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2015/07/24

譚海 卷之一 肥前國水上山安德帝開山たる事

 肥前國水上山安德帝開山たる事
 
○肥前の人かたりしは、安德帝入水の事は虛事也。我國に水上山と云(いふ)禪刹有(あり)、高山の頂(いただき)にありて、其(その)傍(かたはら)より湧出(わきいづ)る水、肥前一國の田をうるをす事ゆへ、水上山と稱する也。此寺の開山を神子(かみこ)禪師と稱し、是(これ)即(すなはち)安德帝の御事也。西海敗軍のとき、帝ひそかに軍(いくさ)をのがれて此に住僧と成(なり)、開山と成(なり)給ひしとぞ。國初迄は經山寺(きんざんじ)の末寺にして華僧住持と成(なり)しが、元和已來渡海の禁ありて、經山の往來絶(たえ)しより、今は京都南禪寺より支配する也。されども末寺にてはなし。此寺開山の外(ほか)むかしより輪番にて住持といふ事はなし。この水は神子禪師開山の時、雷公隨身して年來給仕せしが、天へ還り昇らんとせし時、師の恩に報じて此(この)水を出せし也。雷公岩を蹴裂(けさき)て出す所の水ゆゑ、今にたゆる事なしとぞ。又什物に寶刀一振有(あり)、錦の切(きれ)に卷(まき)て包(つつみ)たる事凡(およそ)百重(へ)ばかり、代々の住持終(つひ)にときみる事なし。祈雨(きう)の時此刀を取出(とりいだ)せば、一里四方甘雨(かんう)の瑞(ずい)ありとぞ。

