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2015/06/18

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(三)・(四)

          三

 

 『今度は大きな鐘を見物に行きませう』と、晃が云つた。

 私共は、山を切り開いた兩側が、七八尺崖壁を成して、靑苔蒸々たる間を登つて、左に折れ、非常に頽廢せる石段に達した。隙間毎に草が萌え出で、數知れぬ人の足に蹈まれた石は磨滅破壞して、登つて行くに困難どころか、危險にさへ見えたが、無事絶頂に着いて、一つの小堂の前に來ると、待つてゐた老僧が微笑を浮かべて歡迎の禮をした。私共はこれに挨拶の禮を返へした。が、堂に入るに先だつて、轉じて、右方にある有名な鐘を見ることにした。

 彎曲(そり)を打つた支那風の尾根を有する、高い開放しの小舍の下に、その大鐘は懸垂してゐる。私の判斷によると、高さは優に九尺、經約五尺、口の厚約八寸とせねばならぬ。形は口の方ほど廣がつて行く西洋の鐘と違つて、これは全長を通じて同徑を有し、滑かな表面には佛經の文句が刻んである。鳴らすのには屋根から鎖で吊つて、攻城槌の如く動かさるゝ、重く搖れる撞木を用ひる。撞木を引くために棕櫚の弶(わな)がついてゐて、十分搖れるやう、その弶を引けば、撞木は鐘の側面に刻せる蓮華の如き型を打つ。それを幾百囘も打つたことであらう。撞木の四角な扁平の端は、頗る密なる木理を示してゐるが、摺り減されて、緣はぼろぼろで、圓盤になつてゐる。恰も活版工が多年使用した木槌の面のやうだ。

 僧が鐘を打つやう私に合圖をした。私は先づ手で軽く鐘唇を觸つて見た。すると、音樂的の囁きが響いた。それから私は強く撞木を搖がした。して、雷のやうに深く、大風琴の 低音の如く豐富な、素ばらしく太い、しかも美くしい音が、山々に響き渡つた。それから急にもつと細く、もつと美くしい音が傳はつて行つた。更にまた他の音が起る、それからは、反響の浪が渦卷いて行つた。たゞ一たび打たれたこの驚くべき鐘は、少くとも十分間、呻吟嗚咽を續けた。

 して、この鐘は六百五十年を經てゐる。

 

[やぶちゃん字注:以下の「註」は底本では全体が四字下げでポイント落ちである。]

 

註 私がこの章を書いた頃、今から約三年前には、私はまだ京都や奈良にある巨大なる鐘を見てゐなかつた。

 日本最大の鐘は、淨土の宗の巨刹、京都知恩院の境内に懸つてゐる。參詣者がそれを鳴らすことを許してない。紀元千六百二十三年の鑄造で、重さ七十四噸、本式にそれを鳴らすのには、二十五人を要するのだといふ。その次に位するのは、京都大佛殿の鐘で、參詣者は少許の賽錢を納めて鳴らすことが出來る。紀元千六百十五年の鑄造で重さ六十三噸。奈良東大寺の鐘は、第三者に位するけれども恐くは最も興味多いものであらう。高さ一丈三尺六寸、徑九尺。だから、京都の鐘に劣るのは、外形の大きさよりも、寧ろ重さと厚さの點である。重量三十七噸、紀元七百三十三年の鑄造で、即ち千百六十年を經てゐゐ譯だ。參詣者は金一銭を納めて一囘それを鳴らす。

 

 近くの小堂で、僧が鐘の鑄造六百年祭を描いた一聯の畫を私共に見せて呉れた。(これは神聖の鐘で、神靈が宿つてゐると信ぜられてゐるから)それ以外にはこの堂は、たゞ殺風景なものであつた。家康とその臣下を畫いた掛物と、内外陣を隔つる戸の兩側に、古風な服装せる武士の、實物大の像があつた。内陣の檀には、賦彩木造の小風景の上に、辨財天女の十五童子の小像が並んで、御幣と鏡――神道の象徴――があつた。この祠堂は佛寺の大移換の際に、神道の方へ移つたのである。

 大抵有名な寺では、その緣起と不思議な傳説をしるした小冊類を賣つてゐる。私はこゝでも寺の玄關で、この種のものが賣られてゐるのを見た。その一つは、鐘の畫で飾られたもので、私は晃の補助によつて、次のやうな傳説をそれで知つた。

