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2015/06/08

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 築地精養軒での歓迎会 他

 大学当局は私に、天文観測所のすぐ裏にある小さな家をあてがってくれた。この家には部屋が二つと(その一つをドクタア・ビゲロウが占領する)大きな押入と、日本人の下僕と彼の神さんの居場所とがある。家の後が狂人病院で、我々は時々急性な狂人が発する鋭い叫声によって生気づけられる。狂人の歌を子守歌として、眠りにつくのである。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『東大の人々はモースとビゲローを歓迎し、在日中の宿舎として、本郷加賀屋敷にあった天象台(天文台)付属官舎の二室を無償で提供した。かつてモースが住んだ教師館五番館よりやや北にあった建物で、もともとは「観象台」と呼ばれていたが』、モースが離日していた明治一五(一八八二)年の『二月に気象台が分離し、この建物は「天象台」と改名されたのである』とある。

「狂人病院」当時、天象台の北、道を隔てた直近に東京府癲狂院(東京都立松沢病院の前身)があった。]

 

 約束がしてあったので、私の以前の車夫が、私を彼の家へ連れて行く可くやって来た。彼はこざっばりした身なりをしていて、私が彼を道案内として私自身の人力車で行くことを提言したのに、彼は断じて耳を傾けず、意気揚々私をのせて三マイルの路を走った。彼は尾張に住む父親に貰ったいい家を所有している。彼の神さんと娘は一番上等な着物を着ていて、菓子やお茶が出され、私は彼等の歓迎をうれしく思うことを示そうと努力した。お互の言葉を話さぬ者の間にあっては、会話は困難であるから、我我はお辞儀や微笑によって会話しなくてはならなかった。私は晩飯を食って行かぬかとすすめられたが、他の約束があるので、これは断った。

[やぶちゃん注:「三マイル」約四・八キロメートル。]

 

 今宵は精養軒で、日本の教授達が挙行して呉れた西洋式の晩餐会に列席した。ドクタア・ビゲロウもまた招かれた。彼等が私の旧友数名を招待したことを知った時の、私の驚きと悦しさは想像にまかせる。全部日本人で、出席者は三十二人、部屋を廻って一人ずつに挨拶した時、私は一人残らずの名前を覚えていたことを悦しく思った。ある日本人は、彼の英人教授と一年以上も交際しているのに、この英国人がいまだに彼の名前を正しく呼び得ないと語った! 私の以前の特別学生が、今や全部大学或は他の専門学校の教授になり、また私の助手だった人が一時的ならぬ博物館の役員となっているのは、うれしいことであった。外山教授が英語で歓迎の辞を述べ、報知新聞の藤田氏が日本語で演説した。また金子氏は彼の演説中、ドクタア・ビゲロウに言及する所があったので、ドクタアは答辞として、生れて初めての食後演説をやった。彼は、日本人が図画法と彩色法で、日本古来の方法によるべきことの、重大さと必要さとを力説した。この会は確かに私の経験中、最もたのしいものであった。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、これは明治一五(一八八二)年六月二十二日に行われたモース再訪の歓迎会で、築地精養軒(明治六(一八七三)年に築地采女町(現在の中央区銀座五丁目)に開業した「築地精養軒ホテル」)で催された。ホストは東京大学の外山正一・矢田部良吉・菊池大麓三教授で、随行者であったビゲローも公式に招待されている。臨席したメンバーは文部大輔(現在の文部次官)田中不二麿(ふじま)・東京大学法理文三学部綜理(初代)加藤弘之・東京大学綜理補浜尾新(あらた)・同服部一三(いちぞう)といった文部省及び東京大学関係者以外に、西周・福沢諭吉・箕作麟祥(官僚で法学者・教育者・啓蒙思想家。既注)・津田仙(つだせん:本邦に於ける西洋農学の先駆者で、キリスト者としても当時、「キリスト教界の三傑」と讃えられた。足尾鉱毒事件では田中正造を助け、農民救済運動に奔走、死に際して内村鑑三や新渡戸稲造らは追悼文を発表して仙の事業を讃え、仙を「大平民」と呼んだ。以上はウィキ津田仙に拠る)・神田孝平(たかひら:洋学者・政治家。兵庫県令・元老院議官・貴族院議員を歴任。民選論の理論家としても知られ、明六社に所属、東京学士会院会員。当時は元老院議官。以上はウィキ神田孝平に拠る)・立花種恭(たねゆき:学習院院長(初代))・など、旧交のあった錚々たる面々とモースの弟子たちで、磯野先生曰く、『いずれも明治時代に活躍した人々で、モースの交流の広さを改めて感じさせる顔ぶれである』とある。

「報知新聞の藤田氏」藤田茂吉(もきち 嘉永五(一八五二)年~明治二五(一八九二)年)。慶應義塾に学んだのち,明治八(一八七五)年に『郵便報知新聞』に主筆として入社、『東京日日新聞』の福地源一郎と対峙して民権論・国会開設論を展開、『郵便報知』の紙価を高めた。大隈重信の立憲改進党組織を援助し、同党の中堅幹部として活躍、後の明治二三(一八九〇)年七月の第一回衆議院議員総選挙に東京府第四区から出馬して当選、第二回総選挙でも当選して衆議院議員を通算二期務めた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」をベースに、ウィキ藤田茂吉の記載を追加した)。

「金子氏」金子堅太郎(嘉永六(一八五三)年~昭和一七(一九四二)年)は官僚・政治化。父は福岡藩士で藩校修猷館で学んだ。明治四(一八七一)年藩主黒田長知に随行して渡米、ハーバード大学で法律学を修めた。明治一三(一八八〇)年には元老院に出仕、権大書記官・首相秘書官等を勤め、明治憲法草案起草に参画、諸法典の整備にも尽力した。明治二十三年に貴族院書記官長・貴族院勅選議員。以後、第三次伊藤内閣農商務相、第四次伊藤内閣司法相を歴任、日露開戦時には米国に派遣され、外交工作に当たった。明治三九(一九〇六)年、枢密顧問官。晩年は臨時帝室編修局総裁・維新史料編纂会総裁として史料編纂に当たった(以上は国立国会図書館公式サイト内の近代日本人肖像」同人記載に拠った)。]

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