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2015/06/08

能の上演禁止について   萩原朔太郎

能の上演禁止について   萩原朔太郎

 

[やぶちゃん注:昭和一四(一九三九)年八月号『新日本』に発表され(初出では『(文化時評)』と副題する。当時、朔太郎五十二歳)、翌十五年十月河出書房刊の随筆集「阿帯」に所収された。因みに、作品集の序の最後にこの作品集の題名について触れ、『「阿帶(あたい)」といふのは「白痴者」といふことである。こんな文學をする以外に能もなく、無爲に人生の定年を過した私は、まさしく白癡者にちがひない』と結んでいる。調べて見たが、阿帯を白痴とする理由を見出し得なかった。識者の御教授を乞うものである。【二〇一五年六月八日 藪野直史】]

 

能の上演禁止について

 

 能の「大原御幸」が上演禁止になつた。あの蕭條たる山里の尼院の中で、浮世を捨てた主從三人の女が、靜物のやうにじつと坐つたまま、十數分もの長い間、物悲しくも美しい抒情の述懷を合唱する場面は、すべての能の中でも最も幽玄で印象に殘る場面であるが、今後再びそれが見られないと思ふと、永久に寶石を失つたやうな寂しさが感じられる。先には「蟬丸」が禁止になり「船辨慶」の一部が抹殺されたが、今後は皇室に關する一切の能を禁じ、長く廢演にするといふことである。するとさしづめ式子内親王をシテ役にした「定家」や、醍醐天皇とおぼしき帝の出給ふ「草子洗小町」やを初め、幾多の美しい傑作能が、今後舞臺から消滅することになるのであらう。

 警視廳の方の理由は、臣下たるものが皇族に扮し、娯樂興行物に演藝するといふのは、畏れ多く不敬のことだといふのである。成程一應はもつともの理由であるが、いささか杓子定規の役人思想が、世話の行きすぎをしたかとも考へられる。すべての物事は、法律的の言語概念で考へないで、深くその物の本質する精神から考へるのが大切である。娯樂演藝物とは言ひながら、能は歌舞伎や活動寫眞とはちがつてゐる。能は武家の式樂として、最も嚴重な格式の下に、長裃の儀禮を以て觀覽されたものである。これを見る者は將軍であり、大名であり、當時の貴族たる武士階級者であつた。平民階級の町人等には、かたく法律を以てその觀覽が禁じられた。それほど鄭重に儀禮を正して、莊重に演ぜられた式樂なのだ。今日もし市井の大衆劇や娯樂的の映畫劇で、皇室を主題とする如き物が現はれたら、あへて警察の令を待つ迄もなく、僕等が率先してその不敬を責めるであらう。だが觀客が皆禮服を着、儀式を正し、最敬禮を以て列座し、そして演藝そのものと演出者とが、最も嚴肅莊重なる精神を以てする舞臺に於て、たとひ皇室に關する場面があらうとも、一概に不敬呼ばはりをすることはできないだらう。勿論今日の能の觀客は、昔のやうに禮儀正しくはない。しかし能そのものの藝術精神は、依然として傳統のままに莊重な式樂であり、何等卑俗の娯樂性を持たないのである。況んや能は、五百年もの長い傳統を經た古典劇である。ニイチエも言ふ通り、人は幾度も繰返される劇に於ては、もはや筋やストーリイを見ようとしないで、もつぱら演技の形式だけを見るのである。「大原御幸」や「蟬丸」などの觀客は、シテが皇族であることなど意識しないで、單にそれが觀世左近であり、梅若萬三郎であることだけを見てゐるのである。警視廳の取締りが、映畫や現代劇にやかましく、時代劇や歌舞伎劇に比較的寛大だといふことも、おそらくこの同じ理由にもとづくにちがひない。新しく出來たナマのものは、臭氣の刺激性が甚だしい。しかし五世紀も經た骨董品に、今さら何の臭氣があらう。枯骨を叩いてその肉臭を探索し、今さらに事新しく公告するのは、却つて人心を惑はすことの愚になりはしないか。

