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« 太古の舞姫 村山槐多 / 村山槐多詩篇電子化終了 | トップページ | 村山槐多電子化の今後の予定 »

2015/07/21

死の遊び 村山槐多 /附 やぶちゃん版――定本 村山槐多第二の遺書―― 今まで我々が読んでいた彼の遺書は正確ではなかった ――

 

  死の遊び

 

死と私は遊ぶ樣になつた

靑ざめつ息はづませつ伏しまろびつつ

死と日もすがら遊びくるふ

美しい天の下に

 

私のおもちやは肺臟だ

私が大事にして居ると

死がそれをとり上げた

なかなかかへしてくれない

 

やつとかへしてくれたが

すつかりさけてぽたぽたと血が滴たる

憎らしい意地惡な死の仕業

 

それでもまだ死と私はあそぶ

私のおもちやを彼はまたとろうとする

憎らしいが仲よしの死が

 

 

[やぶちゃん注:「全集」の「詩」パートの掉尾である。クレジットはないが、確かに掉尾に置くに相応しく、恐らくは現存する槐多の詩篇の内で最も末期の眼に近いものと言ってよい。

「ぽたぽたと」「全集」は「ぼたぼたと」とする(諸本、皆「ぼたぼたと」)。底本は画像を拡大すると、「ぽたぽた」の前方は濁点か半濁点かは植字が擦れ潰れて判読出来ないが、後半は明確に「ぽた」と打ってある。「ぼたぽた」もあり得ないとは言えないが、私はこれはここのオノマトペとしては半濁音「ぽたぽた」が相応しいと感じるものである。大方の御批判を俟つ。

「とろうとする」はママ。

   §

 まず、草野心平「村山槐多」の年譜の没年大正八(一八一九)年の頭の部分を引く。

   《引用開始》

 一月、午前中は日本美術院の研究所でモデルを描き、午後は写生と自室での制作に没頭する。不規則な食生活、痛飲が続く。

 二月、第五回日本美術院試作展覧会(一日から十日、上野竹之台陳列館)に「松と榎」「雪の次の日」「松の群」「自画像」「松と家」「大島風景」「某侯爵邸遠望」「代々木の一部」を出品する。美術院賞乙賞受賞(奨励賞を改めた美術院賞は甲乙二賞が与えられた)。

 七日、第二の遺書を書く。

 十四日の夜、前日からの風邪を拗らせ寝込む。流行性感冒であった。

 十五日、山崎省三の友人の医者に応診を依頼する(肋膜が悪化)。小雪が霙になり、そして雨になり、曇ったり降ったりの天気が続く。

   《引用終了》

ここに出る『第二の遺書』は以前全集」電子化が、今回ここでは大正一〇(一九二一)年に同じくアルスから刊行された山本路郎編「槐多の歌へる其後及び槐多の話」の「感想斷片」パートで初めて日の目を見たそれをゼロから、以下に再電子化して示す。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

 

       第二の遺書

 

 神に捧ぐる一九一九年二月七日の、いのりの言葉。

 私はいま、私の家へ行つて歸つて來たところなのです。牛込から代々木までの夜道を、夢遊病者の樣にかへつて來たとこです。

 私は今夜また血族に對する強い宿命的な、うらみ、かなしみ、あゝどうすることも出來ないいら立たしさを新に感じて來たのです。其の感じが私の炭酸を滿たしたのです。(中略)

 あゝすべては虐げられてしまつたのだと私は思ひました。何度か、もうおそらく百度くらゐ思つた同じことをまた思ひました。

 親子の愛程はつきりと強い愛はありましようか、その當然すぎる珍しからぬ愛でさへ私たちの家ではもう見られないのです。何といふさびしい事でしよう。

 しかも、とりわけて最もさびしい事は其の愛が私自身の心から最も早く消えさつてゐることなのです。私は母の冷淡さをなじつても、心に氷河のながれが私の心の底であざわらつてゐることを感ぜずには居られませんでした。私がかく母をなじり、流行性感冐の恐ろしさを説き、弟の手當を説いたかなりにパウシヨラケートな言葉も實は、私の愛に少しも根ざしてはゐないのでした。それどころか、恐ろしい、みにくい、利己の心が、たしかに其の言葉を言はせたのです。眞に弟を思つたのではないのです。私はたゞたゞ私自身の生活の自由と調和とが家庭の不幸弟の病氣等に依つてさまたげられこわれんことを恐れて居るのです。弟の病氣が重くなつては私の世界が暗くなるからなのです。

