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2015/07/27

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 箱根峠越え

 

 第二十章 陸路京都へ

 

 七月十六日。私は、我々の南方諸国への旅行の荷造りをするのに、多忙であった。これは先ず陸路京都へ行き、それから汽船で瀬戸内海を通るのである。私の旅券は、すくなくとも十二の国々に対して有効である。中原氏が私に吉川氏の長い手紙を持って来てくれた。周防の国なる岩国にいる彼の親類に私を紹介したものである。封筒には先ず所と国との名前を、次に人の名前を書く。そしてその一隅には、手紙に悪い知らせが書いてないことを示すために「平信」という字を書く。この字が無ければ凶報が期待され、受信者ほ先ず心を落つけてから手紙を読むことが出来る。我々は古い日本の生活をすこし見ることが出来るだろう。私は陶器の蒐集に多数の標本を増加しようと思う。ドクタア・ビゲロウは刀剣、鍔(つば)、漆器のいろいろな形式の物を手に入れるだろうし、フェノロサ氏は彼の顕著な絵画の蒐集を増大することであろう。かくて我々はボストンを中心に、世界のどこのよりも大きな、日本の美術品の蒐集を持つようになるであろう。

[やぶちゃん注:これは旅行出発の十日前の記載である。以前に述べたように、今回(明治一五(一八八二)年)のモースの三度目の来日の公式な目的は、ピーボディ科学アカデミー理事会承認になる東洋の民族学的資料の蒐集であった。以下の関西への旅もそうした陶器と民具収集を目的としたものであったが、そこはそれ、モース先生、紡績工場を見学したり、横穴古墳に潜り込んだり、例によって楽しいスケッチを残して呉れていて、またしても我々を飽きさせない。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『同行者はフェノロサとビゲロー、それに昔の教え子で今はフェノロサの弟子の有賀長雄。旅は陸路を選んだ。東海道の町々でモースは陶器などを、フェノロサとビゲローは工芸品や古美術などを収集しながら旅する予定だった』とある。この有賀長雄は「第十九章 一八八二年の日本 茶の淹れ方/東京生物学会主催「化醇論」講演」に出、既注であるが、再掲しておくと、後の法学者・社会学者の有賀長雄(あるがながお 万延元(一八六〇)年~大正一〇(一九二一)年)である。当時(この明治一五(一八八二)年に東京大学文学部卒業)はフェノロサの弟子で、この二年後の明治一七(一八八四)年に元老院書記官となり、二年後の明治十九年からヨーロッパに留学、ローレンツ・フォン・シュタインに国法学を学んで、翌年に帰国、枢密院・内閣・農商務省に勤め、その後陸軍大学校・海軍大学校・東京帝国大学・慶應義塾大学・早稲田大学などで憲法・国際法を講じた。日清戦争及び日露戦争の際には法律顧問として従軍、ハーグ平和会議では日本代表として出席している。著書「社会学」は本邦初の体系的社会学的著作として知られる(以上はウィキの「有賀長雄」に拠った。姓は「ありが」とも読む)。

「中原氏」未詳乍ら、第十九章 一八八二年の日本 石人形に既出の人物。そこでは通訳であるが、これで明らかに次の吉川経建(きっかわつねたけ)と極めて親しい関係であることが判る。

「吉川氏」「第十九章 一八八二年の日本 石人形」に既出で既注であるが再掲する。元周防岩国藩第二代(最後)藩主で華族であった吉川経健(「建」ではなく「健」が正しいものと思われる。安政二(一八五五)年~明治四二(一九〇九)年)。ウィキの「吉川経健」によれば、初代藩主吉川経幹(つねまさ)の長男。官位は贈従二位・子爵・正四位駿河守。慶応三(一八六七)年に父の死去により跡を継いだ(但し、主家長州藩主毛利敬親(たかちか/よしちか)の命令でその死去が隠されたため、正式な跡目相続は明治元(一八六八)年十二月)。明治二(一八六九)年一月に叙任し、同年六月には戊辰戦争の東北戦争で功績を挙げたことから、永世五千石を与えられ、同年中に版籍奉還によって藩知事となった。明治三(一八七〇)年、本家長州藩で脱退兵騒動が起こると、その鎮圧に努めたが、明治四(一八七一)年の廃藩置県によって免官となり、東京へ移った。以後は旧藩士に対し、義済堂を創設し、その自立を助けた。明治一七(一八八四)年に男爵、明治二四(一八九一)年には子爵となった。

