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2015/07/21

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 神童小モーツアルト

M624

図―624

M625

図―625

 

 七月二日、私はメーソン氏が西洋式に歌うように訓練した、師範学校の学級の、公開演奏会に列席した。この会は古い支那学校のよい音響上の性質を持っている美事な広間で行われた。学級につぐに学級が出て来て、各種の選曲を歌った。音楽それ自身は、我国の小学校の音楽で、大して六角敷(むずかし)くはないが、彼等が我我の方式で歌うのを聞くことは驚く可きであった。彼等の声には、我国の学校児童の特色である所の溌溂たる元気は欠けていたが、而も日本人は教えれば西洋式に歌い得ることは疑ない。もっとも、我々式の音楽を彼等に扶植するのが望ましい事であるかどうかは、全然別問題である。ピアノの弾奏もあり、そのあるものは著しく上手だった。また提琴(ヴァイオリン)、クラリネット、フリュート、バス・ヴィオル等の管絃団(オーケストラ)があって、「栄光あるアポロ」、「平和の天使」、「ハーレックの人々」その他の曲を、まったくうまく演奏した。小坂三吉という五つになる小さな子供は、鍵板に手が届き兼ねる位なのだが、著しい巧妙さを以て、簡単な曲をピアノで弾いた(図624)。彼の演奏は大いに興味を引き起し、メーソン氏は彼を日本のモツアルトと呼んだ! 図625はメーソン氏がヴァイオリンで弾く音楽を、黒板に書いている三吉である。彼はそこでそれを歌ったが、彼が如何に速く音調を聞き知ったかは、実に目覚しいものであった。台が無くては黒板に手が届かぬ位彼は小さかったが、而も彼ははきはきした子供で、彼をざっと写生した図を見せてやったら、うれしく思ったらしかった。

[やぶちゃん注:「メーソン氏」既注であるが再掲しておく。音楽教育のお雇い外国人として文部省音楽取調掛で西洋音楽の指導を行ったアメリカ人ルーサー・ホワイティング・メーソン(Luther Whiting Mason 一八一八年~一八九六年)。ウィキの「ルーサー・ホワイティング・メーソン」によれば、『メイン州のターナー生まれ。アメリカ各地で長年音楽の教師を勤めた。おもに独学で音楽教育を確立し、歌の収集を行い、音楽教科書と音楽の掛図を公刊し、音楽教育の革新に成功した。合衆国では主に初等音楽教育の第一人者であった』。一八六四年から一八七九年のボストン滞在時代に、『合衆国に留学していた文部省の伊沢修二に唱歌の指導をしたのが縁となり』、一八八〇(明治十三)年に『明治政府に招聘され日本に渡った。メーソンは文部省音楽取調掛の担当官(御用係)となった伊沢とともに、音楽教員の育成方法や教育プログラムの開発を行った。『小學唱歌集』にも関わった。日本にピアノとバイエルの『ピアノ奏法入門書』を持ち込んだのもメーソンである』。『メーソンは当時音楽取調掛に勤務していた岡倉覚三(天心)とも親しかったという』。『メーソンは日本の西洋音楽教育の基礎を築いたのち』、この明治一五(一八八二)年に日本を離れているが、実は『メーソンは滞在の延長を望んだが、おもに予算の都合でその希望はかなえられなかった』とある。『合衆国に帰国したメーソンは、ヨーロッパ各国を歴訪を4度行い、何百もの楽譜の収集と指導法の視察を行った』。『帰国後も伊沢に書簡を送り、本格的なオーケストラ発展のためには、難かしいオーボエやホルンの演奏家を養成すべきと説いている』とある。盲人の音楽による教育にも熱心であった。明治学院大学機関リポジトリの手代木俊一氏の論文「明治と讃美歌:明治期プロテスタント讃美歌・聖歌の諸相」に彼の日本での業績が詳述されている。必見。老婆心乍ら添えておくと、ここに出る『文部省音楽取調掛』とは職務ではなく、後の東京芸術大学音楽部の前身機関で、この時の学校は本郷に設けられていた。

「支那学校」底本では直下に石川氏の『〔聖堂〕』という割注が入る。湯島聖堂である。第十一章 六ケ月後の東京 28 吉備楽を聴くの私の注を参照されたい。

「学級につぐに学級が出て来て、各種の選曲を歌った」原文は“Class after class came in and sang various selections.”――複数のレッスン・クラスが次々と登壇しては、彼らの最も得意とする選り抜きの曲を演奏詠唱した。――の謂いであろう。

「バス・ヴィオル」原文“bass-viol”。これはヴィオラ・ダ・ガンバ(viola da gamba)と、種にアメリカで好んで用いられるダブル・ベース(double bass)の意があるが、ここは小型の前者であろう。

「栄光あるアポロ」原文"Glorious Apollo,"。既注。HGC and KGC alumni singing Glorious Apolloでお聴きあれ。イギリスのサミュエル・ウェブ(Samuel Webbe  一七四〇年~ 一八一六年)の作曲。讃美歌風である。後に「小学唱歌集」の「君が代」(現在のそれとは異なる廃曲版であるが歌詞は同じ)の原曲となった。

「平和の天使」"Angel of Peace,"。佐藤慶治氏の英語楽曲を原曲とする翻訳唱歌の歌詞分析『小学唱歌集』を中心として(PDFファイル)によれば、マサイアス・ケラーによって作詞作曲された“Keller`s American hymn”にオリヴァー・ヴェンデル・ホームズが新たな詩をつけたものとある。何とまあ、それによれば君が代を言祝ぐ歌曲とある。Carl Behr 氏のアップされている“ Keller's American Hymn by First Brigade Band”をリンクさせておく。

「ハーレックの人々」"Men of Harlech,"。イギリスのウェールズ地方の民謡。「ハーレック」はウェールズ北西部のトレマドック湾に面した海岸保養地として知られる地で、十三世紀、イングランド王エドワード一世によるウェールズ遠征の際、ハーレック城(ハーレフ城)がカーナーヴォン城に先行して築城されたが、本歌のそれもその城を指す。個人サイト「イギリス古城散歩」のHarlech によれば、『薔薇戦争(The Wars of the Roses)当時はランカスター(Lancaster)王家に与する貴族が籠城し、イングランドで唯一のランカスター側の城となり、勇名を馳せたが』、一四六八年に『ペンブローク(Pembroke)伯のハーバート(Herbert)が』七千の兵で『包囲し、落城させた。この時の勇者の歌が、ハーレックの勇者(Men-of-Harlech)の歌の基』で、当時、城には五十人がたて籠っていたとある。Mark Mains 氏のアップされた“Men of Harlech”をリンクさせておく。

「小坂三吉」不詳。何だか、神童小モーツアルトの、後のこと、知りたや……]

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