必大の本朝食鑑に海鼠膓〔訓古乃和多〕以尾州参州

 為上武之本木次之諸國采海鼠處多而貢膓醤者少矣是好黄膓者全

《改頁》

[やぶちゃん注:以下、図見開き。最後は図の右上方のキャプション。因みに図の右頁の罫外には本右頁の帖数を示す『四ノ十五』の文字が、左頁左下の雲形の中には春江の落款が打たれている。]

Konowata

持戒乃

僧海鼠膓に

白鹽を

 ほどこす

 

《改頁》

 希之故也近世参州柵島有異僧守戒甚嚴而調和於腸醤者最妙浦人取

 腸洗浄入盤僧窺之察腸之多少妄擦白塩投腸中浦人用木箆攪勻收之

 経二三日而甞之其味不可言今貢獻者是也故以参州之産為上品後僧有故移

 于尾州而復調腸醤以尾州之産為第一世皆称奇矣としるせり佳境

 遊覧にしるせるも又是に同し〔大永二年祇園會御見物御成記の献立のうち

 にこのわた桶金臺繪ありと見え 室町殿

 日記に或時秀吉公御咄の人々をめして雜談どもありける所へ或大名かたより

 蛎つべた貝海鼠腸の三種進上申されたれば太閤御覧ありていかに幽齋是に

 つけて一句あるべしと仰られければ畏り候とて かきくらしふるしら

 雪 のたべたさにこのわためしてあたゝまりませ と申されたれは秀吉公

 おほきに興し給ひたるとしるせり其頃

 このわたを世に賞美せし事を知るべし〕

 

□訓読文(読み易くするために句読点や記号、濁点を適宜配し、挿絵のキャプションは最後に回した(挿絵は省略)。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない(読みについてのみ述べておくと、底本にあるルビは項目の「海鼠膓(このわた)と本文中の「柵(さく)」「本木(ほんもく)」「采(トル)」「攪勻(カキナラシテ)」の五箇所だけである)。原典画像と対比しつつお読みになられたい。なお、判読には同じく近代デジタルライブラリーの「本朝食鑑」の「第十二卷」の「海鼠」の中の海鼠腸パートの画像も参考にした。)

 

海鼠膓(このわた)  大井村の名産。すでに名所圖會にのせ置(おき)たれど、其旨少したがへり。依(よつ)て再び出す。野必大(やひつだい)の「本朝食鑑(ほんてうしよくかん)」に『海鼠膓〔訓「古乃和多(このわた)」。〕、尾州・参州を以つて上と為し、上武の本木(ほんもく)、之れ、次ぐ。諸國、海鼠を采(と)る處、多けれども、膓醤(ちやうしやう)を貢(けん)ずるは少なし。是れ、黄膓を好む者、全く希(まれ)の故なり。近世、参州柵島(さくしま)に異僧有り。戒を守りて甚だ嚴(げん)にして、腸醤を調和するは最も妙なり。浦人、腸(わた)を取りて洗ひ浄めて盤に入る。僧、之を窺(うかが)ひ、腸の多少を察(さつ)して、妄(みだ)りに白塩を擦(す)りて腸の中に投ず。浦人、木箆(きべら)を用ゐて攪(か)き勻(なら)して之を收む。二、三日を経て、之を甞(な)むれば、其の味はひ、言ふべからず。今、貢獻するは、是なり。故に参州の産を以つて上品と為(す)。後、僧、故(ゆゑ)有りて尾州に移りて、復た腸醤を調へて尾州の産を以つて第一と為(す)。世、皆、奇なりと称す。』としるせり。「佳境遊覧」にしるせるも、又、是に同じ〔大永二年「祇園會御見物御成記(ぎをんゑおんけんぶとなりのき)」の献立のうちに『このわた桶金臺繪あり』と見え、「室町殿日記」に、『或時、秀吉公御咄(おはなし)の人々をめして雜談どもありける所へ、或る大名かたより、蛎(かき)・つべた貝・海鼠腸の三種、進上申されたれば、太閤御覧ありて、「いかに幽齋、是につけて一句あるべし。」と仰られければ、「畏り候。」とて

