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2015/07/22

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  建長寺


    
建長寺

建長寺は。巨福呂阪の道(みち)北に在り巨福山號す。鎌倉五山の第一なり。相摸守平時賴の建立に係る東鑑に建長五年十一月廿五日建長寺供養也。去る建長三年十一月八日に事始有て既に造畢すとあり。證とすべし。開山は寛元四年に來朝せし宋の大覺禪師、名は道隆蘭溪と號せし者なり。外門(そともん)二所。其の東外門に海東法窟。西外門には天下禪林と題せる額を掲く。共に崇禎元年十一月竹西書と署名せり竹西は朝鮮人なり。門外に金龍水あり。鎌倉五名水の一なり。總門には巨福山の額を表す。筆者詳ならす。或は曰く寧一山と。或は趙子昻(てうすこう)と。而して巨(こ)の字上の一畫(いつくわく)の下に一點を加て書したり。時人(じじん)褒美して。此額此點を加へて百貫の價を添(そへ)たりといひしより。百貫點と稱すといふ。門内左右に六株の白槇(びやくしん)あり。皆老樹にして左方中央に立る者。最も大、六席を容(い)るベし。蓮花の銅盤ありて水を吐けり。山門は箱棟茅葺にて白木作り。下邊(かへん)は左右各六本の柱にて見透(みとう)しなり。建長興國禪寺と二行に書したる大額を掲(かゝ)く。楠の一枚板にて縱九尺横六尺とす。宋僧子曇(しどむ)の筆と稱すれども。相摸風土記には勅額ならむとの説あり。太宰春臺の湘中紀行に。大門北爲樓門。署曰建長興國禪寺。宋僧子曇書。額扁甚長濶。今門不諸重屋間。覆而懸之樓下。仰而視之。若屋宇然。殆乎竟門。觀此乃知門故高大と記せり。實に此觀なきにあらず。樓上には十大羅漢ありしが。今は僅かに八體を存すといふ。七月十五日門下(もんか)にて施餓鬼會あり。終りて梶原施餓鬼といふを行ふよし。鎌倉志に傳説あれとも信するに足らず。佛殿には祈禱の牌を掛く。二重屋根銅瓦にて。殿は瓦疊(かはらたゝみ)なり。正面大蓮花の上に地藏菩薩、丈六の木造を安置す。之を濟田地藏といふ。蓋し濟田某の護持佛應行(おうげう)の作長一寸五分の小像を此(この)體中(たいちう)に藏(をさ)めしに由る。抑此地は古昔(むかし)刑塲にして。地獄谷(ぢごくがやつ)と字し。地藏の小堂あり。故に舊にて仍(よつ)て是を本尊とすと云格天井の群鳥は。狩野法眼(かのはうげん)の筆。欄間の天人は左甚五郎の作と稱す。右正面の格子内(うち)に太鼓と陣鐘あり。大皷は徑(わたり)五尺八寸胴一丈八尺。楠の一本木なり。皷皮(こひ)一面破ること尺許。導者云。近侍(きんじ)兵士(へいし)の惡戯(あくぎ)に係ると惜むべし。堂内には北條時賴の木像あり。束帶にて龕内(がんない)に坐せり。前牌に最明寺殿崇公太禪定門神儀と記す其の他德川家歷世(れきせい)當山歷世和尚の靈牌(れいはい)を列置す。

[やぶちゃん注:やや長いので、パートごとに注し、注の後を一行空けておいた。

「東鑑に建長五年十一月廿五日建長寺供養也。去る建長三年十一月八日に事始有て既に造畢すとあり」「吾妻鏡」の建長五(一二五三)年十一月二十五日の条に以下のようにある。

   *

廿五日庚子。霰降。辰尅以後小雨灌。建長寺供養也。以丈六地藏菩薩爲中尊。又安置同像千體。相州殊令凝精誠給。去建長三年十一月八日有事始。已造畢之間。今日展梵席。願文草前大内記茂範朝臣。淸書相州。導師宋朝僧道隆禪師。又一日内被冩供養五部大乘經。此作善旨趣。上祈 皇帝萬歳。將軍家及重臣千秋。天下太平。下訪三代上將。二位家并御一門過去數輩没後御云々。

