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2015/06/20

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(五)

       五

 

 私共はまた大きな支那風の山門へ戻つた。

 「まだ見るものがあります」と私の案内者は叫んだ。して、前には樹木に隱れて見えなかつた小丘の方へ、別の路を通つて境内を越えて行つた。此丘は高百尺ほどの軟かな石の塊で、その側面は穿たれて洞室となつて、像が滿ちてゐる。洞室は塚穴の如く、像は墓碑のやうに見える。室内は二階になつて、上段に三室、下段に二室ある。上と下は自然の岩石の中を貫いた狹い楷梯で通じてゐる。して、是等の室内には、雫の滴る洞壁に沿つて、佛寺の墓の形をなせる灰色の石板が並んで、その面に佛像の高い浮彫が刻んである。皆悉く後光の圓盤を負つて、中には西洋の中世紀の塑像の如く無邪気で飾らないのもある。見慣れたのも幾つかある。私は久保山の墓地で、無數の影のやうな手を持つた、此跪坐せる女の像を見た。また冠冕を被り、片膝を揚げて、左手に頰をもたせて、眠れる――久遠平安の可憐な、この姿をも見た。聖母の如き他の諸像は、蓮華を持ち、 蛇のどぐろを卷いた上に立つてゐる。悉くは見えない。一つの岩洞の天井は下へ墜込んで、廢墟に洩れる日光は、岩層の中に半ば埋れて、近寄難い彫像の群團を示すばかりだ。

 が、この洞室は墓地ではない。是等の諸像は私の想像したやうな墓碑ではなく、慈悲の女神の像なのだ。洞室は禮拜堂で、像は圓覺寺の百觀音である。上段の室の壁龕には、一枚の花崗石に『南無大慈大悲觀世音、瞰視諸願音』といふ梵文が、漢字で書いてあつた。

[やぶちゃん字注:以下の注は底本では全体が四字下げ。「アヴローキテーシユワラ」は「阿縛盧枳帝疾伐羅」のルビ、「(觀自在)」は本文。]

註 梵語にて、阿縛盧枳帝疾伐羅(アヴローキテーシユワラ)(觀自在)。日本の觀世音は支那の處女神、觀音と起原が同一である。佛教ではこれを印度のアヴローキテーシユワラの化身として採つたのである。【アイテル氏著「支那佛教提要」参照】しかし、日木の觀音は、すべて支那的特性を失つて、藝術的に日本婦人に於ける一切の最も美はしいものの理想的表現となつた。

 

[やぶちゃん注:ここでハーンが見た景観は最早、我々は見ることが出来ない。現在、円覚寺方丈の庭園の、入って左側に「百観音」として、残存遺物が並べられてある。その案内板によれば、『江戸時代、拙叟尊者が境域に岩窟をうがって百体の観音像を祀ったことに由緒を発する。その後荒廃したが、明治二十一年洪川(こうせん)禅師が発願して西国三十三体の観音像を新たに刻み、補陀落迦観自在窟(ふだらかかんじざいくつ)と名つけて境内の一部に安置した。昭和五十八年この地に移し多くの人々に参詣して頂くことになった』とある。「鎌倉攬勝考」に載らず、「新編相模国風土記稿」も管見したところ、見当たらぬことから、江戸末期には相当に荒廃して少なくとも観音霊場としては機能せず、大方忘れ去られていたものと思われ、しかも位置が明らかでない。というより、このハーンの叙述だけが、この「補陀落迦観自在窟」の所在を知る手掛かりと言えるのではなかろうか? まず、彼らは「また大きな支那風の山門へ戻つ」ている。そこから「前には樹木に隱れて見えなかつた小丘の方へ、別の路を通つて境内を越えて行つた」とある。この叙述は、「別の路」にポイントがある気がする。円覚寺は山門を挟んで左右に通路はあるが、左手の通路はそのまま直進すれば、現在は方丈の所で右手の通路が合流する。この合流路は当時もあったと考えてよいと思う(「二」の最後を参照)。とすれば、ここに繋がることが容易に視認出来る道をハーンが「別の路」と言うはずがない。しかも彼は「境内を越えて行つた」と表現している。この「別の路を通つて越えて行つた」というのは、山門前を横切って北西に横切って、十王堂の右から急坂を登って行く諸塔頭へのルートを指していると読む(藪野家の菩提寺は円覚寺の白雲庵であることから私は円覚寺の地形には詳しいのである。但し、私はこの墓には入らない。母と同じく慶応大学医学部に献体しており、母の眠る多磨霊園にある同医学部合葬墓に入る)。さすれば、この「補陀落迦観自在窟」というのは、この道を登った先の、塔頭松嶺院の裏手崖上か或いは富陽庵・伝宗庵・白雲庵・雲頂庵の塔頭境内域に存在したと考えられるのである。