  かきくらしふるしら雪のたべたさにこのわためしてあたゝまりませ

と申されたれば、秀吉公、おほきに興じ給ひたる。』としるせり。其頃、「このわた」を世に賞美せし事を知るべし。〕。

 

[やぶちゃん注:挿絵のキャプション。]

 

持戒の僧、海鼠膓に白鹽をほどこす

 

□やぶちゃん注(私の偏愛する海鼠についてはまず、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」のテクストと私の注をお読み戴きたい。そこで、私は海鼠について私が言っておきたいことを粗方述べているからである。)

・「大井村」現在の愛知県知多郡南知多町大字大井と思われる。知多半島の師崎の手前で、以下に出る柵島(佐久島)の五・八キロメートル西に位置する。

・「名所圖會」「尾張名所図会」。本記載は「附録巻四」に載る。

・「海鼠膓」ナマコの腸(はらわた)の塩辛。寒中に製したもの及び腸の長いものが良品とされる。尾張徳川家が師崎(もろざき:現在の愛知県知多郡南知多町師崎。知多半島の西先端に位置する港町。)の「このわた」を徳川将軍家に献上したことで知られ、雲丹・唐墨(からすみ:ボラの卵巣の塩漬。)と並んで、日本三大珍味の一つとされる。ウィキの「このわた」によれば、『古くから伊勢湾、三河湾が産地として知られてきたが、今日では、瀬戸内海や能登半島など各地で作られている』。製法は生きた海鼠から『腸を抜き取り、これを海水でよく洗い、内部にある泥砂をとりのぞき、ざるにあげて水気をきる』。腸一升に塩二合乃至三合を加えて掻き混ぜた後に水分をきり、一昼夜、桶や壺などに貯蔵する』。一般にナマコ百貫(三百七十五キログラム)から腸八升(十四・四リットル)が、腸一升(一・八リットル)からは「このわた」七合(百五十グラム/百八十ミリリットル)が出来るといわれる(因みに私の愛読書である大島廣先生の「ナマコとウニ」(昭和三七(一九六二)年内田老鶴圃刊)には熟成後に水分を去ると製品の歩留(ぶどま)りは更に七割ぐらいに減るとある)。『ふつうは塩蔵されたものが市販されるが、生(なま)ですすっても、三杯酢に漬けても美味である』。私は殊の外、海鼠が好きで、しばしば活き海鼠を買求めて捌くのであるが、たまに立ち割ってみると、内臓の全くない個体がある。これは悪徳水産業者によるもので、再生力の強い海鼠から肛門を傷つけないように巧妙に内臓を抜き出したものである。教員時代にしばしば脱線で詳述し、以前にもブログで述べたが、ナマコは外敵に襲われると、防御法の一つとして、自身の内臓を吐き出す(これを餌として与える意味の外に、ナマコは多かれ少なかれ魚類にとって有毒な成分サポニン(石鹸様物質)を含み、捕食者の忌避物質でもある)。これを内臓吐出・吐臓現象等と言うが、これを逆手に利用して「このわた」を本体から抜き出し、内臓を抜いた本体と加工品としての「このわた」を別に製して売る輩が跡を絶たないのである(なお、ナマコの腸管の再生は二~三週間で、内臓全体の完全再生にはその倍はかかるという)。大き過ぎるナマコは堅くて売れないため、この脱腸を何度も繰り返してコノワタ用の腸管を採取すると、かつての大阪府立水産試験場の公式ページには平然と書かれてあった(今は何故か消失しているようだ)。何とも海鼠が哀れでならぬ。因みに、内臓だけではなく、同じ棘皮動物のヒトデ同様にナマコは二つに切断されればそれぞれの断片が一匹に再生する。南洋のナマコ食をする人々は古くからそれを知っていて、半分を海に返す。それは海の恵みへの敬虔にして美しい行為であったのだ。喰らい尽くし、おぞましい放射線によって汚染し尽くす我々文明人こそが実は野蛮で下劣なのである。