やぶちゃんの書き下し文

廿五日庚子。霰(あられ)、降る。辰の尅以後、小雨灌(そそ)ぐ。建長寺の供養なり。丈六の地藏菩薩を以つて中尊と爲(な)し、又、同像千體を安置す。相州、殊に精誠を凝らさしめ給ふ。去ぬる建長三年十一月八日、事始(ことはじめ)有りて、已に造畢(ざうひつ)の間(あひだ)、今日、梵席(ぼんせき)を展(の)ぶ。願文の草は前大内記(さきのだいないき)茂範朝臣。淸書は相州。導師は宋朝僧道隆禪師。又、一日の内に五部の大乘經を冩し、供養せらる。此の作善(さぜん)の旨趣(しいしゆ)は、上は皇帝の萬歳(ばんせい)を祈り、將軍家及び重臣の千秋(せんしう)、天下の太平を祈り、下は三代の上將、二位家幷びに御一門の過去、數輩の没後を訪ひ御(たま)ふと云々。

   *

引用文中の「相州」は北条時頼、「三代」は源家三代の将軍、「二位家」は北条政子。

「寛元四年」西暦一二四六年。

「其の東外門に海東法窟。……」私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之四」の冒頭の部分に以下の額の図が総て載るので参照されたい。

「崇禎元年十一月竹西書」崇禎(すうてい)は明代最後の第十七代皇帝毅宗(崇禎帝)の治世中に用いられた元号。元年は西暦一六二八年に当たる。

「寧一山」「ねいいつさん(ねいいっさん)」と読む。一山一寧(いっさんいちねい 一二四七年~文保元(一三一七)年)のこと。台州臨海県(現在の浙江省台州地区臨海市)出身の臨済僧。来朝(「宋朝」は「來朝」の誤り)を正和二(一三一三)年とするが、前年の誤り。彼は又、「宋」からの渡来僧ではなく、過去の日本遠征(元寇)で失敗した元の第六代皇帝成宗が日本を従属国とするための懐柔策として送ってきた朝貢督促の国使としてであった。妙慈弘済大師という大師号も、そのために成宗が一寧に贈ったものである。以下、参照にしたウィキの「一山一寧」によれば、『大宰府に入った一寧は元の成宗の国書を執権北条貞時に奉呈するが、元軍再来を警戒した鎌倉幕府は一寧らの真意を疑い伊豆修禅寺に幽閉し』てしまう。『それまで鎌倉幕府は来日した元使を全て斬っていたが一寧が大師号を持つ高僧であったこと、滞日経験をもつ子曇を伴っていたことなどから死を免ぜられたと思われる』。『修善寺での一寧は禅の修養に日々を送り、また一寧の赦免を願い出る者がいたことから、貞時はほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した』。『幽閉を解かれた後、一寧の名望は高まり多くの僧俗が連日のように一寧の草庵を訪れた。これを見て貞時もようやく疑念を解き』、永仁元(一二九三)年の火災以降、衰退しつつあった『建長寺を再建して住職に迎え、自らも帰依した。円覚寺・浄智寺の住職を経』、正和二(一三一三)年『には後宇多上皇の招きにより上洛、南禅寺』三世となり、そこで没している。

「趙子昻」(一二五四年~一三二二年)元代第一流の能書家。

「白槇」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属で建長寺のものは、和名カイヅカイブキ(異名カイヅカビャクシン)Juniperus chinensis cv. Pyramidalis と思われる。成長が遅いが高木となり、赤褐色の樹皮が縦に薄く裂けるように長く剥がれる特徴を持つ。これが自己認識を解き放つことを目指す禅宗の教義にマッチし、しばしば禅寺に植えられる。

「六席」「席」は茣蓙・莚のことで、大人一人分の座る面積の六人分の謂いであろう。

「箱棟」は「はこむね」と読み、大棟(おおむね:屋根の頂部の水平な棟)を箱状に板で覆ったものを言う。

「縱九尺横六尺」縦幅二・七メートル、横幅一・八メートル。

「宋僧子曇の筆と稱すれども。相摸風土記には勅額ならむとの説あり」「子曇」は西澗子曇 (せいかんしどん 一二四九年~嘉元四(一三〇六)年)浙江省出身の南宋の臨済僧。文永八(一二七一)年の来日後に一度戻ったが、正安元(一二九九)年に先に出た一山一寧に随って再来日した。北条貞時に信任され、鎌倉の円覚寺・建長寺住持となった。書画をよくした。諡号は大通禅師。道号は「西礀」とも書き、法名は「すどん」とも読む(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。「相模国風土記稿」は恐らく、「鎌倉攬勝考卷之四」の本額の解説の、「額は、宸翰なれども、寺傳に其帝の尊號を、土人等是を宋朝の僧子曇が書なりといへるは、訛なるべし」とあるのに基づいて記したものか。ただ、この文章はやや意味が取り難い。「額は、宸翰なれども、寺傳に其帝の尊號を」の後に「傳へず、」或いは「記さず、」などの語の脱落が想起され、その後に「土人等是を宋朝の僧子曇が書なりといへるは、訛なるべし。」と続かないとおかしい。因みにこの「訛」は「あやまり」と訓じているものと思われる。