「百尺」三十メートル。上記の塔頭の内、富陽庵・白雲庵・雲頂庵の背後はこの高さに一致し、少なくとも白雲庵の奥はまさしく鎌倉固有の墳墓・供養墓形式である「やぐら」で知られる通り、柔らかな鎌倉石と呼称される特徴的な凝灰質砂岩「軟かな石の塊」で出来ている。

「久保山の墓地」神奈川県横浜市西区元久保町にある久保山墓地。ウィキの「久保山墓地」によれば、明治七(一八七四)年に当地にある大聖院・林光寺・常清寺の三寺の土地が主になって造られた。現在は主要部分は横浜市営であるが、隣接して入り混じっている寺院管理の墓地も総称して、こう呼ばれているとある。横浜外国人旧居留地(明治一〇(一八七七)年に事実上撤廃)から三・五キロメートル(野毛山の先)と近い。

「冠冕を被り、片膝を揚げて、左手に頬をもたせて、眠れる――久遠平安の可憐な、この姿」「冠冕」は「くわんべん(かんべん)」と読み、冕板(べんばん:長方形の板状の飾り。)をつけた冠のことで、本来は天皇や皇太子が大儀の際に着用した冠。上部に冕板載せ、その前後に五色の珠玉を連ねた糸状の飾りを垂らした。但し、ここは広義の荘厳のための冠の意である。このモースの見た半跏思惟する観音像――pok**hino*324氏の個人ブログ「地球のしずく」の勤行 2014年3月9日 北鎌倉巡礼 百観音の八枚目右にある、像をご覧あれ。これは三つ上の写真の右端のものと思われるが、如何にもハーンの述べたものとよく似ている。但し実は、三つ上の写真の右から四体目にも酷似した形らしい一体を現認出来る。孰れにせよ、この孰れかと考えてよいのではあるまいか? 今度、墓参した際には「聖母の如き他の諸像は、蓮華を持ち、 蛇のどぐろを卷いた上に立つてゐる」ものもあるかどうか探して、写真を撮って来て、お見せしようと思う。

「壁龕」「へきがん」と読む。祭祀場所に設けられた壁の凹み。原文にある“niche”(ニッチ)は、ゴシック建築などに於いて聖像などを安置する幕屋構造の一部の呼称で、「壁龕」自体が、この訳語であるようだ。

「瞰視諸願音」「かんししようぐわんおん(かんししょがんおん)」と読む。「瞰視」は俯瞰、見おろすこと。あらゆる衆生の祈願の声を高みから遍く慈悲の眼を以って見おろしてそれを叶えて下さる妙音たるところのお方、といった謂いであろう(観音は視覚ではなく聴覚上の妙音自体が真正のシンボルである)。思わず、笑ってしまったが、ハーンの英文“who looketh down above the sound of prayer”の方が、現代日本人には遙かに分かり易いように読めるではないか?!