 ああ眞に弟を思ひその幸福のためにいのつてやる貴いうつくしい愛はどこへ行つたのでしよう。またはいつ落としてしまつたのでしよう。其れはとにかくない物なのだ。私の心のみか、私の家の中にはどこにもないものなのだ。何たるさびしさでしよう。私は母をなじつて昂奮して外へ飛び出し、牛込から乘つた山の手電車の入口につかまつてほんとに泣きました。涙がにじみ出ました、ほんとです。ほんとです。このさびしさが泣かずにゐられましようか。私は泣きました。愛のない家庭といふ世にもみにくい家庭が私のかゝり場所かと思つて。それよりも私を、このみにくい私を、何たる血族だらう。このざまは何だらう。虐げられてしまつたのだ。すつかり虐げられてしまつたのです。もとはこれではなかつた。少なくとも私の少年時代は。

 神さま、私はもうこのみにくさにつかれました。

 涙はかれました。私をこのみにくさから離して下さいまし。地獄の暗に私を投げ入れて下さいまし。死を心からお願いするのです。

 神さま、ほんとです。いつでも私をおめし下さいまし。愛のない生がいまの私のすべてゞす。私には愛の泉が涸れてしまひました、ああ私の心は愛の廢園です。何といふさびしさ。

 こんなさびしい生がありましようか。私はこの血に根ざしたさびしさに殺されます。私はもう影です。生きた屍です。神よ、一刻も早く私をめして下ださいまし。私を死の黑布でかくして下ださいまし。そして地獄の暗の中に、かくして置て下さいまし。どんな苦をも受けます。たゞ愛のない血族の一人としての私を決してふたゝび、ふたゝびこの世へお出しにならない樣に。

 私はもう決心しました。明日から先はもう冥土の旅だと考へました。

 神よ、私は死を恐れません。恐れぬばかりか慕ふのです。たゞ神さまのみ心に逆らつて自殺する事はいたしません。

 神よ、み心のまゝに私を、このみにくき者を、この世の苦るしい涙からすくひ玉はんことを。

 くらいくらい他界へ。(右は槐多が病床に就く數日前死に先立つこと十三日前の手記である――編者)

 

   *

 以下、半ば啞然、半ば憤激を以って以上の〈槐多第二の遺書〉に注する

「(中略)」明らかに槐多の友人であった編者山本路郎(本名・山本二郎。くどいが、槐多の縁戚の全集編者山本太郎氏とは血縁関係は全くない)氏が何かを憚って省略したことを意味している。即ち、ここに示された〈槐多第二の遺書〉は完全なものではないことを山本路郎氏ははっきりときっぱりと示しておられるのである。――ところが!――驚くべきことに!――この中略指示は――現在我々が見ることの出来る如何なる〈槐多第二の遺書〉からも――抹消されている――のである!

「強い愛はありましようか」の「しようか」はママ。以下の「しよう」も同じであるので、この注は略す。

「パウシヨラケート」“passional”・“passionary”・“passionate”を混用した造語(或い誤用)と思われる。激発的憤激的なといったニュアンスを強く持った感情的な、という意味であろう。

「こわれん」はママ。

「一刻も早く私をめして下ださいまし」及び「かくして置て下さいまし」(「置て」もママ)の二箇所の「下ださい」はママ。

「たゞ愛のない血族の一人としての私を決してふたゝび、ふたゝびこの世へお出しにならない樣に。」平成五(一九九三)年彌生書房刊の「増補版 村山槐多全集」ではここが、「たゞ愛のない血族の一人としての私を決心してふたび、ふたびこの世へお出しにならない様に。」となっている(「決心して」と、「ふたゝび」・「ふたたび」の違いに着目)。これは一体、どいういうことか?! しかも同じ編者の「世界の詩 村山槐多詩集」(一九八〇年版)では「決して」と正しく示されているのに、である! 

「苦るしい涙から」の「苦るしい」はママ。

「 くらいくらい他界へ。」この改行はママである。最後に駄目押しで槐多に代わって怒っておく!――最後に――またしても! である!――現在、我々の見る〈槐多第二の遺書〉ではすべて(!)この「くらいくらい他界へ。」は改行せず、「神よ、み心のまゝに私を、このみにくき者を、この世の苦るしい涙からすくひ玉はんことを。くらいくらい他界へ。」と前の行の末尾にくっついているのである!

 以下、怒りを抑えられないものの、どうしても彌生書房版全集の年譜から槐多の最期は引かさせてもらうしかない。その山本太郎氏の文章には他の追従を許さない確かな強烈な臨場感があるからである。

 二月の条。二月の初旬には第二の遺書に見るように、実家との関係が致命的に悪化し、『鐘下山房の火の気のない部屋に槐多は寝ていた。訪ねてきた友人には風邪だといった。隙間風が新聞紙をふるわせていた。槐多のふとんには殆ど綿というものがなかった。「あんまり寒いから来月金が入ったらワラでも買って戸棚のなかで寝るか」と槐多は笑っていた。近所の納豆売の婆さんが視多の面倒をみることになった』。『雪や雨の多い月であった』。槐多の友人らは病状の悪化した槐多のために、『小杉氏や山本鼎のところにカンパにでかけ』たりした。

