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2015/06/22

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一〇)

 
 
       一〇

 

 この怪奇な古寺には、その傳説がある。

 七百年前といふ事だ。大佛師の雲慶蘇生が死んだ。雲慶蘇生といふのは、冥途から蘇生した雲慶の意である。その譯は、雲慶が閻魔の前へ行つた時、靈魂の裁判官閻魔は、『生前、汝はおれの像を作らなかつた。今おれを見たからには、地上へ歸つて、おれの像を作つて見よ』と云つた。そこで雲慶は忽然人間界に戻された。前に彼を知つてゐた人々は、彼を見て驚いて、雲慶蘇生といふ名を附けたのである。運慶蘇生はいつも閻魔の顏を念頭に浮べつつ、この像を作つたから、今猶ほ看者に恐怖を與へる。彼はまたこの寺にある、獰猛な十王の像をも作つた。

 

 私は閻魔の畫を一枚購ひたかつたので、番人にその希望を通じた。畫を買ふことは出來るが、それよりも先づ鬼を見せるとのことであつた。私は番人に隨いて寺を出で、苔の生えた石段を下り、村の本道を越えて、一つの小舍に入つて床に腰をかけた。番人は障子の奥へ入つて、やがて鬼を引摺つてきた。裸で、血の如く赤く、醜惡を極め、高さ三尺許りのものである。棒を振り翳して、威嚇の態で立ち、圖々しい眼を持つて、頭は鬪犬の頭の如く、足は獅子のそれに似てゐる。番人が極めて眞面目にこの怪物をぐるぐる廻はして、私にそのあらゆる恰好を見せた。開いた戸の外には、無邪氣な群集が寄つて、異人と鬼を眺めてゐた。

 それから番人は、粗末な閻魔の木版繪に、經文の印刷してあるものを探して呉れた。私がその代を拂ふや否や、彼はそれに寺の印を捺すことに取りかかつた。印は驚くべき漆塗りの箱に納めて、柔皮で幾囘も卷いてあつた。それが解かれてから、私は印を調べてみた。長方形で、朱色の磨いた石に、凹彫で意匠が刻んである。彼は印の面を赤い墨で濡して、それを凄い畫の描いてある紙の一角に捺した。して、私の奇異な買物の證據は、永遠確實となつた。

 

[やぶちゃん注:私はこの章段がすこぶる附きで好きである。――奇っ怪な鬼の像を眺める奇っ怪な鬼のような異人の姿に見入る鎌倉の村人たち――私は大学一年の時、図書館でこの箇所を落合氏のこの訳で読んだ際、《その光景》が白昼夢の如く、渋谷の夕暮れの大学の図書館の閲覧室の中に《現前した》のを覚えているのだ。――私は《思い出した》のだ! 確かに《私はその場にいた》のだ! 私は何を隠そう、《その鬼と異人をおっかなびっくり見ている村人の中の一人》であったことを鮮やかに蘇らせていたのである!……

「七百年前といふ事だ。大佛師の雲慶蘇生が死んだ。……」本閻魔像(重要文化財指定)は像高百九十・五センチメートル。ここで新編鎌倉志卷之七の、「新居閻魔堂」の条と私の注を引いておく。この頃は未だ、由比ヶ浜にあった。

   *

〇新居閻魔 新居閲魔(あらゐのえんま)は、由比の濵大鳥居の東南にあり。新居山と號す。堂に圓應寺(えんわうじ)と額あり。開山は知覺禪師、建長寺の末寺なり。寺領は、建長寺領の内にて、三貫文を附す。別當は山伏(やまぶし)にて、寶藏院と云。堂に閲魔の木像あり。昔し運慶頓死して地獄に至り、直に閻魔王を見、蘇生して作たる像なりと云傳ふ。倶生神(ぐしやうじん)・奪衣婆(だつえば)〔俗に三途河(さんづがは)の姥(うば)と云ふ。〕の木像もあり。しかれども寛文十三年に此閻魔の像を修する時、腹(はら)の中より書付(かきつけ)出たり。建長二年出來、永正十七年再興、佛師下野法眼如圓、建長の役人德順判、興瑚判とあり。【建長寺維那(いの)帳】に、德順は明應七年、興瑚は永正五年の所に見へたり。【鎌倉年中行事】に、七月十六日、濵(はま)の新居の閻魔堂(えんまだう)、閻王寺と號す。應永大亂の時の亡魂御弔(とむらひ)の爲に、施餓鬼之事を、扇が谷海藏寺へ仰(をほ)せて修せらるとあり。源の成氏(しげうぢ)の時なり。

