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2015/05/26

甲子夜話卷之一 38 所司代大久保加賀守〔忠眞〕京にて詠歌の事

38 所司代大久保加賀守〔忠眞〕京にて詠歌の事

今の加判小田原侯〔大久保加賀守忠眞〕、京の所司にてあられしとき、今の院御讓位のことども執り行はれ、事終りたるを、叡感とて院御所へ召し、其後園を見せしめられ、叡旨をもて華製の一大端硯を賜りしとなり。これは御在位中あまたの敕額御揮灑ある度ごとに、宸筆を染めさせ玉ひし御品なるが、今は御用もなければ下さるゝなどゝ、ありがたき内旨を蒙られしとぞ承る。其日御園中を徘囘せられ、さまざまの景勝設けられし中、いと高き假山より、折しも搖落の後なりければ、遠眺も殊に開朗にて、洛中の千門萬戸も一目に俯臨して、盡す風色いはん方なかりければ、そこにてふと一首の咏ありしが、侯も謙退の人ゆへ、吟哦もせられず退(マカ)り出られ、其後知人にその咏を物語せられしかば、思はずも九重の内に聞へ、近世の秀逸とて叡賞ありしとなり。

 にぎはへる都の民の夕けぶり

      冬ものどかに霞立見ゆ

これより誰云ともなく、搢紳の輩、霞の侍從と呼けるとぞ。この侯は文武ともに志厚く、並々ならぬことども多しと聞く。就中是も京職の折ふし、今上御即位のとき、御築地の外を裝束にて固めらるゝことなりしが、此重大の朝儀行はるゝによて、武家警衞を勤ることなれば、常よりも一際心得て、手の者共具し出られしが、身づからは兵庫鎖の白太刀を佩られける。京人見たることもなければ、頻りにそのことを喧傳して、遂に關白殿聞傳へられ、その後傳奏衆もて一覽の所望ありければ、かの白太刀を袋に入て出されしに、その袋さヘ古製に叶ふやうに、かねて造り置れしかば、關白殿を始め、朝廷こぞりて、流石關東の譜第大名よ、今の世かゝる物まで備へんとは思ひよらざりしこととて、感賞せられしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「所司代」京都所司代。京都の守護及び禁中・公家に関する政務を管掌し、さらに京都・伏見・奈良の三奉行を支配、京都周辺八ヶ国の訴訟の処理、西国大名の監視などを掌った。

「大久保加賀守〔忠眞〕」相模国小田原藩第七代藩主大久保忠真(ただざね 安永七(一七七八)年或いは天明元(一七八二)年~天保八(一八三七)年)。ウィキの「大久保忠真によれば、『江戸時代後期になると、小田原藩でも財政窮乏により藩政改革の必要性に迫られていた。そのため、忠真は二宮尊徳を登用して改革を行なうこととした。尊徳は藩重臣・服部家の財政を再建した実績をすでに持っていた。忠真もその話を聞き、小田原藩の再建を依頼しようとしたのである』。『しかし、尊徳の登用はすぐには実現しなかった。身分秩序を重んじる藩の重役が反対したのである。そこでまず、忠真は』文政五(一八二二)年に『尊徳に下野国桜町(分家・宇津家の知行地、現在の栃木県真岡市二宮地区)の復興を依頼した』。当時の桜町は表高三千石にも拘わらず、荒廃が進んで収穫は八百石にまで落ち込んでおり、『それまでにも小田原藩から担当者が派遣されていたが、その都度失敗していた』のを尊徳が美事に復興させた。そこで『忠真は重臣たちを説き伏せ、尊徳に小田原本藩の復興を依頼』、金千両及び多量の蔵米を支給して改革を側面から支援した(この時、天保八(一八三七)年で尊徳の登用を思い立って十五年が経過していた)。『尊徳の農村復興は九分九厘成功したが』、この年、忠真が五十七歳で急死、『尊徳は後ろ盾を無くしたために改革は保守派の反対によって、あと一歩というところで挫折してしま』ったとある。幕政に於いては寛政一二(一八〇〇)年に奏者番となり、以後、寺社奉行兼務から大坂城代、文化一二(一八一五)年に京都所司代、文政元(一八一八)年八月には松平定信の推挙により老中となって二十年以上、在職した。『政治手腕等においては、同役の水野忠邦に比較すると影は薄いが、反面で矢部定謙、川路聖謨、間宮林蔵(蝦夷地や樺太の探検で著名)など下級幕吏を登用・保護している』とあって、本話柄に相応しい名君であったことが窺われる。

