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2015/05/04

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅻ)

十月二十六日、斑鳩の里にて  

 けふはめづらしくのんびりした氣もちで、汽車に乘り、大和平(やまとひら)をはすに横ぎつて、佐保川(さほがは)に沿つたり、西(にし)の京(きやう)のあたりの森だの、その中ほどにくつきりと見える藥師寺の塔だのをなつかしげに眺めながら、法隆寺驛についた。僕は法隆寺へゆく松竝木の途中から、村のはうへはいつて、道に迷つたやうに、わざと民家の裏などを拔けたりしてゐるうちに、夢殿(ゆめどの)の南門のところへ出た。そこでちよつと立ち止まつて、まんまへの例の古い宿屋をしげしげと眺め、それから夢殿のはうへ向つた。

 夢殿(ゆめどの)を中心として、いくつかの古代の建物がある。ここいらは厩戸皇子(うまやどのわうじ)の御住居のあとであり、向うの金堂や塔などが立ち竝んでおのづから嚴肅な感じのするあたりとは打つて變つて、大いになごやかな雰圍氣を漂はせてゐてしかるべき一廓。――だが、この二三年、いつ來てみても、何處か修理中であつて、まだ一度もこのあたりを落ちつゐた氣もちになつて立ちもとほつたことがない。

 いまだにそのまわりの傳法堂などは板がこひがされてゐるが、このまへ來たとき無慙にも解體されてゐた夢殿(ゆめどの)だけは、もうすつかり修理ができあがつてゐた。……

 そこで僕はときどきその品のいい八角形をした屋根を見あげ見あげ、そこの小ぢんまりとした庭を往つたり來たりしながら、

   ゆめどのはしづかなるかなものもひにこもりていまもましますがごと

   義疏(ぎそ)のふでたまたまおきてゆふかげにおりたたしけむこれのふるには

 そんな「鹿鳴集」の歌などを口ずさんでは、自分の心のうちに、さういつた古代びとの物靜かな生活を蘇らせてみたりしてゐた。

 僕は漸く心がしづかになつてから夢殿のなかへはひり、祕佛を拜し、そこを出ると、再び板がこひの傍をとほつて、いかにも虔ましげに、中宮寺の觀音を拜しにいつた。――

 それから約三十分後には、僕は何か赫(かゞや)かしい目つきをしながら、村を北のはうに拔け出し、平群(へぐり)の山のふもと、法輪寺(ほふりんじ)や法起寺(ほつきじ)のある森のはうへぶらぶらと歩き出してゐた。

 ここいら、古くはいかるがの里と呼ばれてゐたあたりは、その四圍の風物にしても、又、その寺や古塔にしても、推古時代の遺物がおほいせゐか、一種蒼古な氣分をもつてゐるようにおもわれる。或ひは厩戸皇子(うまやどのわうじ)のお住まひになられてゐたのがこのあたりで、さうしてその中心に夢殿があり、そこにおける眞摯な御思索がそのあたりのすべてのものにまで知らず識らずのうちに深い感化を與へ出してゐたやうなことがあるかも知れない。さうしてこのあたりの山や森などはもつとも早く未開狀態から目覺めて、そこに無數に巣くつてゐた小さな神々を追ひ出し、それらの山や森を朝夕うちながめながら暮らす里人たちは次第に心がなごやかになり、生きてゐることのよろこびをも深く感ずるやうになりはじめてゐた。……

 そうだ、僕はもうこれから二三年勉強した上でのことだが、日本に佛教が渡來してきて、その新らしい宗教に次第に追ひやられながら、遠い田舍のはうへと流浪の旅をつづけ出す、古代の小さな神々の佗わびしいうしろ姿を一つの物語にして描いてみたい。それらの流謫の神々にゐたく同情し、彼等をなつかしみながらも、新らしい信仰に目ざめてゆく若い貴族をひとり見つけてきて、それをその小説の主人公にするのだ。なかなか好いものになりさうではないか。

 行く手の森の上に次ぎ次ぎに立ちあらわれてくる法輪寺(ほふりんじ)や法起寺(ほつきじ)の小さな古塔を目にしながら、そんな小説を考へ考へ、そこいらの田圃の中を歩いてゐると、僕はなんともいへず心なごやかな、いわばパストラアルな氣分にさへなり出してゐた。

[やぶちゃん注:「タツノオトシゴ」の「年譜」によれば、この昭和一六(一九四一)年十月二十六日には、『京都の甲鳥書院に署名をしに出かけ』て『鴨川べり「ちもと」で晩飯を御馳走してもらう』とあり、ここに記されている法隆寺の夢殿観音を拝観したのは実はその翌二十七日のことである。その翌日の十月二十八日朝、仕事を片付けるために奈良ホテルに荷物を預けたまま、ひとまず帰京を決意し、奈良ホテルを発って、そのまま滋賀に向い、琵琶湖ホテルに一晩泊まっている、とある。帰京(奈良ホテルに一度戻って)はその翌十月二十九日のことであったが、次の最終章も「十月二十七日、琵琶湖にて」とあって一日手前にずれている。この「十月」を急速にコーダに持ち込むため、現実の事実が持つ退屈な日常的事実を捨象圧縮変更して緩んだ時間を消し去っておく必要があったものかとも思われる――それは琵琶湖の湖水の音の情景を自らの「曠野」のイメージの中に封じ込めるためでもあったのではなかろうか――。