[やぶちゃん注:この新居閻魔堂は往古は由比の郷にある見越ヶ嶽(大仏東側の山)に建てられたと推定されるが(本文で開山を建長寺開山蘭渓道隆の弟子智覚大師とするが、これは建長寺落慶以前であり、智覚大師の事蹟とも合わず、信じ難い)、後に滑川の当時の川岸近く(現在の鎌倉市材木座五丁目十一番地付近)に移された。なお、その後、本書が刊行された貞亨二(一六八五)年から十八年後の、元禄十六(一七〇三)年十二月三十一日に発生した元禄大地震の津波によって当時の建物が大破し、翌年に建長寺門前の以前に建長寺塔頭大統庵があった場所(現在の鎌倉市山之内の円応寺)に移転している。

「寛文十三年」は西暦一六七三年。

「建長二年」は西暦一二五〇年であるが、先に示したようにこの造立時期は容易には信じ難い。

「永正十七年」は西暦一五一二年。この年の「再興」とは、明応七(一四九八)年八月二十五日に発生したマグニチュード8を越えるとも言われる東海道沖大地震による津波被害を受けてのことかと思われる。二〇一一年九月の最新の研究によれば、この時、鎌倉を推定十メートルを超える津波が段葛まで襲い、高徳院の大仏殿は倒壊、以後、堂宇は再建されずに露坐となったとも言われている。この時、伊勢志摩での水死者が一万人、駿河湾岸での水死者は二万六千人に上ったと推定されている。

「應永大乱」は、室町時代、応永六(一三九九)年、旧鎌倉幕府御家人であった守護大名大内義弘が室町幕府第三代将軍足利義満に対して反乱を起こし、堺に籠城の末に滅ぼされた一件を言う。この時、第三代鎌倉公方足利満兼は同心して討幕軍を進めたが、当時の関東管領上杉憲定に諌められて中止、戦後に義満に謝罪している。

「源の成氏」足利成氏。第五代鎌倉公方。永享の乱で自害した第四代鎌倉公方持氏の遺児で満兼の孫に当たる。

 なお私は円応寺というと、十王の一人初江王の裳裾の躍動感もさることながら、同じく国宝館に展示されている人頭杖が頗る附きで大好きだ。これは倶生神の持物とされ、杖の柄の部分鍔のような大きな円盤の上に、恐ろしい三眼の忿怒相の鬼神の首と妙齢の美女の首の二つが寄り合って載っている(一説に前者は泰山府君、後者は財利をもたらす弁財天の姉で、妹と反対に喪失神である暗闇天女とも言われるが、少なくとも前者はどう見ても違う感じがする)。私の記憶では、実はこの忿怒相の首が亡者の生前の善行を、可愛い(しかし如何にも冷たい眼をした)女の首が悪行を語るはずである。バーチャル・リアリティみたような浄玻璃何かより、こっちの方が断然、いいね!