「加判」重要な公文書に花押(書き判)を加える資格を有する重役のことで、江戸時代に於いては老中の別名。

「今の院御讓位のこと」「今の院」は第百十九代天皇光格天皇(明和八(一七七一)年~天保一一(一八四〇)年)。在位は安永八(一七八〇)年から文化十四年三月二十二日で、譲位はグレゴリオ暦では一八一七年五月七日。本シークエンスは「折しも搖落の後なりければ」とあるから、院御所としての仙洞御所の整備などが執り行われた後の、この年の秋のことであったと考えられる。以下の庭の景も現在の京都市にある京都御苑内京都御所の南東にある仙洞御所(正式名称は桜町殿)である。ウィキの「光格天皇」によれば、『傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人でもあった』とあり、また、在位中の『朝幕間の特筆すべき事件として、尊号一件が挙げられる。天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果となった』とある。『博学多才で学問に熱心であり、作詩や音楽をも嗜んだ』。また、四百年近くも『途絶えていた石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭の復活や朝廷の儀式の復旧に努めた。さらに平安末期以来断絶していた大学寮に代わる朝廷の公式教育機関の復活を構想したが、在位中には実現せず、次代の仁孝天皇に持ち越されることになった』(学習院の前身)。因みに静山は宝暦一〇(一七六〇)年生まれで天保一二(一八四一)年没、まさに「今の」同時代人である。

「叡感」「叡旨」「叡賞」孰れも天皇が感心してお褒めの言葉や褒美を受けることを言う。

「端硯」「たんけん」。名品として知られる端渓硯(たんけいけん/たんけいのすずり)。広東省高要県の南東にある爛柯(らんか)山に沿った渓谷で採取される石で作った硯。端渓の名は漢代に端渓県が設けられた昔よりの由緒ある名で、硯の採取は唐高祖の武徳年間 (六一八年~六二六年)に始ったとされる。宋代には下巌・中巌・上巌・竜巌など、その種類が多く,多くは紫色を呈し発墨が良い大振りのものを上石とする。

「揮灑」「きさい」と読み、原義は、思いのままに自由自在に書画をかくことを言う。

「假山」築山。

「咏」は「詠」に同じい。

「吟哦」「ぎんが」。節をつけて漢詩や和歌などを詠(うた)うこと。

「搢紳」「しんしん」と読む。笏(しゃく)を紳(おおおび:大帯。)に搢(はさ)む意から、官位が高く身分のある人を言う。公卿。

「霞の侍從」忠真は文化一二(一八一五)年従四位下侍従・加賀守に敍されている。なお、「小田原藩主大久保忠真という人桜町復興依頼」という頁によれば、彼は、これ以前、京都所司代になった頃に芙蓉を好んで藩邸に植えさせ、それを写生することを好んだことから「芙蓉の侍従」とも呼ばれていたとあり、さらに、

 見渡せば心にかかるくまもなし月にまされる雪の曙

 見ぬ世までかはらじものと眺めれば心も霞む春の曙

とも詠んだとして、「曙の侍従」とも呼ばれた、ともある。

「今上御即位のとき」光格の第六皇子であった仁孝天皇(寛政一二(一八〇〇)年~弘化三(一八四六)年)の即位式。文化十四年九月二十一日(グレゴリオ暦一八一七年十月三十一日)。

「兵庫鎖の白太刀」ウィキの「太刀」にある、「兵庫鎖太刀(ひょうごくさりのたち)」の項には専ら実戦目的のために拵えられた兵仗太刀(ひょうじょうのたち)、厳物造太刀(いかものつくりのたち)と呼ばれた太刀の一つで、『太刀緒と太刀本体を結ぶ「足緒」と呼ばれる部品を、革ではなく細く編んだ鎖を何条も平組に組み上げたものとした太刀。「長覆輪太刀(ながふくりんのたち)」と呼ばれる、鞘全体を板金で包み、彫刻を施した板状の金具で鞘の上下を挟んで固定した形式のものが多く、後には専ら装飾性を重視した拵として儀仗用の太刀の代表的な拵となり、寺社への奉納用として多数が製作された』。『なお、本来の字は「兵具(ひょうぐ)」であったが、後世に訛って「兵庫」と変化したという説が有力である』。グーグル画像検索「兵庫鎖太刀」をリンクしておく。如何にも古形、そもそもこの太平の世に実用の太刀というところからも古式と言えよう。「白太刀」は「しろだち」「しろたち」で柄や鞘などの金具を総て銀製とした太刀。銀(しろがね)作りの太刀のこと。

「佩られける」「おびられける」。

「關白殿」当時の関白は一条忠良(ただよし)。

「傳奏衆」朝廷内に置かれた役職。もともとは伝奏自体が治天の君(上皇)に近侍して奏聞・伝宣を担当した者を指したが、ここは「衆」とあり、御覧は仁孝天皇だけでなく光格上皇も含まれていようから、ここは定員二名の武家伝奏の他、上皇のための院伝奏らも含めた謂いのように思われる。

「その袋さヘ古製に叶ふやうに、かねて造り置れしかば」所謂、古代裂(こだいぎれ)で調整した太刀袋であったのである。

「譜第」譜代。家康は関東に入部すると、東国の押さえとして譜代の大久保忠世を小田原城主に据えた。

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