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2015/07/06

北條九代記 卷第七 六月祓 付 將軍家御疱瘡

      ○六月祓 付 將軍家御疱瘡

去ぬる三月五日、武藏守泰時の孫、歳十一にて、御所に於て元服あり。彌五郎經時(つねとき)とぞ名付けける。これは修理亮時氏(しゆりのすけときうぢ)の嫡子なり。同八月朔日、小侍所(こさぶらひどころ)の別當に補(ふ)せらる。同十二月二十一日、將軍賴經公、正三位に叙せられ、以前に任ぜられ給ふ權中納言を辭退あり。去年十一月五日、天福二年を改めて、文曆と號す。文曆二年八月に、又改元ありて、嘉禎(かてい)と號せらる。此年の六月に、閏(うるふ)のありければ、「六月祓(みなづきはらひ)の事、當来月の中、何(いづれ)を用ひらるべきや」と、藤内(とうない)判官定員(さだかず)を以て有職(いうそく)の輩(ともがら)に尋ねらる。河内〔の〕入道、申されけるは、「義解令(ぎけのりやう)の如くならば、閏月を用ひらるべき事、分明(ぶんみやう)なり、古歌にも、のちの晦(みそか)を晦(みそか)とはせよと候。治承(ぢしやう)四年、建久八年、建保(けんぱう)六年、皆(みな)閏月を用ひられ候」と申されしかば、成例(じやうれい)の多分(たぶん)に就(つ)くべしとて、閏六月晦日を以て、祓(はらひ)をば定められける。同十月八日、將軍家を、陸奥出羽〔の〕按察使(あんさつし)に任じ、十一月十九日に、從一位に叙せられけり。同十八日より、將軍家御不例、御疱瘡(ごはうさう)出で給ふ。是に依て四角、四境の神祭(じんさい)、その外諸方の神社、佛寺に仰せて、御祈禱樣々なり。又、大佛師康定(かうぢやう)に仰せて、一夜の内に、千躰薬師の像、一尺六寸を造立せしめ、竝に、羅睺(らご)、計都(けいと)の二星の像、本命星(ほんみやうせい)、藥師の像を、造らしむ。羅睺星の像は、面貌(めんみやう)忿怒(ふんぬ)の相(さう)有りて、靑牛(せいぎう)に乘(のり)て、左右の手に月日を捧げ、計都星は、是も面貌は忿怒強盛(がうせい)の相を表し、靑龍(しやうりう)に乘(のつ)て、左右の手に日月を捧げ給へり。陰陽師(おんやうじ)親職(ちかもと)に仰せて、三萬六千の神祭を修せしめらる。財寶をつくし、誠信(じやうしん)を凝(こら)して、神佛の擁護(おうご)を祈誓ありけるに、丹誠(たんせい)の懇祈(こんき)、佛神の納受(なふじゆ)ましましける故にや、將軍家、不日(ふじつ)に快然(くわいぜん)し給ひ、酒湯(さかゆ)御引きましましけり。鎌倉中の貴賤、萬歳を唱へ、相州、武州、殊に喜悦の眉(まゆ)をぞ開かれける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十九の天福二(一二三四)年三月五日、八月一日、十二月二十八日、文暦二(一二三五)年六月三十日、嘉禎元(一二三五)年十月十七日、十一月十八日・二十六日、十二月十八日・二十日・二十七日・二十八日、嘉禎二年一月九日の記事等に基づく。

「去ぬる三月五日」天福二(一二三四)年三月五日。

「彌五郎經時」「彌四郎」の誤り。後の第四代執権北条経時(元仁元(一二二四)年~寛元四(一二四六)年)。第三代執権北条泰時の嫡男北条時氏(建仁三(一二〇三)年~寛喜二(一二三〇)年に病没。享年二十八)の長男で、母は賢母として知られる安達景盛の娘松下禅尼(まつしたぜんに)であるから、第五代執権北条時頼の同母兄でもある。