・『野必大の「本朝食鑑」』医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)の元禄一〇(一六九七)年刊の本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したもの。但し、この引用は「本朝食鑑」の「第十二卷」の「海鼠」の中の「海鼡腸」の総てではなく、頭が省略されている(リンク先は先に示した近代デジタルライブラリーのパートの画像)。なお、この「本朝食鑑」の「海鼠」の記載は、近日中に本「博物学古記録翻刻訳注」で扱う予定である。

・「尾州」尾張国。現在の愛知県西部。

・「参州」三河国。現在の愛知県中部。

・「上武の本木」「上武」は通常、上野国(群馬県)と武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)の総称。これは現在の横浜市磯子区本牧を指す。「江戸名所図会」の「巻二 天璇之部」の江戸後期の「杉田村」(現在の磯子区杉田)の挿絵には『海鼠製(なまこをせいす)』というキャプションを附して「いりこ」(乾燥させた海鼠)を製する図が示されてある。また、題名だけ見ると、やや軽そうな感じがするものの、「はまれぽ.com」の「神奈川県の海でナマコがよく捕れるそう。年間の漁獲量は? 横浜市内で新鮮なナマコを食べられるお店は? ナマコで有名な青森県横浜町とはどちらが多く捕れる?」は一読、すこぶる博物学的で素晴らしく、歴史的変遷(埋め立てられたものの現在はナマコ漁が再開)を含め、必読である!

・「膓醤」魚腸醤。魚腸を発酵させた食品。魚の内臓を原料とする塩辛には、主に鰹の内臓を原料とする酒盗などが知られ、魚醤(ぎょしょう)、所謂、魚醤油(うおじょうゆ)・塩魚汁(しょっつる)などにも、大型魚類の内臓を主に用いて製するものがあり、広義にはそれも含まれる。

・「黄膓」「きのわた」或いは「こうちやう(こうちょう)」と音読みしているのかも知れない。先に示した寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」では、

   *

海鼠腸(このわた)は、腹中に黄なる腸三條有り。之を腌(しほもの)[やぶちゃん注:塩漬け。]とし、醬(ひしほ)と爲る者なり。香美、言ふべからず。冬春、珍肴と爲す。色、琥珀のごとくなる者を上品と爲す。黄なる中に、黑・白、相ひ交ぢる者を下品と爲す。正月を過ぐれば、則ち味、變じて、甚だ鹹(しほから)く、食ふに堪へず。其の腸の中、赤黄色くして糊(のり)のごとき者有りて、海鼠子(このこ)と名づく。亦、佳なり。

   *

とあり、栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻八の「海鼠」の「海鼠」の解説には(これも私の電子テクスト。画像豊富)、

   *

此のもの、靑・黑・黄・赤の數色あり。「こ」と単称する事、「葱」を「き」と単名するに同じ。熬り乾する者を、「いりこ」と呼び、串乾(くしほ)すものを「くしこ」と呼ぶ。「倭名抄」に、『海鼠、和名古、崔禹錫「食鏡」に云ふ、蛭に似、大なる者なり。』と見えたり。然れば、『こ』と称するは古き事にして、今に至るまで海鼠の黄腸を醤として、上好の酒媒に充て、東都へ貢献あり。これを『このわた』と云ふも理(ことはり)ありと思へり。

