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2015/04/25

譚海 卷之一 勢州山田在家村掟の事

○勢州山田在の者物語せしは、其在所のある人の子共(こども)十一歳にて、江戸靑山商家へ奉公に下(くだ)し、給金一兩もらひ候を、在所の名主世話致し、壹ケ月銀八分(ぶ)の息にて村かたへ借付置(かしつけおき)、その子四十五歳の時在所へ歸るとき、右の金子三十五年をへて、利息数百金に及び、田地をもとめ子孫今に繁昌してありといへり。都(すべ)て勢州の農家は、其名主年寄の下知を愼みあへて違背せず、名主も支配の百姓を子弟のごとく扶助し少(すこし)も疎略せず、支配の百姓子どもあまたあるをば、名主見廻りて骨つよきを差圖して家督とさだめ、農事をならはせ、殘りはみな江戸へ奉公に出(いで)さする事也。又普請等の事も、たとへば一村百姓廿人あれば、巡番をさだめて毎年壹人づつ居宅普請(きよたくぶしん)する也。廿年にてのこらず新宅普請出来る也。先(まづ)壹軒の家普請の期(き)至れば、殘る十九人のもの竹何束(ぞく)・萱(かや)何束・繩何程・米何升・錢何十疋づつとさだめありて支度し、件(くだん)の通り銘々名主方へもち行(ゆく)。扨名主方にて集(あつ)め置(おき)普請すべき當人をよびよせ、村中より合力(かふりよく)の品を渡す。右十九人よりもらひたるものにて普請すれば、土木の費(つひへ)なく普請の品買(かひ)とゝのへずして出來る也。普請の日に至れば、十九人の者同時に其家に行(ゆき)て合力し、誰々は柱たて垣(かき)あみ、誰々は壁ぬりやねふき役と定(さだめ)て取懸(とりかか)るゆへ、即時に成就する也。飯米野菜料(はんまひやさいりやう)共(ども)もらひたる物にて事たり、普請の庭に筵を敷(しき)羣居(むれゐ)して飲食(のみくひ)、暮に及(および)て歸る也。普請出來て後、米も鏡も殘る程の事也。來年他の家普請の時に當りても、又今年普請料もらひしごとく、萱・竹・飯米等まで贈る事也とぞ。又村のうちに閑地(かんち)あれば、名主方にて松杉の苗を買求(かひもと)て、人々に分付(ぶんぷ)し植付(うゑつけ)させ、其(それ)樹年を經て林となれば伐取(きりとら)せて他(ほか)かたへ賣(うり)やり、苗の價(あたひ)を名主方へ引取(ひきとり)、殘りたる銭にて本人に馬を買用(かひもちゐ)させ、亦は耕具をとゝのへさせ、ひたすら農作の精力をはげます事となりて、恩愛相得て人々業(わざ)に怠りすさむ事なしとぞ。勢州はすべて十石にみちたる農家なし。別(べつし)て紀州領等は賦納重けれども、人々地力を盡し倹約なれば生計(たつき)にくるしむ者なし。他方になき掟なりといへり。

[やぶちゃん注:所謂、伊勢山田に於ける驚くべき郷村内相互扶助システムである「山田三方(やまださんぽう)」の記載である。山田三方は「三方寄合(さんぽうよりあい)」「三方老若(さんぽうろうにゃく)」とも呼称されたもので、十五世紀前葉の永享年間に伊勢大神宮の神役人(じんやくにん:所謂、御師(通常は「おし」と読むが、伊勢神宮では他と区別して「おんし」と呼ぶ。)のこと。)らが彼らより上級の下級神職である刀禰(とね)の勢力を駆逐して山田に自治組織を樹立、山田三方会合所(やまださんぽうえごうしょ)という役所を設け、伊勢神宮に対しては賦課を勤仕し、爾来幕末に至るまで、山田の町政を荷負ってきたものである(ここはウィキの「山田三方」に拠った)。

「勢州山田」現在の三重県伊勢市の山田。ウィキの「山田(伊勢市)」によれば(注記号は省略した)、『伊勢神宮外宮の門前町(厳密には鳥居前町)として成熟してきた地域であり、現在の伊勢市街地に相当する。古くは「ようだ」「やうだ」などと発音した』とあり、「歴史」の項を見ると、『山田の歴史は深く、倭町で弥生時代の竪穴式住居跡が発見されるなど、有史以前から人々が居住していたことが分かっている』。『しかし、宮川や豊川はたびたび氾濫を起こしたため、実際に定住が進み集落が形成されたのは』雄略天皇二二(四七八)年に『豊受大神が山田原に鎮座して以降だと考えられている』。『中世に入ると朝廷からの資金が滞るようになったことに加え、荘園勢力の台頭により山田は衰退の一途をたどることになる。そこに外宮の禰宜度会家行が現れ、伊勢神道(度会神道)を興す。これは外宮の祭神が内宮よりも神格が上であると主張するもので、山田の地位向上に大いに効果を発揮した。更に御師の活躍で全国に檀家を持つようになり、復興を果たしたと共に地理的な特性もあり、室町時代頃には内宮を擁する宇治を上回る規模に発展した』。『この頃山田と宇治の対立が激化し、たびたび町や神宮が炎上していた。また、代々の神官家と新興勢力との対立・衝突も見られた』。『こうして力を付けた山田には郷(村)ごとに惣が結成され、それらをまとめる団体として山田三方が組織された。山田三方は神宮と深いつながりを持つ土倉などの有力者から構成され、座の営業権などを取り決める自治組織としての役割を果たした。その規模は、堺や博多に並ぶものであったとされる。この山田三方は明治時代に近代国家が成立するまで山田の自治組織として続いた』。『近世になるとお蔭参りの流行などにより、町はますます発展し』た(徳川家康は宮川以東の神領を管轄するため慶長八(一六〇三)年に山田奉行所を山田吹上に置いたと附記がある)。

「息」利息。山田三方のこの少年の家を担当していた名主は、この商家より、少年を奉公に出した際の謝礼金一両を受け取らずに、それに「月銀八分」(一分は十厘で、一匁が十分であるから、京都故実研究会の「江戸時代の金額や数値に変換」を基に、江戸中期の金一両を銀六十匁で現在の八万円相当で換算すると――千六十六円――となる)の利息を付けさせたのである。単純計算しても奉公の二十四年間で利息だけでも有に三十万円を超えることになる(ただ、ここで「利息數百金」とあるが、銀六十匁が銀一両でこれを「一金」と呼んだから、これで計算すると利息は現在の数千万円を軽く超えることになってしまうので、この「數百金」というのは塵も積もっての類いの誇張表現であろう)。当時の農村にあってこの元少年の貯えた金額も含められるから五十万円以上、百万円程度の金があれば「田地をもとめ子孫今に繁昌してあり」というのも如何にも納得出来る。

「合力」金銭や物品を与えて助けることをいう。

「紀州領」ウィキの「紀州藩」によれば、伊勢国には飯高郡の全域と、三重郡に一村・河曲郡内に三十五村・一志郡内に五十八村・多気郡内に九十七村・伊勢神宮のあった度会郡内には百四十七村もの紀州藩領があった。]

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