「小侍所の別當」将軍に近侍して御家人の宿直・供奉を管理し、将軍及びその御所の警備を統括した小侍所の長官。ウィキの「小侍所」によれば、建保七(一二一九)年一月二十七日(四月十二日に承久に改元。旱魃及び三合(さんごう:陰陽道の厄年の一つで太歳・太陰・客気の三神が合することをいう)理由とする)に発生した『将軍源実朝暗殺に対する反省から、新将軍に予定された九条三寅(後の頼経)の警備のため』、同(改元して承久元年)七月二十八日に『侍所から分離して設置される。初代別当は北条重時。鎌倉幕府においては、別当には北条氏一族の有力者が任命され、その下に所司以下の諸役が置かれた。小侍所では「番帳」を作成してこれを基に一日一晩の宿直にあたる番役や将軍外出の際の供奉人の選定を行い、その催促・統轄を行った。こうした役職の選定には代々幕府に仕えていた東国御家人の一族であるという家柄が重視された他、弓馬・蹴鞠・管弦などの諸芸に通じている事も考慮されたため、これに選ばれることは名誉であるとされていた。また、小侍所の中でも特殊な例として陰陽師の存在があげられる。これは実朝暗殺の際に後鳥羽上皇の命によって所職を奪われて事実上の追放とされた実朝近侍の』三名の『陰陽師(安倍泰貞・安倍親職・安倍宣賢)を小侍所の職員としたのを嚆矢とし、将軍や幕府の為に陰陽道の儀式を行っている』。「北條九代記」本文にもしばしば出るこの三名は、『承久の乱においても鎌倉方勝利のための祈祷を行い、乱後に下向した安倍国道や惟宗文元』(これむねふみひと)『とともに鎌倉陰陽師(関東陰陽道)の基礎を築いた』とある。

「去年十一月五日、天福二年を改めて、文曆と號す」天福二(一二三四)年十一月五日に天変地震により改元。

「文曆二年八月に、又改元ありて、嘉禎と號せらる」「九月」の誤り。文暦二(一二三五)年九月十九日に地震頻発により改元。

「六月祓」夏越祓(なごしのはらえ)ともいう。六月晦日(みそか)に半年間の心身の穢(けが)れを祓う行事で、現在でも神社の本殿の前に作った菅(すげ)や茅(ち)で作った輪を潜ったり(茅の輪くぐり)、京都の上賀茂神社境内に於ける「奈良の小川」への人形(ひとがた)流しで知られるように、人形を作ってそれを自分の分身として体を撫で息を吹きかけて罪や穢れを移し、海や川に流したり、水盤に張った水に投げ入れたりする行事として残る。

「藤内判官定員」幕府官僚藤内判官大夫藤原定員(生没年未詳)。第四代将軍九条頼経に京から随従した近臣。将軍御所を奉行した。後の寛元四(一二四六)年の宮騒動で当時の執権北条時頼の下へ弁明の使者として出向いたが受け入れられず、安達義景に預けられて出家した。

「有職」朝廷や公家の制度・故実などに精通している学識経験者。

「河内入道」歌人で「源氏物語」を校訂した河内本でもしられる古典学者源光行(長寛元(一一六三)年~寛元二(一二四四)年)。ウィキの「源光行によれば、寿永二(一一八三)年、『京にいた光行は、平家方であった父の源光季の謝罪と助命嘆願のため、鎌倉に下向し、叔父の飯富季貞の助命を嘆願していた従兄弟の源宗季と共に源頼朝に助命を願った』。『その結果は定かではないが、頼朝にその才能を愛されて、そのブレーンとなり、鎌倉幕府が成立すると、政所の初代別当となり、朝廷と幕府との関係を円滑に運ぶ為に、鎌倉・京都間を往復した』。『一方で、幕府の高官でありながら、朝廷からも河内守、大和守に任命され、結果として後の承久の乱の際に去就を迷い、後鳥羽上皇方に従ってしまったが、この際も、その才能を惜しんだ人々の助命嘆願のおかげで、重刑を免れ』ており、このシーンでも幕府の相談役として重宝されていたことが分かる。『北条泰時の命で和歌所・学問所などを設置し』たりもしている。

「義解令」「令義解(りょうのぎげ)」のこと。「養老令」の解釈書。十巻。淳和天皇が右大臣清原夏野らに命じて天長一〇 (八三三)年に成立したもので、同三年に明法博士額田今足が朝廷に対して令の解釈について統一的見解の必要性を説いたことから作成されたもの(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「治承四年」一一八〇年であるが、この年は閏月はない。治承二(一一七八)年(閏六月有り)の誤り。

「建久八年」一一九七年。

「建保六年」一二一八年。であるが、この年に閏月はない。建保四(一二一六)年(閏六月有り)の誤り。

「成例」既に成せる例。前例。

「多分に就くべし」多く認められるものに従うのが宜しい。

「同十月八日」嘉禎元(一二三五)年十月八日。

「按察使」元は唐名の官職名で本邦ではしばしば「あぜち」とも読む。令外の官の一つで、奈良時代、国司の施政や諸国の民情などを巡回視察した官であった。平安期には陸奥・出羽のみを任地として大納言・中納言の名目上の兼職となっていた。

