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2015/07/15

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  巨福呂阪

    ●巨福呂阪

巨福呂阪(こふくろさか)は巨福路阪に作り。或は小袋阪とも書す。鎌倉七口の一にして。雪の下より建長寺の前に出る切通(きりどほし)なり嘉禎元年十二月賴經不例に因て。四角四境の祭を行ひし時。當所四境の一たり。仁治元年十月。建長二年六月。道路を修造せし事東鑑に見え。元弘三年五月新田義貞鎌倉を攻めし時。堀口三郎貞滿。大島讃岐守守之〔或は義前に作る〕等を大將にして。此の口に向はしめしこと文和元年閏二月新田義興、脇屋義治鎌倉を襲ひし時。南遠江守房總の兵を率て。此の口を警固せしこと。共に太平記等に載せたり。

[やぶちゃん注:「嘉禎元年十二月賴經不例」西暦一二三五年。「吾妻鏡」の同年十二月十八日の条に頼経の疱瘡罹患の記事が出る。詳細は私の電子テクスト「北條九代記 卷第七 六月祓 付 將軍家御疱瘡」を参照されたい。

「四角四境の祭」陰陽道で疫神の災厄を祓うために家の四隅と国(この場合は鎌倉御府内)の四方の境で行った祭祀。「吾妻鏡」の同嘉禎元十二月二十日の条に、

   *

廿日戊申。爲御不例御祈。於御所南庭。被行七座泰山府君祭。忠尚。親職。晴賢。資俊。廣資。國継。泰宗等奉仕之。及黄昏。被行四角四境祭。御所艮角〔陰陽大允晴茂〕。巽角〔圖書助晴秀〕。坤角〔右京權亮經昌〕。乾角〔雅樂助滿貞〕。小袋坂〔雅樂大夫泰房〕。小壺〔近江大夫親貞〕。六浦〔陰陽小允以平〕。固瀨河〔縫殿助文方〕。

○やぶちゃんの書き下し文

廿日戊申。御不例の御祈の爲、御所の南庭に於いて、七座の泰山府君祭を行はる。忠尚・親職・晴賢・資俊・廣資・國繼・泰宗等、之れを奉仕す。黄昏に及び、四角四境祭を行はる。御所の艮(うしとら)の角〔陰陽大允(だいじよう)晴茂(はるもち)〕、巽(たつみの角〔圖書助(ずしよのすけ)晴秀〕。坤(ひつじさる)の角〔右京權亮(ごんのすけ)經昌〕、乾(いぬゐ)の角〔雅樂助(うたのすけ)淸貞〕、小袋坂〔雅樂大夫(うたのたいふ)泰房〕、小壺〔近江大夫(おうみのたいふ)親貞〕、六浦〔陰陽小允(せうじよう)以平(もちひら)〕、固瀨河(かたせがは)〔縫殿助(ぬいのすけ)久方〕。

   *

とある。

「仁治元年十月」「吾妻鏡」仁治元(一二四〇)年十月十九日の条の後半に、『爲前武州御沙汰。被造山内道路。是嶮難之間。依有往還煩也。』(前武州の御沙汰として、山内に道路を造らる。是れ、嶮難の間、往還の煩ひ有るに依つてなり。)とある。「前武州」は北条泰時。

「建長二年六月」「吾妻鏡」建長二(一二五〇)年六月三日の条に、『三日丁酉。山内幷六浦等道路事。先年輙爲令融通鎌倉。雖被直險阻。當時又土石埋其閭巷云々。仍如故可致沙汰之由。今日被仰下云々。』(三日丁酉。山内幷びに六浦(むつら)等の道路の事、先年、輙(たやす)く鎌倉に融通(ゆづう)せしめんが爲(ため)に、險阻を直(なほ)さると雖も、當時、又、土石、其の閭巷(りよかう)に埋むと云々。仍つて故(もと)の如く沙汰致すべきの由、今日仰せ下さると云々。)とある、「山内」が小袋坂のことである。

「元弘三年」一三三三年。

「堀口三郎貞滿」堀口貞満(ほりぐちさだみつ 永仁五(一二九七)年~延元三/建武五(一三三八)年)は清和源氏で上野国に土着した新田氏の支族で、上野国新田郡新田荘の東南端にある堀口郷(現在の群馬県太田市堀口町)を支配していた。参照したウィキ堀口貞満によれば、この元弘三年の新田義貞挙兵に参加、巨福呂坂(こぶくろざか)からの鎌倉攻略に功あって、翌建武元(一三三四)年の論功考賞で正六位上大炊助(おおいのすけ)に叙任されている(翌年には従五位上美濃守となる)。『以後、義貞の重臣として活躍。足利尊氏が中先代の乱に乗じて建武政権に叛旗を翻すと、矢作川での戦いで足利軍と戦ったと『梅松論』に記されている』。建武三年に『西国で勢力を盛り返した尊氏が京都を占拠すると、義貞の軍に従い、後醍醐天皇らとともに比叡山に逃れた。このとき後醍醐天皇へ尊氏から密使が来て、天皇が義貞に無断で尊氏と和睦をして比叡山を下山しようとしたため、貞満が出発直前の天皇に「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と奏上し、後醍醐天皇は皇位を恒良親王に譲り、恒良親王と尊良親王を委任することで新田軍が官軍であることを保証してから下山したことは、『太平記』でも有名な一節となっている』。その後も『義貞に従って、子の貞祐らとともに越前及び美濃各地』で転戦、美濃から越前への『進軍中に没した。貞祐が堀口氏を継ぎ、北朝方との戦いを継続した』とある。

「大島讃岐守守之〔或は義前に作る〕」やはり新田荘大島(現在の太田市大島)を姓とする新田氏族。

「文和元年閏二月新田義興、脇屋義治鎌倉を襲ひし時」文和元年は西暦一三五三年(但し、改元された観応三年九月二十七日はユリウス暦一三五二年十一月四日なので文和の年初は一三五二年である)。足利尊氏が相模早河尻(はやかわじり:小田原市早川)の戦いで弟直義を破って一月五日に鎌倉入りし、二月二十六日に直義が急逝(最前述べた通り、毒殺の可能性大)したが、この閏二月になると、幕府と南朝との講和状態が破れ、新田義貞の次男義興(よしおき)と三男義宗(よしむね)及び義貞の甥脇屋義治(わきやよしはる)は後醍醐天皇皇子宗良(むねなが/むねよし)親王を奉じて上野(こうずけ)で挙兵して南下、南朝軍としてこの閏二月十八日に鎌倉を攻略、尊氏を武蔵の狩野川(現在の横浜市内)へ敗走させたことを指す。但し、その後、素早く反撃に出た尊氏は連勝を重ね、翌三月十二日には鎌倉を奪還している。

「南遠江守」足利尊氏の家臣南(南部)宗継(みなみ/なんぶ むねつぐ 生没年未詳)のこと。足利氏代々の執事を務めた高氏の一族。知られた高師直・師泰兄弟と宗継の父惟宗とは従兄弟関係にある。伊勢南部氏の祖。]

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