   《引用開始》

二月一八日 夜、酒仲間の大工の正さんが塊多の友人山本路郎のところにかけこんできた。槐多が飛び出していなくなった、というのだ。外は嵐だった。雪まじりの雨が激しく、電線がきれ、くらやみだった。提灯をつけ家のまわりをさがした。山崎省三もきた、雑木林のなかも探した、槐多の家の雨戸は外れ、夜具はひきさかれていた。牛込の槐多の両親へ急をしらせると、母と小さい妹は風邪でねていた。夜二時頃、草叢のなかでうめき声がするのを山崎省三が発見した。泥をぬぐい着物をきせかえると槐多はまた外へとびだそうとする。夜があけた。牛込から母もやってきた。医者は「夕方までもつまい」と帰っていった。槐多は時々眼をさまし、「家へ帰りたい」といった。「鐘下山房」にねかすと、槐多は「お母さん僕はもう京都へ帰って来たのですか」などといった。

一九日 夕方医者が注射をうちにきた。槐多はうわごとをいいはじめた。中学時代の美少年や、お玉さんの名を口にした。「柿の樹七本、松三本」(近所のけしきで彼が描きたかった場所の一つだ)とか、面白い曲線と直線の画法のことなどをくちばしった。

二〇日 午前二時、槐多は「白いコスモス」「飛行船のものうき光」という謎めいた数語をのこしてついに死んだ。満二十二才五ケ月。

 石井鶴三によってデス・マスクがとられた。桐ケ谷の火葬場へ旅先から父もいそいで帰ってきていた。骨壺を友人の今関啓司が「僕がもちます」と父の手から奪いとった。

   《引用終了》

死因は流行性感冒による結核性肺炎とされる。

 これ以降の部分は草野心平「村山槐多」の年譜から引く(意識的に逝去記事をダブらせた)。

   《引用開始》

 二十日、午前二時三十分死去する。

 同日夜、通夜が取り行なわれる。母たま、弟桂次、山本鼎、小杉未醒、山崎省三ら親友達、日本美術院院友ら三十余名が列席。石井鶴三によってデスマスクが採られる。

 二十一日、桐ケ谷村の茶毘所(現在の桐ケ谷火葬場)で茶毘に付され、仮葬儀が営まれる。その晩、一同への労らいの晩餐会が、槐多名残の代々木の八幡館で行なわれる。

 二十八日、谷中の巧徳林寺で本葬儀が営まれ、同墓地に仮埋葬される。

 十一月、村山塊多遺作展(十一日から三十日、兜屋画堂)が開催される。油絵二十四点、水彩画七点、素描四十二点が出品される。遺作展の初日、兜屋画堂主人野島熙正の主催で追悼会が同会場において行なわれる。友人達の他、山本鼎、小杉未醒、森田恒友、黒田清輝、瀧田樗陰、石井柏亭、林倭衛らが出席する。

 

 大正九年(一九二〇)

 六月、『槐多の歌へる』(アルス社)が出版される(千余枚の遺稿を山崎省三が中心になって纏める)。出版記念会が萬世橋の〝みかど″で開かれ、文壇から芥川龍之介、川路柳虹、竹友藻風、畑耕一らが出席する。

 十月、友人達の手により、雑司ケ谷の村山家の墓地に巧徳林寺から遺骨を移し、墓石(有島武郎が買い取ってくれた「カンナと少女」の代金百円で、雑司ケ谷の石屋に依頼し、自然石に〝槐多墓″と刻ませたもの)が置かれる。謚号「清光院浄譽槐多居士」(昭和三十七年建立の村山家の墓石より)。

   《引用終了》

 因みに、荒波氏の「火だるま槐多」によれば、「みかど」での出版記念会は七月のことである。芥川龍之介はこれとは別に、田端自笑軒での槐多の偲ぶ会がにも出席している。そこに参会したのは水木伸一(田端で槐多と共同生活をした経験のある青年画家)・「槐多の歌へる」の出版社アルス社社長北原鉄雄・槐多の従兄弟洋画家山本鼎・鉄雄の兄北原白秋(なお且つ山本鼎の夫人は白秋と鉄雄の妹である)で純粋な客は水木と芥川龍之介だけであった。水木の回想によれば、龍之介は静かに夜が更けてゆく中、「無言で本のみを黙読していた」という。芥川龍之介は村山槐多と面識はなかったが、槐多る」推薦文もい(リンク先は私の電子テクスト。因みに龍之介は槐多より四歳年上であった)。芥川龍之介と村山槐多――その精神の交合……龍之介は槐多に――何を――見たのだろう……龍之介の自死はこの八年後のことである……]

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