フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 尾形龜之助 「一日」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳 | トップページ | 堀辰雄 曠野 (正字正仮名版) 三 »

2015/05/15

堀辰雄 曠野 (正字正仮名版) 二

        二

 

 男が默つてふいに立ち去つてから、それでも女はなほ男を心待ちにしながら、幾人かの召使ひを相手に、さびしい、便(たよ)りない暮らしを續けてゐた。が、それきり男からは絶えて消息さへもなかつた。女にとつては、それは自分から望んだこととはいへ、たまらなく不安だつた。待つことの苦しみ、――何物も、それを紛(まぎ)らせてはくれなかつた。それでも女はまだしもそのなかに一種の滿足を見いだし得た。――だが、いつまで立つても、男のかへつて來るあてのないことが分かつて來ると、わづかに殘つてゐた召使ひも誰からともなく暇をとり出し、みな散り散りに立ち去つて往つた。

 一年ばかりのあとには、女のもとにはもう幼い童が一人しか殘つてゐなかつた。その間に、寢殿(しんでん)は跡方もなくなり、庭の奧に植わつてゐた古い松の木もいつか伐り取られ、草ばかり生い茂つて、いつのまにか葎(むぐら)のからみつゐた門などはもう開(ひ)らかなくなつてゐた。さうして築土のくづれがいよいよひどくなり、ときをり何かの花などを手にした裸か足の童がいまは其處から勝手に出はひりしてゐる樣子だつた。

 なかば傾いた西の對(たい)の端に、わづかに雨露をしのぎながら、女はそれでもぢつと何物かを待ち續けてゐた。

 最後まで殘つてゐた幼い童もとうとう何處かに去つてしまつた跡には、もう一方の崩れ殘りの東の對の一角に、この頃田舍から上つてきた年老ゐた尼が一人、ほかに往くところもないらしく、棲(す)みついてゐた。それは昔この屋形(やかた)で使はれてゐた召使ひの緣者だつた。さうしてその尼は此の女をかはいさうに思つて、ときどき餘所から貰つてくる菓子や食物などを持つて來てくれた。しかしこの頃はもう女にはその日のことにも事を缺くことが多くなり出してゐた。――それでもなほ女はそこを離れずに、何物かを待ち續けてゐるのを止めなかつた。

 「あの方さへお爲合せになつてゐて下されば、わたくしは此の儘朽(く)ちてもいい。」

 さう思ふことの出來た女は、かならずしも、まだ不爲合せではなかつた。

 

 男にとつては、その一二年の月日はまたたく間に過ぎた。

 しかしその間、男は一日も前の妻のことを忘れたことはなかつた。が、何かと宮仕が忙しかつた上、あらたに通ひ出してゐた伊豫(いよ)の守(かみ)の女の家で、懇ろに世話をせられてゐると、心のまめやかな男だつただけ、彼等を裏切らないためにも、男はつとめて前の妻のところからは遠ざかり、胸のうちでは氣にかけながらも、音信さへ絶やしてゐた。

 最初のうちは、それでも男は幾たびか、人目に立たないやうにわざと日の暮を選んで、前の女のゐる西の京の方へ往きかけた。が、朝夕通ひなれた小路に近づいて來ると、急に何物かに阻(こば)まれるやうな心もちで、男はその儘引つ返して來た。男はこんなことで、心にもなく女とも別れなければならなくなる運命を考へた。

 しかし、その儘女にも逢わずに月日が立つにつれ、もう忘れていてもいいはずのその女のことを何かのはずみに思ひ出すと、その女の、袖を顏にした、さびしい、俯伏した姿が前にも増して鮮明に胸に浮んで來てならなかつた。さうしてとうとうしまひには、その女のさうしてゐるときの息づかひや、やさしい衣(きぬ)ずれの音までがまざまざと蘇るやうになり出した。

 その春も末にちかい、或日の暮れがた、男はとうとう女戀しさにゐてもたつてもゐられなくなつたやうに、思ひ切つて西の京の方へ出かけて往つた。

 其處いらは小路の兩側の、築土も崩れがちで、蓬(よもぎ)のはびこつた、人の住まつてゐない破れ家の多いやうなところだつた。漸く以前通いなれた女の家のあたりまで來て見ると、倒れかかつた門には葎(むぐら)の若葉がしげり、藪には山吹らしいものがしどろに咲きみだれてゐた。