[やぶちゃん注:「安德帝入水の事は虛事也」安徳帝存伝説はすこぶる多いが、義経伝説の陰に隠れたものか、あまり取り沙汰されることがない。まずはウィキの「安徳天皇」を参照することにしよう(アラビア数字を漢数字に代えた)。『安徳天皇は壇ノ浦で入水せず平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説があり、九州四国地方を中心に全国に』二十『あまりの伝承地がある』(但し、数値には要検証要請が附されてある)。以下、東北地方では、『青森県つがる市木造町天皇山には安徳天皇が落ち延びたという伝説が』、近畿地方では、『摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に逃れたが、翌年崩御したと』し、『侍従左少辨・藤原経房(つねふさ、吉田家の祖となり『吉記』を残した同時代の権大納言藤原(吉田)経房ではない)遺書によれば、戦場を脱した安徳帝と四人の侍従は「菅家の筑紫詣での帰路」と偽り、石見・伯耆・但馬の国府を経て寿永四年(源氏方年号で元暦二年、一一八五年)摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に潜幸された。しかし翌年五月十七日払暁登霞(崩御)され、当地の岩崎八幡社に祀られた。経房遺書は、文化一四年(一八一七年)能勢郡出野村の経房の子孫とされる旧家辻勘兵衛宅の屋根葺き替え時、棟木に吊るした黒変した竹筒から発見された建保五年(一二一七年)銘の五千文字程度の文書で、壇ノ浦から野間の郷での登霞までが詳細に書かれてある。当時、読本作者・曲亭馬琴や国学者・伴信友などは偽作と断じたが、文人・木村蒹葭堂(二代目石居)などは真物とした。経房遺書原本は明治三十三年頃亡失したとされるが、写本は兼葭堂本・宮内庁・内閣文庫・東京大学本などとして多く存在する。能勢野間郷の来見山(くるみやま)山頂に安徳天皇御陵墓を残す。経路であった鳥取県の岡益の石堂や三朝町などにも今も陵墓参考地を残すが、これらは源氏の追及を惑わすための偽墓とされる』とある。失われた古文書の真偽は不詳乍ら、異様に細かく興味をそそられる伝承の一つである。中国・四国地方では、因幡国に逃れたものの、十歳(史実上の没年年齢は数えで八つ)で崩御したとする説があり、『壇ノ浦から逃れ、因幡国露ノ浦に上陸、岡益にある寺の住職の庇護を受けた。天皇一行はさらに山深い明野辺に遷って行宮を築いて隠れ住んだ。文治三年、荒船山に桜見物に赴いた帰路、大来見において安徳天皇は急病により崩御した。この時建立された安徳天皇の墓所が岡益の石堂と伝えられている』とし、他にも『鳥取県八頭郡八頭町姫路には安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残る。天皇に付き従った女官などのものとされる五輪塔が存在』し、また、『鳥取県東伯郡三朝町中津には安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る』という。四国では、『阿波国祖谷山(現在の徳島県三好市)に逃れて隠れ住み、同地で崩御したとする説』が残り、『平盛国が祖谷を平定し、麻植郡に逃れていた安徳帝を迎えたという。天皇一行が山間を行く際に樹木が鬱蒼としていたので鉾を傾けて歩いたということに由来する「鉾伏」、谷を渡る際に栗の枝を切って橋を作ったことに由来する「栗枝渡」等、安徳天皇に由来すると伝わる地名がある。安徳帝はこの地に隠れ住み、十六歳で崩御し栗枝渡八幡神社の境内で火葬されたという(『美馬郡誌』)』。私は個人的にここに登場する平盛国が殊の外、好きである。清盛側近として働き、壇の浦合戦で捕虜となって総帥平宗盛父子とともに鎌倉に送られたが、頼朝に気に入られて死罪を免れ、岡崎義実の預りとなった。しかし、日夜無言のままに法華経に向い、そのまま飲食を絶ち、文治二(一一八六)年七月二十五日(壇ノ浦の平家滅亡は元暦二・寿永四年三月二十四日(一一八五年四月二十五日))に享年七十四で餓死し自害した老古武士である。「吾妻鏡」の同日の記事によれば、頼朝はこれを聞くと、「心中尤可恥之由被仰」(心中尤も恥づきの由仰せらる)とある。預かりの囚人にしたが故に死なせてしまったと激しく後悔したというのである。――元に戻る。さらに、『土佐国高岡郡横倉山に隠れ住み、同地で崩御したとする説』もある。