最後に。円応寺の閻魔の首と言えば、私は、この元禄十六(一七〇三)年の津波から程ないことかと思われる、鎌倉の昔話として伝わる、あるエピソードが忘れられぬ。

――津波に襲われ、辛うじて閻魔像の首だけが残った閻魔堂跡の掘っ立て小屋。

――供僧がせめてもと、閻魔像の首を横に渡した板の上に置き、香華などを供えて祀って御座った。

――ふと覗いた旅の男、

「こりゃ面白れえ! へッ! まるで閻魔の首級の晒首じゃ!」

と、呵々大笑して去っていく。……

――蔭で聞いていた供僧、おずおずと閻魔の前に進み出でると、

……かくなる理不尽なる物言い……閻魔大王様……さぞかし、御無念、御腹立ちのことと……存じまするッ……

と泣きながら呻くように申し上げた――――

――閻魔の首が答えて言った。

「腹もなければ腹も立たぬ」――

……お後がよろしいようで……

   *

以上で概ね語り尽くしているが、駄目押しで附すと、ウィキ寺」の閻魔像の記載に、『現存する像は頭部のみが鎌倉時代の作で、体部は江戸時代のものに変わっている。運慶作との伝えもあるが』、当寺の創建とされる建長二(一二五〇)年には既に『運慶は没しており、伝承にすぎない。関東大震災後にも像の補修が行われている』とある。但し、「鎌倉市史 社寺編」(吉川弘文館昭和三四(一九五九)年刊)には、十王像の内、非常に優れた造形を示す初江(しょこう)王は建長三年の運慶の系統を引いたことが確認されている鎌倉仏師幸有(こうゆう)の作であることが判明しており、運慶ではないにしても、その流れを引く者の手になることは間違いない(円応寺に現存するものではこの閻魔王・俱生神(ぐしょうしん)・鬼卒(後注)・人頭杖(前の引用に出る)が鎌倉時代の作で、他は新しいとされる)。ウィキには更に、『像の表情が笑っているようにも見えるため「笑い閻魔」とも呼ばれる。また参拝客の子供を食べたという伝承から、別名「人食い閻魔」とも呼ばれる。「笑い閻魔」・「人食い閻魔」と呼ばれる由縁についてはそれぞれ伝承が残っている』とし、「笑い閻魔」については、『運慶が死んで地獄に落ちたが、閻魔大王に「生き返らせてやるから自分の像を作れ」といわれ蘇生した。生き返った運慶が笑いながら彫ったため、閻魔像も笑っているような表情になった。このため、この閻魔像は笑い閻魔と呼ばれるようになった』とあり、また「人食い閻魔」の方は、『円応寺がまだ滑川沿いにあった時、閻魔像は瘧を直すご利益があるとされ信仰を集めていた。ある日瘧にかかった子供を連れ、親が「この子の願いを聞いてください」と願ったところ、「この子を召し上がってください」と聞き違えて子供を食べてしまった』と記す。なお、落合氏が「雲慶」と表記していることについて、とやかく言う必要はない。この表記違いはしばしば見られるもので、ウィキの「運慶」には、治承四(一一八〇)年の『兵火で主要伽藍を焼失した東大寺復興造仏には、康慶を中心とする奈良仏師が携わって』おり、建久五(一一九四)年から『翌年にかけて、東大寺南中門二天像が造立されたが、このうち西方天担当の小仏師として「雲慶」の名が記録にみえる』とある。

「先づ鬼を見せる……」堂守の自宅の奥から引き出されたこの鬼の立像は、やや総高が高いものの――「三尺」(九十センチメートル)とあるが、原文は“three feet”で九十一センチメートル――恐らくは円応寺蔵で現在は鎌倉国宝館寄託となっている重要文化財指定の木造鬼卒立像であろう。因みにこの鬼卒像の高さは七十九・一センチメートルである。私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之七」の「新居(あらゐの)閻魔堂」の条の附図の脱衣婆の右に立つのがそれである。グーグル画像検索「鬼卒立像でも一発で分かる(因みにそこに出る絵はまさに私の上記リンク先の絵なのである)。]

 

Sec. 10

 

Now this weird old temple has its legend.

Seven hundred years ago, 'tis said, there died the great image-maker, the great busshi; Unke-Sosei. And Unke-Sosei signifies 'Unke who returned from the dead.' For when he came before Emma, the Judge of Souls, Emma said to him: 'Living, thou madest no image of me. Go back unto earth and make one, now that thou hast looked upon me.' And Unke found himself suddenly restored to the world of men; and they that had known him before, astonished to see him alive again, called him Unke- Sosei. And Unke-Sosei, bearing with him always the memory of the countenance of Emma, wrought this image of him, which still inspires fear in all who behold it; and he made also the images of the grim Jiu- O, the Ten Kings obeying Emma, which sit throned about the temple.

I want to buy a picture of Emma, and make my wish known to the temple guardian. Oh, yes, I may buy a picture of Emma, but I must first see the Oni. I follow the guardian Out of the temple, down the mossy steps, and across the village highway into a little Japanese cottage, where I take my seat upon the floor. The guardian disappears behind a screen, and presently returns dragging with him the Oni—the image of a demon, naked, blood-red, indescribably ugly. The Oni is about three feet high. He stands in an attitude of menace, brandishing a club. He has a head shaped something like the head of a bulldog, with brazen eyes; and his feet are like the feet of a lion. Very gravely the guardian turns the grotesquery round and round, that I may admire its every aspect; while a na´ve crowd collects before the open door to look at the stranger and the demon.

Then the guardian finds me a rude woodcut of Emma, with a sacred inscription printed upon it; and as soon as I have paid for it, he proceeds to stamp the paper, with the seal of the temple. The seal he keeps in a wonderful lacquered box, covered with many wrappings of soft leather. These having been removed, I inspect the seal—an oblong, vermilion-red polished stone, with the design cut in intaglio upon it. He moistens the surface with red ink, presses it upon the corner of the paper bearing the grim picture, and the authenticity of my strange purchase is established for ever.

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