 「こんなに荒れてゐるやうでは、もう誰もここにはゐまい。」男は心のなかでさう考へた。

 おそらくその女も他の男に見いだされて餘所に引きとられてしまつたのだらうと詮(あきら)めると、その女戀しさを一層(ひとしほ)切に感じ出しながら、その儘では何か立ち去りがたいやうに、男はなほあたりを歩いてゐた。すると、築土のくづれが、一ところ、童でもふみあけたのか、人の通れるほどになつてゐた。男は何の氣なしに其處からはひつて見ると、もとは何本もあつた大きな松の木は大てい伐り倒されて、いまは草ばかりが生ひ茂つてゐた。古池のまはりには、一めんに山吹が咲きみだれてゐ、そのずつと向うの半ば傾いた西の對(たい)の上にちやうど夕月のかかつてゐるのが、男にははじめてそれと認められた。その對(たい)の屋(や)の方は眞つ暗で、人氣はないらしかつた。それでも男はそちらに向つて女の名を呼んで見た。勿論、なんの返事もなかつた。さうなると男は女戀しさをいよいよ切に感じ出し、袖にかかる蜘(くも)の網(い)を拂ひながら、山吹の茂みのなかを搔き分けていつた。男はもう一度空しく女の名を呼んだ。男はそのとき思ひがけず反對の側にある對の屋からかすかな灯の洩れてゐるのを見つけた。男は胸を刺されるやうな思ひをしながら、そちらの方へさらに草を搔き分けて往つて、最後に女の名を呼んだ。返事のないのは前と變りはなかつた。男は草の中から其處には一人の尼かなんぞゐるらしいけはひを確かめると、頭を垂れた儘、もと來た道をあとへ引つ返した。もう昔の女には逢はれないのだと詮め切ると、それまで男の胸を苦しいほど充たしてゐた女戀しさは、突然、いひ知れず昔なつかしいやうな、殆ど快いもの思ひに變りだした。……

 

 なかば傾ゐた西の對の、破れかかつた妻戸(つまど)のかげに、その夕べも、女は晝間から空にほのかにかかつてゐた纖(ほそ)い月をぼんやり眺めてゐるうちに、いつか暗(やみ)にまぎれながら殆どあるかないかに臥せつてゐた。

 そのうちに女は不意といぶかしさうに身を起した。何處やらで自分の名が呼ばれたやうな氣がした。女の心はすこしも驚かされなかつた。それはこれまでも幾たびか空耳にきいた男の聲だつた。さうしてそのときもそれは自分の心の迷ひだとおもつた。が、それからしばらくその儘ぢつと身を起してゐると、こんどは空耳とは信ぜられないほどはつきりと同じ聲がした。女は急に手足が竦(すく)むやうに覺えた。さうして女は殆どわれを忘れて、いそいで自分の小さな體を色の褪めた蘇芳の衣のなかに隱したのが漸つとのことだつた。女には自分が見るかげもなく瘦せさらばへて、あさましいやうな姿になつてゐるのがそのとき初めて氣がついたやうに見えた。たとひ氣がついてゐたにせよ、そのときまでは殆ど氣にもならなかつた、自分のさういふみじめな姿が、そんなになつてまだ自分の待つてゐた男に見られることが急に空怖ろしくなつたのだつた。さうして女は何も返事をしようとはせず、ただもう息をつめてゐることしか出來なくなつてゐる自分の運命を、われながらせつなく思ふばかりだつた。それからまだしばらく池のほとりで草の中を人の歩きまはつてゐる物音が聞えてゐた。最後に男の聲がしたときは、もう女のゐる對の屋からは遠のいて、向ひの尼のゐる對の屋の方へ近づき出してゐるらしかつた。それからもう何らの物音もしなくなつた。

 すべては失はれてしまつたのだ。男は其處にゐた。其處にゐたことはたしかだ。それを女にたしかめでもするやうに、男の歩み去つた山吹の茂みの上には、まだ蜘の網(い)が破れたままいくすぢか垂れさがつて夕月に光つて見えた。女はその儘荒(あば)らな板敷のうへにいつまでも泣き伏してゐた。……

« 尾形龜之助 「一日」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳 | トップページ | 堀辰雄 曠野 (正字正仮名版) 三 »