「太宰春臺の湘中紀行」既注。以下、引用部を我流で訓読しておく。

   *

大門が北、樓門たり。署して曰く、「建長興國禪寺」と。宋僧子曇が書。額扁、甚だ長濶たり。今は門、諸重の屋間に掛くること能はず、覆ひて樓下に之を懸く。仰ぎて之を視るに、屋宇(おくう)の若くして然り。殆んど、門に竟(おは)る。此れを觀れば此れ、乃ち門の故(もと)より高大なるを知る。

   *

何だかよく解らぬ。識者の御教授を切に乞う。

「終りて梶原施餓鬼といふを行ふよし。鎌倉志に傳説あれとも信するに足らず」「新編鎌倉志卷之三」(私の電子テクスト)建長寺の「山門」の条に、『又此門下にて、七月十五日に、梶原施餓鬼(かじはらせがき)と云ふを行ふ。相ひ傳ふ、昔、開山在世の時に、武者一騎來て、施餓鬼會の終りたるを見て、後悔の色有りて歸る。時に禪師これを見て、呼びかへさせて、又施餓鬼會を設けて聽(き)かしむ。時に彼の武者、我は梶原景時(かぢはらかげとき)が靈なりといひて謝し去る。爾(しか)しより以來、此寺には毎年七月、施餓鬼の會終て後(のち)、梶原施餓鬼と云ふを設くるなり。心経を梵音(ぼんをん)にて、二三人にて誦(よ)む。餘(よ)の大衆は無言にて行道するなり。是を此寺にて梵語心經と云なり』とある。

「瓦疉」甃(いしだたみ)のように床に瓦を敷き詰めてあることを謂うのであろう。

「丈六」既注であるが再掲する。仏像の丈量、背丈を示す基準。仏身は身長が一丈六尺(約四・八五メートル)とされることから仏像も丈六を基準とした(実際の造立時には等身大のそれ以外にこの丈六を基準五倍・十倍或いは、その二分の一などで造像された。坐像丈六像は半分の約八尺 (二・四三メートル)、半丈六像は約八尺の立像を言う。

「濟田地藏」同じく「新編鎌倉志卷之三」の建長寺の「佛殿」の条を引く。

   *

佛殿 祈禱の牌(はい)を懸けて、毎晨祈禱の經咒(きやうじゆ)怠らず。本尊地藏、應行(わうぎやう)が作。相ひ傳ふ、此の寺建立なき以前、此の地を地獄谷(ぢごくがやつ)と云ひ、犯罪の者を刑罰せし處なり。平の時賴の時代に、濟田(さいた)と云ふ者、重科に依りて斬罪に及ぶ。太刀とり、二(ふた)大刀まで打てども切れず。刀を見れば折れたり。「何の故(ゆゑ)かある」と問ひけるに、濟田、荅(こた)へて曰く、「我れ、平生地藏菩薩を信仰して常に身を放たず。今も尚髻(もとど)りの内に祕す」と云ふ。依つてこれを見れば、果して地藏の小像あり。背(せなか)に刀(かたな)の跡あり。君臣、歎異して、則ち濟田が科(とが)を赦(ゆる)す。濟田、此の地藏を心平寺の地藏の肚中(とちう)に收(をさ)むとなり。此の寺草創の時、佛殿の地藏の頭内に移す。長(たけ)一寸五分、臺座ともに二寸一分、立像の木佛(もくぶつ)なり。背(せなか)に刀(かたな)の跡ありと云ふ。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

文中に出る「心平寺」とは地獄谷刑場にあった鎮魂のための地蔵菩薩を本尊とした禅宗寺院で、建長元(一二四九)年創建と伝え、本尊と建立地から見れば、建長寺のプロトタイプとも言える寺である。小袋坂上に移り、小袋坂新道開通前までは本寺の名残である地蔵堂があった。現在は横浜三溪園内に移築しされて現存する。

「長一寸五分」像高四・五センチメートル。

「格天井の群鳥」「格天井」は「ごうてんじやう(ごうてんじょう)」、和様式の格子状になったもので、中央部分が折り上げとなっている(禅宗では大陸の様式に則り、仏殿は平板な鏡天井で龍などの絵を描くことが多いから、本尊を地蔵とすることに加え、この仏殿はかなり特異と言える)。金箔押しの鳳凰らしきものが描かれているが、現在は剥落が著しい。

