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2015/07/12

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  淨妙寺

    ●淨妙寺

稻荷山(いなりさん)と號す。臨濟宗にて五山の第五なり。文治四年足利上總介義兼玆に草創して極樂寺と號す。律師行勇を請して第一世とす正治元年三月八日。義兼卒す。茶毘して當寺の後山(こうざん)に塔を建つ〔寺傳畧記に見えたれど今其塔亡失せしにや跡だになし〕當時は密宗たりしが。義兼の男左馬頭義氏禪風に歸依し。遂に當時密塲を改め禪刹とす。時に建仁元年なり。建曆二年實朝大倉稻荷の夢想を感(かん)し。義氏に令して當時造營を加ふ。最(もつとも)華美を盡せり。三年四月。功(こう)成(なつ)て二位禪尼の白檀(びやくだん)の彌陀と新造の釋迦とを安す。建長六年十二月甘一日。義氏卒して當時に葬(さう)す。元弘元年九月五日讚岐守貞氏卒しけれは茶毘して當寺に塔を建つ。元應元年に至り。足利尊氏大倉稻荷の神德(じんとく)に報せん爲伽藍を修飾して山を稻荷と號し。元亨二年。上奏し。亡父貞氏の法名を執(とつ)て寺を淨妙寺と改む。

[やぶちゃん注:創建の頃の記載は「相模国風土記稿」から写したもの。実は「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」にはこれら創建時の記載はない。

「文治四年」西暦一一八八年。

「足利上總介義兼」(久寿元(一一五四)年~正治元(一一九九)年)は足利氏第二代当主で、頼朝直参の側近にして幕府御家人。以下、ウィキ足利によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、父は足利氏始祖足利義康(源義家の孫)で、母は藤原範忠の娘。彼女は血縁としては源頼朝の母方の従姉妹に当たるが、祖父である藤原季範の養女となったことから頼朝にとっては義理の叔母になり、義兼は父方母方双方の関係に於いて頼朝に近い存在であった。『父・義康が早世したために、幼少期には伯父である新田義重の軍事的庇護を受けていたとされる。異母兄の義清・義長は妾腹の子であったために、本拠の下野国足利庄を嫡出である義兼に譲り、自分たちは京において上西門院に仕えていたが、寿永二年(一一八三年)の水島の戦いに木曽義仲の麾下として参加して戦死している。義清自身も足利の根本所領の一つの梁田御厨を管理し所領としており、この義清が(そして次兄の義長も同時に)亡くなったことから嫡男となったと考えられる』。『義兼自身は、治承四年(一一八〇年)に源頼朝が伊豆国で挙兵すると、八条院と以仁王の関係からか、比較的早い時期から頼朝に従っていた。翌治承五年(一一八一年)二月には頼朝の仲介を受けて北条政子の妹、時子と結婚した。このように頼朝と近い関係にあったことも嫡男となった要素の一つと言える』。『元暦元年(一一八四年)五月、木曽義仲の子・義高残党の討伐において戦功を挙げた。その後は頼朝の弟・範頼の手勢に与して平氏討伐で戦功を挙げた。その功績により、頼朝の知行国となった上総国の国司(上総介)に推挙されている。文治五年(一一八九年)の奥州合戦にも従軍。建久元年(一一九〇年)に出羽国において奥州藤原氏の残党が挙兵すると(大河兼任の乱)、追討使に任じられ、乱を平定している』。『文治元年(一一八五年)には頼朝の知行国である上総介に任ぜられ、同五年に頼朝が知行を返上するまで務めるなど、義兼は源氏一門として頼朝の「門葉」として幕府において高い席次を与えられていたが、頼朝の地位が高まっていくと、御家人として幕下に組み込まれることとなった』。『建久六年(一一九五年)三月に東大寺において出家し、義称(ぎしょう)と称した。この出家は、頼朝をはじめとする周囲から排斥されることを恐れての処世術であったと言われている。その後は足利の樺崎寺に隠棲し、正治元年(一一九九年)三月八日に樺崎寺にて死去し、同所に葬られている。生入定であったとも伝えられている。現在の樺崎八幡宮本殿は、義兼の廟所である赤御堂である』。栃木県足利市家富町にある真言宗の『鑁阿寺は、義兼の持仏堂を義氏が発展させたものとされる』。『長男の義純は畠山氏及び岩松氏・田中氏の祖となり、次男の義助は承久の乱で戦死したが、その子孫は桃井氏の祖となって世に続いた。正室所生の三男義氏が嫡男として足利氏の家督を継いでいる』。