 

[やぶちゃん注:建長寺・常楽寺の鐘とともに鎌倉三明鐘の一つである国宝円覚寺鐘である。円覚寺開基北条時宗の子、貞時が正安三(一三〇一)年に国家安泰を祈願して寄進したものである。「鎌倉市史 考古編」(昭和五四(一九七九)年吉川弘文館刊)には本寺の略縁起によれば、『貞時は住僧西淵』(正式くは西澗子曇(せいかんすどん))『と相談し西淵の教に従って江島弁財天に祈請したところ不思議の示現をうけ、宿竜池』(本寺塔頭正続院内の池で開山無学祖元が来朝したその折り、彼が乗った船を龍が護り送ったとされ、その龍がこの池に止まったとする伝承がある)『の水底かをさぐったら一塊の金銅を得たので感激にたえず、遂にこの銅を使って鋳鐘に成功したという。大工は建長寺鐘を鋳た巨匠物部重光の三代目国光である。彼の作品中最大のものであり、又最後のものである』とある。「七八尺」二・二~二・四メートル。

「小堂」鐘楼のすぐ脇にある弁天堂。円覚寺公式サイトの「境内案内」の解説に『屋根の勾配や軒の反りの美しさが特徴で、特に屋根の軒下から出ている上の段の垂木たるきは、扇子の骨のように広がっており、「扇垂木」とよばれています。これが屋根を一層大きく、建物全体を小さいながらも壮大に見せています』とある。

「高さは優に九尺、經約五尺、口の厚約八寸」「經」はママ。「九尺」は二・七二メートル、「五尺」は一・五二メートル、「八寸」二四・二センチメートルであるが、実寸は前掲の「鎌倉市史 考古編」によれば、総高二・五九五メートル、口径一・四二メートル、厚さは一四・五センチメートルである。

「攻城槌」「こうじやうつち/つい(こうじょうつち/つい)」と読んでいるか。破城槌(はじょうつい)のこと。城門を突き破るための攻城兵器の一つ。最も古い形は木を切り倒して枝を掃った丸太状のものを数人から数十人で両側から抱え持って城門に突進し、何度もぶつけるタイプのものである。

「弶(わな)」原義は鳥や獣を獲るために弓や網を張るの意であるが、ここは撞木を引くための輪になった(それが原義の仕掛けに似ているからか)棕櫚繩をそれに譬える形で述べたものであろう。

「木理」「もくり」或いは「もくめ」(木目)と訓じているかも知れない。

「鐘唇」「しやうしん(しょうしん)」か。原文は“the great lips”で、これは鐘の最下方の外縁部分を指しているものと思われる。

「圓盤」原文は“a convex disk”。凸レンズ状の円盤。私の敬愛する平井呈一氏(一九七五年恒文社刊「日本瞥見記」)の訳では『中高な坊主』と訳しておられる。言い得て妙の名訳である。

「大風琴」巨大なオルガンであるが、パイプ・オルガンをイメージした方がしっくりくる。

「この鐘は六百五十年を經てゐる」と述べているが、この明治二三(一八九〇)年からならでは一九五一年になってしまっておかしい。実際の鋳鐘からなら五百八十九年前である。「六百五十年」前は一二四〇年(延応二・仁治元年)になって、円覚寺の創建である弘安五(一二八二)年の更に七十八年も前になる。何かの誤解というよりも、通訳した晃が元号の西暦換算を誤ったものかも知れないと思ったが、実はここに附された原注には『僧が鐘の鑄造六百年祭を描いた一聯の畫を私共に見せて呉れた』とあるのが、また不審で、もしかすると当時は年号計算がいい加減であったのかも知れない。

「日本最大の鐘は、淨土の宗の巨刹、京都知恩院の境内に懸つてゐる」現在の京都市東山区にある知恩院の釣鐘は同じく東山区にある方広寺及び奈良の東大寺と並んで「日本三大梵鐘」とされ、総高三・三メートル・直径二・八メートル・重量約七十トンと、現存する日本の梵鐘の中では最大級ではあるが、最大ではない(大鐘楼として一九九七年に国重要文化財指定)。