   *

とあり、孰れも「このわた」を「黄(き)の腸(わた)」の転訛とは捉えていない。

・「柵島」佐久島。三河湾のほぼ中央に位置する離島。愛知県西尾市。ウィキの「佐久島によれば(注記号は省略した。下線はやぶちゃん)、三河湾湾奥中央やや西寄りの西尾市一色町から南に約八キロメートルの距離にあり、三河湾のほぼ中央に位置する。面積は一・八一平方キロメートルで、『三河湾の離島中最大』。『西三河南西部(西尾市一色町)・知多半島(南知多町)・渥美半島(田原市渥美町)との距離がそれぞれ』十キロメートル圏内にあり、離島と言っても、『地理的な距離の近さに加えて本土との生活交流が活発であるため、国土交通省による離島分類では内海本土近接型離島に』当たる。島北部には標高三十メートルほどの『緩やかな丘陵が連なり、ヤブツバキやサザンカなどが植えられている』「歴史」パートの「古代」には、『藤原宮跡から出土した木簡(貢進物付札)には「佐久嶋」の、また奈良時代の平城京跡から出土した木簡には「析嶋」の文字が見られ、島周辺の海産物を都に届けた記録も残っている』とあり、「中世・近世」の項には、『中世には志摩国の属国であったとされるが、鎌倉時代には吉良氏の勢力下に入り、三河湾内の』他の二島(日間賀島と篠島)『とは異なり三河方面との結びつきが深まった。江戸時代初期は相模国甘縄藩領だったが』、元禄一六(一七〇三)年には『上総国大多喜藩領となった。コノワタは大多喜藩の幕府献上品であり、現在も佐久島の特産品である』。『伊勢・志摩と関東を結ぶ海上交通の要衝にあることから、江戸時代には各地を結ぶ海運で繁栄を築き、吉田(現在の豊橋市)と伊勢神宮の結節点としても栄えた。吉田・伊勢間は陸路では』約四日かかるが、『海路では最短半日で着くことができ、金銭的余裕のない参拝者、遠江国や三河国など近隣諸国からの参拝者に多く利用されたという。江戸時代には海運業が経済の中心であり、海運業以外では東集落は主に漁業を、西集落は主に農業を経済基盤とした。大型船のほかに小型船の根拠地でもあり、知多半島で生産された陶器類を熊野灘まで運んだり、熊野の材木を名古屋や津に運んでいた』とある。また、『愛知県の知多半島や三河地方は弘法大師(空海)信仰が盛んな土地であり、佐久島には四国八十八箇所霊場の写しである佐久島新四国八十八箇所がある。山間や集落の辻々に置かれた祠、寺院に置かれた大師像で』八十八ヶ所の弘法霊場を形成していた』とある(すべてが現存しているわけではない)。但し、これは大正二(一九一三)年に観光開発的な『意図を持って始まった祭祀であり、戦前には知多半島や渥美半島などから団体客が訪れ、主に一泊二日で島内の八十八箇所を巡ったが』、昭和三十年代前半『以降は参拝目的の来島者はほとんどいないという』というから、この僧と佐久島新四国八十八箇所の関係はない。ただ、『東部にある八劔神社・神明社は平安時代の万寿年間』(一〇二四年~一〇二八年)『の創立、江戸時代初期の再建とされ』、東部にある阿弥陀寺は阿弥陀如来を本尊とする浄土宗西山深草派の寺院であり、観音堂は』永正二(一五〇五)年の開山と伝えられ『八劔神社で行なわれる正月行事は八日講と呼ばれ、その起源は定かではないが、祭具の中には』宝暦六(一七五六)年『の銘が入った膳もあり、江戸時代中期にはすでに行なわれていたようである。八日講では「鬼」の字が書かれた大凧に向かって厄男が弓矢を射り、島民は災難除けとなる凧の骨を奪い合う。鎌倉時代初期の』建久三(一一九二)年には、鳥羽天皇第七皇子の『覚快法親王が開基とされる崇運寺が建立され、崇運寺には徳川家康が滞在したという言い伝えがある』。現在でも八月十五日には崇運寺で四百年の伝統を持つ『盆踊りが行なわれ、盆踊り後には東西の港から茅(ちがや)で作った船に蝋燭を灯して先祖を送る精霊流しが行なわれる。佐久島弁財天(筒島弁財天)は八百富神社(蒲郡市・竹島)や三明寺(豊川市)と合わせて三河三弁天のひとつであ』るとあり、他にも「教育」の項に、『江戸時代後期から明治時代初期には崇運寺・妙海寺・阿弥陀寺で寺子屋が開かれて』いたとあるから、これらの寺の孰れかであろう。この島の御出身の方、本テクストの情報や春江の絵などからこの僧の居た寺を同定して頂けると嬉しい。