「行勇」鎌倉時代の臨済僧荘厳房退耕行勇(たいこうぎょうゆう 長寛元(一一六三)年~仁治二(一二四一)年)。相模国生まれ。寿福寺で明庵栄西の法を嗣ぎ、源頼朝・北条政子らの幕閣中枢の信頼を得た。寿福寺・建仁寺の住持を勤め、貞応二(一二二三)年には高野山金剛三昧院を開いて禅と密教の兼修道場とした。浄妙寺の他、東勝寺(嘉禎三(一二三七)年)の開山(北条泰時開基)ともなっている。

「義兼の男左馬頭義氏」足利家第三代当主足利義氏(文治五(一一八九)年~建長六(一二五五)年)。足利義兼の三男。母は北条時政の娘時子で、そのために家督を継げた。正室は泰時の娘。北条義時・泰時父子を補佐し、晩年は幕府長老として重きを成した。

「義兼の男左馬頭義氏禪風に歸依し。遂に當時密塲を改め禪刹とす。時に建仁元年なり」「建仁元年」は西暦一二〇一年、「密塲」真言密教の修行道場のことであるが、どうもこの叙述はおかしい。現在の知見では、当寺が本来の真言宗の極楽寺から禅刹に転ずるのは、建長寺開山蘭渓道隆の弟子月峯了然が住持となってからであって、浄妙寺への改名もその頃と考えられているが、その時期は早くても正嘉元(一二五七)年頃と推定されており、既に足利義氏は死亡しているからである。無論、生前の彼の遺言であった可能性も十分に考えられるが、本寺はその後、近世近代に至るまで、回禄衰亡損壊が激しく、鎌倉五山第五位ながら(但し、五山に列したのはずっと後の文和二(一三五三)年以降)、実は確実な事蹟情報に全く以って欠けるのである。

「建曆二年實朝大倉稻荷の夢想を感し。義氏に令して當時造營を加ふ。最(もつとも)華美を盡せり。三年四月。功(こう)成(なつ)て二位禪尼の白檀(びやくだん)の彌陀と新造の釋迦とを安す。」西暦一二一二年。これは「新編相模国風土記稿」の割注に寺伝略記(浄妙寺蔵「稲荷山浄妙禅寺略記」)によるとある極めて具体な叙述なのであるが、例えば当然載っていなければおかしい「吾妻鏡」等、裏付けの取れる別資料は不思議なことに、ない。実際、「鎌倉市史 社寺編」の「浄妙寺」の条はここに出る、南北朝以前のデータを、そもそもが全くといっていいほど、採用していないのである。

「義氏卒して當時に葬す」ママ。「當寺」の誤植。
 
「元弘元年」一三三一年。言わずもがな、幕府滅亡の二年前である。

「讚岐守貞氏」尊氏・直義兄弟の父で足利家第七代当主足利貞氏(文永一〇(一二七三年)~元弘元・元徳三年(一三三一)年)。菩提寺であるこの浄妙寺を再興している。

「元應元年」一三一九年。

「元亨二年」一三二二年。但し、以下の寺名変更を含め、これも寺伝略記の記載である。ただ、幕府滅亡後に新たに改めて公的な勅許を得たと考えるなら、特におかしくはない。上奏し。

「亡父貞氏の法名」浄妙寺殿義観。]

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