 能を見て感心するのは、それが武家時代の創作であるにかかはらず、皇室に對して最善の敬愛を表してることである。人も知る通り、能は室町時代に完成した藝術であり、これのパトロンは足利義滿や義政の將軍だつた。日本の小學歷史では、足利氏一族を大逆賊のやうに教へるけれども、事實が必ずしもさうでないことは、能の舞臺を見てもわかるのである。能に出る皇族は、最高の敬意と尊嚴を以て扱はれ、常に將軍等の武士階級よりも上位に、崇高にして神聖なものとして敬はれてる。いやしくも不敬な態度や輕薄な精神を以て、皇室を取材した如きものはないのである。實に二千五百餘年來、中途に武家の專制時代を經てさへも、皇室に對する至誠の純情は、日本人の本能から拔きがたいものであつたことを、しばしば自分は能を見て思ふのである。

 日本人の忠君愛國思想が、支那や西洋のそれと根本的にちがふところは、皇室が我々の先祖であり、天皇が我等の眞の大御親におはしますといふことの、君臣一家族の親密な觀念にある。外國の君主國、特に古代支那やペルシアの東洋諸國では、強制的に君主が人民を威壓するため、天子は紫袍を着て金殿玉樓の高樓に坐し、臣下に對して奴隸的服從の忠節を強ひた。それらの國々では、君主は單に「恐ろしきもの」の表象であつた。そして何の慕はしきもの、親愛すべきものでもなかつた。然るに日本はちがつてゐた。古事記や萬葉集の昔から、我等は天皇を神として崇め奉つてゐたが、同時に血肉の親として、あらゆる日本人の慈父として、心情から慕ひまゐらせて居たのである。天皇と人民とが、いかに肉親的にしたしかつたかは、時にしばしば至上が諧謔を弄されたり、臣下と心おきなく遊宴されたりしたことの、古事記や萬葉集の文獻によつて明らかである。そしてかかる和氣藹々たる君主關係は、決して外國にはなかつたのである。

 ところで問題になつた能の多くは、皇室に對する人民の愛慕の情を、一層深めることはあつても、これに反する箇所はないのである。僕等は日本の古典史をよみ、不遇に崩ぜられた天皇の怨恨や憤怒を聞いて、逆賊に對する憎みと怒りを新たにするが、その人間的告白の故に、天皇への忠義心が變るやうなことは絶對にない。能を禁演する政府の眞意は、おそらくそれが娯樂物だといふだけではなく、ことに皇室に關することは、出來るだけ民衆の心に觸れさせたくないといふ意義に基くのだらう。果してもし然りとすれば、古事記、萬葉集、増鏡の類を初めとし、源氏物語等の古典文學に至るまで、遂に公演を禁じなければならないだらう。かくの如き施政は、古代のぺルシアや支那の如く、威嚇的君主制を強ひる國には好いかも知れないが、日本の如く君臣一體となつてる國では、却つて人民と皇室との關係を迂遠にし、いたづらに内容なき形式上の威壓感のみを、純情の民にあたへることになるであらう。特に「船辨慶」の如きは、平知盛の亡靈の臺詞中に、主上を始め奉り平家の一族西海の浪に漂ひ云々といふのが、娯樂物の故に不敬だと言ふのであるが、取締りも此處に至つては、少しく病的に神經質すぎると言はねばならぬ。

 さらに此處で提出される根本の疑問は、能が果して警察の定義の如く「娯樂物」といふ概念に適應されるか否かといふことである。能の如く、少數の教養人を觀衆とする高尚の古典藝術が、もし所謂「娯樂物」であるとすれば、ワグネルの音樂も、雪舟、大雅堂の美術も、はたまた僕等の書く詩や小説の純文學も、本質に於て皆廣義の娯樂物といふことになるかも知れない。いはゆる娯樂演藝と純藝術との相違は、僕等の常識が知る限りに於ては、結局つまり大衆演劇と能樂との區別にすぎない。故にこの問題を延長すれば、單に能樂ばかりでなく、藝術一般、文化一般に關する問題になる。政府はこの大きな文化問題に對し、どんな解釋を以て施政方針を取らうとするのか。さらに機を見てこれを質問したいと思ふのである。

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