「狩野法眼の筆」不詳。現在のデータにはない。

「欄間の天人は左甚五郎の作」これも現在は特に名指されていないように思われる。

「太鼓」と「大皷」の相違はママ。

「徑五尺八寸胴一丈八尺」太鼓の直径一メートル七十五センチ七ミリメートル、胴部分の長さが五メートル四十五センチ四ミリメートル。

「德川家歷世當山歷世和尚の靈牌を列置す」後で出るように、この仏殿は寛永年間に久能山に建立した徳川家の御霊屋(みたまや)の拝殿を正保三(一六四六)年に譲りうけて移築したものである。移建はかの沢庵宗彭の肝煎りとされる(以上は「鎌倉市史 社寺編」に基づく)。]

 

鎌倉志に建築當時の簗碑銘を載せたり。

[やぶちゃん字注:以下の簗碑銘は底本では全体が一字下げ。]

左の方

今上皇帝。千佛埀レ手扶持。諸天至レ心擁護。長保二南山壽一。久爲二北闕尊一。同三胡越於二一家一。通三車書於二萬國一。正五位下行相摸守平朝臣時賴敬書。

右の方

伏願三品親王征夷大將軍。干戈偃息。海晏河淸。五穀豐登。萬民康樂。法輪常轉。佛日增輝。建長五年癸巳十一月五日。住持傳法宋沙門道隆謹立。

[やぶちゃん注:「鎌倉志に建築當時の簗碑銘を載せたり」「新編鎌倉志卷之三」の建長寺の「梁牌銘」で示した私の訓読文(影印本の訓点に拠る)を以下に示す。

   *

【梁の左の箇所】

今上皇帝、千佛手を垂れて扶持し、諸天心を至して擁護す。長く南山の壽を保ち、久しく北闕の尊と爲る。胡越を一家に同じ、車書を萬國に通ず。正五位下行相模の守平朝臣時賴敬して書す。

【梁の右の箇所】

伏して願はくは、三品親王征夷大將軍、干戈偃息し、海晏河淸し、五穀豊登、萬民康樂、法輪常に轉じ、佛日輝を增さん。建長五年癸巳十一月五日。住持傳法宋の沙門道隆謹みて立つ。]

 

風土記云。今の佛殿は久能山御宮拜殿更に再造せられし時。其舊殿を賜ふと云。或は崇源院殿御靈屋(おたまや)の拜殿を賜はりしなりと。

[やぶちゃん注:「風土記」「新編相模国風土記稿」。因みに唐門も同じく久能山からの移築である。

「崇源院」(天正元(一五七三)年~寛永三(一六二六)年)江戸幕府第二代将軍徳川秀忠の妻お江(ごう)の法名。浅井長政三女で母は織田信長の妹お市。長姉は淀殿(茶々)。最初に佐治一成(秀吉により強制的に離縁)次に秀吉の甥豊臣秀勝(死別)、秀忠は三人目の夫である。]

 

法堂二重屋白木作(しらきつく)り。間口十三間佛殿の後に在り。常日は之を鎖せり。

方丈を龍王殿といひ。書院を聽松軒といふ。蘸碧池は書院に庭に在り。影向其の側に立てり。

[やぶちゃん注:「法堂」「はつたう(はっとう)」と読む。仏法を説く御堂の意で、禅寺で住持が修行僧に教えを説きつつ指導にあたる建物で、通常は仏殿の後方にあって禅宗寺院の中心的な空間である。他宗の講堂に相当する。当初の法堂は、創建から二十二年後の建治元(一二七五)年に建長寺開基であっ第五代執権北条時頼の十三回忌に創建されたものであったが、かなり以前に失われ、現在の法堂は文化一一(一八一四)年に再建(棟上)されたもの。関東一の大きさを誇る。

「十三間」二十三・六三メートル。

「蘸碧池」「影向の松」前者は「さんへきち」、後者は「やうがうのまつ(ようごうのまつ)」と読む。因みに、「影向」(一般名詞としては「えいごう」とも読む)とは神仏が現世に現前のものとして現れること、或いは神仏が一時手的に応現すること。この場合、神仏が仮の姿に変じて現れることを「権現(ごんげん)」という(また姿を見せずに現れることをも含む)。「新編鎌倉志卷之三」の建長寺より引く。

   *

蘸碧池(さんへきち)幷に影向(やうがう)の松 共に書院の庭あり。【元享釋書】に、福山寢室の後(うしろ)に池あり。池の側(かたはら)に松あり。其の樹條(こえだ)、直(なを)し。一日斜めに偃(のべふ)して室に向かふ。衆僧これを怪しむ。禪師語りて云はく、偉服(いふく)の人、松の上に居て我と語る。我、問ふ、「何れの處に住する」と。對(こた)へて曰はく、「山の左(ひだり)鶴岡(つるがをか)なり」と。語り巳(をは)つて見へず。其の人の居るを以つての故に松偃(のべふ)すのみ。諸徒の曰はく、鶴が岡は八幡大神の祠所なり。恐らくは神こゝに來るのみ。これより其の徒、其の樹に欄楯(らんじゆん)して、名づけて靈松と云ふとあり。今或は影向の松と云ふ。