「阿縛盧枳帝疾伐羅(アヴローキテーシユワラ)(觀自在)」観音菩薩は正式には梵語で“Avalokiteśvara Bodhisattva”(アヴァローキテーシュヴァラ・ボーディサットヴァ)といい、観世音菩薩・観自在菩薩・救世(ぐせ)菩薩など多くの別名を持つ。参照したウィキ観音菩薩によれば、『梵名のアヴァローキテーシュヴァラとは、ava(遍く)+lokita(見る、見た)+īśvara(自在者)という語の合成語との説が現在では優勢である。玄奘三蔵による訳「観自在菩薩」はそれを採用していることになる』とある。

「支那の處女神、觀音と起原が同一である」やはり、ウィキ観音菩薩によれば、漢訳語「観音菩薩」という名称は前注の通り、『サンスクリット(梵語)のアヴァローキテーシュヴァラの意訳から生じたとする説が有力である。しかし、エローラ石窟群、サールナートなどインドの仏教遺跡においても観音菩薩像と思しき仏像が発掘されていることから、その起源は中国への仏教伝来よりも古いものとも考えられ、ゾロアスター教においてアフラ・マズダーの娘とされる女神アナーヒターやスプンタ・アールマティとの関連が指摘されている』とあるのであるが、ここで言う(ハーンではなく、アイテルの「支那佛教提要」での見解らしいが)「支那の處女神」というのは、ハーンはこれをネパールで信仰される生き神の少女「クマリ」(KumariKumari Devi)のことを暗にイメージしているのではあるまいか? ウィキクマリによれば、『密教女神ヴァジラ・デーヴィー、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーが宿り、ネパール王国の守護神である女神タレジュやアルナプルナの生まれ変わりとされており、国内から選ばれた満月生まれの仏教徒の少女が初潮を迎えるまでクマリとして役割を果たす』とある。

『アイテル氏著「支那佛教提要」』エルンスト·ヨハン·アイテル(Ernst Johann Eitel 一八三八年~一九〇八年)プロテスタントのドイツ人宣教師。中国生まれ。「支那佛教提要」(厳密には“Hand-book of Chinese Buddhism, being a Sanskrit-Chinese dictionary, with vocabularies of Buddhist terms in Pali, Singhalese, Siamese, Burmesi, Tibetan, Mongolian and Japanese; by Ernest J. Eitel.”)は香港で一八八八年刊行されている(“Hathi Trust Digital Library”」のページに拠る)。]

 

Sec. 5

'Oh! there is something still to see,' my guide exclaims as we reach the great Chinese gate again; and he leads the way across the grounds by another path to a little hill, previously hidden from view by trees. The face of the hill, a mass of soft stone perhaps one hundred feet high, is hollowed out into chambers, full of images. These look like burial- caves; and the images seem funereal monuments. There are two stories of chambers—three above, two below; and the former are connected with the latter by a narrow interior stairway cut through the living rock. And all around the dripping walls of these chambers on pedestals are grey slabs, shaped exactly like the haka in Buddhist cemeteries, and chiselled with figures of divinities in high relief. All have glory- disks: some are na´ve and sincere like the work of our own mediaeval image-makers. Several are not unfamiliar. I have seen before, in the cemetery of Kuboyama, this kneeling woman with countless shadowy hands; and this figure tiara-coiffed, slumbering with one knee raised, and cheek pillowed upon the left hand—the placid and pathetic symbol of the perpetual rest. Others, like Madonnas, hold lotus-flowers, and their feet rest upon the coils of a serpent. I cannot see them all, for the rock roof of one chamber has fallen in; and a sunbeam entering the ruin reveals a host of inaccessible sculptures half buried in rubbish.

But no!—this grotto-work is not for the dead; and these are not haka, as I imagined, but only images of the Goddess of Mercy. These chambers are chapels; and these sculptures are the En-gaku-ji-no-hyaku-Kwannon, 'the Hundred Kwannons of En-gaku-ji.' And I see in the upper chamber above the stairs a granite tablet in a rock-niche, chiselled with an inscription in Sanscrit transliterated into Chinese characters, 'Adoration to the great merciful Kwan-ze-on, who looketh down above the sound of prayer.' [3]

 

3 'In Sanscrit, Avalokitesvara. The Japanese Kwannon, or Kwanze-on, is identical in origin with the Chinese virgin-goddess Kwanyin adopted by Buddhism as an incarnation of the Indian Avalokitesvara. (See Eitel's Handbook of Chinese Buddhism.) But the Japanese Kwan-non has lost all Chinese characteristics,—has become artistically an idealisation of all that is sweet and beautiful in the woman of Japan.

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