『平知盛らに奉じられ、松尾山、椿山を経て横倉山に辿り着き、同地に行在所を築いて詩歌や蹴鞠に興じ、妻帯もしたが、正治二年(一二〇〇年)八月に二十三歳で崩御。鞠ヶ奈路に土葬されたとされ』たというのだが、これだと知盛も生きていたことになる。「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」の彼は生き延びてはいけません! 次にいよいよ九州地方である。『福岡県筑紫郡那珂川町には昔から安徳という地名があるが、文献に限って言えば落人伝承としてではなく、同地安徳台は源平合戦の最中、現地の武将・原田種直が帝を迎えたところという。『平家物語』では平家は大宰府に拠点を築こうとしたものの庁舎などは戦火で消失していたため、帝の仮の行在所を「主上(帝)はそのころ岩戸少卿大蔵種直が宿処にぞましましける」と記述している』。また、『対馬に逃げ延びて宗氏の祖となったとする説』もあり、『対馬に渡った安徳天皇が島津氏の娘との間に儲けた子が宗重尚であるという』ものである(宗重尚(そうしげひさ)は対馬の国主宗氏の初代当主。ウィキの「宗重尚」によると生没年は未詳で、『所伝では、宗氏の祖知宗は平知盛の子で、壇の浦の戦い後、惟宗氏に養われたとし、桓武平氏であると称していたが、島津氏と同じく惟宗氏の出身だといわれる。父ははっきりしないが宗知宗、太宰府官人惟宗信国とする説もある』とし、寛元三(一二四五)年に『対馬の阿比留親元が反乱を起こしたため、これを討つために筑前国より対馬に入島』、翌寛元四年には『阿比留氏の反乱を平定し、対馬の国主となったとされる』ものの、『近年の研究では、父の知宗同様その存在が疑問視されている』とある)。また、『肥前国山田郷にて出家し、四十三歳で死去したとする説』があり、『二位尼らとともに山田郷に逃れたという。安徳帝は出家し、宋に渡り仏法を修め、帰国後、万寿寺を開山して神子和尚となり、承久元年に没したという』(下線やぶちゃん)。この伝承に基づく変型譚が本話柄の伝承のである。他にも『薩摩国硫黄島(現在の鹿児島県三島村)に逃れたとする説』があり、『平資盛に警護され豊後水道を南下し、硫黄島に逃れて黒木御所を築いたとされる。安徳帝は資盛の娘とされる櫛笥局と結婚して子を儲けたという。同島の長浜家は安徳天皇の子孫を称し、「開けずの箱」というものを所持しており、代々その箱を開くことはなかった。しかし、江戸時代末期、島津氏の使者が来島して箱を検分したが、長浜家にも中身を明かさなかった。昭和になって研究家が箱を開けると、預かりおく旨を記した紙が出てきたため中身は島津氏によって持ち去られたとされる。この箱の中には三種の神器のうち、壇ノ浦の戦いで海底に沈んだとされる天叢雲剣が入っていたのではないかという説もある。硫黄島には昭和期に島民から代々「天皇さん」と呼ばれていた長浜豊彦(長浜天皇)なる人物がいた』という。これもブルッとくるほど好きな伝承である。同系列の変型譚では、硫黄島から更に大隅国牛根麓(うしねふもと:現在の鹿児島県垂水市牛根麓)に移り住んだが、十三歳で同地で没し、同所にある居世(こせ)神社に祀られているという説もある。因みに私のお薦めの安徳伝奇は、偏愛する漫画家諸星大二郎の「妖怪ハンター」シリーズの「海竜祭の夜」である。巨大な海蛇の頭が頑是ない幼帝の顏となった出現するあのコマは、一読忘れ難い戦慄と同時に曰く言い難い哀感を私に与えるのである。因みに言い添えておくと、「源平盛衰記」の終盤の「老松若松尋剣事」には、実は安徳帝は八岐大蛇の化身であって、源平合戦を起こし、三種の神器の宝剣を龍宮に取り戻そうとしたのだ(「吾妻鏡」には宝剣は祖母時子が持ち、安徳帝を抱いたまま入水したと載る)―というとんでもない下りがある。実は、本話の最後も「雷公」、栄尊に随身したのが雷神だから雨を降らすという理屈よりも、私は如何にも厳重に「錦の切に卷て包たる事凡百重ばかり、代々の住持終(つひ)にときみる事な」なかったという「什物」「祈雨の時此刀を取出せば、一里四方甘雨の瑞あり」という「寶刀一振」という宝剣こそ――かの失われた―三種の神器の一――天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣)――なのではないか? と疑っているのである。現在、万寿寺にはこの宝剣はあるのであろうか? やはりお近くの方、御情報をお寄せ下さるならば、恩幸これに過ぎたるはない。