「紀元千六百二十三年の鑄造」不審。鐘の鋳造は寛永一三(一六三六)年である(大鐘楼の方は延宝六(一六七八)年の建立)。

「京都大佛殿の鐘」「大佛殿」は方広寺の通称。慶長一九(一六一四)年、豊臣秀頼の命によって京都三条釜座の名古屋三昌により再鋳されたもの。総高四・二メートル・直径二・八メートル・重量八十二・七トン(重要文化財)。梵鐘の銘文中の「君臣豐樂」「國家安康」が家康を分断して徳川家を冒涜するものと讒言曲解され、大坂冬の陣への契機となったことで知られるいわくつきの鐘である。

「紀元千六百十五年の鑄造で重さ六十三噸」孰れも不審。特に重量は誤差がひどい

「奈良東大寺の鐘」大仏開眼供養の前年である天平勝宝三(七五一)年の鋳造と伝えられる。総高三・八五メートル・直径二・七メートル・重量約二十六トン。

「高さ一丈三尺六寸、徑九尺」「重量三十七噸」総高四・一二メートル・直径二・七メートルで総高と重量がおかしい

「紀元七百三十三年の鑄造」これは恐らく、同寺の記録「東大寺要録」にある、東大寺が若草山麓に天平五(七三三)年に創建された金鐘寺(又は金鍾寺(こんしゅじ)とも)を前身とするとあるのを鐘の鑄造時期と誤認したものであろう(ウィキの「東大寺」に拠った)。

「この祠堂は佛寺の大移換の際に、神道の方へ移つたのである」「佛寺の大移換」は慶応四(一八六八)年の太政官布告、通称「神仏分離令」などの施行によって引き起こされた、おぞましい廃仏毀釈のことを指すが、現在、弁天堂は円覚寺の所属に戻っている。]

 

Sec. 3

'Now we shall go to look at the big bell,' says Akira.

We turn to the left as we descend along a path cut between hills faced for the height of seven or eight feet with protection-walls made green by moss; and reach a flight of extraordinarily dilapidated steps, with grass springing between their every joint and break—steps so worn down and displaced by countless feet that they have become ruins, painful and even dangerous to mount. We reach the summit, however, without mishap, and find ourselves before a little temple, on the steps of which an old priest awaits us, with smiling bow of welcome. We return his salutation; but ere entering the temple turn to look at the tsurigane on the right— the famous bell.

Under a lofty open shed, with a tilted Chinese roof, the great bell is hung. I should judge it to be fully nine feet high, and about five feet in diameter, with lips about eight inches thick. The shape of it is not like that of our bells, which broaden toward the lips; this has the same diameter through all its height, and it is covered with Buddhist texts cut into the smooth metal of it. It is rung by means of a heavy swinging beam, suspended from the roof by chains, and moved like a battering-ram. There are loops of palm-fibre rope attached to this beam to pull it by; and when you pull hard enough, so as to give it a good swing, it strikes a moulding like a lotus-flower on the side of the bell. This it must have done many hundred times; for the square, flat end of it, though showing the grain of a very dense wood, has been battered into a convex disk with ragged protruding edges, like the surface of a long-used printer's mallet.

A priest makes a sign to me to ring the bell. I first touch the great lips with my hand very lightly; and a musical murmur comes from them. Then I set the beam swinging strongly; and a sound deep as thunder, rich as the bass of a mighty organ—a sound enormous, extraordinary, yet beautiful—rolls over the hills and away. Then swiftly follows another and lesser and sweeter billowing of tone; then another; then an eddying of waves of echoes. Only once was it struck, the astounding bell; yet it continues to sob and moan for at least ten minutes!

And the age of this bell is six hundred and fifty years. [2]

In the little temple near by, the priest shows us a series of curious paintings, representing the six hundredth anniversary of the casting of the bell. (For this is a sacred bell, and the spirit of a god is believed to dwell within it.) Otherwise the temple has little of interest. There are some kakemono representing Iyeyasu and his retainers; and on either side of the door, separating the inner from the outward sanctuary, there are life-size images of Japanese warriors in antique costume. On the altars of the inner shrine are small images, grouped upon a miniature landscape-work of painted wood—the Jiugo- Doji, or Fifteen Youths—the Sons of the Goddess Benten. There are gohei before the shrine, and a mirror upon it; emblems of Shinto. The sanctuary has changed hands in the great transfer of Buddhist temples to the State religion.