   *

引用文中の「欄楯」とは仏塔を取り巻く柵のことを指す。この話はまさに、仏に神が従って教化されて取り込まれたのだとする如何にもな、本地垂迹説の変形譚である。]

 

開山塔(かいさんたう)は。佛殿の東に在り。外門の額嵩山は。佛光禪師の筆。中門の額西來庵は。筆者詳ならす。其の後山を嵩山といひ。其の峯を兜卒巓と稱す。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之三」の建長寺に、『嵩山(すうざん)幷に兜率巓(とそつてん) 開山塔の後ろの山を嵩山と號し、峯(みね)を兜率巓と云ふ。兜率巓に、開山幷びに佛光の石塔あり。佛光禪師は、圓覺寺の開山なれども、建長寺にて葬むる故に、塔は嵩山にあり』とある。]

 

勝上巘(しやうじやうけむ)は。方丈の後即ち北方の高山をいふ。瞻望すれは蒼翠(さうすゐ)掬すへし。曲折して登る甚た嶮なり。上には半僧坊の祠宇、座禪窟、仙人澤幷に五名水の一なる不老水あり。觀瀾閣上より眺望すれは。鎌倉地方の山水寸眸の中に落つ。一覽亭跡を除ては當所を以て風景第一とす。山麓に茶亭(さてい)あり。草履を賃貸す。沿道寸幟列植し其の數を知らず。皆(みな)半僧坊に獻する者なりといふ。頭塔甚た多し左(さ)に列記す

[やぶちゃん字注:以下は底本では一行に二字空けで五つの塔頭名を記す。ブログでの表示を考え、一字空けに変えた。]

華藏院 禪居庵 玉雲庵 廣德庵 寶珠庵

龍峯庵 龍源庵 正統庵 天源庵 寶泉庵

向上庵 妙高庵 長好院 正宗庵 同契庵

千龍庵 雲外庵 回春庵 雲光庵 通玄庵

正受庵 都史庵 傳芳庵 梅岑庵 大智庵

大統庵 梅洲庵 金龍庵 廣巖庵 龍淵庵

正本庵 華光庵 龍興庵 長生庵 大雄庵

瑞林庵 建初庵 傳衣庵 正法院 金剛院

吉祥庵 一溪庵 岱雲庵 實際庵 竹林庵

正濟庵 東宗庵 壽昌院

當時の盛況想ふベし。今は此中存する者實に寥々(れうれう)たり。「建長寺の庭を鳥掃子にて掃(は)く」とは淸潔の譬なるに、目下見る所に據れは。境内纖塵を絶するといふを得ず。名藍にして此の如し。懷古の情に堪へざるなり。什寳甚た多し。今之を記載せず。

[やぶちゃん注:「瞻望」は「せんばう(せんぼう)」と読み、遠く見渡すこと。

「觀瀾閣上」「上」まで傍点「●」が附されてある。「觀瀾閣」は「くはんらんかく(かんらんかく)」と読み、眺望する小亭であったかと思われるが、「新編鎌倉志卷之三」にさえ、『今は亡びたり。勝上巘坐禪窟の前に跡有』とする。ここもその跡の高台地を指している。

「一覽亭跡」前出の「瑞泉寺」の条に出た瑞泉寺後山の一覽亭跡のこと。

「建長寺の庭を鳥掃子にて掃く」「鳥掃子]は「とりぼうき」で、繊細な鳥の羽で作ったほうき、羽箒(はぼうき)のこと。この諺は知られた鎌倉が登場する狂言の「鐘の音(ね)」にも引かれている非常に古いもので(鳥箒を竹箒ともする)、禅宗で寺法厳しき建長寺の境内は古えより、掃除がゆき届いていて地理一つ落ちてないと言われたことから、掃除が行き届いていて、塵一つ落ちていないさま、そこから、清浄であること、きれいな様子、何もないことを意味する故事成句となったものである。この条、軍人が悪戯して太鼓の皮を破いたと寺の案内僧が歎く声を挟んだり、しかしねぇ、人のことは言えねえなぁ、かの清浄の代名詞だった庭の、このザマは何だと呟くあたり、いつになく筆者の人格がよく姿を現わしていてまっこと好感が持てるのである。]

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