・「盤」これなら皿状のものとなるが、春江の挿絵を見ると、小さな壺である。訳では壺とした。

・「妄りに」ここは、むやみやたらに、一心に、一気に素早くの意であろう。

・「白塩」精製した、粒のやや大きめな乾燥した海塩。

・「攪き勻して」塩分を均等に行き渡らせつつ、激しく攪拌した上、平らにならすという謂いであろう。

・「佳境遊覧」伊董随庸(いとうずいよう)なる人物が江戸後期に書いた尾張藩地誌らしい。「海邦名勝志」「張州名勝志」とも称する。

・「大永二年」西暦一五二二年。室町幕府末期。

・「祇園會御見物御成記」大永二年六月に前年末に第十二代将軍に就任していた足利義晴が三条亭に於いて催した祇園社祭礼見物の記録。

・「このわた桶金臺繪あり」金で出来た高台で上に蒔絵が施された器に、「このわた」が盛られてあったものか。

・「室町殿日記」安土桃山から江戸前期にかけて成立した楢村長教(ならむらながのり)によって書かれた虚実入り混じった軍記物で実録日記ではない。「室町殿物語」とも。

・「御咄の人々」御伽衆(おとぎしゅう)。主君の側近くにあって話相手をする役で、御咄 (おはなし)衆とも呼んだ。戦国時代以降、戦陣の慰安のための話、武士としての心得などについての話が喜ばれた。大内氏や武田氏などで老臣、功労者に話をさせたことに始まり、やがて毛利・豊臣・前田・徳川諸氏の間でも行われるようになった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

・「蛎」牡蠣。マガキCrassostrea gigas としておくが、季節が不詳なので、イワガキ Crassostrea nippona の可能性も高いか?

・「つべた貝」腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ Glossaulax didyma 。夜行性で、砂中を活発に動き回る。通常は軟体部は殻から大きく露出しており、殻全体をほぼ完全に覆い尽くしている。肉食性で、アサリ・ハマグリなどの二枚貝を捕食する。二枚貝を捕捉すると、まず、獲物の殻の最も尖った殻頂部に対し、外套膜の一部から酸性の液を分泌して、殻の成分である炭酸カルシウムを柔らかくさせた上で、口器にあるヤスリ状の歯舌を用いて平滑に削り取ってゆき、二ミリメートル程の穴を空けて獲物の軟体部を吸引する。養殖二枚貝の天敵として知られるが、食しても上手い。但し、多量に食うと下痢をする。これは遠い昔の私自身の痛い実体験である。

・「幽齋」武将にして歌人の細川幽斎(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)。京都生。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興(ただおき)の父。足利義晴・義輝及び織田信長に仕え、丹後田辺城主となり、後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えた。和歌を三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授を受けて二条家の正統としても仕えた。有職故実・書道・茶道にも通じた。剃髪して幽斎玄旨と号した(講談社「日本人名辞典」に拠る)。

・「かきくらしふるしら雪のたべたさにこのわためしてあたゝまりませ」「かきくらす」は「搔き暗す」(他動詞サ行四段活用)で、あたり一面を暗くするを原義とし、さらに心を暗くする、悲しみにくれるの意を持つ。ここは両者の意を掛けるものと思う。それは、童門冬二氏の「小説 千利休 秀吉との命を賭けた闘い」(PHP研究所一九九九年刊)の中に、この狂歌につき、非常に面白い記述があり、それに基づく私の推理である。以下に引用する(私は本書は未見。グーグル・ブックスを視認した)。

   《引用開始》

 この頃の話にこんなものがある。地元の名産物である〝かき〟〝つめた貝〟(球形の貝殻をもつタマガイ科の巻き貝。砂泥をかためてつくる卵絵画茶碗を伏せた形で「砂茶碗」と呼ばれる)〝なまこ〟を献上した。秀吉は喜んで、

「幽斎殿、この献上物を素材に一つ歌を詠んでくださらんか」

 と持ち掛けた。幽斎はニコリと笑ってすぐ詠んだ。

「かきくらしふるしらゆきのつめたさに

  このわためしてあたためぞする」

 秀吉は思わず、

「おおう!」

と声をあげ、並み居る大名たちは歓声を上げた。幽斎の歌は、見事に献上された三つの品を詠み込んだだけではない。もう一つ意味があった。それは、

「このわたを男のシンボルに塗ると、熱を持って袴を突き上げるまともに歩けない」

 という俗信があるからだ。したがって幽斎は、

「関白様、もっと頑張りなさい」

 と暗(あん)にからかったのである。秀吉は妙なことを知っていた。だから、思わず感嘆の声をあげたのである。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