In nearly every celebrated temple little Japanese prints are sold, containing the history of the shrine, and its miraculous legends. I find several such things on sale at the door of the temple, and in one of them, ornamented with a curious engraving of the bell, I discover, with Akira's aid, the following traditions:-

 

2 At the time this paper was written, nearly three years ago, I had not seen the mighty bells at Kyoto and at Nara.

The largest bell in Japan is suspended in the grounds of the grand Jodo temple of Chion-in, at Kyoto. Visitors are not allowed to sound it. It was east in 1633. It weighs seventy-four tons, and requires, they say, twenty-five men to ring it properly. Next in size ranks the hell of the Daibutsu temple in Kyoto, which visitors are allowed to ring on payment of a small sum. It was cast in 1615, and weighs sixty-three tons. The wonderful bell of Todaiji at Nara, although ranking only third, is perhaps the most interesting of all. It is thirteen feet six inches high, and nine feet in diameter; and its inferiority to the Kyoto bells is not in visible dimensions so much as in weight and thickness. It weighs thirty-seven tons. It was cast in 733, and is therefore one thousand one hundred and sixty years old. Visitors pay one cent to sound it once.

 

       四

 

 文明十二年、この鐘が自(おのづか)ら鳴つた。この奇蹟を聞いて笑つたものは、災難にかかつたが、信じた人は、後、榮えてすべての願が叶つた。

 その頃、玉繩村に小野、君といふ人が病死して、幽冥界に下り、閻魔大王の前へ行つた。亡靈の判官、閻魔大王は、『まだこゝへ來るのが早過ぎる。娑婆界で與へられた命數が、まだ盡てゐない。すぐ歸れ』と云つた。が、小野君は『どうして歸れませう。暗い中を通つて、行く道がわかりません』と申開きをした。閻魔は答へて『南の方へ行つて、南閻浮提界で聞える圓覺寺の鐘の聲にたよれば、行く道がわかるだらう』と云つた。して、小野君は南へ行つた。すると、鐘が聞えて、暗い中を通つて道を發見し、娑婆界に蘇生した。

 また當時、誰も見た覺えもなく、また名を聞いたこともない巨大な佛僧、諸國に現れ、遍歷して到る處で、圓覺寺の鐘の前で祈願することを説いた。この巨大な巡禮僧は、鐘が不思議の力により、僧の姿に變つたものであることが最後にわかつて、多くの人々が鐘の前で祈つて、その願を成就した。

 

[やぶちゃん注:「文明十二年」西暦一四八一年。比較的新しく生じた伝承であることが分かるが、私は実は今、思い出せる限りでは、鎌倉関係の諸本中で、この伝承を読んだ記憶がない。

「小野、君」読点は不審。原文は“Ono-no-Kimi”であるから「小野の君」である。これは「小野ノ君」の「ノ」を小さく書いた原稿、即ち、「小野君」を読点と誤って植字し、校正で落したものではあるまいか?

 

Sec. 4

 

In the twelfth year of Bummei, this bell rang itself. And one who laughed on being told of the miracle, met with misfortune; and another, who believed, thereafter prospered, and obtained all his desires.

Now, in that time there died in the village of Tamanawa a sick man whose name was Ono-no-Kimi; and Ono-no-Kimi descended to the region of the dead, and went before the Judgment-Seat of Emma-O. And Emma, Judge of Souls, said to him, 'You come too soon! The measure of life allotted you in the Shaba-world has not yet been exhausted. Go back at once.' But Ono-no-Kimi pleaded, saying, 'How may I go back, not knowing my way through the darkness?' And Emma answered him, 'You can find your way back by listening to the sound of the bell of En-gaku-ji, which is heard in the Nan-en-budi world, going south.' And Ono-no-Kimi went south, and heard the bell, and found his way through the darknesses, and revived in the Shaba-world.

Also in those days there appeared in many provinces a Buddhist priest of giant stature, whom none remembered to have seen before, and whose name no man knew, travelling through the land, and everywhere exhorting the people to pray before the bell of En-gaku-ji. And it was at last discovered that the giant pilgrim was the holy bell itself, transformed by supernatural power into the form of a priest. And after these things had happened, many prayed before the bell, and obtained their wishes.

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