「十二の国々」老婆心乍ら、日本の旧国名を指す。この直後にも「国」を宛名書きすると出るが、これは県名のことであろう(例えば明治四(一八七一)年廃藩置県により周防は旧暦七月十四日(一八七一年八月二十九日)を以って山口県及び岩国県の管轄となり、三ヶ月後の十一月十五日(一八七一年十二月二十六日)には第一次府県統合によって全域が山口県の管轄となっている。ここはウィキ周防のデータに拠る)。しかしもしかするとまだこの頃、「周防國」と書いて配達出来たものかも知れないなどとも考えてみる。]
 
 

M643

643

 

 七月二十六日。我々は駅馬車と三頭の馬とを運輸機関として、陸路京都へ向う旅に出た。三枚橋で我我は馬車に別れ、その最も嶮しい箇所箇所を、不規則な丸石で鋪道した、急な山路を登った。フェノロサと私とは村まで八マイルを歩き、ドクタアと一行の他の面々とは駕籠(かご)によった。ドクタアはこの旅行の方法を大いに楽しんだ。時々この上もない絶景が目に入った。自分の足をたよりに、力強く進行することは、誠に気分を爽快にした。路のある箇所は非常に急だったが、我々は速く歩いた。その全体を通じて、我々が速く歩き、また駕籠かきが一人当り駕籠の重さその他すべてを勘定して、殆ど百斤近くを支持していたにかかわらず、彼等が我々について来たことは、興味があった。時々我等は、重い荷を肩にかけた人が、これもまた速く歩いて峠を旅行するのに出会った。彼等は十二マイル離れた小田原へ行く途中なのであった。我々が通過した村には、どこにも新しい形式の張出縁や門口や、奇麗な内部やがあったが、このように早く歩いたので、二、三の極めて簡単な輪郭図以外には、何もつくることが出来なかった。この路は遊楽地へ行く外国人が屢々通行するので、日本人は一向我々に目をつけなかった。子供も、逃げて行ったり、臆病らしい様子をしたりしなかった。荷を背負って徒歩で行く人人以外に、重い荷鞍と巨大な荷物をつけた馬が、田舎者に引かれて行った。図643は荷鞍の写生で、馬の主人の日笠と雨外套(レインコート)と二足の草鞋(わらじ)以外に荷はつけてない。尻尾の下には不細工な、褥(しとね)を入れたような物が通っている。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『七月二十六日、一行は東京を離れた。まず馬車で小田原の三枚橋まで、それから箱根八里の道は徒歩と駕籠(かご)、箱根では芦ノ湖の湖畔、今の元箱根に泊ったらしい』とある。

「三枚橋」現在の小田原市箱根町湯本の箱根湯本駅から四百七十メートル弱下った(右にカーブしかけた所)早川に架かる橋。

「八マイル」十二・八七キロメートル。

「百斤」原文“a hundred pounds”。約四十五・三六キログラム。

「十二マイル」十九・三一キロメートル。この数値は東海道の小田原(現在の小田原起点)元箱根間を実測すると、峠を越えて元箱根の手前十三キロメートル弱地点に相当する。

「尻尾の下には不細工な、褥を入れたような物が通っている」不詳。鞦(しりがい)のための装備にしてはおかしい。或いはそれを総て畳んで丸めたものか? 識者の御教授を乞うものである。]

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