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2015/05/09

譚海 卷之一 京師のすいはう・悲田兒の事

〇京都の方言に、くつはや・すまひとり・河原者のたぐひを、都(すべ)てスイハウと云(いへ)り。町屋のものは手拭(てぬぐひ)そめもやうあるを用(もちゐ)る事なし。スイハウの輩は色々に染(そめ)たるを用ひ、ほうかぶりにもする。手ぬぐひにてそれをわかつ事なり。又乞兒(こつじ)をヒデンジと號す。悲田院の傳訛(でんか)なるべし。京都の町ごとにヒデンジを養(やしなひ)て朝夕里閈(りかん)の掃除に供するなり。それゆへ壹町(いつちやう)の内にてかはるがはるヒデンジを飮食さするなり。今日我家にて食事をさすれば、明日は鄰家にて食事をあたふるなり。ヒデンジ壹町の内を家ごとに食をもらひて廻るなり。其家の庭にむしろをしき、それに坐せしめて、朝夕の食をくはする膳椀まで、皆別にまうけおきてやしなふ事なり。

[やぶちゃん注:この「ヒデンジ」については私は初めて知った。

「くつはや」轡屋(くつわや)で遊女屋を指す。特に、揚屋(太夫・格子などの上級遊女を呼んで遊ぶ家。江戸では宝暦(一七五一年~一七六四年)頃に廃れた)に対して遊女を抱えておく置屋(おきや)を指した。語源に就いては「日本国語大辞典」には三説を載せ、①『京都三筋町のい遊女町を開いた原三郎兵衛はもと秀吉の馬の口取りで、異名を轡といわれたので、遊女屋へ行くことを隠語で轡がもとへ行こうと言いなれたところから〔異本洞房語園・大言海〕』、②『伏見撞木町の町割が十字割で、轡の形をしていたので轡町と呼んだところから』〔俚言集覧〕及び同様に『大橋柳町に女郎屋があった時、十字割の町割をして轡丁と呼ばれたところから〔吉原大全〕』、③『遊女屋の亭主が遊女を使うのは、馬に轡をかけて使うように自在であるから〔類聚名物考〕』とある。

「すまひとり」相撲取。相撲(すもう)は古くは「すまひ/すまふ/すまう」と読み、語源は張り合う・抵抗するの意の古語の自動詞「争(すま)ふ」の連用形が名詞化したものである。京では奈良の昔から宮中の年中行事として「相撲(すまひ)の節会(せちえ)」があって、毎年七月二十六・二十七・二十八日に渡って、諸国から召し出された相撲人が天皇の面前で相撲を取って後に宴げを催した。二十六日に仁寿(じじゅう)殿で下稽古の内取りがあり、二十八日には紫宸(ししん)殿で召し合わせが行われ、そこで選抜された者が翌二十九日に「抜き出」という決勝戦を行なった。

「河原者」中世より牛馬の屠殺や皮革加工・染色・遊芸・造園などの職業に従事した人々を賤民視していった語であったが、この江戸時代は特に歌舞伎役者を卑しめて言った語である。河原乞食。

「スイハウ」「粋方(すいはう)」「粋法(すいはふ)」等とも書いた。原義は粋人、特に遊里の事に通じている粋な通人の意であるが、捌けた人・玄人から、次第にネガティヴな意が生じ、別称として芝居者・河原者のを生じ、遂にはゴロツキ・博奕打ちの意へと至った。

「乞兒」乞食の子というよりも、天涯孤独となった下層庶民の児童や他所から放浪して来た孤児といった感じである。標題には「悲田兒」とあるが、私はこれは元は「悲田寺」でであったのではあるまいかと考えている。

「ヒデンジ」仏教の慈悲の思想に基づいた貧しい人や孤児を救うために作られた施設である悲田院のこと。ウィキ悲田院によれば、『聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初とする伝承があり、敬老の日の由来の俗説の一つである(四箇院とは悲田院に敬田院・施薬院・療病院を合せたものである)』。『中国では唐代に設置されたものが、日本同様に社会福祉のはしりとして紹介される場合がある(収容型施設のはしりであることには間違いない)』。日本では養老七(七二三)年に『皇太子妃時代の光明皇后が興福寺に施薬院と悲田院を設置したとの記録があり(『扶桑略記』同年条)、これが記録上最古のものである。なお、興福寺の施薬院・悲田院と、光明皇后の皇后宮職に設置された施薬院・悲田院とを同一の施設とみる説と、両者は別個に設置されたものとみる説とがある』。『また、奈良時代には鑑真により興福寺にも設立された』とあり、『平安時代には、平安京の東西二カ所に増設され、同じく光明皇后によって設立された施薬院の別院となってその管理下におかれた』。『鎌倉時代には忍性が各地に開設し、以降、中世非人の拠点の一つとなった』。『現在は京都市東山区の泉涌寺の塔頭の一つとして悲田院がある。同院は平安京の悲田院の後身と伝えられる。このほか、上述の四天王寺のある大阪市天王寺区悲田院町(JR・地下鉄天王寺駅近辺)等、地名として残っているところもある』と記す。

「里閈」原義は村里の集落の入口にある門を指すが、転じて村里の意となった。巷間と同義であろう。]

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