「從一位」「從二位」の誤り。

「四角、四境の神祭」四角四境祭。陰陽道で疫神の災厄を祓うために家の四隅と国(この場合は鎌倉御府内)の四方の境で行った祭祀。

「大佛師康定」鎌倉時代の慶派仏師。康運の子とされる。現行では「こうてい」と読んいる。

「千躰薬師」増淵勝一氏の訳注に『同一の面に多数の薬師像を彫刻したもの』とある。

「一尺六寸」四十八・四センチメートル

「羅睺(らご)」羅睺星(らごうせい:一般的には「らごう」と読むが、本条では二箇所とも「らご」。但し、これ自体が羅睺羅(らごら)の略であるから問題ない)。梵語「Rāhu」の音写で、日月の光を覆って日食や月食を起こすとされた猛悪の阿修羅を指す。羅睺阿修羅王。ウィキの「ラーフ」によれば、『ラーフ(Rāhu)は、インド神話に登場する』、四本の腕と一本の『尾をもつアスラの名。あるいはインドの天文学におけるナヴァ・グラハという』九つの惑星(九曜)の一つである羅睺とあり、『神話によると、乳海攪拌のあと、神々とアスラは不死の霊薬アムリタをめぐって争い、アムリタは神々の手にわたった。神々は集まってアムリタを飲んだが、その中にラーフというアスラが神に化けてアムリタを口にした。それを太陽と月が発見し、ヴィシュヌ神に知らせた。ヴィシュヌ神は円盤(チャクラム)を投げてラーフの首を切断したが、ラーフの首は不死になってしまった。そして天に昇り、告口したことを怨んで太陽と月を飲み込んで日蝕や月蝕を起こす悪星になったという。一方、ラーフの体も天に昇ってケートゥという凶兆の星になったとされる』とある。

「計都」計都星。羅睺星同様、インド神話に於いて日食や月食を起す凶星とされ、また彗星や流星ともされる。ウィキの「ケートゥ」によれば、『一般的な説では、月の降交点(西洋占星術ではドラゴンテール)に存在するとされた天体である。暗黒で普段は見ることはできないが、ケートゥが太陽や月を隠すことで日食や月食が起こる。同様に、月の昇交点にはラーフ(羅睺)があり、ラーフとケートゥで食が起こりうる天球上の』二点を示しているとするが、『異説として、ケートゥが昇交点、ラーフが降交点と逆のこともある』とし、『一部経典では月の遠地点とされ、これは西洋占星術でのリリスについての一説と同じである』(「エヴァンゲリオン」の「リリス」である)。『神話によれば、ラーフの胴体が星になったものである。乳海攪拌のさい、ラーフはアムリタを盗み飲みしたためにヴィシュヌ神に首を切り落とされたが、首とともに天に昇って、首はラーフ、胴体はケートゥという遊星になった』とあり、『鳥に乗る図や下半身が蛇の形で描かれる』。『ラーフ、シャニ(土星)とともに凶兆の星とされ、南インドの寺院ではよく祀られている』ともある。両ウィキの載せる「仏像図彙」の図像も、両者は頗る似ている。

「本命星」北斗七星を形成する七つの貧狼星・巨門星・禄存星・文曲星・廉貞星・武曲星・破軍星に、金輪星と妙見星を合わせたものを九星と称するがそれぞれの人の生まれた年にはこの九星の孰れかが相当し、それをその人の「本命星(ほんみょうせい)」とする。

「忿怒強盛」非常に激しい忿怒相のことを指す。

「三萬六千の神祭」既注であるが再掲する。三万六千神祭。天変地異を除き、天下泰平を願う祭。「屬星」は属星祭で危難を逃れて幸運を求めるために対象者(この場合は無論、将軍頼経)の属星をまつる祭。大属星祭。

「不日に」幾日も経たないうちに。

「酒湯(さかゆ)」「ささゆ」とも読み、「笹湯」とも書いた。疱瘡に罹患した子どもが幸いにして治った時に子供に浴びさせた酒を混ぜた湯で、笹の葉を湯に浸して振りかけたともいう。但し、この酒湯の習慣は江戸時代に行われたもので、「吾妻鏡」の嘉禎二(一二三六)年正月九日の頼経の疱瘡平癒の記事には『疱瘡の後、今日御沐浴の儀あり』と出るものの、「酒湯」という語は出ないので要注意。]

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