「水上山と云禪刹」現在の佐賀市大和町川上にある臨済宗南禅寺派水上山興聖万寿寺万寿寺。通称「お不動さん」という。なお、「水上山」という山号は禅宗寺院であれば「すゐじやうさん(すいじょうさん)」と音読みするはずであるが、いくら調べても読みが分からない。どなたかお近くにお住まいの方、御確認を願う。実は以下、鶴崎氏の個人サイト「鶴崎さん集合」にある「神子栄を語る」から引用させて戴くのだが、実はこのページ自体が何と、安徳帝生存伝説の検証となっている。今一つの「安徳天皇生存説/久留米」のページとともに必見である。さて、その記載によれば(アラビア数字を漢数字に代えさせてもらう。下線はやぶちゃん)、万寿寺は『仁治元年(一二四〇)神子栄尊が開山した寺で、四条天皇から「水上山興聖万寿寺」という寺名をもらったといわれる臨済宗の寺である。本尊は神子栄尊作と伝えられる不動明王である。「神子禅師年譜」によれば和尚は平康頼と筑後国三潴庄の住人藤吉種継の娘千代との間で生まれ四十一歳のとき宋(中国)に渡って修業し水上山に来た時が四十六歳の時といわれる。臨済宗東福寺を開山した聖一国師は当山第二世で、高城寺の開山円鑑禅師は当山第三世である。永正一四年(一五一七)六十四世天享和尚は竜造寺隆信の曽祖父家兼の弟で、後柏原天皇により勅願寺の論旨を賜り勅願第一世となった。九世是琢和尚は佐賀藩祖鍋島直茂のお側役として文禄の役に従軍している』(「大和町史」を参考とされている注記がある)とある。この神子栄尊は、生年が建久六(一一九五)年で、没年が文永九(一二七二)年(因みに安徳天皇の生年は治承二(一一七八)年)で、『筑後三潴荘夜明村(現在の久留米市大善寺夜明)に生まれ、七歳の時、筑後国柳坂の永勝寺にいた厳琳僧都(栄西の弟子)に従い。その後、肥前国小城郡小松山(現、小城町晴気あたり)で佛道を修業。嘉禎元年(一二三五)、四十一歳にして聖一国師と共に入宋し仏鑑禅師に学び嘉禎四年(一二三八)で帰朝』、『仁治元年(一二四〇)肥前国万寿寺を開き、寛元元年(一二四三)に円通寺、寛元三~四(一二四五―四六)に筑後国朝日寺を整備、その後宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の金堂造立等に関わったのち、建長元年(一二四九)に肥前国大町町に報恩寺を建てた。神子栄尊は、他に筑前の薦福寺、豊前の安楽寺を開山』。『鎌倉時代の豊前国の禅宗は、宇佐神宮の結びつきで広がっていった。豊前の円通寺は宇佐大宮司・宇佐公仲が神旨を得て七堂伽藍を造営、円通広利禅寺と称し、宇佐宮の北方』約五百メートルの『直線道路(円通寺通り)の突き当りに位置する。その後、建長五年(一二五三)に宇佐宮荘園の本家・二条良実に大乗戒を説き、良実は神子栄尊に弟子の礼をとっている』。『宇佐神宮の霊験により、神子と称し、晩年、別号を立てる事を朝廷に申し入れたが、朝廷が霊験を尊び別号を認めなかった。七十八歳で没』とある。これの詳細な事蹟よって、少なくとも本文に出るような彼自身が安徳帝であったという説はトンデモ説として退けられることが判る。伝承では安徳天皇の子が神子栄尊であるというのがプロトタイプ(少なくとも本話の)らしい。詳しい伝承や検証は是非、鶴崎氏の素敵な両ページをお読み戴きたい。

「經山寺」南宋の五山の一つで、現在の中華人民共和国浙江省杭州市余杭区径山鎮(きんざんちん)の径山にある臨済宗径山興聖萬壽禅寺。金山寺味噌(径山寺味噌とも書く)の濫觴とされる。

「元和」西暦一六一五年から一六二四年まで。

「渡海の禁」キリスト教禁教を主目的とした江戸幕府による広義の鎖国政策を指す。幕府は元和二(一六一六)年には明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定し、元和九(一六二三)年にはイギリスが業績不振のために平戸商館を閉鎖している。本格的な鎖国は寛永八(一六三一)年の奉書船制度(将軍が発給した朱印状に加えて老中の書いた奉書という許可証が必要)開始と、二年後の寛永十年に発せられた第一次鎖国令(奉書船以外の渡航を禁じ、海外に五年以上居留している日本人の帰国をも禁じた)である(以上はウィキ鎖国に拠った)。

「南禪寺より支配する也。されども末寺にてはなし」現在の万寿寺は南禅寺派である。江戸時代の末寺制度は専ら宗門改のためである。

「輪番」周辺の同宗の寺の住職が順繰りに兼務すること。]

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