私は迂闊にも、こんな話は知らなかった。しかし、なかなかお世継ぎの出来なかった秀吉のことを考えると、これ目から鱗だ! 「尾張名所図会」の筆者岡田啓・野口道直(私は秘かにこの記事は野口の記したもののように感じている)も、実はこの詠歌の裏の意味を知っていて、さりげなく出したのではなかろうか? 御伽衆というのは、そうしたぶっ飛んだ傾奇者(かぶきもの)としての一面を持っていたはずであり、その彼らが、幽斎の狂歌に驚いたということを意味する本叙述は、確信犯でその裏の性的な意味を即座に理解したことを示すものであって、それをまた「室町殿日記」の作者は確信犯で理解していたからこそ、かく書いたとしか思われないからである。童門氏に大感謝!

 

□やぶちゃん現代語訳(読み易さを考え、適宜、改行を施した。)

 

海鼠腸(このわた)  大井村の名産。既に「名古屋名所図会」に記載しておいたものであるが、その主旨に幾分、誤りがあったので、依ってここの再び記すこととする。

 人見必大の「本朝食鑑」に、

 

――海鼠腸〔訓は「古乃和多(このわた)」。〕、尾張・三河から産するものを以って上品とし、武蔵国の本牧(ほんもく)のものが、これに次ぐ。諸国に於いて海鼠(なまこ)を漁(と)るところは多いけれども、膓醤(ちょうしょう)を名産として貢納して来た地域は少ない。これは、かの黄色の腸(わた)を好む者が、全くもって稀(まれ)であったことに起因する。

 近世の頃の話、三河国の柵島(さくしま)に一人の異僧がいた。戒を守ること、これ、はなはだ厳格なれども、海鼠の腸醤を調和し成すことに於いては異様な才能を持っており、その技(わざ)たるや、これ、最も奇々妙々なるものであった。その精製行程は以下の通り。

一、浦人が海鼠の腸(わた)を取り出して洗い清めた上、小さな壺に入れて僧の前に差し出す。

二、僧はこれを点検し、その腸の多少を仔細に観察した上、それに見合った自身の決めたところの分量の白塩(しろじお)を、これ、素早く腸(わた)に擦(す)りなしつつ、腸の中へ投入する。

三、その後、浦人は複数個のそれらを木箆(きべら)を用い、攪拌して、塩分を均等にした上、平らにならし、これを大きな壺に収めるおく。

四、かくして二、三日を経て、これを舐めれば、その味わい、これ、曰く言い難きほどに美味である。

 現在、貢献品として上納するものは、まさにこうして製したものである。故に「このわた」は、本来は三河の産を以って上品とするのである。但し、後にこの僧、故あって後に尾張に移り住み、そこでもまた、海鼠の腸醤を拵えたによって、尾張の産のそれを以つて、第一等の「このわた」としているのである。巷にあって、この味を知る者は皆、奇々妙々の味わいであるとしきりに称している。』

と記してある。

 伊董随庸(いとうずいよう)の「佳境遊覧」に記されてあるものもまた、これ同じである。

〇割注

 大永二年の「祇園会御見物御成記(ぎおんえおんけんぶつおなりのき)」の献立の中に、『このわた 桶・金台――蒔絵を施してあり――』

と見え、また楢村長教(ならむらながのり)の書いた「室町殿日記」には、

『ある時、秀吉公、御伽衆(おとぎしゅう)を召されて雑談などをなさっておられたところへ、さる大名方(がた)より、牡蛎(かき)・つべた貝・海鼠腸(このわた)の三種が進上されて参ったによって、太閤、これを御覧あって、

「さても幽斎! これに附けて一句ものせ!」

と、仰られたところ、幽斎殿、

「畏って御座る。」

と、即座に、

  かきくらし降る白雪(しらゆき)の給(た)べたさにこの綿(わた)召して温まりませ

と申し上げたところ、秀吉公、大いに興じ遊ばされた、ということである。』

と記してある。

 既にその頃には、この「このわた」を世に於いて賞美していたことが分かると言えよう。

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