「大和平」あまり聴かない言葉であるが、奈良盆地は大和平野とも言うので、違和感はない。

「夢殿」ウィキ法隆寺から引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『奈良時代の建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。夢殿は天平十一年(七三九年)の法隆寺東院創立を記す『法隆寺東院縁起』の記述からその頃の建築と考えられているが、これを遡る天平九年の『東院資材帳』に「瓦葺八角仏殿一基」の存在が記され、その頃に創立された可能性も考えられている。八世紀末頃には「夢殿」と呼称される』。『奈良時代の建物ではあるが、鎌倉時代に軒の出を深くし、屋根勾配を急にするなどの大修理を受けている。昭和の大修理の際にも屋根を奈良時代の形式に戻すことはしなかったため、現状の屋根形状は鎌倉時代のものである。基壇は二重で、最大径が』十一・三メートル、『堂内は石敷。堂内の八角仏壇も二重で、その周囲に八本の入側柱が立ち、入側柱と側柱の間には繋虹梁を渡す。入側柱と側柱は堂の中心に向かってわずかに傾斜して立つが、これは「内転び」と呼ばれる中国渡来の手法である』。

「例の古い宿屋」先に出た虚子の「斑鳩物語」の大黒屋。

「この二三年、いつ來てみても、何處か修理中であつて」法隆寺はこの七年前の昭和九(一九三四)年から「昭和の大修理」が開始されており、金堂・五重塔を始めとする諸堂宇の修理が行われたていた(因みに、この「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挿んで半世紀余りに亙って続けられ、昭和六〇(一九八五)年に至って漸く完成記念法要が行われている。またこの間、昭和二四(一九四九)年一月には修理解体中の金堂で不審火が発生、金堂初層内部の柱と壁画総てが焼損してしまった(以上はウィキ法隆寺に拠る)。

「立ちもとほつたことがない」「立ちもとほる」は「立ち徘徊(もとほ)る」で、あちこち歩き回る・行きつ戻りつする・ぶらつく・彷徨するの意で、万葉時代からある古語である。「傳法堂」聖武天皇夫人橘古那可智(たちばなのこなかち)の住居を仏堂に改造したもの。夢殿の背後にある。

「祕佛」夢殿中央の厨子に安置されている国宝観音菩薩立像(救世観音)。飛鳥時代。木造。ウィキ法隆寺から引く。『長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉覚三(天心)とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている(岡倉らによる「発見」については伝説化されている部分もあり、それ以前の数百年間、誰も拝んだ者がいなかったのかどうかは明らかでない)。現在も春・秋の一定期間しか開扉されない秘仏である。保存状態が良く当初のものと思われる金箔が多く残る』。

「鹿鳴集」この前年の昭和一五(一九四〇)年五月二十二日に刊行された歌人で美術史家の會津八一(明治一四(一八八一)年~昭和三一(一九五六)年)が還暦を機に「南京新唱」から今までの短歌を纏めた歌集。過去に発表された短歌に推敲を重ねて修正を加え、全三百三十二首を収録する。斎藤茂吉を初めとして多くの文化人から絶賛され、歌人としての評価を決定づけた一冊であった(「新潟市 會津八一記念館」公式サイト内のこちらの解説を参照した)。

「中宮寺の觀音」「中宮寺」は法隆寺の北東に隣接する聖徳太子所縁の寺。本尊は飛鳥時代の作になる木造菩薩半跏像。像高百三十二センチメートルで、広隆寺弥勒菩薩半跏像とよく比較されることから、多くの人が疑いなく弥勒菩薩像と思っている例の少女のような髪型の観音菩薩半跏像である(あの髪型は双髷(そうけい)と呼び、古代中国では双鬟(そうかん)と呼ばれる未婚女性の髪形である)。但し、ウィキ中宮寺によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。国宝指定の際の官報告示は単に「木造菩薩半跏像」である。材質はクスノキ材。一木造ではなく、頭部は前後二材、胴体の主要部は一材とし、これに両脚部を含む一材、台座の大部分を形成する一材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な木寄せを行っている。本像の文献上の初出は建治元年(一二七五年)、定円の『太子曼荼羅講式』で、同書に「本尊救世観音」とあるのが本像にあたると考えられている。それ以前の伝来は不明である。現状は全身が黒ずんでいるが、足の裏などにわずかに残る痕跡から、当初は彩色され、別製の装身具を付けていたと思われる』とある。

「虔ましげに」老婆心乍ら、「つつましげに」と読む。

「平群の山」法隆寺の背後、「古事記」や「万葉集」詠まれた平群山、現在の矢田丘陵一帯を指す。

「法輪寺」中宮寺からほぼ真北に八百二十メートルの位置にある聖徳太子所縁の寺。

「法起寺」中宮寺から東北に一・一キロメートルの位置にある聖徳太子所縁の寺。法隆寺の夢殿南門(大黒屋前)から実測すると凡そ一・六キロメートル。虚子の「斑鳩物語」で大黒屋に泊った主人公が翌日、小僧さんとアクロバットのように登り、お道と了然(りょうねん)の逢引きを見下ろすのが、ここの三重の塔である。

「僕はもうこれから二三年勉強した上でのことだが、日本に佛教が渡來してきて、その新らしい宗教に次第に追ひやられながら、遠い田舍のはうへと流浪の旅をつづけ出す、古代の小さな神々の佗わびしいうしろ姿を一つの物語にして描いてみたい。それらの流謫の神々にゐたく同情し、彼等をなつかしみながらも、新らしい信仰に目ざめてゆく若い貴族をひとり見つけてきて、それをその小説の主人公にするのだ。なかなか好いものになりさうではないか」……残念なことに、この壮大な零落してゆく神々の精神史をサブ・ストーリーとする貴種流離譚は、戦争と宿痾のために遂に作品に仕上げられることはなかったのである……。

「パストラアル」英語“pastoral”(パストラル)で、田園詩風の、牧歌的な、の意。]

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